世界文化連載分、十九

 しかしまた、上海で、岸田吟香が片假名の種字をつくつて、日本文字活字をふたたび誕生させたということは、一方からみると、けつして偶然ではなかつた。周知のように、吟香は元治元年にジヨゼフ彦(濱田彦太郎)らと“新聞紙”を發行した。「新聞」と名ずけたものには、これよりさき文久二年に開成所教授、さきにペルリ來航當時通詞として活動した昌造の同僚堀達之助らによつて編輯されていた「官板バタビヤ新聞」や「海外新聞」などがあつたけれど、これはそれぞれに一册の書物であり、外國の新聞から抄譯したものを、時間の制限なしに、刊行され書店から發賣されたものであつた。しかし吟香の“新聞紙”はリーフレットである。月に「三四回」ずつ發行されて勿論日刊でも週刊でもなかつたが、それは能うかぎり早く、しかも講讀者を予約して配達されたものであつたという點で、日本で一番最初に、新聞の性質に近ずいた新聞であつた。
「予が“新聞紙”を刊行したるは元治元年にして、之を刊行せんと企てたるは、曾て横濱に在てドクトル・ヘボン氏と共に和英對譯辭書を編纂する頃、ジヨゼフ彦といふ者と相往來したる時にあり。——一日彦藏予等と語りて曰く、米國には新聞紙といふ者あり。專ら世間の珍しき事及び日日の出來事などを書き集め、之を世間に公布するにありと。——即ち彦藏は西洋新聞を飜譯し、予と本間氏とはこれを平かな交りの日本文に綴りたり。さればその頃は活字等一切なければ、予ら自ら版下をかきて木版に刻し、半紙五六枚にて、單に「新聞紙」と名づけ、月に三四回づつ刊行して、自ら横濱市中に配達したり云々。」と、吟香は「明治事物起原」所載「朝野記者に語りし新聞實歴談」の一節に語つている。
 いわば漂流民ジヨゼフ彦の知識を通じた摸倣であるが、こういう社會的要素は、すでに當時の日本に醸成しつつあつたのであろう。ことに文中「これを平かな交りの日本文に綴り」と云々は、吟香の新らしい平民的思想を示すものであり、新聞を創ろうとする思想とつながるものにちがいない。私は未だに“新聞紙”を見たことがないけれど、吟香が明治元年二度めに起した「横濱新報もしほ草」の文章は(後でみるところだが)當時の他の新聞に比べても、圖ぬけて假名の多い文章であるが、それは吟香がアルハベツトに親しんだところから生れた觀念というよりは、もつと新聞がその對象とするような大衆的なもの、平民的なものが、彼の身うちに思想として成長していたからであろう。逆にいえば、そういう彼の觀念こそが“新聞紙”を摸倣させたかも知れない。そしてそういう彼が「その頃は活字など一切なければ」「自ら版下をかきて木版に刻」さねばならなかつたし「自ら横演市中を配達」せねばならなかつたということは、當然「新聞」がもつ時間的制約とまだ機械化されない當時の日本印刷術との矛盾に突き當つたことであつた。「新聞」を印刷するに適當な紙製法が發達していたならば「半紙五六枚」を綴じあわせないで、大判の一枚刷りとしたであろう。金屬活字や印刷機が出來ていたらば「版下を書」いたり「木版に刻」んだりしないで、フランクリンの如く、しかも日刊が出來たであろう。したがつて吟香らの「月に三四回」の“新聞紙”は、當時にあつては最大限度のものであつたといえる。
 したがつて「姜先生と申人はあめりか人にてぎやんぶると申しますが、此人美華書館の主人(七八字不明)至てこころやすくいたしますが、活字版屋の事故もとよりそればかりが(六七字不明)至て(二三字不明)い人なり。日本へいて片カナ平がな活字板をすることをしたいと(十五六字不明)開成所(十字程不明)おたのみになりますれば(十六字程不明)ますがいかがでございましよう。ヘボンこちらにゐるうちに相談になりますれば熟談(五六字不明)ございますから、よくお考へなされて下さいまし。」(土方定一「近代日本洋畫史」二一——二二頁)というのは、吟香が慶應三年正月、上海から日本の川上冬崖あてに書き送つた書翰の一節であつて、彼の金屬や活字や印刷術に對する關心がここにあらわれているのも自然であつた。
 書簡の文章は殘念にも(不明)が多いが、大意を判ずるには充分だ。「ぎやんぶる」はギヤムブルであり、「日本へいて片カナ平がな活字板をつくることををしへたい」というとき、それは前章からみてきたところでも明らかなように、電胎字母をふくむ活字の製法であつた。周知のように川上冬崖は明治洋畫の開拓者であり、「開成所」が「蕃書調所」といつた頃からの役人であつたから、吟香は友人の冬崖を通じて、官板ものなど主として出版している開成所へ、日本活字の製法傳授を斡旋したわけである。元治元年に改正された「開成所稽古規則覺書」によると「和蘭學、英吉利學、佛蘭西學、獨乙學、魯西亞學、天文學、地理學、窮理學、數學、物産學、精錬學、器械學、畫學、活字」(文部省編「維新史」第四卷三三三——三三四頁)という科目の列擧があつて、活字もその一科目となつていたのだから、至極當然であるが、しかし吟香の、この斡旋がどう經過したかは、今日も明らかではない。前卷でみたように開成所には萬延元年大鳥圭介によつて發行された「斯氏築城典刑」の彫刻鉛活字などの印刷傳統があつた筈であるが、おそらく、この頃慶應三年から明治元年へかけての、國内的變革期にあつては、幕府役人であつた書翰の受取人も、また開成所自身も平和的な事業に手をつける餘裕がなかつたのであろうか。
