世界文化連載分、十八

 ほんとに、活字は活字だけで、獨立に成長することはできなかつた。ダイア――コール――ギヤムブルと、ペナンから上海まで、のぼつてきた近代漢字活字も、それから、日本に渡るまで二十年も、電胎字母活字になつてからでさえ十年も、そこで足ぶみしているのであつた。
 活字が日本に渡るには、ほかの條件が必要であつた。そして、そのほかの條件のうち、もつとも大きなものは、やはり文久二年、一八六二年の、日本幕府が、はじめてやつた貿易船千歳丸の、上海入港であつたろう。開港後からは二十年め、ゴンチヤロフの上海からは、九年めにあたるが、長崎からは海上七百キロそこらの地點で、日ごとに成長しつつあつた近代文明から、二たむかしの間も、かく離していることのできた鎖國の力は、幕府おとろえたりとはいうものの、おどろくべきものがあつたといえる。しかしまた、一方からいうと、この二十年こそが、家光以來、二百餘年の鎖國傳統をうちやぶつたのでもあつた。「上海」で、支那の領土に立札をたてたアルハベツト人種を、痛烈に批難したゴンチヤロフ自身が、じつはプーチヤチンの祕書であり、「六十斤砲を撫しながら」長崎や、大阪や、江戸をおとづれて、日本の土臺石をゆすぶつた、役者の一人だつたではないか。
「日本はこのたび、日進月歩の今の時勢に全く應はしく、一の興味ある觀物を商界に展示した。日本國旗を掲げた英國製帆船の、過日の上海入港は、それだけでも甚だ注目に値する事件である。ところが更に、この船は、同國政府の手で買上げられた官有船であるばかりでなく、海外貿易の目的の下に、同國の特産物や製造品を積んで來てゐるといふことが判つた。これは、この特異な國民の排外國策の上に、全く新しい光りを投げかけるものである。――」
 と、いう文句は、千歳丸の上海到着後五日め、一八六二年六月七日付の「字林西報」(ノース・チヤイナ・ヘラルド)紙が、トツプにかかげた社説の書き出し(前掲「上海史話」一二七頁より孫引)だそうであるが、まつたくこの三本マスト三五八噸の、前檣にオランダ國旗、中檣にイギリス國旗、そして、後檣に日本國旗をかかげた奇妙な船こそが、そのまま江戸期開國のシンボルとなつているといえる。
 しかし、この最初の貿易船千歳丸上海入港がどんなに大きな意味をもつかは、明治維新史の研究が深まるにつれて、益々史家の強調するところだ。經濟的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは、積荷をそのまま持ち戻る羽目にもなつたけれど、オランダの役人につれられて、各國の領事たちに逢つたり、諸外國人の活動ぶりを見てびつくりした。たとえばこれを便乘者高杉一人の場合にみても明らかである。
「五月廿日、朝中牟田と亞米利加商館に至る。商人の名はチヤルス、專ら二人を通して、その居室に至る。(中略)中牟田英語を解し、談話分明す。奇問を聞きて、益を得ること少からず、予チヤルスに謂つて曰く、弟近日英書を讀めるも、未だ人と談ずるを得ず。日夜勉強し、他日再逢のとき兄と能く談ずるを得んと欲す。チヤルス曰く、再逢の日、弟また兄と能く其邦語を解せんと欲す。乃ち禮を告げて去り」云々と「游清五録」の一節に自分で記したのを、決して單純な外國人同志のお世辭とだけ解してはならない。「五月廿一日(中略)支那は盡く外國人の便役たり。英佛の人街市を歩行すれば、清人皆傍らに避け、道を讓る。實に上海の地は、支那に屬すと雖も、英佛の屬地と謂ふも、また可なり。(中略)我が邦人と雖も心を須ひざるべけんや。支那のことにはあらざるなり。」と、すぐその翌日に記したとき、アルハベツト人種の文明におどろけば、おどろくほど、「中華帝國號」がレールのうえをはしるのをみて、手をたたいてよろこんだ支那民衆とはちがつた、日本の支配者武士的、領主的な感情でうけとられているのがわかる。その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が、領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して、海外貿易を營なんだ急角度の轉回も、從つて「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、この時の千歳丸便乘によつて、彼が、上海で感得したものによるところ、甚だ多いといわれている。
