世界文化連載分、八

 しかし、その偶然が見舞つてくれるまで、もちろん、私は「上海」に、ひつかかつていた。中牟田倉之助土産の「上海新報」を、どこで見ることが出來るだろう? 明治の功臣などいう、そんなところえ縁の遠い私は、知人から知人をもとめるうち、新聞研究家のO氏を、本郷に訪ねてゆく手がかりをめつけた。ある大學に、日本では、まだ珍らしい新聞學の講座をもつ、この學者は、新聞人出らしく、愛嬌のいい老人で、いろんなものをみせてくれた。講義のとき使うらしく、ガラス板を張つた、古風な小型の新聞や、手ずれて、裏打ちした雜誌の表紙やがある。「上海新報」もあつたが、もつとめずらしい「華字日報」「中外新報」「遐邇貫珍」などいうのがある。「中外新報」は、前卷でおなじみの、安政の開港以後、長崎大通詞英之助改め森山多吉郎などが、外國係飜譯方にはいつてから、日本語の木版印刷で、ときどき出版されたから、名前に記憶があるが、これらをみているうち、私は、もつとわからなくなつてしまつた。「華字日報」は光緒乙未、一八九五年、「上海新報」は同治壬申、一八七二年であつて、共に上海版、立派な明朝體の電胎活字である。一八七二年は明治五年で、電胎法が長崎に渡來した三年後だから、中牟田土産の「上海新報」とは、十年もおくれていて、これから得るところはないけれど、「中外新報」は咸豐戊午、一八五八年、つまり、安政五年のものである。中牟田土産の「上海新報」より、さらに四年前の新聞である。一八七二年の「上海新聞」とくらべると、活字も大きく、きれいでない。鉛活字だということはもちろん、電胎活字らしくみえるが、嘉平の活字より、もつと素朴で、結局私には判定できないが、さらにいま一つの「遐邇貫珍」となると、「中外新報」より、また五年さかのぼつて、一八五三年、嘉永六年の刊行であつた。これは普通の新聞型ではなくて、袋とぢにした白い表紙の中央に「遐邇貫珍」とあつて、下に「第三卷」右肩に、支那暦ではなく、西洋暦で一八五三年十月とある。裏表紙に「英華書院發行」とあつて、「毎號收回紙墨錢十五文」ともある。白文の中味をめくつてみても、よく讀めないが、これも鉛活字と判斷できる。木版でないことが明らかなのと、ところどころ木版字らしいのがめだつので、そうでないのが、金屬活字だ、と判斷できるのである。私は、中牟田土産、文久二年版の「上海新報」をもとめて、それよりももつと十年ばかり以前の、鉛の漢字活字にぶつつかつたのであるが、しかも、その刊行地が「中外新報」は、上海から南の「寧波」であり、「遐邇貫珍」となると、「寧波」から、さらに南えとんで「香港」となつている。
「英華書院というのは、どんな印刷工場でしようか?」
 私はO氏に訊いた。
「さあて、ぼくは、活字の方は、いつこうに氣をつけてないもんですからね」
 と、白髮の學者は、わらつて答えた。
「遐邇貫珍」というのは、遠ち近ちの珍らしいことを集めたもの、というほどの意味だろうか。そして新聞も、帳面型も、みんな西暦年號が大きくいれてあつて、英華書院という名前からして、バタくさいのであるが、しかも、どういうわけで、「上海新報」が上海で「中外新報」が「寧波」で、「遐邇貫珍」が「香港」であるだろうか? つまり、年代が四、五年ずつちがえば、何故、南え、南えと、とんでいるだろうか?
