世界文化連載分、十六

 アジアの、近代的な鑄造の漢字活字は、ペナンでうまれた。うんだ背景は、ヨーロッパの産業革命であり、うみだしたのは、新教プロテスタントの宣教師たちであつた。私は、「上海行日記」で、中牟田倉之助のハイカラなみやげもの、文久二年の上海版「上海新報」という新聞が、どんな活字であつたかを知ろうとして、安政五年の寧波版「中外新報」や、嘉永三年の香港版「遐邇貫珍」などに、ぶつつかり、かえつて途方にくれてしまつたけれど、ダイア活字の發見によつて、香港よりも、もつと南方で、しかも天保三年に、その源の、發生していることがわかつた。
 それで、それなら、ペナンの漢字活字は、その後、どういう風にして、南方から、支那本土へ、東漸していつたろうか? まず、ペナンから、マラツカ、廣東までいつた事情は、讀者も、前章のうちで理解できたと思う。ダイア自身が、ペナンからでて、英華學堂の印刷所を、監督經營することになつたからである。そして、その英華學堂が、こんどは、香港にひつこしたのである。溝口靖夫は「東洋文化史上における基督教」(三三五頁)で、いつている。「一八二二年六月二日、ミルンの歿後、その學院は、他の後繼者により、うけつがれたが、一八四二年、香港に移轉した。」——「學院」というのは「學堂」のことで、ミルンは、モリソンの協力者であり、「學堂」の經營責任者であつた。まだこの頃、學長ロバート・モリソンは生きているが、多くは布教にあたつていたのである。廣東での、モリソンの後繼者は、もと印刷工のメドハーストということになつているから、こゝにある「他の後繼者」というのが、私にはわからないけれど、上海時代まで活動しているメドハーストが、移轉した香港時代も、とにかく學長だか「經營責任者」だか、そのいずれかであつただろうし、英華學堂とともに、ダイア監督の印刷工場が、ともに香港へ、ひつこしただろうことは、うたがいない。
 つまり、一八四二年には、ペナンから香港まで、ダイア活字は、のぼつてきたが、大事なことが、廣東時代にある。アメリカ人ブリツヂマンが、一八三〇年、廣東へきて、「支那叢報」を創刊したことと、同じ一八三〇年に、ロバート・ウイリヤムスが、廣東へきたことである。ウイリヤムスは、モリソンの息子で、父親の意志により、「支那傳道の印刷者」になれるよう、幼いころから、ロンドンの印刷工場で、印刷術の修業をしていたのであつた。父親は、一人前の修業をつんだ忰をみてから、三年ばかりのち、死んでいるが、モリソンたちが、印刷術をどんなに重くみていたかがわかろう。モリソン及びウイリヤムス親子は、周知のように、日本の歴史にとつても、大事な人々であつた。ウイリヤムスは、のち、澳門の東印度會社經營の印刷工場も、監督しているが、「支那叢報」の創刊には、父親とともに、ブリツヂマンにとつて、大事な協力者であつた、と「東洋文化史上における基督教」は、かんたんだが、のべている。「支那叢報」は、もちろん、アルハベツトだから、ダイア活字が、直接には、どう關係したかわからぬけれど、メドハーストが、一八三五年、モリソンの歿後をうけて、廣東にきたときは、廣東の印刷所では、ちやんとした漢字の印刷物が、つくられていたことが、明らかになつている。たとえば、メドハーストが後年、思いでをのべた、前に引用した文章で、「阿片と宣教師の關係」は、「第五の困難」であつたが、「第三の困難」というのは、「漢字印刷物にたいする、支那官憲のあつぱくであつた。」(東洋文化史上における——三五九頁)といつていることでもわかる。そのころ、阿片戰爭がはじまるまえで、アルハベツト人種と、支那政府とのあいだは緊迫していた。廣東で出版する宣教師たちの、雜誌や本は、アルハベツトのものは許されても、漢字印刷物は、直接に支那人へ影響をあたえるとして、支那官憲は、きびしく取締つた。そのために、辛苦の末、やつと出來あがつている漢字の組版が、工場にふみこんできた、支那刑吏たちによつて、幾度も破かいされたり、不足の漢字活字を、木活字でうめようとして、街にもとめにゆくメドハーストらが、たびたび危害を加えられた、というのであるから、たとえ、不足の文字は、木活字でまにあわせたとしても、實際に、ダイア活字が、印刷物となつて、活動していた證據にはなる。