 一八六〇年代の上海は、アジアにおける近代文明の中心地であつた。「日本の幕末文化は上海から吸收したと云はれます程で、當時は上海が主、日本、長崎は從の位置にあつたのであります。」とさえ「滬上史談」の著者沖田一氏は書いてゐる。福澤諭吉など、ごく少數の人間が、いたつて窮迫した政治的性質の、萬延元年の遣米使節、または文久元年の遣歐使節などに随行して、産業資本主義時代の華やかなヨーロツパ文化に、じかに觸れえたような機會をのぞけば、上海はその唯一のものであつた。第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や、五代や、濱松藩の名倉豫可人などあつたが、第二回の健順丸のときは、前卷でなじみの昌造の同僚で、長崎通詞安政開港に功勞のあつた森山多吉郎、さきの榮之助がいまは外國奉行支配調役として乘り組んでいたし、第三回め、慶應三年の同じく幕府船ガンヂス號のときは、佐倉藩士高橋作之助(のちの由一)ら、多數があり、たび重なるにつれて、上海渡航者の數は急速に増えていつた。ことに第三回めのときは、同じ日に横濱を出帆したフランス船アルヘー號に、パリの萬國博覽會へ派遣される幕府代表者徳川昭武の一行、箕作貞一郎や澁澤榮一、博覽會出品人日本代表清水卯三郎など、多數が寄港したために、上海の街には、開港以來、はじめて澤山の日本人が見られたという。
 また、官船以外の密航者、或いは藩所有の船修理と稱して渡航する者もたくさんあつた。たとえば長州藩の伊藤俊助、柳川藩の曾我祐準、熊本藩の竹添進一郎、藝州藩の小林六郎や長尾治策、薩藩の上野景範、さては中濱萬次郎を案内にたてて、汽船を買に來た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は、「きびす相ついで」いるが、これを千歳丸からガンヂズ號までの、乘くんだ顏ぶれにみてゆけば、最初は薩摩、長州、佐賀などの大藩の武士であつたものが、しだいに中小の藩士にも及んできているのがわかる。もちろん、渡航に便利な長崎に近いという地理的事情も影響しているようだが、それよりは「明治維新」の大きな動力となつた大藩ほど、より先んじていることはいうまでもない。
 そして、藩の大小にかかわらず、彼らの多くが武器の買い入れにきたのも、もちろんであつた。幕末艦船、銃砲などの輸入港は、おもに長崎、横濱、兵庫などになつているけれど、幕府を先頭として各藩競爭の勢いであつたから、しぜん上海まで押しだしたのだともいわれる。山口和雄氏の「幕末貿易史」によると、たとえば艦船だけをみても、安政元年から慶應三年までの購入百十一隻、そのうちの三分の一が幕府で、三分の二が薩、長、土を先頭とする各藩の買入れであつた。日本で最初のものといわれる、土佐侯の命令で、本木昌造がつくつた蒸汽船模型も軍艦であつたように、近代日本の貿易のはじまりは武器ばかり買つている。それでも千歳丸以來、元治、慶應と、上海往來も、四五年も經過してくると、いくらか毛色が變つてきた。たとえば、元治元年に上海へ來た美濃の人で安田老山という畫家や、畫家で英語に堪能、のち香港に移つて日本漂民の世話をした八戸喜三郎、越後の畫家で長井雲坪など、「上海史話」や「滬上史談」にあげてあるが、美作の人で日本新聞史上に元祖として知られる岸田吟香や、前卷でみた「サツマ辭書」編纂者の一人、薩摩の前田正名なども、幕末いわゆる「上海へ洋行」した人々であつて、前者は慶應二年の一八六六年、後者は慶應四年の一八六八年であつた。