 さて岸田吟香が、ヘボン博士夫妻に伴われて上海にきた一八六六年十月頃の美華書館はどんなところで、どれほどの印刷能力を有したか、またどういうふうに整版され、吟香自身どういうふうにはたらいたろうか? 殘念ながら、私は吟香の上海日記ぜんたいをみる機會を末だに[#「末だに」は底本のまま]もつことが出來ない。
「なにさま、印刷場は寺の下にあつたということだ。吟香らは二階に住んでな、うむ」
 昭和十八年の二月、ある寒い日の午後、まだ在世中だつた「明治事物起原」の著者を、下谷にたずねていつたことがある。ひどく無人な家であるが、うすくらい二階で、研堂老人は私にいつた。
「——ひどくきりつめた生活でな、言語は通ぜんし、不便だつたという話だつた」
 こたつに背をまるくしながら、抑揚のない、ひくい聲で、こんなふうにかたる。この人には、私のたずねる岸田吟香のことが、まだ「歴史」ではないのだつた。私が上野の圖書館で讀んでいる「明治事物起原」は、手あかでよごれた革表紙の、カード番號も、2とか3とかいう、もう古い本なのに、この人は、その時代を、今日に生きているのであつた。人間にとつて、なんと、その鑄りつけられた「歴史」はおもいものであろう。
「うむ、まあ、どうやら、この冬も越せるか、と思つている——」
ヘボン辭書」から「サツマ辭書」の話もしてくれながら、そんなこともいつた。前田正名のことでは、このあとに紹介するような文章ののつている雜誌を、室いつぱいにつみあげてある書物のうちから、さがしてくれるために、まがつた腰をおこして、たんねんにかたずけはじめた。それは一ととぢの雜誌類をもちあげるのでも、たいへんな努力であつたが、私がそばから手傳うのも許さないような、いつこくさがあつた。
「ああ、きみは『太陽のない街』を、かいたんだね」
 こたつにもどつて、まだ呼吸をはずませていたが、もう皈るころになつてから、研堂老人がいつた。私はうれしくなつて、あいてをみると、こんどは咳きこんで、老人はこたつぶとんに顏をふせているのだつた。
「どうれで[#「どうれで」は底本のまま]、きいたような、名だとおもつた——」
 しかし、石井研堂氏は、とうとう、その「冬が越せ」なかつた。岸田吟香のことを、じかに話せる人は亡くなつた。——
「寺」というのは教會のことで、「寺の下」というのは、或は地下室のことかも知れない。教會のことを「寺」とは高杉も日記にそう書いてるし、前田正名の日記にもあり、「寺」でキリスト教徒たちが祈祷をするさまも書いてあるから、疑がいなかろう。また「上海史話」の口繪にある安田老山筆の當時の上海風景には、河岸に沿うて林立する、數階建の西洋家屋があるから、きつと禮拜堂につながる洋家屋の一部分に印刷工場があつたと想像出來るし、その場所は「當時の小東門外にあ」つたと「滬上史談」の著者は書いている。
 次に日本文字混じりの「ヘボン辭書」が、毎日どれくらい整版されたか?、吟香はどんな風にはたらいたか? を知るためには「滬上史談」に面白い記事がある。それはこの著者が一八七三年三月二十日(明治六年)のノース・チャイナ・ヘラルド紙から、ブラムゼンという人が「ヘボン辭書」に誤植や見落しが非常に多いという批評を加えたについて當時の美華書館主マテイーア(ギャムブルの後任)という人が、印刷者としての責任上から答えている、その文章を飜譯したものだ。
「本紙十三日號に和英語林集成に對する批評が出た以上、同書印刷當時の事情を發表するのが正しいと思ふ。著者ヘボン博士は自ら全部の校正を見られた。從つて印刷上の間違ひでも、その他どのやうな間違ひでも、その責任はヘボン博士にあつて美華書館にはない。ヘボン博士の校正は次のやうな事情でなされた。この校正を開始するとすぐ博士の日本語教師は去つて了つた。そしてその代理の者は辭書が完成するまで働いたが、ほんの小僧程度で、從つて甚だ正確とは申し難い。博士はこの印刷中ずツと病氣で、非常に惡いために事務所に來る事が出來ず、校正刷を博士の部屋に送つた事が數回あつた。ヘボン夫人の校正に盡した功は貴重なものであるが、夫人も亦病氣で香港へ靜養旅行に行かねばならなかつた。この本は一日八頁の割で上梓されたので、若し博士が完全に健康であり、あらゆる便宜を持つて居られたなら、この不完全な書を完全にするのに、大繁忙であつたらうと思ふ。このやうな不利益な點を考慮すれば、本紙に現れた批評中に指摘された以上にひどい誤がなければ結構だとしなければならぬ。ゼイ・エル・マテイーア」(前掲二七頁)
 この文章は全體として印刷者が責任からのがれる爲に強辯しているの傾きがあり、罪の多くを「小僧」吟香に押しつけ過ぎている嫌いもあるが、何にしても一日八頁の割合で校了にまでしたとすれば、ヘボン博士夫妻が病氣だとすると、一人の校正者では、明らかに無理であつた。「サツマ辭書」から察しても活字は大きいが、菊判の辭書ものとなれば今日でも大變だ。沖田氏も書いている。
