世界文化連載分、十九

しかしまた、上海で、岸田吟香が片假名の種字をつくつて、日本文字活字をふたたび誕生させたということは、一方からみると、けつして偶然ではなかつた。周知のように、吟香は元治元年にジヨゼフ彦(濱田彦太郎)らと“新聞紙”を發行した。「新聞」と名ずけた…

世界文化連載分、十八

ほんとに、活字は活字だけで、獨立に成長することはできなかつた。ダイア――コール――ギヤムブルと、ペナンから上海まで、のぼつてきた近代漢字活字も、それから、日本に渡るまで二十年も、電胎字母活字になつてからでさえ十年も、そこで足ぶみしているのであ…

世界文化連載分、十七

阿片戰爭によつて割讓された香港と、ヴエールが剥ぎとられた上海とが、一八四二年以後を、どう變化していつたか? 「——香港島そのものの地勢を見廻して見給へ。諸君の眼は、點々と緑草の入つた代赭色の山に惹きつけられるだらう、丁度繪の懸つた壁を見るやう…

世界文化連載分、十六

アジアの、近代的な鑄造の漢字活字は、ペナンでうまれた。うんだ背景は、ヨーロッパの産業革命であり、うみだしたのは、新教プロテスタントの宣教師たちであつた。私は、「上海行日記」で、中牟田倉之助のハイカラなみやげもの、文久二年の上海版「上海新報…

世界文化連載分、十五

そして私はさらにここで、インドへきたウイリヤム・ケアリーを先頭とする、新教徒宣教師たちのアジアへの發足が、やはり十八世紀の後半からはじまつているのに思いあたるのである。もちろん、その以前にも、宣教師たちは印度その他に散在していたことは明ら…

世界文化連載分、十四

こころみに、私は東南部のアジア地圖をひろげてみる。上部北邊は支那を中心にすると、東は臺灣、琉球から、日本本島の一部がみえ、東支那海をへだてれば北支那、滿洲などがあるわけだ。西は佛領印度支那、シヤム、マライ半島、ビルマ、印度と、地つずきで、…

世界文化連載分、十三

さて、それなら、サミユエル・ダイアとはどういう人物であつたろうか? まえに引用した支那叢報第二卷の解説文中にみる以上のものを、ざんねんながら、私はさがしだすことができない。あるいは、東方の基督教史や、彼の生國には、傳記があるのだろうと思うが…

世界文化連載分、十二

讀み書きのための漢字組織と、印刷工業として機械化するための漢字組織とは、おのずからちごう、と、私はいくどか、まえにのべた。それなら、ダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」は、まつたく、語學としての漢字とは、無關係につくられたも…

世界文化連載分、十一

ヨーロツパの宣教師たちが、アジアへきて、東洋人の最も大多數がもちいている漢字を、まつたくちがつた角度からながめはじめた、その直接の原因は、彼らの傳統であるアルハベツト金屬活字の觀念からであつた。彼らの製法を、漢字の世界におしひろげんとする…

世界文化連載分、十

一八三三年十月ずけのダイアの報告文は、たしかに成功的であると、私は思う。解説文には逐次的な經過は示されてないし、英語の方はたやすくは讀めない私であるが、それでも、原書の方も第四卷、第五卷となると、ダイア活字についての記事は、少くなつている…

世界文化連載分、九

「ペナンのサミユエル・ダイア氏は、マラツカに移つて、英華學堂に關係するという。ペナン滯在中、彼は金屬活字を造つていた。これは大變な、成功であるらしい。小文字は出來あがつて、大文字も、少くとも、一萬四千字から成るものが、用意されてある。ダイ…

世界文化連載分、八

しかし、その偶然が見舞つてくれるまで、もちろん、私は「上海」に、ひつかかつていた。中牟田倉之助土産の「上海新報」を、どこで見ることが出來るだろう? 明治の功臣などいう、そんなところえ縁の遠い私は、知人から知人をもとめるうち、新聞研究家のO氏…

世界文化連載分、七

「江戸の活字」は、以上のごとくであつた。日本最初の電胎活字が、ほとんど陽のめを見なかつた事實と、見ることが出來なかつた理由とを、みたつもりである。尤も、まだ現在の私に明らかに出來ないもので、前卷でみた「八王子の活字」がある。故陸軍中將秋山…

世界文化連載分、五

「嘉平の活字」は、「昌造の活字」とくらべると、こんなに性質も色合もちがつていた。そしてこんな性質と色合のちがいのうちに、日本木版印刷史の終末があり、嘉平の生涯は、一方で、その挽歌をうたつたのだけれど、また一方では、解體せざるをえない「江戸…

世界文化連載分、四

木村嘉平、三代嘉平がどんな人柄であつたか? それを知るに充分な記録は、まだ無い。昌造とともに、身分的にひくかつた嘉平について、じつは日本人にとつて記憶さるべき、この二人の人物について、今後も、そういう記録をもつことは、出來ぬか知れない。現在…