 そして吟香と、正名の上海渡航が、ダイア活字の後身であるガムブルの電胎活字が、上海から長崎へ渡來するため水先案内として、歴史的な意味をもつものであつた。吟香も正名も、それぞれに獨立に行動しているし、ギヤムブルと昌造を結びつける、直接の機縁とはなつていないのだけれど、それは上海にあつてはじめて日本文字、つまりこの場合片假名の電胎活字を作らせ、日本人自身の意志によつて使用したというほどの事實だけれども、日本印刷史上、充分に頁を占めるほどの事柄であつた。同時にまた、文久二年以來日本人の上海往來としてみれば、その多くが大小藩の直接間接の政治的經濟的使命をおびて渡航する者であつたり、個人的な場合にも、それが至つてロマンチツクな畫家文人の漂泊であつたのにくらべると、これはだいぶ毛色が變つて、文化的な性質をもつていた。吟香は武士でもなければ、いわゆる文人墨客でもなかつた。前田は薩摩の藩士であつたが、脱藩以後は扶知をはなれた一青年でしかなく、しかもいわゆる「志士」とちがつて、なんの背景ももつていなかつた。周知のように、前者はヘボン博士の助手として、「ヘボン辭書」印刷のためであり、後者は同じ和英對譯「サツマ辭書」印刷のためであつて、こと前卷でみたように後者の方は、浪々の青年らが菊判一千頁にちかい大辭書を、その發刊の理想から本の出來ばえ、經濟上の損得一切を自己の一身にかけて、とにかく成就させたということが、古えの陀羅尼經以來にみる破天荒の大仕事だつたのである。
 つまり、幕末の上海渡航も、吟香、正名らに至つて、高杉らのそれと比べるときは、わずか四五年の差でありながら、急速な質的變化があるわけであつたが、しかしいずれにもしろ、記録にみる當時の上海在住の日本人は少數で、たとえば次のような岸田の上海日記にみても容子がわかる。
「廿一日(慶應三年三月)、ひるから、きんきへいて見るに、弘光、明日、香港へいくとて、したくしてゐる。曾我彌一といふ人がきてゐる。きのふ逢た。處々あるいてきたさうだが、香港で日本の三味線をひいてゐるのを見たといふ。(以下略)」
「廿四日、てんき、おほよし、よつじぶんにぶらりと出て、どこへいかうかとおもひながら、河岸を南へすた/\あるくに、ふと軋位佛の招牌を見て、此間、弘光のいふた事をおもひ出して、このうちへたちよつて、日本人がゐるかといへばゐますとて、支那奴が案内してくれて、はじめて曾我準造にあふ。いろ/\はなしをしておもしろし。梁川の藩中の人なり。――」
 弘光は八戸善三郎のことで、「準造」は曽我祐準のこと、前記したように祐準は、イギリス商船に乘りくんでカルカツタまでいつたが、海軍志願の彼には商船では面白くなく、ふたたび上海へ引返したときのことであつた。もともと幕府は、自らは千歳丸などを仕たてて、最初の上海貿易をやつたが、一般に海外渡航を免許したのは慶應二年のことであつた。高杉や五代やが幕府役人の從者や人夫に化けたりして、千歳丸に便乘したのは有名な話だけれど、慶應になつてからでも、曾我祐準が、英商ガラバの斡旋で商船に乘りこむためには、柳河藩から扶知離れした形式をとらねばならなかつたし、熊本藩の竹添進一郎など、表向きには「漂流」といふことになつていた。
 しかし、ここで大切なことは、上海の文化を日本の長崎や横濱に導びいた人々が、記録にも明らかな以上の人たちだけではなかつたということである。それは、長崎にもどれば奉行の手によつて、暗らい所に入れられねばならぬ、たくさんの漂流民、それから外人や支那人に買われた多くの男女、或いは密航者たちであつて、表向きにも裏向きにも、藩とか幕府とかの庇護も何にもない人々が、記録にのこるよすがもないままに、文化の歴史をすすめる大きな土臺石になつていただろうということである。そういう人々は、きつと吟香の日記にみるような、何の某がどこそこの旅館にいるという存り方ではなかつたであろうし、記録にないものは叙述のしようもないけれど、たとえば明治元年、つまり慶應四年、一八六八年の上海に「田代屋」という長崎出の日本商人があつて、日本婦女子のための小間物を賣つていたと「滬上史談」(九二頁)は書いているから、その買手たるべき日本婦人が何人か何十人か、少くとも慶應四年以前から在住していたことは確かである。また工部局墓地にはたくさんの日本人墓碑があつて、それらのうちには、アメリカ飛脚船乘組員茂助、利七外三人によつて「江戸淺草材木町徳助、相州小田原在天坪村七之丞」二人の靈のために「明治四辛未六月建之」というのもあるし、外人墓地にも澤山の日本女性の墓石が混つている。