世界文化連載分、十九

 しかしまた、上海で、岸田吟香が片假名の種字をつくつて、日本文字活字をふたたび誕生させたということは、一方からみると、けつして偶然ではなかつた。周知のように、吟香は元治元年にジヨゼフ彦(濱田彦太郎)らと“新聞紙”を發行した。「新聞」と名ずけたものには、これよりさき文久二年に開成所教授、さきにペルリ來航當時通詞として活動した昌造の同僚堀達之助らによつて編輯されていた「官板バタビヤ新聞」や「海外新聞」などがあつたけれど、これはそれぞれに一册の書物であり、外國の新聞から抄譯したものを、時間の制限なしに、刊行され書店から發賣されたものであつた。しかし吟香の“新聞紙”はリーフレットである。月に「三四回」ずつ發行されて勿論日刊でも週刊でもなかつたが、それは能うかぎり早く、しかも講讀者を予約して配達されたものであつたという點で、日本で一番最初に、新聞の性質に近ずいた新聞であつた。
「予が“新聞紙”を刊行したるは元治元年にして、之を刊行せんと企てたるは、曾て横濱に在てドクトル・ヘボン氏と共に和英對譯辭書を編纂する頃、ジヨゼフ彦といふ者と相往來したる時にあり。——一日彦藏予等と語りて曰く、米國には新聞紙といふ者あり。專ら世間の珍しき事及び日日の出來事などを書き集め、之を世間に公布するにありと。——即ち彦藏は西洋新聞を飜譯し、予と本間氏とはこれを平かな交りの日本文に綴りたり。さればその頃は活字等一切なければ、予ら自ら版下をかきて木版に刻し、半紙五六枚にて、單に「新聞紙」と名づけ、月に三四回づつ刊行して、自ら横濱市中に配達したり云々。」と、吟香は「明治事物起原」所載「朝野記者に語りし新聞實歴談」の一節に語つている。
 いわば漂流民ジヨゼフ彦の知識を通じた摸倣であるが、こういう社會的要素は、すでに當時の日本に醸成しつつあつたのであろう。ことに文中「これを平かな交りの日本文に綴り」と云々は、吟香の新らしい平民的思想を示すものであり、新聞を創ろうとする思想とつながるものにちがいない。私は未だに“新聞紙”を見たことがないけれど、吟香が明治元年二度めに起した「横濱新報もしほ草」の文章は(後でみるところだが)當時の他の新聞に比べても、圖ぬけて假名の多い文章であるが、それは吟香がアルハベツトに親しんだところから生れた觀念というよりは、もつと新聞がその對象とするような大衆的なもの、平民的なものが、彼の身うちに思想として成長していたからであろう。逆にいえば、そういう彼の觀念こそが“新聞紙”を摸倣させたかも知れない。そしてそういう彼が「その頃は活字など一切なければ」「自ら版下をかきて木版に刻」さねばならなかつたし「自ら横演市中を配達」せねばならなかつたということは、當然「新聞」がもつ時間的制約とまだ機械化されない當時の日本印刷術との矛盾に突き當つたことであつた。「新聞」を印刷するに適當な紙製法が發達していたならば「半紙五六枚」を綴じあわせないで、大判の一枚刷りとしたであろう。金屬活字や印刷機が出來ていたらば「版下を書」いたり「木版に刻」んだりしないで、フランクリンの如く、しかも日刊が出來たであろう。したがつて吟香らの「月に三四回」の“新聞紙”は、當時にあつては最大限度のものであつたといえる。
 したがつて「姜先生と申人はあめりか人にてぎやんぶると申しますが、此人美華書館の主人(七八字不明)至てこころやすくいたしますが、活字版屋の事故もとよりそればかりが(六七字不明)至て(二三字不明)い人なり。日本へいて片カナ平がな活字板をすることをしたいと(十五六字不明)開成所(十字程不明)おたのみになりますれば(十六字程不明)ますがいかがでございましよう。ヘボンこちらにゐるうちに相談になりますれば熟談(五六字不明)ございますから、よくお考へなされて下さいまし。」(土方定一「近代日本洋畫史」二一——二二頁)というのは、吟香が慶應三年正月、上海から日本の川上冬崖あてに書き送つた書翰の一節であつて、彼の金屬や活字や印刷術に對する關心がここにあらわれているのも自然であつた。