「右のやうにヘボン夫妻共病氣であつたので、仕事の大部分は吟香に掛つて來た。よなべまでしなければならぬ程忙しかつた。」そして「小僧」とあしらわれた吟香は「どれほどヘボンから月給を貰つて居つたかと云ふと、月僅に十弗であつた。五十仙出せば鶏卵が百個あり、牛肉一封度五仙半、魚一封度七仙と云ふやうな物價安の時ではあつたが、月給の半分は食べるものに要つて了ひ、殘金ではどうすることも出來なかつた。」(前掲二七頁)というのである。
 吟香が「小僧」であつたかなかつたか?、吟香はこのとき卅五歳であるが、四十前後とおもわれる頃の、彼の洋服姿の寫眞をみると、頬骨の張つたふとりじしで、眉根のけわしい、毛むくじやらの顏であつた。しかも、この日本最初の完全な形をもつた、日本にはじめて英語というものの大衆的傳統をつくつた和英辭書が、吟香の協力なしには出來上らなかつたのだ、という事實一つで充分な答になるだろうと、私は考えるが、とにかく、當時の美華書館印刷所は、本業の傳道書印刷のかたわらに、菊判の辭書八頁を一日平均に生産する能力があり、そのうち半分のスペースをうずめるだけの日本文字活字があつたことがわかる。
 さらにこれより一年後に「サツマ辭書」を印刷した、當時の前田正名の日記(前田三介「社會及國家」昭和十二年四月號所載「上海日記」)にみると、
 閏四月三日
(前略)夫より下船いたしガアンボル(ギヤンブルのこと)の處へ漸くに尋ね行候處、ソンデイにて客人有之、一刻相咄候て、夕刻七ツ時分迄寛談いたし、實に丁寧なる事にて、明日林方へ書状爲持候樣可致段承り候。西洋料理に我々上席にて馳走有之候。其後寺へ友朋と差越候、我々共は亭主はボイを連越六ツ過まで町など見物いたし、實に聞きしにまさり手廣に有之候。尤も異人の宅は長崎より比較すれば、大變有之、異國に差越候おもひをなし、立派に作りたり。少々の用事はボイに漢文を以て筆談いたし候(略)」
 というのが正名の上海上陸第一日の印象であるが、閏四月三日はまだ改元前の慶應四年である。林というのは何人か明らかにしないが、後續するところからみると、支那人で印刷工場の支配人か職長かとおもわれる。「我々共」というのは、たぶん協力者である正名の兄獻吉と高橋新吉の二人をふくんでいるのであろうが、當時ようやく廿三歳の青年正名の日記は、卅五歳の吟香のそれと比べるとき、西洋文化に對するおどろきがもつと率直でもありつよくもあつた。
 閏四月四日
(前略)一、書籍出版の有樣致談判候處、本書甚誤謬有之、且英字にて無之字過分有之候に付、自分誤を我々共に致相談しても可然候得共、中々閑暇無之に付、ウリヤムスと申者當地に罷居候に付、我々共を連越よく談判いたし候て可然候半と存候。此人は和語にも通じ候に付、旁々以都合宜敷と申事に候。明日林も同道、ウリヤムス處へ差越筋に取究置候。」
 正名らの辭書出版の目的が、海外留學の費用を得ようためであつたことも、前卷でみたとおりであるが、「前田正名自叙傳」中の一節に「——三人はいよいよ辭書の編纂に從事することとなりしも、何れもそれ丈の學力なければ、行徳(三字缺)といふ二人の學者を頼み、曾て幕府の編纂に成りし和蘭、英吉利の二つの辭書を骨子として」(「社會及國家」昭和十二年二月號、前田三介編)云々とあるように、それは開成所版堀達之助編の「英和對譯袖珍辭書」を改良したほどの原稿であつた。三人のうち、薩藩の洋學教授であつた高橋新吉など、當時長崎在住のフエルベツキにも親しく、英語に堪能と謂われているし、正名なども、九歳のときから和蘭語を學んでいたのであるけれど、ヘボンの弟子であつた吟香校正の「ヘボン辭書」にミスプリントが多かつたように、「辭書の編纂」ともなると「それ丈の學力な」かつたというのは、英語草創の時期として當然のことであつたろうか。また、文中にいう、つまりギヤンブルが、自分は忙しくて原稿の誤りを正しておられぬから、「ウリヤムスと申者當地に罷居」「此人は和語にも通」じているから紹介しようという「ウリヤムス」こそ、モリソン博士の息子、ペルリの黒船の通譯となつたロバート・ウイリヤムスであつた。
 そして、
「一、何千部出來可致哉と相尋に付、貳千四百部拵度段申述候處、可致段承り相當。
 一、壹部何ドル計の賦に候哉と尋候所、六ドル位と返答致候。何ケ月計にて可致成就相考候哉と尋候所、四五ケ月位にて是非仕度段申通候に付、其内には隨分成就可致段承り候、尤何分輕目に相成候可致に付算當の處は近日一先出版いたし候上、明白に可申通段承り候。右今日の談判にて候。」(前掲四月號所載)
 と、閏四月四日の日記がつずいていて、すぐ四月五日に、