 そこで、ダイア活字が、廣東、香港へときて、しだいに發展、實用化されてきたが、さて、それからが私にわからない。ダイアは、一八四二年のこの年に、死んでいるが、上海へはどうしてのびていつたか? また、ダイア活字が、そのまま、未完成の形で、上海へ流れこんでいつたのか、どうか? もつとも、これを人間のうごき、宣教師たちのうごきだけでみれば、たとえば、前にみた宣教師であり、醫者であつた、ロンドン・ミツシヨナリー・ソサエテイ所屬のW・ロカートは、一八三八年、廣東にきて、一八四〇年には、英軍が占領していた舟山島に入り、翌々年、開港の第一日に、上海へ入つて、布教と醫療の活動をはじめている。おなじく醫者で宣教師のA・ホブソンも、一八三九年に澳門に着、まもなく廣東へきて、「支那叢報」創刊者のブリツヂマンと同居、上海へいつた年が、私にわからぬが、一八五六年にはW・ロカートの病院の後繼者となつて、「西醫略説」以下、二種の、鉛の漢字活字による書物を上海で發行している。つまり、人間のうごきでだけなら、印度・ペナン・マラツカ・シンガポール澳門・廣東・香港・上海と、ずツとまえからみてきたところで、明らかになるけれど、活字という、物の形ではわからない。一八五六年の、上海版「西醫略説」が、ダイア活字、そのままの發展か、どうか、わからぬのである。「支那叢報」の解説版も、九卷、十卷となつてくると、ほとんど阿片戰爭の記事ばかりで、ダイア活字の行衞は、わからなくなつている。
 私は、また、この關所にひつかかつたまま、昭和十八年の前半をすごしてしまわなければならなかつたが、ある日、思いがけなく、上海から手紙がきた。昭和十七年のくれにだした私の手紙、讀者からの質間にこたえて、「上海史話」の著者は、しんせつに回答してくれたばかりか、「滬上史談」という本を、一册そえて、おくつてくれたのであつた。「滬上史談」については、あとでのべるが、私はまず、手紙のあらましを、讀者に紹介しようと思う。手紙という形は、私的だけれど、中味は、著者から讀者へという性質であるから、「上海史話」の著者も、許してくれるだろう。——
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——漢字の金屬活字——外人による漢字の金屬活字の發明は、一八一五年、澳門の東印度會社事務所において、トムス(P.P.Thoms)が、モリソンの辭書印刷のため、成し遂げました。この辭書第一卷は、一八一七年出版。このための金屬活字は、その後澳門・マラツカ及びセラムポールの、三ケ所で使用されましたが、「支那叢報」記事にある通り、一八二七年、ペナンへきたダイア(Samuel, Dyer)の六ケ年の苦心、改良研究により一八三三年には、一萬四千字の字母が出來、小型のものも製造されはじめ、のち一八五九年コール(Richard, Cole)により、完成されました。
美華書館——(American[#「American」は底本では「Ameican」], Pressytesion, Mission, Press)は、一八四四年、アメリカのミツシヨンのローリイ(Water, Rowrie)が、パリでつくられた、漢字の字母をとりよせ、支那へむけて發送し、同年、コールを主任として、澳門に印刷所をおこさせたのに始まる。當所、Onr(?)がアメリカへ、つれてもどつた支那少年(A. yuk)に、印刷技術を教えこみ、この少年を、また澳門につれもどして、三百二十三個の字母で、作業を開始しました。印刷工二名、組版工一名の、小規模でしたが、翌年一八四五年には、寧波へ移轉して、擴張し、ダイアの活字をも採用。一八四八年には、一日平均一三・三一四1/2頁を、印刷するくらいになりました。一八五五年には、職工九名。
ギヤンブル——(William, Gamble)一八五九年に、來任して、改良型の字母や、印刷機をもたらし、翌年一八六〇年十二月、印刷所を上海に移轉して、擴充しました。當時“Electrotype, Faunding[#「Faunding」は底本のまま] of Matrics”を採用し、二種の新漢字活字をもち、日本文字の活字(小型)も、有していました。日本文字というのは、四十八の假名文字のことと思われます。
ギヤンブルは、アイルランド生れの米國移民、一八六九年、日本へきて、本木昌造に協力しました。其後、Sheffield, Scientibis, School 及び Yale callege から、A・Mの學位をおくられ、藥學の研究にも、從事したことがあり、パリでしばらく暮したこともあり、一八八六年頃、ペンシルバニアの某地で、死亡いたしました。
上海美華書館は、一八六二年、擴張移轉、シリンダープレスを採用、一年後、年産一千四百萬頁。ヘボン、吟香等は、一八六六年、上海に來り、美華書館で辭書を印刷。(別送「滬上史談」參照)印刷當時の動靜は、吟香の手紙(慶應三年正月廿三日附、川上冬崖宛)で、判ります。これは土方定一著「近代日本洋畫史」(昭和十六年)に全文あり(中略)
上海新報、文久二年、中牟田が買つてもどつた新聞は、字林洋行(ノース・チャイナ・ヘラルド社)發行の華文版で、これは一八六一年に創刊されました。主筆は林楽知(Young, L, Allen)一八七二年「申報」創刊、「上海新報」廢刊。(中畧)