 書簡の文章は殘念にも(不明)が多いが、大意を判ずるには充分だ。「ぎやんぶる」はギヤムブルであり、「日本へいて片カナ平がな活字板をつくることををしへたい」というとき、それは前章からみてきたところでも明らかなように、電胎字母をふくむ活字の製法であつた。周知のように川上冬崖は明治洋畫の開拓者であり、「開成所」が「蕃書調所」といつた頃からの役人であつたから、吟香は友人の冬崖を通じて、官板ものなど主として出版している開成所へ、日本活字の製法傳授を斡旋したわけである。元治元年に改正された「開成所稽古規則覺書」によると「和蘭學、英吉利學、佛蘭西學、獨乙學、魯西亞學、天文學、地理學、窮理學、數學、物産學、精錬學、器械學、畫學、活字」(文部省編「維新史」第四卷三三三——三三四頁)という科目の列擧があつて、活字もその一科目となつていたのだから、至極當然であるが、しかし吟香の、この斡旋がどう經過したかは、今日も明らかではない。前卷でみたように開成所には萬延元年大鳥圭介によつて發行された「斯氏築城典刑」の彫刻鉛活字などの印刷傳統があつた筈であるが、おそらく、この頃慶應三年から明治元年へかけての、國内的變革期にあつては、幕府役人であつた書翰の受取人も、また開成所自身も平和的な事業に手をつける餘裕がなかつたのであろうか。
 さて岸田吟香が、ヘボン博士夫妻に伴われて上海にきた一八六六年十月頃の美華書館はどんなところで、どれほどの印刷能力を有したか、またどういうふうに整版され、吟香自身どういうふうにはたらいたろうか? 殘念ながら、私は吟香の上海日記ぜんたいをみる機會を末だに[#「末だに」は底本のまま]もつことが出來ない。
「なにさま、印刷場は寺の下にあつたということだ。吟香らは二階に住んでな、うむ」
 昭和十八年の二月、ある寒い日の午後、まだ在世中だつた「明治事物起原」の著者を、下谷にたずねていつたことがある。ひどく無人な家であるが、うすくらい二階で、研堂老人は私にいつた。
「——ひどくきりつめた生活でな、言語は通ぜんし、不便だつたという話だつた」
 こたつに背をまるくしながら、抑揚のない、ひくい聲で、こんなふうにかたる。この人には、私のたずねる岸田吟香のことが、まだ「歴史」ではないのだつた。私が上野の圖書館で讀んでいる「明治事物起原」は、手あかでよごれた革表紙の、カード番號も、2とか3とかいう、もう古い本なのに、この人は、その時代を、今日に生きているのであつた。人間にとつて、なんと、その鑄りつけられた「歴史」はおもいものであろう。
「うむ、まあ、どうやら、この冬も越せるか、と思つている——」
ヘボン辭書」から「サツマ辭書」の話もしてくれながら、そんなこともいつた。前田正名のことでは、このあとに紹介するような文章ののつている雜誌を、室いつぱいにつみあげてある書物のうちから、さがしてくれるために、まがつた腰をおこして、たんねんにかたずけはじめた。それは一ととぢの雜誌類をもちあげるのでも、たいへんな努力であつたが、私がそばから手傳うのも許さないような、いつこくさがあつた。
「ああ、きみは『太陽のない街』を、かいたんだね」
 こたつにもどつて、まだ呼吸をはずませていたが、もう皈るころになつてから、研堂老人がいつた。私はうれしくなつて、あいてをみると、こんどは咳きこんで、老人はこたつぶとんに顏をふせているのだつた。
「どうれで[#「どうれで」は底本のまま]、きいたような、名だとおもつた——」
 しかし、石井研堂氏は、とうとう、その「冬が越せ」なかつた。岸田吟香のことを、じかに話せる人は亡くなつた。——
「寺」というのは教會のことで、「寺の下」というのは、或は地下室のことかも知れない。教會のことを「寺」とは高杉も日記にそう書いてるし、前田正名の日記にもあり、「寺」でキリスト教徒たちが祈祷をするさまも書いてあるから、疑がいなかろう。また「上海史話」の口繪にある安田老山筆の當時の上海風景には、河岸に沿うて林立する、數階建の西洋家屋があるから、きつと禮拜堂につながる洋家屋の一部分に印刷工場があつたと想像出來るし、その場所は「當時の小東門外にあ」つたと「滬上史談」の著者は書いている。