 上海、上海とばかり思いこんでいた私は、大げさにいうと途方にくれた。私はO氏の「日本新聞史」を讀んでみた。石井研堂氏の「明治事物起原」なども、あさつてみた。しかし、上海から寧波や香港にうつる機縁はめつからなかつた。いろいろ考えてみれば、そんな手がかりをつける、學問的方法を、私が知らない、ということもあつた。じつをいえば、これまでの私は、先人のつみあげた仕事の峯々を、とびあるき、そこから必要なものだけを、借りてくるやり方であつた。まれには、峯から峯えうつるとき、落ち穗を拾うようなこともあつたけれど、おおかたは、先輩の教えや、圖書館のカードからひきだすことが出來た。しかし、ここえきて、その先人の峯が、いわばなくなつたのである。私にわかつていることは、さがしあるいているのが活字だということ、その活字は、漢字の鉛活字で、年代では、一八七〇年以前で、それから半世紀ばかり、さかのぼらねばならぬということ、それだけが、明瞭である。しかし、中國の近世印刷歴史というものは、ないのである。たとえば、日本でも、ヨーロッパでも、アメリカでも、活字の歴史、印刷の歴史は、完全に近代化された廿世紀の初頭まで、獨立した歴史の本がある。專門の史家がいて、著書があつて、圖書館のカードをめくれば、いつでもひきだせる。ところが、中國では、明朝までははつきりしているが、清朝以後は、ぼやけてきて、しまいは消えてなくなつている。中國は、世界で、一ばんに印刷術を發明した國であるから、世界各國の印刷歴史は、どれでも、一應はそれにふれている。しかし、たとえば「世界印刷通史」でも、綜合的な點では、日本で最も權威あるものとされている「印刷文明史」でも、支那の印刷術では、宋、元、明の時代に主力がそそがれて、つまり、木版、木活字、銅活字印刷か、たかだか、蝋石版印刷へんで、終つてしもう。つまり、近代印刷術の世界では、ヨーロツパと、アメリカと、日本だけがわかつていて、中國だけがわからない。しかも、その日本も、じつは、胴と尻があつて頭がないのである。前卷から述べたように、活字というものは、汽車や自動車とちがつて、ロンドン製や、ニユーヨーク製を、いきなり東京丸ノ内で、はしらせるという具合にゆかないのである。明治の日本人は、蒸汽船やテレガラフ(電話)と一しよに、これも「舶來品だ」とのみこんだつもりでいるけれど、アルハベットと、漢字のちがいは、フアラデーの法則が、完成されたばかりでも、解決のつかない問題がある、ということは、前に述べたとおりだけれど、すると、それは長崎えくるまで、どこで解決されたろうか? 漢字の祖國、中國で、それがあつたのだろう、と思うけれど、その中國には、清朝以後は革命期にはいつて、獨立した。近代印刷術の歴史書がないのである。少くとも、私のさがし得る範圍では、めつからぬのである。
 私は、それをどう探せばよいのだろう。はじめから活字は活字だけでは、存在しない。政治の本だろうか、經濟の本だろうか、それとも地理交通だろうか、軍事だろうか、宗教だろうか? いづれ中國の歴史本をみな讀めば、何か手がかりはあるだろうけれど、それは海のようなものであつて、「上海」「寧波」「香港」という地名だけが、謎のように、私の頭に明めつするだけであつた。
「何を、探してるんですか?」
 ある日、本郷の大學圖書館の、カードテヱブルのところで、ぼんやりしていると、司書をしている知人のS氏に、うしろから肩をたたかれた。
「………」
 私は、返辭にこまつた。私自身、何をさがせばいいのか、わからないのである。
「つまり、支那の活字のことですがね」
 司書室えよばれて、私は、そこで、ざつと成行を話した。
「活字でなくてもいいんです。その時代の、香港や、寧波とかのことを書いた本でもいいんです」
 S氏は、給仕に、圖書目録をかかえてこさせて、ながいことめくつていたが、あまり漠然としていて、これも途方にくれていた。
「私と一緒にきてごらんなさい。すこしぶらついてみましよう」
