2009-04-01から1ヶ月間の記事一覧

四、pp.313-326

四 日露下田談判のときも、通詞昌造の活動はあまり明らかでない。榮之助改め多吉郎は、このときもはや末輩ながら幕府直參だから、その活動が主體的に記録に殘つてゐるが、同じ通詞としてこのときはたらいた堀達之助にくらべても表だつた記録が尠いやうだ。ペ…

三、pp.296-313

三「――西の海へさらりとけふの御用濟み、お早く歸りマシヨマシヨ」と、正月十六日の日記にかう書いた、「安政の開港」の立役者川路左衞門尉は、無事日本の面目を辱しめず、プーチヤチン使節を退帆せしめて同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の…

二、pp.281-296

二 さて、わが昌造はそのときどういふ風にはたらいたであらう? 殘念ながら私の探しもとめた資料のうちでは、まことに僅かである。一は三月三日付の條約主文の飜譯文、二は五月二十五日付の約束の日本品授受についてペルリ側よりの抗議文の飜譯文のそれぞれ…