 次に日本文字混じりの「ヘボン辭書」が、毎日どれくらい整版されたか?、吟香はどんな風にはたらいたか? を知るためには「滬上史談」に面白い記事がある。それはこの著者が一八七三年三月二十日(明治六年)のノース・チャイナ・ヘラルド紙から、ブラムゼンという人が「ヘボン辭書」に誤植や見落しが非常に多いという批評を加えたについて當時の美華書館主マテイーア(ギャムブルの後任)という人が、印刷者としての責任上から答えている、その文章を飜譯したものだ。
「本紙十三日號に和英語林集成に對する批評が出た以上、同書印刷當時の事情を發表するのが正しいと思ふ。著者ヘボン博士は自ら全部の校正を見られた。從つて印刷上の間違ひでも、その他どのやうな間違ひでも、その責任はヘボン博士にあつて美華書館にはない。ヘボン博士の校正は次のやうな事情でなされた。この校正を開始するとすぐ博士の日本語教師は去つて了つた。そしてその代理の者は辭書が完成するまで働いたが、ほんの小僧程度で、從つて甚だ正確とは申し難い。博士はこの印刷中ずツと病氣で、非常に惡いために事務所に來る事が出來ず、校正刷を博士の部屋に送つた事が數回あつた。ヘボン夫人の校正に盡した功は貴重なものであるが、夫人も亦病氣で香港へ靜養旅行に行かねばならなかつた。この本は一日八頁の割で上梓されたので、若し博士が完全に健康であり、あらゆる便宜を持つて居られたなら、この不完全な書を完全にするのに、大繁忙であつたらうと思ふ。このやうな不利益な點を考慮すれば、本紙に現れた批評中に指摘された以上にひどい誤がなければ結構だとしなければならぬ。ゼイ・エル・マテイーア」(前掲二七頁)
 この文章は全體として印刷者が責任からのがれる爲に強辯しているの傾きがあり、罪の多くを「小僧」吟香に押しつけ過ぎている嫌いもあるが、何にしても一日八頁の割合で校了にまでしたとすれば、ヘボン博士夫妻が病氣だとすると、一人の校正者では、明らかに無理であつた。「サツマ辭書」から察しても活字は大きいが、菊判の辭書ものとなれば今日でも大變だ。沖田氏も書いている。
「右のやうにヘボン夫妻共病氣であつたので、仕事の大部分は吟香に掛つて來た。よなべまでしなければならぬ程忙しかつた。」そして「小僧」とあしらわれた吟香は「どれほどヘボンから月給を貰つて居つたかと云ふと、月僅に十弗であつた。五十仙出せば鶏卵が百個あり、牛肉一封度五仙半、魚一封度七仙と云ふやうな物價安の時ではあつたが、月給の半分は食べるものに要つて了ひ、殘金ではどうすることも出來なかつた。」(前掲二七頁)というのである。
 吟香が「小僧」であつたかなかつたか?、吟香はこのとき卅五歳であるが、四十前後とおもわれる頃の、彼の洋服姿の寫眞をみると、頬骨の張つたふとりじしで、眉根のけわしい、毛むくじやらの顏であつた。しかも、この日本最初の完全な形をもつた、日本にはじめて英語というものの大衆的傳統をつくつた和英辭書が、吟香の協力なしには出來上らなかつたのだ、という事實一つで充分な答になるだろうと、私は考えるが、とにかく、當時の美華書館印刷所は、本業の傳道書印刷のかたわらに、菊判の辭書八頁を一日平均に生産する能力があり、そのうち半分のスペースをうずめるだけの日本文字活字があつたことがわかる。
 さらにこれより一年後に「サツマ辭書」を印刷した、當時の前田正名の日記(前田三介「社會及國家」昭和十二年四月號所載「上海日記」)にみると、
 閏四月三日
(前略)夫より下船いたしガアンボル(ギヤンブルのこと)の處へ漸くに尋ね行候處、ソンデイにて客人有之、一刻相咄候て、夕刻七ツ時分迄寛談いたし、實に丁寧なる事にて、明日林方へ書状爲持候樣可致段承り候。西洋料理に我々上席にて馳走有之候。其後寺へ友朋と差越候、我々共は亭主はボイを連越六ツ過まで町など見物いたし、實に聞きしにまさり手廣に有之候。尤も異人の宅は長崎より比較すれば、大變有之、異國に差越候おもひをなし、立派に作りたり。少々の用事はボイに漢文を以て筆談いたし候(略)」