たとえば「マリヤ・ハシモトの靈に獻ぐ、一九一一年十月九日歿、行年七十三歳と英文で認めて、下方に漢字で「麥理海細麥多」和歌山縣日高郡御坊東町橋本仕歿明治四十四年十月九日」というのがあり、「安らかに眠り給へ、セレツザ・マリヤ・ド・ジーサスの靈に獻ぐ、一九〇九年六月廿五日歿とポルトガル語で認め、主の司る幸福なる死、とラテン語で書加へてある。下方には漢字で、明治肆十貳年、島谷カネ長崎人第陸月念伍日死ス」というのがあり「カキガワ・パリサーの靈に獻ぐ、一八九六年三月二日歿、行年四十七歳、我らの愛する唯一の母は永遠に眠れり、怖れを知らぬ天に登りて永遠に祝福されぬ、逝けど忘る能はず、と全部英文で綴つ」(前掲八七頁)」たのやがあるという。カキガワ・パリサーの碑は、彼女の毛色眼色のちがつた愛兒たちによつて建立されたのだろうか。セレツザ・マリヤ・ド・ジーサスは死歿年齢が明らかでないけれどマリヤ・ハシモトは行年七十三歳というのだから、明治四十四年としても、彼女がかつて若く美しかつた日に、外國人に伴われて海を渡つたのだとするならば、或は幕府の千歳丸よりはるかに以前だつたか知れない。さらにまた一八七〇年明治三年の工部局人口統計では、當時の上海在住日本人合計二十九名、そのうち二十二名までが「船員」となつているそうで、女性は一名もないという。これは上海における日本女性のありかたか[#「ありかたか」は底本のまま]特殊だつたろうことを示すと同時に、男性でもその大部分が「船員」だつたということは、この統計の正確さ不正確さは一應べつとして、吟香の日記にみるような日本人のあり方でないところの日本人が、相當多數だつたことを物語るものだと考えられる。
 淺草材木町の徳助、小田原在天坪村の七之丞が船乘りだつたろうことは、その建立者たちによつても想像できるところだが、記録に殘つている漂流民、屋張[#「屋張」は底本のまま]の音吉そのほかも當時の上海に生存している筈であつた。彼らがたまたま記録にのこつた機縁は、たとえば天保六年、一八三五年、前卷でみたように「モリソン號」で送還されようとしたからで、屋張[#「屋張」は底本のまま]の船乘り音吉、久吉、岩吉ほか數人、また肥後の漁民庄藏、壽三郎、力松など、「モリソン號」にからまる政治的焦點の、餘映に照らしだされたからに過ぎない。ことに音吉は一八五四年、安政元年、イギリス軍艦に通辯として乘くみ長崎に來て、當時の蘭學書生福澤諭吉と對面していたり、肥後の力松は一八五五年、安政二年、露土戰爭の餘波で、プーチヤチンの艦隊を追撃してきたイギリス軍艦が、凾館へ侵入したとき、艦付き通辯として幕府役人との通辯に當つていることが「大日本古文書卷十」に記録されたりしている。九州天草生れ、十三歳のとき漂流、片假名の日本語を示して通辯した日本人「通辯リキ」と書かれている。
 漂流民の多くが故國に歸れなかつたことは「じやがたら文章」以來有名なところであつた。肥後の力松連中も、尾張の音吉の連中も、遂に戀しい日本へ戻された形跡はない。モリソン號で追い戻された音吉は、安政元年、再度長崎へきたとき、「其中の一人は、同じく日本語にて肴買ひたし、金は澤山ありといひしかば、賣る肴はなしと答へしに、私は日本尾張國の御米船に乘り組みたる者にて、十六歳のとき漂流し、漸く七年前、薩摩まで連れ渡されたれど、命に係はると申し聞かされて、據ろなく、イギリス國へ歸れり。宗門所詰の妻の十八歳なるがある外、島原にも懇ろなる者一人ありしと咄し」(「滬上史談」九八頁)たという。この音吉は、のちに外國人を妻とし、上海に住んでいて、文久二年、一八六二年、中牟田倉五助[#「倉五助」は底本のまま]が人ずてにきいて訪ねていつたが、あいにく會うことが出來なかつたと、「中牟田倉之助傳」は傳えている。