「一、今日試に書籍活字植付方いたし候事」というのがみえる。つまり、見本ぐみをしてみないと、正確な値段も返辭出來ないというのであるが、五月五日に「大概枚數は七百枚位にて可相成候はんとガアンボル申候」とあり、ここでいう「枚」は「頁」のことらしいから、七百頁の辭書を、四五ケ月うちには充分本にまで出來ると、答えているわけであつた。四月五日に「試組み」にかかつたものの、翌六日には「一、今日より小の假名文字不足故活字拵方に付三七日相待候樣承り候事」とあつて、小の假名文字が不足で新鑄する間、三週間まつてくれというので、五月の朔日に「一、今日者一昨日活字植付方に相掛り候、少し惡敷(一字不明)然候故(一字不明)方抔いたし候事(三字不明)日本紙一枚丈相濟候、未だ出版無之」(前同)と、月末になつて整版がはじまつている。今日でも六册ものの印刷となれば、若干の日數は準備に要するのが普通だから、不思議はないが、正名たちはもはや日本文字の種字を書く必要はなかつたのだつた。「日本紙一枚丈」というのは、二頁だけ組めたものと考えられるが、「未だ出版無之」と書いた青年正名は洋式印刷術にも一々おどろいて、すぐつずけて「一、仕掛八枚丈無之候得ば、出版難成候事」とも書いている。これで當時の美華書館は八頁掛のシリンダー・プレスを使用していたこともあきらかになるし、八頁そろわねばゲラ刷りは出來ぬもんだと、正名は首を長くしているのだつた。
 吟香に劣らず正名たちも苦勞しなければならなかつた。ウイリアムスが「サツマ辭書」に手傳つたかどうか? 四月七日に「一、今朝ガアンボルのすすめによつて英人の漢學に通達した者の方へ同道差越候事」といい、以後はその漢學に通じたる英人ホエレーという名前ばかりが出てくるから、ウイリヤムスは都合惡かつたと思われる「一、三字前よりホエレーと申者漢學に達せし先生へ參り、字引改正いたし候事、尤も明日より其仁の宅へ差越、ウヱブストルになき語度々日記に書(き)相尋、尤も調音を正す筋に約束致候事」とか、「一、今日より別法を仕立書籍取しらべいたし候事、朝八字より十二字迄。二字半より五字半迄、夜七字より十字まで」(前同)などというのがある。正名たちの「サツマ辭書」印刷のための上海渡航は、一方で自身「サツマ辭書」を學ぶことでもあつた。「字」は「時」であつて晝夜兼行、しかも二十三才の青年は倦むことを知らず、五月二日の「ソンデイ」に「一、今七つ過より夕刻までガアムボルの誘引により西洋の寺に參り候事、男ともに百七八拾人に候乎、甚盛成事に候」(前同)などと無邪氣な印象もある。
「サツマ辭書」も「ヘボン辭書」と略ぼ同じく、約九ケ月で出來上つた。慶應四年閏四月三日に上海へ上陸した彼らは、大福帳型の和紙に木版で印刷した「英和對譯袖珍辭書」のかわりにハイカラな皮表紙の「サツマ辭書」をかかえて、明治二年二月神戸に上陸したのである。しかしその間、彼ら薩摩の脱藩青年たちも、上海に上陸してまもない四月廿一日に、故國では置縣制が布かれ、二年一月には薩長土肥が先んじて藩籍奉還するに至つて、とにかく身の始末をつけるために、五月の五日に「拾枚丈土産として差遣候事」と、拾頁のゲラ刷をもらつて中途歸國しており、十月に再渡するまで、約五ケ月間の不在もあるから、正味は「ヘボン辭書」よりずツと短期間であつたわけで、それだけ、上海美華書館の印刷能力も發展していたのであろう。
 このように、日本文字の電胎活字は上海で基礎をつくりつつあつた。すでにそれによる書物は日本に上陸していて、こころざしある當時の人々によつて重要な存在となつており、たとえば「ヘボン辭書」初版は忽ち賣切れ、定價の三四倍が市價となつていた。慶應四年閏四月創刊の「美國新聞紙」第六集(東京)は次のように書いている。「亞國ヘボンの英和對譯辭書成就せり、簡便確實にして且つ鮮明なり。英學に志ある諸君ハ坐右に置かずんばあるべからず、然れども多分にあらざれハ速に買はずんハ及はさるべし、横濱三十八番にて賣り出せり——。」木版で發行していた「美國新聞紙」の記者にも、洋式印刷のことはわからなくても「且つ鮮明なり」という文句は忘れることができなかつたのであろう。
 考えてみると、吟香の場合も、正名の場合も、英和字引であるということだつた。つまり日本の假名文字の電胎活字をつくらせた動機というものが、日本語とイギリス語の接しよくからはじまつたということだ。このことはまつたく意味ふかい。「江戸の活字」は、齊彬の意志によつて、オランダ語との接しよくにはじまつていること、前にみたとおりである。木村嘉平は、おどろくべき努力によつて、まつたく獨創的に電胎字母の漢字活字までつくりだしながら、ついに日本の活字の傳統となることができなかつたことの、意味の一面がここにある。嘉平の遺品には、前にみたように假名文字がなかつた。齊彬が死んでから、齊彬の意志をこえて、イギリス語とむすびつくことがなかつた事實を、「長崎の活字」の昌造と、くらべてみればわかる。昌造もオランダ語との接しよくから、はじまつたのだけれど、安政の開港前後からイギリス語にむすびつき、しかも彼が最初につくつた鉛活字は、四十八の片假名活字であつたということだ。オランダ語は、徳川期を通じて、唯一ともいつていいほど、日本とヨーロツパをつなぐ外國語であつたけれど、それは弘化四年、一八四七年の「開國勸告使節」オランダ軍艦の來訪までであつたといえよう。ヨーロツパからアジアへおしよせてくる新しい波の主人は、すでに變つていた。幕府の貿易船千歳丸が、そのセンター・マストをイギリス國旗でかざつていたことは、けつして氣まぐれではなかつたのだ。