美華書館史には(The Mission Press In China l895)という、小册子があります。日本文字についての記述は、きわめて僅少です(以下畧)——
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 以上、「上海史話」の著者からもらつた手紙のあらましが、私にとつて、どんなに有難いものであつたかは、讀者にも同感できるところだと思う。これで、私は最後の關所を、通ることができるのである。もつとも、この關所の通り方は、他人のうしろから、頬かむりして、すりぬけるようなもので、大手をふつて通る、通り方ではない。この手紙が明示し、或は暗示している、澤山のことがらの、枝葉まできわめるためには、おそらく、また相當の月日をついやさねばならないだろうけれど、しかし、現在の私にも、およそ、つぎの程度には、この手紙を消化できるというものだ。
 手紙のうちの、第一のこと、澳門、マラツカ及びセラムポールの三ケ所で使用せられた彫刻活字のことは、まえにたびたびのべたように、讀者もすぐわかるところのものだが、これがP・P・トムスという人によつてつくられたということが、新たに記憶さるべきことであつた。第二のダイアの活字が「一八三三年には、一萬四千の字母が出來、小型のものも製造されはじめ」云々は、まえにみた通り、「支那叢報」の記事が過大で、手紙も同樣である。第三は、非常に大きなことがらで、リチヤード・コールと、ウオーター・ローリイという人物の出現である。とりわけ、リチヤード・コールであると考えられるが、これが、いわば、ダイア活字との、つぎめであろう。「後、一八五九年、コールにより完成されました」という文句は、私にとつて、かんじんかなめのところだけれど、かんたん過ぎて、上海まで、大聲でどなりたい氣がするのである。
 しかし、あとにつずく文章で、まるでわからないことはない。一八四四年に、パリでつくつた漢字々母で、澳門に印刷所をおこし、三百二十三個の漢字で、仕事をはじめたが、翌年には、ダイア活字を採用している。パリ産の漢字々母と、ア・ヨークという、アメリカ名前しかわからない支那少年印刷工と、その何年以前かに、この支那少年を、アメリカへつれていつた Onr という、手紙の字をいくらみても、Oとnとrとしかよめない、私にわからぬ、たぶんアメリカ人らしい人物などの、つまり、ダイアをイギリス系統とすれば、これはアメリカ系統の、漢字印刷努力の集積が、ここで結合したということである。
 コールの「完成」は一八五九年というから、イギリス系統とアメリカ系統の結合の、一八四五年から十五年めということになるが、具體的には、何を指すか? 手紙にあるように、電胎法字母は、まだこの後であるから、彫刻による字母、大小ともに、フオントのそろつた、そして少くとも、ダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」が示す、漢字の種類を完成したことをいうのだろう。そして、それをそうさせた力は、支那少年ア・ヨークにみるような、支那人と、マラツカの英華學堂以來、記録のはしばしにみる日本人漂民の、つまり漢字人種印刷工の參加と、たまたま、ここへあらわれたような「パリで作られた漢字の字母」のような、ヨーロツパや、アメリカ本國の、科學技術の授助であつた。ダイアのつくつた漢字々母と、パリ産の漢字々母のいずれが、すぐれていたか、私に知る由もないけれど、ヨーロツパの印刷技術が、アジアの文字を消化しようとしていたことは、前卷でみたように、嘉永末年頃、一八五一、二年頃、本木昌造が、日本長崎から、はるばるオランダへ、日本文字(漢字および假名)の種書をおくつている例でもわかる。つまり、電胎法なしには、ほとんど不可能な、日本では、江戸の嘉平も、長崎の昌造も、さじを投げた。彫刻字母、パンチによる漢字活字が、ここではヨーロツパや、前卷でみたような、フランクリン以來の、世界印刷術中興の祖というべき、アメリカの技術にささえられて、一應の成功をなしとげたのであつた。寧波版「中外新報」にみるような活字、字ずらの不ぞろい、線のそぼくさは、一とめでわかるほどながら、それは木版や、木活字とくらべるとき、格段の、金屬的鮮明さと、近代的強度をもつものとして、成功したのであつた。