 私は、はじめて圖書館の、書庫というものをみた。この大學圖書館は、關東大震災ののち、ロックフエラー財團の寄附で、出來たものだそうで、まだ新らしくて、りつぱだつた。どれくらい地下えはいつているのか、エレベーターを出ると、短かい鐵梯子があつて、ガラスと鐵網でつくられた、あかるい床にたつことが出來る。鐵製の書架が、むかいあいにならんで、無數の横丁が、碁盤の目のように、正確にはしつている。ボタンをおすと、ボックスの一つずつが明るくなり、にぎやかに書物の背中が、姿をあらわすが、またくらくなつて、おそろしいような靜寂にもどつてしもう。また、鐵の梯子があつて、ガラスの床にたつと、幾十もの横丁があかるくなり、書物の背中が、はてしなくあらわれ、やがて私たちのうしろで、くらくなる。S氏のうしろについて、いくつかの鐵梯子を、上下しているうち、私はいまどのへんにいるのか、わからなくなつていた。
「さあてね」
 さきにたつて、書物の背中を、こつこつたたいて歩きながら、S氏はときどきふりかえつて、私を見る。私もたたかれた書物の背中を、機械的にのぞきこむが、S氏が歩きだせば、私も歩きだす。歴史、地理、經濟、政治、宗教。あらゆるそんな書物が、中國と中國の活字に、關係があると思えばあるようなものの、ないと思えば、どれもない。
「こんなのも、ありますがね」
 ある横丁にはいつたとき、書架の一ばん上にある書物の一群をみあげて、こつこつたたきながら、S氏はだいぶくたびれた聲で云つた。古びた黄つぽい皮表紙の洋書が、四五册ならんで、それととなりあつて、これはまだ新らしい海老茶色の布表紙が六七册ならんでいる。海老茶色の方は、皮表紙の洋書よりうすつぺらで、日本文字で「支那叢報解説」と讀めるが、洋書の背中の文字は、私に讀めない。“Chinese, Repositoryn[♯底本のママ]というのが、「レポジツトリイ」という方は、S氏に教へてもらつて、わかつた。つまり、この古びた洋書が原書で、海老茶色は、その抄譯本だということが、理解できた。私はその古風な洋書を、印刷工の感覺から、めずらしいと思つて、その一册を、漫然とめくつていたが、解説書の方の一册を、パラパラやつていたS氏が、そのとき、フツと、私の方に、それをつきだしてみせた。
 そこのところは、ほんの半頁ばかりの文章で、小みだしに「漢字印刷」とあるのが、眼についた。——ペナンの、サミュヱル・ダイア師が、六年間の漢字の活字印刷を研究して、いずれは完成するものと思われるが、これが適當の價格で、手に入るとなると、東洋における文化宗教の傳播に、非常に有用のものとなろう——という、サブタイトルみたいな文句が、その横にならんでいる。
 私は、ガラス床の上にしやがんでしまつた。本文も、要點だけの意譯らしくて、個條書風に、數行がならんでいるに過ぎない。
[♯ここから一字下げ]
「一、支那金屬活字の本質は、英語の合成活字にも比すべきものである。というのは、支那語では一字が一つの完全な言葉なつていて[♯「言葉なつていて」は底本のママ]、それが英語風の一字とか一音節をなすものではないからである。
二、支那金屬活字の試みの不利益な點は、フオント(同じ活字の型、大きさ)が、マカオ・マラツカ・セラムボールの三ケ所しかなく、しかも何れも不完全なものであつて、固い金屬に印字するのが、困難なためかどうか、その字體が頗る不出來で、風變りであつた。その上、木版印刷の技術を凌駕しえなかつたからである。
三、金屬活字のフオントの改良に對する示唆としては、押字器による方法は、漢字の數が多數であるために費用もかさむから、鉛版風の金屬板を用いて、これを各字毎に切り離す方法が考えられる。しかし普通に用いられる漢字にも多少があるので、ダイア氏は、十四名の支那人の著書をえらんで、その内に用いられる漢字の種類を調べたが、僅かに三二四〇で、内數百字は、ごく稀にしか用いられてない。結局、入用と思われる活字は、全部で、一萬二千から三千で、二百枚の金屬板を、數回鑄造して、入用の率に應じて活字をつくつたらよいと思われる。しかし、これもいろいろ障害を伴うので、押字器で活字を打ち出す以外に、今さし當りこれ以上という方法はないことになる。