 しかし、吟香も、正名も、永いこと、洋式印刷工場にちかく起きふししながら、電胎字母製法などを、まなびとることはしなかつた。吟香は、のち、いわゆる「支那浪人の元祖」みたいになつた人だが、眼は「毛唐人」をこえて、支那四百餘州ばかりにそそいでいたし、正名は、のち弘安となり、ヨーロツパの科學的農法をとりいれて、日本農業に功勞ある人となつたが、當時はひたすらに、「サツマ辭書」をつくつてもうけた金で、洋行することばかり考えていた。しかも、この頃長崎の昌造は、いろいろと苦心して、その電胎法をまなびとろうと試みながら、いまだにそれが出來ないでいたのである。
「——年來くわだてたりし活版製造の業を成就せしめん」と「資金五萬圓を出して、其の業に從事し、日夜、心を砕かれしかど、容易の業にあらざれば月日と費えを失ふのみにて、進退谷まり」(三谷幸吉、本木、平野詳傳)というのは、安政五年、一八五八年以後、慶應末年、一八六七年までのことで、前卷でみたように、昌造が、安政開港の談判に奔走したあげく、その「痛烈な開國論者」であつたため、安政二年から五年へかけて入獄したといわるる、その後のことである。またある時、「薩藩の儒者、重野鑛之丞氏(安釋)上海より活字を取よせ、印刷を試みたれど、その技に熟せず、庫中に積みおけり」というのをきいて「その機械及び活字を買受けたり。機械はワシントン・プレスにて、活字は和洋二種一組宛なりと云ふ。此を先生の宅に運び、門生陽其二と、日夜を分たす」「先生毎夜眠らず午餐を喫したる後、坐睡に止まるのみ」で、活字製法と印刷技法の習得に苦勞したが、なかなか成功せず「偶々米國の宣教師某、清國上海の地に美華書院と云ふを建て、ガラハニにて字型を製す」るとききこんで、早速、門人を「上海に遣わし、其術を視察せしめしが、彼れ深く其術を祕し」ているので「空しく歸國すること幾回なるを知らず」(前掲四九——五〇頁)というのであつた。殘念ながら、重野安釋が上海から活字を買つたのは何時か、また門人を上海にやつたのは何時か、この文章は、そのへんを少しも明らかにしていないけれど、薩藩の重野安釋が、上海から買いとつた印刷機具は、「ワシントン・プレス」はアメリカものだし、「和洋二種の活字」というのをふくめて、少なくとも美華書館印刷所が、電胎字母製法をはじめた、一八六一年、安政元年[#「一八六一年、安政元年」は底本のまま]以後のことでなければなるまい。
「——記録がのこつていないけれど、昌造翁が、門人を上海にやつたというのは、ほんとか知れませんね」
 ある日、芝白金三光町に、平野義太郎氏をたずねてゆくと、そういつた。おだやかなこの學者は、昌造の門人で、その後繼者であつた平野富二の孫にあたるのである。
「その頃になると、長崎と上海の往來は、いま記録にのこつてるよりも、何倍もひんぱんだつたらしいですからね」
 卓のうえには、私のために、祖父富二翁ののこした當時の日記や、短册や、いろんなものがひろげてある。大福帳型に、こくめいにしるされた筆文字をめくつてみても、そこから昌造の門人のうち、だれが、いつ、どういう風にして、美華書館へちかずいていつたかはわからない。わからなけれど[#「わからなけれど」は底本のまま]、つよい筆勢の、ところどころ片假名まじりの日記をみていると、古風なうちに、つよいハイカラさがあふれていて、當時の長崎と上海が、まじかにうかんでくる氣がする。——
 一八六六年までは、まだ鎖國であつた。しかも、記録にのこらぬような形で、上海、長崎の往來はひんぱんであつた。表むき、裏むきの形でも、藩を背景にした武士たちか、それでなければ、買われた女性、船の勞働者として名もない人々が、往來していたが、昌造はそのどつちでもないのだつた。彼は徳川期を通じて由緒ある「長崎通詞」の家柄でありながら、身分的には、足軽武士にも呼びすてられる「町方小者」に過ぎない。さらに、同じ、安政開港に奔走した同僚たち、たとえば森山多吉郎は外國奉行支配調役に、堀達之助は開成所教授に出世しているときに、彼は「揚り屋入り」をしなければならなかつたような事情が、自分みずからは、なかなか上海密航など、思いもよらぬ環境におかれて、ひとり身をもだえていたのであろう。




世界文化連載分、十八

 ほんとに、活字は活字だけで、獨立に成長することはできなかつた。ダイア――コール――ギヤムブルと、ペナンから上海まで、のぼつてきた近代漢字活字も、それから、日本に渡るまで二十年も、電胎字母活字になつてからでさえ十年も、そこで足ぶみしているのであつた。
 活字が日本に渡るには、ほかの條件が必要であつた。そして、そのほかの條件のうち、もつとも大きなものは、やはり文久二年、一八六二年の、日本幕府が、はじめてやつた貿易船千歳丸の、上海入港であつたろう。開港後からは二十年め、ゴンチヤロフの上海からは、九年めにあたるが、長崎からは海上七百キロそこらの地點で、日ごとに成長しつつあつた近代文明から、二たむかしの間も、かく離していることのできた鎖國の力は、幕府おとろえたりとはいうものの、おどろくべきものがあつたといえる。しかしまた、一方からいうと、この二十年こそが、家光以來、二百餘年の鎖國傳統をうちやぶつたのでもあつた。「上海」で、支那の領土に立札をたてたアルハベツト人種を、痛烈に批難したゴンチヤロフ自身が、じつはプーチヤチンの祕書であり、「六十斤砲を撫しながら」長崎や、大阪や、江戸をおとづれて、日本の土臺石をゆすぶつた、役者の一人だつたではないか。