 というのが正名の上海上陸第一日の印象であるが、閏四月三日はまだ改元前の慶應四年である。林というのは何人か明らかにしないが、後續するところからみると、支那人で印刷工場の支配人か職長かとおもわれる。「我々共」というのは、たぶん協力者である正名の兄獻吉と高橋新吉の二人をふくんでいるのであろうが、當時ようやく廿三歳の青年正名の日記は、卅五歳の吟香のそれと比べるとき、西洋文化に對するおどろきがもつと率直でもありつよくもあつた。
 閏四月四日
(前略)一、書籍出版の有樣致談判候處、本書甚誤謬有之、且英字にて無之字過分有之候に付、自分誤を我々共に致相談しても可然候得共、中々閑暇無之に付、ウリヤムスと申者當地に罷居候に付、我々共を連越よく談判いたし候て可然候半と存候。此人は和語にも通じ候に付、旁々以都合宜敷と申事に候。明日林も同道、ウリヤムス處へ差越筋に取究置候。」
 正名らの辭書出版の目的が、海外留學の費用を得ようためであつたことも、前卷でみたとおりであるが、「前田正名自叙傳」中の一節に「——三人はいよいよ辭書の編纂に從事することとなりしも、何れもそれ丈の學力なければ、行徳(三字缺)といふ二人の學者を頼み、曾て幕府の編纂に成りし和蘭、英吉利の二つの辭書を骨子として」(「社會及國家」昭和十二年二月號、前田三介編)云々とあるように、それは開成所版堀達之助編の「英和對譯袖珍辭書」を改良したほどの原稿であつた。三人のうち、薩藩の洋學教授であつた高橋新吉など、當時長崎在住のフエルベツキにも親しく、英語に堪能と謂われているし、正名なども、九歳のときから和蘭語を學んでいたのであるけれど、ヘボンの弟子であつた吟香校正の「ヘボン辭書」にミスプリントが多かつたように、「辭書の編纂」ともなると「それ丈の學力な」かつたというのは、英語草創の時期として當然のことであつたろうか。また、文中にいう、つまりギヤンブルが、自分は忙しくて原稿の誤りを正しておられぬから、「ウリヤムスと申者當地に罷居」「此人は和語にも通」じているから紹介しようという「ウリヤムス」こそ、モリソン博士の息子、ペルリの黒船の通譯となつたロバート・ウイリヤムスであつた。
 そして、
「一、何千部出來可致哉と相尋に付、貳千四百部拵度段申述候處、可致段承り相當。
 一、壹部何ドル計の賦に候哉と尋候所、六ドル位と返答致候。何ケ月計にて可致成就相考候哉と尋候所、四五ケ月位にて是非仕度段申通候に付、其内には隨分成就可致段承り候、尤何分輕目に相成候可致に付算當の處は近日一先出版いたし候上、明白に可申通段承り候。右今日の談判にて候。」(前掲四月號所載)
 と、閏四月四日の日記がつずいていて、すぐ四月五日に、
「一、今日試に書籍活字植付方いたし候事」というのがみえる。つまり、見本ぐみをしてみないと、正確な値段も返辭出來ないというのであるが、五月五日に「大概枚數は七百枚位にて可相成候はんとガアンボル申候」とあり、ここでいう「枚」は「頁」のことらしいから、七百頁の辭書を、四五ケ月うちには充分本にまで出來ると、答えているわけであつた。四月五日に「試組み」にかかつたものの、翌六日には「一、今日より小の假名文字不足故活字拵方に付三七日相待候樣承り候事」とあつて、小の假名文字が不足で新鑄する間、三週間まつてくれというので、五月の朔日に「一、今日者一昨日活字植付方に相掛り候、少し惡敷(一字不明)然候故(一字不明)方抔いたし候事(三字不明)日本紙一枚丈相濟候、未だ出版無之」(前同)と、月末になつて整版がはじまつている。今日でも六册ものの印刷となれば、若干の日數は準備に要するのが普通だから、不思議はないが、正名たちはもはや日本文字の種字を書く必要はなかつたのだつた。「日本紙一枚丈」というのは、二頁だけ組めたものと考えられるが、「未だ出版無之」と書いた青年正名は洋式印刷術にも一々おどろいて、すぐつずけて「一、仕掛八枚丈無之候得ば、出版難成候事」とも書いている。これで當時の美華書館は八頁掛のシリンダー・プレスを使用していたこともあきらかになるし、八頁そろわねばゲラ刷りは出來ぬもんだと、正名は首を長くしているのだつた。