 漂流民についての研究は、史學の間でもまだ未開拓の分野だとされているそうだが、田保橋潔氏の「幕末海外關係史」には、たとえば岩吉、音吉の一行は太平洋上に漂ようこと十四ケ月、カナダ、コロンビア州の沿岸クインシヤイロツト島に漂着して、アメリカインデヤンの手に落ちていたが、アメリカ商船によつて救出された。この頃イギリス及びアメリカは、そのほかフイリツピンや、南洋諸島に漂着した日本人を收容し、新教宣教師の手にあずけて、マカオや香港あたり轉々させたという容子が記してある。これらの漂流民が、みんなでどれほどの數であり、どんか名前だつたか、もちろんわかりようもないが、私はここでフツとおもいだす。前に述べた新教宣教師で、のち上海で活動していることを「オブロモフ」の著者によつて消息されたメドハーストの世界最初の「和英語彙」が、當時マラツカにあつた英華學堂内の、日本人勞働者二人の協力によつて出來たということである。
 もちろん「二人の日本人勞働者」が音吉たちであるかどうかはわからない。音吉たちの漂流は天保二年、一八三一年で、「和英語彙」が一八三三年の發行であるから、そして「和英語彙」が「支那叢報」のブツクレビユにみるような素朴な單語集にすぎないとすれば、時間的には無理がないけれど、よし、それが音吉らであろうと、ほかの日本漂民であろうと、事の本質の重要さに變りはないわけだ。メドハーストより二三年遲れて、支那へまたドイツ人ギユツツラフも「日本語はマカオで漂流民からギユツツラフが先づ學び、後にウイリアムスも習つた。ウイリアムスの廣東『支那叢報』印刷所には日本人が二名ゐたらしく思はれます。」と、前掲「上海史話」の著者からの手紙の一節にあるし、またほかにも、ギユツツラフに日本語を教えたのは音吉、久吉の二人だという説がある。しかしいずれにもしろ、日本をおとずれて、渡邊華山や高野長英に、命がけの文章をかかせ、鎖國日本をおしゆすぶつた「平和の使節」といわれる「モリソン號」の、導びきとなつたのがギユツツラフの「日本語」であり、「ペルリの艦隊」「嘉永の黒船」の通譯が、ウイリアムスの「日本語」であつたのをみるとき、それが誰だつたにもしろ、日本漂流民の功績が、歴史の大きな齒車の一つとなつていることを否むことは出來ないだろう。
 廣東の「支那叢報」印刷所にいた日本人が、マラツカの英華學堂印刷所にいた「二人の日本人勞働者」と同一かどうか、私にはわからない。またメドハーストの「和英語彙」の日本文字がどんなものであつたか、木彫か、金屬彫刻か知るよしもない。しかし前掲「上海史話」の著者は手紙の一節で、コールの後任ギヤンブルが來任してから、「――一八六〇年十二月印刷所を上海に移轉して擴充し」たとき「二種の新漢字活字を有し、日本文の活字(小型)も有してゐました。日本文字といふのは四十八文字の假名活字のことと思はれます。」と書いているとき、私はそれを自然に肯定することが出來るのである。岸田吟香が「ヘボン辭書」の印刷に當つて日本文字の種字を書いて、金屬活字を作らせたという事實は日本印刷史上有名で、たとえば、後年吟香は追憶して「岸田吟香氏の朝野記者に語りし新聞實歴談」(石井研堂著「明治事物起原」)の一節はいつている。「當時上海に美華、墨海の二活版所あり、共に耶蘇宣教師が漢文聖書を印刷して布教に資するものなり、さて印刷せんとするに方りて、この活版所に、日本かな字の無き不都合に逢ひ、予自ら平かな片かなの細字(五號)版下を書き、之を黄楊に刻ませて、字母を作り、活字を鑄造せしめたるが、我邦の假名字を以て、鉛活字となせるは、蓋しこれが嚆矢ならんか。」ところが、これは吟香が知らないので、黄楊に木彫したことは、電胎法字母をつくることができた證據であるし、かなの鉛活字の傳統は、前卷以來みたところ、すでに昌造の「蘭話通辯」があるし、英華學堂でつくられた「日本勞働者」のそれによるものはもつと古い。しかし、私が岩崎克己氏の家でみた「サツマ辭書」の片假名活字の字形はなるほどりつぱであつた。「ヘボン辭書」と同一のものを使つたという、この片假名は、しよせん「尾張の音[#「音」は底本のまま]」や「通辯リキ」などに書ける文字ではないけれど、それにしても、金くぎ流の文字で、たぶんは、めつたに使われることもないままに、不揃ひにもなつた何本か、何十本かの片假名活字が、マラツカ以來、廣東、香港、寧波、上海と、轉々しつつ、工場のすみつこに埃りをあびていただろう、その歴史こそ貴重であつたと思うのである。