「日本はこのたび、日進月歩の今の時勢に全く應はしく、一の興味ある觀物を商界に展示した。日本國旗を掲げた英國製帆船の、過日の上海入港は、それだけでも甚だ注目に値する事件である。ところが更に、この船は、同國政府の手で買上げられた官有船であるばかりでなく、海外貿易の目的の下に、同國の特産物や製造品を積んで來てゐるといふことが判つた。これは、この特異な國民の排外國策の上に、全く新しい光りを投げかけるものである。――」
 と、いう文句は、千歳丸の上海到着後五日め、一八六二年六月七日付の「字林西報」(ノース・チヤイナ・ヘラルド)紙が、トツプにかかげた社説の書き出し(前掲「上海史話」一二七頁より孫引)だそうであるが、まつたくこの三本マスト三五八噸の、前檣にオランダ國旗、中檣にイギリス國旗、そして、後檣に日本國旗をかかげた奇妙な船こそが、そのまま江戸期開國のシンボルとなつているといえる。
 しかし、この最初の貿易船千歳丸上海入港がどんなに大きな意味をもつかは、明治維新史の研究が深まるにつれて、益々史家の強調するところだ。經濟的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは、積荷をそのまま持ち戻る羽目にもなつたけれど、オランダの役人につれられて、各國の領事たちに逢つたり、諸外國人の活動ぶりを見てびつくりした。たとえばこれを便乘者高杉一人の場合にみても明らかである。
「五月廿日、朝中牟田と亞米利加商館に至る。商人の名はチヤルス、專ら二人を通して、その居室に至る。(中略)中牟田英語を解し、談話分明す。奇問を聞きて、益を得ること少からず、予チヤルスに謂つて曰く、弟近日英書を讀めるも、未だ人と談ずるを得ず。日夜勉強し、他日再逢のとき兄と能く談ずるを得んと欲す。チヤルス曰く、再逢の日、弟また兄と能く其邦語を解せんと欲す。乃ち禮を告げて去り」云々と「游清五録」の一節に自分で記したのを、決して單純な外國人同志のお世辭とだけ解してはならない。「五月廿一日(中略)支那は盡く外國人の便役たり。英佛の人街市を歩行すれば、清人皆傍らに避け、道を讓る。實に上海の地は、支那に屬すと雖も、英佛の屬地と謂ふも、また可なり。(中略)我が邦人と雖も心を須ひざるべけんや。支那のことにはあらざるなり。」と、すぐその翌日に記したとき、アルハベツト人種の文明におどろけば、おどろくほど、「中華帝國號」がレールのうえをはしるのをみて、手をたたいてよろこんだ支那民衆とはちがつた、日本の支配者武士的、領主的な感情でうけとられているのがわかる。その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が、領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して、海外貿易を營なんだ急角度の轉回も、從つて「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、この時の千歳丸便乘によつて、彼が、上海で感得したものによるところ、甚だ多いといわれている。
 一八六〇年代の上海は、アジアにおける近代文明の中心地であつた。「日本の幕末文化は上海から吸收したと云はれます程で、當時は上海が主、日本、長崎は從の位置にあつたのであります。」とさえ「滬上史談」の著者沖田一氏は書いてゐる。福澤諭吉など、ごく少數の人間が、いたつて窮迫した政治的性質の、萬延元年の遣米使節、または文久元年の遣歐使節などに随行して、産業資本主義時代の華やかなヨーロツパ文化に、じかに觸れえたような機會をのぞけば、上海はその唯一のものであつた。第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や、五代や、濱松藩の名倉豫可人などあつたが、第二回の健順丸のときは、前卷でなじみの昌造の同僚で、長崎通詞安政開港に功勞のあつた森山多吉郎、さきの榮之助がいまは外國奉行支配調役として乘り組んでいたし、第三回め、慶應三年の同じく幕府船ガンヂス號のときは、佐倉藩士高橋作之助(のちの由一)ら、多數があり、たび重なるにつれて、上海渡航者の數は急速に増えていつた。ことに第三回めのときは、同じ日に横濱を出帆したフランス船アルヘー號に、パリの萬國博覽會へ派遣される幕府代表者徳川昭武の一行、箕作貞一郎や澁澤榮一、博覽會出品人日本代表清水卯三郎など、多數が寄港したために、上海の街には、開港以來、はじめて澤山の日本人が見られたという。