 吟香に劣らず正名たちも苦勞しなければならなかつた。ウイリアムスが「サツマ辭書」に手傳つたかどうか? 四月七日に「一、今朝ガアンボルのすすめによつて英人の漢學に通達した者の方へ同道差越候事」といい、以後はその漢學に通じたる英人ホエレーという名前ばかりが出てくるから、ウイリヤムスは都合惡かつたと思われる「一、三字前よりホエレーと申者漢學に達せし先生へ參り、字引改正いたし候事、尤も明日より其仁の宅へ差越、ウヱブストルになき語度々日記に書(き)相尋、尤も調音を正す筋に約束致候事」とか、「一、今日より別法を仕立書籍取しらべいたし候事、朝八字より十二字迄。二字半より五字半迄、夜七字より十字まで」(前同)などというのがある。正名たちの「サツマ辭書」印刷のための上海渡航は、一方で自身「サツマ辭書」を學ぶことでもあつた。「字」は「時」であつて晝夜兼行、しかも二十三才の青年は倦むことを知らず、五月二日の「ソンデイ」に「一、今七つ過より夕刻までガアムボルの誘引により西洋の寺に參り候事、男ともに百七八拾人に候乎、甚盛成事に候」(前同)などと無邪氣な印象もある。
「サツマ辭書」も「ヘボン辭書」と略ぼ同じく、約九ケ月で出來上つた。慶應四年閏四月三日に上海へ上陸した彼らは、大福帳型の和紙に木版で印刷した「英和對譯袖珍辭書」のかわりにハイカラな皮表紙の「サツマ辭書」をかかえて、明治二年二月神戸に上陸したのである。しかしその間、彼ら薩摩の脱藩青年たちも、上海に上陸してまもない四月廿一日に、故國では置縣制が布かれ、二年一月には薩長土肥が先んじて藩籍奉還するに至つて、とにかく身の始末をつけるために、五月の五日に「拾枚丈土産として差遣候事」と、拾頁のゲラ刷をもらつて中途歸國しており、十月に再渡するまで、約五ケ月間の不在もあるから、正味は「ヘボン辭書」よりずツと短期間であつたわけで、それだけ、上海美華書館の印刷能力も發展していたのであろう。
 このように、日本文字の電胎活字は上海で基礎をつくりつつあつた。すでにそれによる書物は日本に上陸していて、こころざしある當時の人々によつて重要な存在となつており、たとえば「ヘボン辭書」初版は忽ち賣切れ、定價の三四倍が市價となつていた。慶應四年閏四月創刊の「美國新聞紙」第六集(東京)は次のように書いている。「亞國ヘボンの英和對譯辭書成就せり、簡便確實にして且つ鮮明なり。英學に志ある諸君ハ坐右に置かずんばあるべからず、然れども多分にあらざれハ速に買はずんハ及はさるべし、横濱三十八番にて賣り出せり——。」木版で發行していた「美國新聞紙」の記者にも、洋式印刷のことはわからなくても「且つ鮮明なり」という文句は忘れることができなかつたのであろう。
 考えてみると、吟香の場合も、正名の場合も、英和字引であるということだつた。つまり日本の假名文字の電胎活字をつくらせた動機というものが、日本語とイギリス語の接しよくからはじまつたということだ。このことはまつたく意味ふかい。「江戸の活字」は、齊彬の意志によつて、オランダ語との接しよくにはじまつていること、前にみたとおりである。木村嘉平は、おどろくべき努力によつて、まつたく獨創的に電胎字母の漢字活字までつくりだしながら、ついに日本の活字の傳統となることができなかつたことの、意味の一面がここにある。嘉平の遺品には、前にみたように假名文字がなかつた。齊彬が死んでから、齊彬の意志をこえて、イギリス語とむすびつくことがなかつた事實を、「長崎の活字」の昌造と、くらべてみればわかる。昌造もオランダ語との接しよくから、はじまつたのだけれど、安政の開港前後からイギリス語にむすびつき、しかも彼が最初につくつた鉛活字は、四十八の片假名活字であつたということだ。オランダ語は、徳川期を通じて、唯一ともいつていいほど、日本とヨーロツパをつなぐ外國語であつたけれど、それは弘化四年、一八四七年の「開國勸告使節」オランダ軍艦の來訪までであつたといえよう。ヨーロツパからアジアへおしよせてくる新しい波の主人は、すでに變つていた。幕府の貿易船千歳丸が、そのセンター・マストをイギリス國旗でかざつていたことは、けつして氣まぐれではなかつたのだ。