四、押字器をつくる職人がほしい。というのは、東印度諸島も非常な勢いでひらけてゆくし、カムボヂヤでも、ラオスでも、その他の地でも、活字を欲しているからである。かかる職人を得て、何處ででも押字器がつくられれば、何處の活字もつくり出すことが出來るようになる。——」
[♯ここで字下げ終わり]
 私はびつくりした。これは印刷文化、ないしは技術の上で、非常にたかい段階にある人間の記述だということがわかる。大いそぎで、この文章が何者によつて、いつごろ、記述されたかを、しらべてみた。不意うちなので、何者の記述かはめつけだせないが、それが、支那叢報第一卷で、一八三二年五月から、一八三三年四月までの間に、記述されたものだということがわかつた。天保三年から四年である。香港版の「遐邇貫珍」からは二十一年前、中牟田倉之助土産の「上海新報」からは、ちようど三十年前にあたつている。
「この書物は、いつたい、何者ですか?」
 私は、支那叢報などいう本について、まるきり知らなかつた。
「むかし、ヨーロツパの宣教師たちが、印度だか、支那だかで出版した、英語雜誌の合本だというんですね。この原書は、その一部分で、二十卷つずきですよ」
 S氏は、私のかかえている皮表紙の本を、指でおさえながら、そう云つた。
「いま、丸善で、これをこれを[♯「これをこれを」は底本のママ]複刻しているんです。原書二十卷、解説書二十卷、ここえは五卷まで納入になつていますが、つまり何でしよう。大東亞戰爭の今日、この書物が有用だというわけで、その筋の命令で、複刻ということにきまつたんでしよう。」
「でも、この原書は、古ぼけていますね」
「ああ、それはちがいます。丸善版の新らしい洋書の方は、貸し出しになつてるようです。その古いやつは、どうしてそれだけあるのか、僕もよく知らないんだが、たぶん、大震災のとき、それだけたすかつたんでしようかね」
 つまり皮表紙の洋書は、原書の原書で、海老茶色の解説書だけが、丸善版というわけであつた。黄つぽい皮表紙の第一卷は、雜誌十二册分で、一册分が三十葉から四十葉くらい。奧附もなく、背羊皮の、昔風のリーダー型、用紙は仙花紙に似て、黄つぽいが、もちろん洋紙である。ヒキのもろそうな、昭和十八年の日本では見當らない紙であつたが、私は、S氏の力をかりて、表紙の下部にある“Second, Edition, Canton. For. The Proprietors”などいう小さいアルハベツトから、それが廣東で印刷された第二版であるということを、理解することが出來た。つまり、この燒けのこりの黄つぽい洋書こそ、百年前、東洋で、外國人宣教師たちによつて印刷されたアルハベツト書物の片割れなのであつた。
 とにかく、この短文の發見は、私にとつて一大事であつた。「上海」と「香港」にばかり、氣をとられていた私の頭に、こんどは、もつともつと南方の、「廣東」とか、「ペナン」とかが出現したのである。私はS氏にたのんで、五册の古びた洋書と、五册の新しい丸善版の解説書とを借り出して、大いそぎで、閲覽室え行つた。
 洋書をひろげてみたところで、もちろん私に讀めはしなかつた。しかし、これこそ百十一年前の、南支那で出來た、最高の印刷技術を示すものである。アルハベツトの形で、東洋え進出してきた、近代印刷物であると思うと、ながめているだけで、ある種の感慨がわいてくる。そして、前記の短かい「漢字印刷」の解説文を、ノートしてゆくうちに、この部分は、一八三二年六月號の「支那叢報」の「學藝欄」に載せられたもので、サミユエル・ダイアなる宣教師の報告にもとずいて、「支那叢報」の記者が、紹介的、敷衍的につずつたものだということがわかつた。