世界文化連載分、三

一方で、「昌造の活字」のみなもとをもとめて、「上海」をさがしながら、一方では「嘉平の活字」の、てづるをもとめて、春から秋まで、くらしてしまつた。私のような場合、圖書館とか、個人の文庫とか、專門の學者を訪ねるとか、それ以外の積極的な方法を知…

世界文化連載分、二

數日後の曉方、弟の遺族にわかれた私は、鹿兒島驛に着いた。まだ眠りからさめてないような驛前で、小さい喫茶店をめつけて、つめたいパンと、規格コーヒーというのをのんだり、便所わきの水道栓で顏を洗つたりしたが、それでもまだ七時である。 紹介状の名宛…

世界文化連載分、一

昭和十八年三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京發鹿兒島行の急行に乘つていた。伴れがあつて、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあつてこしかけているが、厚狹、小月あたりから、海岸線の防備をみせまいためか、窓をおろしてある車…

訂正と正誤

京都府立図書館所蔵の徳永直『光をかかぐる人々』第二版に付属する「訂正と正誤」の複写。 5番目は、「プロムホフ」を「ブロムホフ」に変更するのではなく、「プロムホム」を「ブロムホフ」に変更するのだらう。 16番目は、「以下同じ」の扱いとする。

作者言、pp.407-412

この小説をどういふ氣持で書くやうになつたかは、作の中で述べたつもりである。 しかし、ありていのところ、書く以前も、書きはじめてからも、しばらくは混沌としてゐた。本木昌造だけの傳記的なものとするか、活字ないし印刷術の歴史を中心とするかについて…

四、pp.387-406

四 ヒヨイと摘んでステツキへ ケースの前の植字工 その眼が速いかその手はすぐに すばやく活字を摘みあげ 一語又一語と形づくる おそいが併し堅實に おそいが併し確實に 一言一言とつみ重ね そして尚つづけられる 火の言葉は灼熱と化し 無音の不思議な言葉は…

三、pp.362-387

三 昌造「揚屋入り」の安政二年は三十二歳で、保釋になつた同五年は三十五歳であつた。「印刷文明史第四卷」は萬延元年か文久一、二年頃、昌造三十七八歳の頃のめづらしい寫眞をかかげてゐる。傍註に「製鐵所時代の本木氏」とあるから、さう判斷するのである…

二、pp.347-362

二 昌造のつくつた蒸汽船雛形が「砲二挺」を備へた一種の軍艦であつたことは、「海防嚴守」のたてまへから、土佐藩の註文であつたと謂はれるが、嘉永六年ペルリ、プーチヤチンの來航、安政元年の「神奈川」「下田」二條約の成立といふ、時の情勢と對應してゐ…

一、pp.329-347

一 第三囘めのロシヤ使節が長崎へ來た嘉永六年は昌造三十歳であつて、この年はじめて父となつてゐる。當時の慣習からすれば晩い方であらうが、妻女縫はこのとき十五歳で長男昌太郎を産んだのである。三谷氏の「詳傳」家系圖によれば、縫は養父昌左衞門と後妻…

四、pp.313-326

四 日露下田談判のときも、通詞昌造の活動はあまり明らかでない。榮之助改め多吉郎は、このときもはや末輩ながら幕府直參だから、その活動が主體的に記録に殘つてゐるが、同じ通詞としてこのときはたらいた堀達之助にくらべても表だつた記録が尠いやうだ。ペ…

三、pp.296-313

三「――西の海へさらりとけふの御用濟み、お早く歸りマシヨマシヨ」と、正月十六日の日記にかう書いた、「安政の開港」の立役者川路左衞門尉は、無事日本の面目を辱しめず、プーチヤチン使節を退帆せしめて同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の…

二、pp.281-296

二 さて、わが昌造はそのときどういふ風にはたらいたであらう? 殘念ながら私の探しもとめた資料のうちでは、まことに僅かである。一は三月三日付の條約主文の飜譯文、二は五月二十五日付の約束の日本品授受についてペルリ側よりの抗議文の飜譯文のそれぞれ…

一、pp.263-281

一 昭和十七年の夏の終り頃には、私は麻布二之橋のちかくにあるS子爵邸のS文庫に、書物をみせてもらふために通つてゐた。夕刻ちかくになると書物を棚にもどして、子爵邸前のだらだら坂をおりてくるが、どうかしたときは二之橋の欄干につかまつて溝《どぶ》…

五、pp.246-259

五 長崎港に入つたロシヤの軍艦は、七月の中旬から、翌年安政元年正月初旬まで約半歳を碇泊してゐた。幕府のロシヤ應接係筒井肥前守、川路左衞門尉などの長崎到着が六年の十一月二十七日で、正式の日露會談開始が十二月十五日からであつた。そしてこのときの…

四、pp.235-246

四 ペルリや、プーチヤチンの來航當時、昌造などが、どれほどの外國知識をもつてゐたかも明らかでない。通詞であつたから、出島の和蘭人を通じて、ごく大まかな海外ニユースなどは、傳へきいてゐただらうが、その和蘭船も年に一度しか入つて來ないのだからた…