 また、官船以外の密航者、或いは藩所有の船修理と稱して渡航する者もたくさんあつた。たとえば長州藩の伊藤俊助、柳川藩の曾我祐準、熊本藩の竹添進一郎、藝州藩の小林六郎や長尾治策、薩藩の上野景範、さては中濱萬次郎を案内にたてて、汽船を買に來た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は、「きびす相ついで」いるが、これを千歳丸からガンヂズ號までの、乘くんだ顏ぶれにみてゆけば、最初は薩摩、長州、佐賀などの大藩の武士であつたものが、しだいに中小の藩士にも及んできているのがわかる。もちろん、渡航に便利な長崎に近いという地理的事情も影響しているようだが、それよりは「明治維新」の大きな動力となつた大藩ほど、より先んじていることはいうまでもない。
 そして、藩の大小にかかわらず、彼らの多くが武器の買い入れにきたのも、もちろんであつた。幕末艦船、銃砲などの輸入港は、おもに長崎、横濱、兵庫などになつているけれど、幕府を先頭として各藩競爭の勢いであつたから、しぜん上海まで押しだしたのだともいわれる。山口和雄氏の「幕末貿易史」によると、たとえば艦船だけをみても、安政元年から慶應三年までの購入百十一隻、そのうちの三分の一が幕府で、三分の二が薩、長、土を先頭とする各藩の買入れであつた。日本で最初のものといわれる、土佐侯の命令で、本木昌造がつくつた蒸汽船模型も軍艦であつたように、近代日本の貿易のはじまりは武器ばかり買つている。それでも千歳丸以來、元治、慶應と、上海往來も、四五年も經過してくると、いくらか毛色が變つてきた。たとえば、元治元年に上海へ來た美濃の人で安田老山という畫家や、畫家で英語に堪能、のち香港に移つて日本漂民の世話をした八戸喜三郎、越後の畫家で長井雲坪など、「上海史話」や「滬上史談」にあげてあるが、美作の人で日本新聞史上に元祖として知られる岸田吟香や、前卷でみた「サツマ辭書」編纂者の一人、薩摩の前田正名なども、幕末いわゆる「上海へ洋行」した人々であつて、前者は慶應二年の一八六六年、後者は慶應四年の一八六八年であつた。
 そして吟香と、正名の上海渡航が、ダイア活字の後身であるガムブルの電胎活字が、上海から長崎へ渡來するため水先案内として、歴史的な意味をもつものであつた。吟香も正名も、それぞれに獨立に行動しているし、ギヤムブルと昌造を結びつける、直接の機縁とはなつていないのだけれど、それは上海にあつてはじめて日本文字、つまりこの場合片假名の電胎活字を作らせ、日本人自身の意志によつて使用したというほどの事實だけれども、日本印刷史上、充分に頁を占めるほどの事柄であつた。同時にまた、文久二年以來日本人の上海往來としてみれば、その多くが大小藩の直接間接の政治的經濟的使命をおびて渡航する者であつたり、個人的な場合にも、それが至つてロマンチツクな畫家文人の漂泊であつたのにくらべると、これはだいぶ毛色が變つて、文化的な性質をもつていた。吟香は武士でもなければ、いわゆる文人墨客でもなかつた。前田は薩摩の藩士であつたが、脱藩以後は扶知をはなれた一青年でしかなく、しかもいわゆる「志士」とちがつて、なんの背景ももつていなかつた。周知のように、前者はヘボン博士の助手として、「ヘボン辭書」印刷のためであり、後者は同じ和英對譯「サツマ辭書」印刷のためであつて、こと前卷でみたように後者の方は、浪々の青年らが菊判一千頁にちかい大辭書を、その發刊の理想から本の出來ばえ、經濟上の損得一切を自己の一身にかけて、とにかく成就させたということが、古えの陀羅尼經以來にみる破天荒の大仕事だつたのである。
 つまり、幕末の上海渡航も、吟香、正名らに至つて、高杉らのそれと比べるときは、わずか四五年の差でありながら、急速な質的變化があるわけであつたが、しかしいずれにもしろ、記録にみる當時の上海在住の日本人は少數で、たとえば次のような岸田の上海日記にみても容子がわかる。
「廿一日(慶應三年三月)、ひるから、きんきへいて見るに、弘光、明日、香港へいくとて、したくしてゐる。曾我彌一といふ人がきてゐる。きのふ逢た。處々あるいてきたさうだが、香港で日本の三味線をひいてゐるのを見たといふ。(以下略)」
「廿四日、てんき、おほよし、よつじぶんにぶらりと出て、どこへいかうかとおもひながら、河岸を南へすた/\あるくに、ふと軋位佛の招牌を見て、此間、弘光のいふた事をおもひ出して、このうちへたちよつて、日本人がゐるかといへばゐますとて、支那奴が案内してくれて、はじめて曾我準造にあふ。いろ/\はなしをしておもしろし。梁川の藩中の人なり。――」
 弘光は八戸善三郎のことで、「準造」は曽我祐準のこと、前記したように祐準は、イギリス商船に乘りくんでカルカツタまでいつたが、海軍志願の彼には商船では面白くなく、ふたたび上海へ引返したときのことであつた。もともと幕府は、自らは千歳丸などを仕たてて、最初の上海貿易をやつたが、一般に海外渡航を免許したのは慶應二年のことであつた。高杉や五代やが幕府役人の從者や人夫に化けたりして、千歳丸に便乘したのは有名な話だけれど、慶應になつてからでも、曾我祐準が、英商ガラバの斡旋で商船に乘りこむためには、柳河藩から扶知離れした形式をとらねばならなかつたし、熊本藩の竹添進一郎など、表向きには「漂流」といふことになつていた。