そこで、この解説文章のうちにでてくる、專門的と思はるる用語などを、讀者のために説明しておくが、(一)のところで、(支那の金屬活字の本質は、英語の合成文學[♯「文學」は底本のママ]に比すべきもの)というのは、西洋活字には“the”とか“if”とか“It”とか、一とつずりの文字、きまつた、使用量の多い文字を、一本の活字にしたものが、とくに、まだ、自動式鑄造機などが、發明されない以前には、多かつた。それを合成活字というのであるが、ちようど、漢字の「彼」とか、「此」とか、「大」とかいう文字は、それ自體が、一本で、アルハベツトの合成文字に、相當するという意味である。(二)こゝのところにでてくる(フオント)というのは、活字の大小規格、および字形が一定している「揃い」のことをいうので、そうでないと、機械的な製版ができない。たとえば、今日の日本の活字は、ポイント制活字にしろ、舊號式活字にしろ、全國共通しているが、明治の初期から、大正期まで、高低や、型やが一致していなかつた。ことに明治期には、昌造系の「築地型」、佐久間貞一系の「秀英舍型」や、その他、内閣印刷局系のものや、大阪系のもの、いろいろとちがつて不便であつた。それが、もつと素朴な當時、たぶん彫刻と思われる金屬活字が、南支の澳門と、マライ半島のマラツカと、同じくセラムポーにあるけれど、不揃いで、洋式印刷にはたえられない、というのである。(三)にでてくる(鉛版風の金屬板を用いて、之を各字毎に切り離す方法)というのは、彫刻板なり、彫刻活字なりを、一定面積にあつめて、これを紙型にたたいて、凹型にし、これに鉛を流しこんで、凸型の鉛版をとる。それから一字ずつ切り離し、くりかえせば、澤山の活字が作れる——という意味だが、(しかし、これもいろいろと困難が伴うので)と、云つているように、實際としてむずかしい。一枚の鉛板としてなら、印刷にたえられるが、ごく小部分に切り離すときは、缺けやすい。うまく切り離せても、これのボデイは、何者にどうしてはめるか。木では乾濕にくるいやすく、小文字は釘でもとめられない。金屬ボデイでは、はめにくく、手間がかかる。字母とか、押字器なら、手間かけてもよいが、消耗[#「消耗」は底本では「消粍」]のつよい活字では、やりきれぬというわけである。(四)にある(押字器)とは、パンチのことで、刻印器とも、打印器とも譯されている。つまり、嘉平がつくつた、鋼鐵の尖端に、彫つて、字母にする銅え、うちこむものだが、西洋では、アルハベツトの單純さに幸いされて、グーテンベルグ以來、四世紀という傳統があり、パンチを彫る機械さえ、この時代には出來ていた。
 この「支那叢報」が印刷された廣東の印刷所では、どういう風に活字をつくつていたか、記されてないけれど、アルハベツトのパンチだけは、彫刻機械でつくられたものが、ロンドンから送られていたことが、他のところにみえている。フアラデーの電氣分解の法則完成が、一八三三年から三九年、ブルース式カスチングの發明が一八三八年であつてみれば、一八三二年の、この立派な「支那叢報」のアルハベツト活字も、まだ、極度に發達した手わざの「流しこみ活字」であつたことは、疑いがない。したがつて、ここにでてくるサミユエル・ダイアなる人物の、漢字活字創造の、困難な條件は、一八五〇年、嘉永年間以後の、嘉平や昌造のばあいと、大したちがいはないのである。
(押字器をつくる職人が欲しい)と、ダイアは、報告している。鋼鐵に漢字を彫る技術者であるが、これも「嘉平の活字」の章で、みたように、木彫とは別箇な、技術や知識が必要であつた。天正年間、切支丹宣教師の一行が、日本長崎え、印刷機をもつて渡來したとき、日本文字の活字をつくるために、支那澳門にたちよつて、彫刻職人をさがしたという記録がある。ついでにのべると、長崎版、かなもじ切支丹本は、印刷ずらでみるところ、鉛活字らしい。判定は、私に出來ぬが、彫刻ではなくて、流しこみ活字らしく思える。前卷でみたように、これは、傳統をのこさぬまでに、家光以後の鎖國方針で、日本から追放されてしまつたけれど、とにかく、印度から東漸しつつあつた、産業革命以前からの、ヨーロツパ文化は、中國文化とまじりあつて、マライ半島から、南支えかけて、その中心があつたのであろう。