 しかし、吟香も、正名も、永いこと、洋式印刷工場にちかく起きふししながら、電胎字母製法などを、まなびとることはしなかつた。吟香は、のち、いわゆる「支那浪人の元祖」みたいになつた人だが、眼は「毛唐人」をこえて、支那四百餘州ばかりにそそいでいたし、正名は、のち弘安となり、ヨーロツパの科學的農法をとりいれて、日本農業に功勞ある人となつたが、當時はひたすらに、「サツマ辭書」をつくつてもうけた金で、洋行することばかり考えていた。しかも、この頃長崎の昌造は、いろいろと苦心して、その電胎法をまなびとろうと試みながら、いまだにそれが出來ないでいたのである。
「——年來くわだてたりし活版製造の業を成就せしめん」と「資金五萬圓を出して、其の業に從事し、日夜、心を砕かれしかど、容易の業にあらざれば月日と費えを失ふのみにて、進退谷まり」(三谷幸吉、本木、平野詳傳)というのは、安政五年、一八五八年以後、慶應末年、一八六七年までのことで、前卷でみたように、昌造が、安政開港の談判に奔走したあげく、その「痛烈な開國論者」であつたため、安政二年から五年へかけて入獄したといわるる、その後のことである。またある時、「薩藩の儒者、重野鑛之丞氏(安釋)上海より活字を取よせ、印刷を試みたれど、その技に熟せず、庫中に積みおけり」というのをきいて「その機械及び活字を買受けたり。機械はワシントン・プレスにて、活字は和洋二種一組宛なりと云ふ。此を先生の宅に運び、門生陽其二と、日夜を分たす」「先生毎夜眠らず午餐を喫したる後、坐睡に止まるのみ」で、活字製法と印刷技法の習得に苦勞したが、なかなか成功せず「偶々米國の宣教師某、清國上海の地に美華書院と云ふを建て、ガラハニにて字型を製す」るとききこんで、早速、門人を「上海に遣わし、其術を視察せしめしが、彼れ深く其術を祕し」ているので「空しく歸國すること幾回なるを知らず」(前掲四九——五〇頁)というのであつた。殘念ながら、重野安釋が上海から活字を買つたのは何時か、また門人を上海にやつたのは何時か、この文章は、そのへんを少しも明らかにしていないけれど、薩藩の重野安釋が、上海から買いとつた印刷機具は、「ワシントン・プレス」はアメリカものだし、「和洋二種の活字」というのをふくめて、少なくとも美華書館印刷所が、電胎字母製法をはじめた、一八六一年、安政元年[#「一八六一年、安政元年」は底本のまま]以後のことでなければなるまい。
「——記録がのこつていないけれど、昌造翁が、門人を上海にやつたというのは、ほんとか知れませんね」
 ある日、芝白金三光町に、平野義太郎氏をたずねてゆくと、そういつた。おだやかなこの學者は、昌造の門人で、その後繼者であつた平野富二の孫にあたるのである。
「その頃になると、長崎と上海の往來は、いま記録にのこつてるよりも、何倍もひんぱんだつたらしいですからね」
 卓のうえには、私のために、祖父富二翁ののこした當時の日記や、短册や、いろんなものがひろげてある。大福帳型に、こくめいにしるされた筆文字をめくつてみても、そこから昌造の門人のうち、だれが、いつ、どういう風にして、美華書館へちかずいていつたかはわからない。わからなけれど[#「わからなけれど」は底本のまま]、つよい筆勢の、ところどころ片假名まじりの日記をみていると、古風なうちに、つよいハイカラさがあふれていて、當時の長崎と上海が、まじかにうかんでくる氣がする。——
 一八六六年までは、まだ鎖國であつた。しかも、記録にのこらぬような形で、上海、長崎の往來はひんぱんであつた。表むき、裏むきの形でも、藩を背景にした武士たちか、それでなければ、買われた女性、船の勞働者として名もない人々が、往來していたが、昌造はそのどつちでもないのだつた。彼は徳川期を通じて由緒ある「長崎通詞」の家柄でありながら、身分的には、足軽武士にも呼びすてられる「町方小者」に過ぎない。さらに、同じ、安政開港に奔走した同僚たち、たとえば森山多吉郎は外國奉行支配調役に、堀達之助は開成所教授に出世しているときに、彼は「揚り屋入り」をしなければならなかつたような事情が、自分みずからは、なかなか上海密航など、思いもよらぬ環境におかれて、ひとり身をもだえていたのであろう。