 第四は、日本の活字にとつて、最も歴史的な美華書館の歴史と、アメリカ人宣教師ウイリヤム・ギヤムブルの素性が明らかになつたことであつた。さらに第五は、一八六〇年に、“Electrhotype[#「Electrhotype」は底本のまま], Founding of Matrices”つまり、電胎字母を採用したことと、一八六二年に、アジアではじめて、シリンダー・プレスを採用したことであつた。電氣分解による字母製法は、漢字活字製法に、一切の解決を與えた、歴史的なものであるけれど、シリンダー・プレスの採用も、印刷歴史にとつて、革命的なものであつた。廻轉動力は、人間の手、ガス、石炭などを經て、電動機となるまでは、日本でも、この以後、半世紀をついやしているけれど、廻轉胴による印刷法は、アジアでは「ばれん」でこする式、西洋では葡萄しぼりのあつさく式から、完全に、機械的に解放されたものであつた。つまり、一八三九年完成したフアラデーの法則は、一八六〇年に、一八二〇年ごろ、ドイツ人フリードリツヒ・ケーニツヒの發明したシリンダー・プレスは、一八六二年に、漢字印刷の歴史に登場したのであつた。
 そして最後に、第六は、ダイア活字が、アメリカ系統と結合して、香港から寧波へ、寧波から上海へと、東へ、東へと、すすんでいつた足どりが、とにもかく、明らかとなつたことであつた。ペナンでうまれたダイア活字は、上海の美華書館へ、とつながつている。文久二年、一八六二年の上海版、中牟田倉之助の「上海新報」は、あきらかに電胎活字であることが出來、そこにはダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」が、生きているのであつた。
 そこで、當然、私はリチヤード・コールという人物について、述べねばなるまい。いまや、私の頭には、P・P・トムスや、ウオータア・ローリイをのぞいても、ダイア——コール——ギヤンブル——昌造——富二と、不連續線が、できあがつてしまつている。時間的には、一八一五年、文化十二年から、一八七一年、明治四年にいたる、空間的には、ペナンから、東京にいたる、日本近代活字のコースである。ところが、コールなる人物について、私は何も知らない。たぶん、アメリカ人で、イギリス系だとしても、アメリカ傳道協會にぞくする人物には、ちがいない、くらいしかわからない。私は、百科辭典にもでていないコールについて、何によつて知ればよいか、また、支那少年ア・ヨークを、アメリカへつれていつたという、發音のわからない“Onr”という人物について、教えてもらいたいと、「上海史話」の著者に、また手紙をかかねばならなかつた。そして、さいわいに、二度めの手紙が、つゝがなく先方について、「上海史話」の著者の好意が、再び、私のところへもどつてくる日、あらためて、讀者への責を果たそうと、思うのであるが、飛行便にすることのできなかつた、二度めの手紙の返事は、一年たつても、まだ返事がこない。これを下書きしている現在は、昭和十九年十月である。すでに東支那海も、アメリカ潜航艇の手の中にあるし、B29が日本々土の上空を、しばしばおとずれる、きようこのごろ、手紙ばかりか、「上海史話」の著者も、私自身も、無事であることが出來るだろうか?
 さて、しかし、ここまでくれば、誰しも氣がつくことであろうと思うが、ペナンでうまれて、廣東、香港までせりあがつたダイア活字がこんどは一擧に、寧波、上海へと、せきをやぶつたように進出したのは、阿片戰爭によるイギリスの勝利の、直接影響ということであつた。英華學堂の香港移轉が、一八四二年、美華書館の寧波移轉が、一八四五年、そして上海の入口、舟山島で待機していたW・ロカートの上海入りが、一八四二年、上海開港の第一日であつた、ことを思えば足りよう。支那政府の、阿片密輸への抵抗が、一八三九年、以來、イギリス艦隊の舟山列島占據となり、上海城攻畧となつて、一八四二年、南京條約成立までの「阿片戰爭」とあだ名される支那とイギリスの戰爭が、どんな性質のものであつたかは、讀者周知のところであろう。南京條約の中味は、香港の割讓であり、上海、寧波以下、三港の、アルハベツト人への解放であつた。
 阿片戰爭は、「竹の大砲」が、「鋼鐵の大砲」にうちやぶられねばならぬ戰爭であつた。同時に、「阿片」と「大砲」を懷中にいれた「平等主義」の布告文さえ、支那民衆にとつては、新らしい思想をもたらした戰爭であつた。岩塊と熱病ばいきんの巣でしかなかつた香港島に、近代的な砲臺と港がきずかれ、有史以來の鎖港であつた上海は、「歐羅波諸邦之商船、軍艦數千艘碇泊」うんぬんと、高杉晋作が感嘆したところの、東洋第一の開港場となつた。アルハベツトと一緒に、懷中時計が、寫眞機が、ピストルが、「テレガラフ」が、汽車が、ながれこんできた。楊子江[#「楊子江」は底本のまま]の上流には、四億の支那庶民が住んでおり、海上七百キロのむこうには、まだ開かれざる「處女日本」があつた。「新しい不斷に擴大される市場」を、もとめてやまぬヨーロツパの「不斷に増大する生産の慾望と力」とは、うなりをあげて殺到してきたのであつたが、その最も先頭をすすんだのが、「神の前には萬人平等なり」という、新教プロテスタント宣教師と、アルハベツトおよび漢字の活字だつたのである。