「押字器をつくる職人」が、インドネシヤや、混血支那人が、嘉平のそれに劣るものだつたことは、あとで述べるところでもわかるが、しかし、嘉平と同じ方法ではあつても、宣教師サミユエル・ダイアには、グーテンベルグ以來の傳統があるし、文中にみるように、すでに、鉛版技術もかくとくされていた。ことに、十四人の、支那著作家の、書物をあつめて、使用されている漢字の、種類の統計や、共通性の多い文字を調査したなどということは、活字印刷に、多年の經驗をもつものの、考え方であつた。嘉平が、電胎活字を獨自に創造したほどの、才能と努力を示していながら、活字をつくるシステムでは、原稿のままの文字の順をおうて、それをつくり、木版式に「ばれん」で、こすろうとしたのに、くらべるとき、その値打ちのたかさが、わかるであろう。つまり「繪の世界」から脱しきれないでいる、東洋人にはくわだてがたいものをもつている。
 さて、私の頭は、いろいろに亂れる。いま六年の苦心を經過して、ようやく漢字活字を完成せんとしつつある、サミユエル・ダイアとは、そもそも何者であるか? また何故、彼ら宣教師たちは、困難をおかして、今日からみても、相當な印刷物であるこんな雜誌を、廣東あたりで、二十年も出版しつずけたのだろうか? マラツカとか、カムボヂヤとか、ラオスとか、アジアの島々、國々の名を、まるで掌のうちをよむように、ならべたてる、彼らの交通範圍は、いつたい、いかなる勢力に根ざすのか? これはまさしく、鉛活字東漸と、きつてもきれぬ何かにちがいない。
 しかし、さしあたつて必要なことは、この二十卷の洋書と、同數の解説書を、手にいれることである。私は、この圖書館から外部え借りだす資格がなかつた。私はS氏に、禮をのべて、それらの書物を返納すると、その足で、駿河臺下の、丸善支店えいつた。
「こちらで、支那叢報が、豫約頒布されているそうですが、會費はいくらでしようか?」
 すると、書架のかげにいた女店員が、ほうずきをくわえている顏を、そつぽにしたままで云うのだつた。
「六百九拾七圓でございます」
 私は、しばらく呼吸をのんでいた。米が一升四十錢であつた。これは全額會費前拂いなのだろう。それでも、いまは、たとえ一萬圓といわれても、かじりつくだけは、かじりつかなければならない。
「申込用紙をくれませんか」
「二階の受付えいつて下さい」
 二階へゆくと、男の店員は、申込用紙はくれずに、
「もう〆切ました」
 と、ぶあいそに云つた。それでも、まだ私がつつたつているので、つけ加えた。
「第一回と、第二回を募集したんですが、もう〆切ました」
「あと、もうないんですか」
「第三回の予定は、ございません、へい」
 世の中は、ひろいもんだ、と私は考えた。六百九拾七圓を、とにかく、一度に前拂いしてしもう連中とは、どんな人間なのだろう。しかも、こういう特種な本が、百年ぶりに、日本で複刻されるわけ、洋書の分だけでも二十卷では一萬頁をこえるものが、刊行されるわけ、それが、一方的に「大東亞」と名ずけられる戰爭と、むすびついている、というわけ。ぼんやり、それを考えていると、六百九拾七圓を、たちまち前拂いしてしもう、連中の顏が、みえる氣がしてくる。——
 しかし、いずれにしろ、私は、この大きないとずるから、手をはなしてはならないのである。私は一方で、一日おきくらいに、本郷の圖書館えかよいながら、一方では、友人、知人のあいだに、支那叢報を予約した人はないか、とさがしまわつた。貧乏な人が多い、私の友人、知人にそんな人はなかつたが、さいわいと、支那叢報の複刻に關係のあるという、解説の監修者、岩井大慧氏に、紹介してもろうことができた。私は、六百九拾七圓を工面しなくとも、岩井氏の、小石川の東洋文庫にかようことで、つずきの六卷から、十卷までを、みることが出來た。——したがつて、以下は、大學圖書館の五卷と、東洋文庫の五卷とで、得たところの、「ダイア活字」えの、私の知識なのである。