 しかし、ここで大切なことは、上海の文化を日本の長崎や横濱に導びいた人々が、記録にも明らかな以上の人たちだけではなかつたということである。それは、長崎にもどれば奉行の手によつて、暗らい所に入れられねばならぬ、たくさんの漂流民、それから外人や支那人に買われた多くの男女、或いは密航者たちであつて、表向きにも裏向きにも、藩とか幕府とかの庇護も何にもない人々が、記録にのこるよすがもないままに、文化の歴史をすすめる大きな土臺石になつていただろうということである。そういう人々は、きつと吟香の日記にみるような、何の某がどこそこの旅館にいるという存り方ではなかつたであろうし、記録にないものは叙述のしようもないけれど、たとえば明治元年、つまり慶應四年、一八六八年の上海に「田代屋」という長崎出の日本商人があつて、日本婦女子のための小間物を賣つていたと「滬上史談」(九二頁)は書いているから、その買手たるべき日本婦人が何人か何十人か、少くとも慶應四年以前から在住していたことは確かである。また工部局墓地にはたくさんの日本人墓碑があつて、それらのうちには、アメリカ飛脚船乘組員茂助、利七外三人によつて「江戸淺草材木町徳助、相州小田原在天坪村七之丞」二人の靈のために「明治四辛未六月建之」というのもあるし、外人墓地にも澤山の日本女性の墓石が混つている。たとえば「マリヤ・ハシモトの靈に獻ぐ、一九一一年十月九日歿、行年七十三歳と英文で認めて、下方に漢字で「麥理海細麥多」和歌山縣日高郡御坊東町橋本仕歿明治四十四年十月九日」というのがあり、「安らかに眠り給へ、セレツザ・マリヤ・ド・ジーサスの靈に獻ぐ、一九〇九年六月廿五日歿とポルトガル語で認め、主の司る幸福なる死、とラテン語で書加へてある。下方には漢字で、明治肆十貳年、島谷カネ長崎人第陸月念伍日死ス」というのがあり「カキガワ・パリサーの靈に獻ぐ、一八九六年三月二日歿、行年四十七歳、我らの愛する唯一の母は永遠に眠れり、怖れを知らぬ天に登りて永遠に祝福されぬ、逝けど忘る能はず、と全部英文で綴つ」(前掲八七頁)」たのやがあるという。カキガワ・パリサーの碑は、彼女の毛色眼色のちがつた愛兒たちによつて建立されたのだろうか。セレツザ・マリヤ・ド・ジーサスは死歿年齢が明らかでないけれどマリヤ・ハシモトは行年七十三歳というのだから、明治四十四年としても、彼女がかつて若く美しかつた日に、外國人に伴われて海を渡つたのだとするならば、或は幕府の千歳丸よりはるかに以前だつたか知れない。さらにまた一八七〇年明治三年の工部局人口統計では、當時の上海在住日本人合計二十九名、そのうち二十二名までが「船員」となつているそうで、女性は一名もないという。これは上海における日本女性のありかたか[#「ありかたか」は底本のまま]特殊だつたろうことを示すと同時に、男性でもその大部分が「船員」だつたということは、この統計の正確さ不正確さは一應べつとして、吟香の日記にみるような日本人のあり方でないところの日本人が、相當多數だつたことを物語るものだと考えられる。
 淺草材木町の徳助、小田原在天坪村の七之丞が船乘りだつたろうことは、その建立者たちによつても想像できるところだが、記録に殘つている漂流民、屋張[#「屋張」は底本のまま]の音吉そのほかも當時の上海に生存している筈であつた。彼らがたまたま記録にのこつた機縁は、たとえば天保六年、一八三五年、前卷でみたように「モリソン號」で送還されようとしたからで、屋張[#「屋張」は底本のまま]の船乘り音吉、久吉、岩吉ほか數人、また肥後の漁民庄藏、壽三郎、力松など、「モリソン號」にからまる政治的焦點の、餘映に照らしだされたからに過ぎない。ことに音吉は一八五四年、安政元年、イギリス軍艦に通辯として乘くみ長崎に來て、當時の蘭學書生福澤諭吉と對面していたり、肥後の力松は一八五五年、安政二年、露土戰爭の餘波で、プーチヤチンの艦隊を追撃してきたイギリス軍艦が、凾館へ侵入したとき、艦付き通辯として幕府役人との通辯に當つていることが「大日本古文書卷十」に記録されたりしている。九州天草生れ、十三歳のとき漂流、片假名の日本語を示して通辯した日本人「通辯リキ」と書かれている。
 漂流民の多くが故國に歸れなかつたことは「じやがたら文章」以來有名なところであつた。肥後の力松連中も、尾張の音吉の連中も、遂に戀しい日本へ戻された形跡はない。モリソン號で追い戻された音吉は、安政元年、再度長崎へきたとき、「其中の一人は、同じく日本語にて肴買ひたし、金は澤山ありといひしかば、賣る肴はなしと答へしに、私は日本尾張國の御米船に乘り組みたる者にて、十六歳のとき漂流し、漸く七年前、薩摩まで連れ渡されたれど、命に係はると申し聞かされて、據ろなく、イギリス國へ歸れり。宗門所詰の妻の十八歳なるがある外、島原にも懇ろなる者一人ありしと咄し」(「滬上史談」九八頁)たという。この音吉は、のちに外國人を妻とし、上海に住んでいて、文久二年、一八六二年、中牟田倉五助[#「倉五助」は底本のまま]が人ずてにきいて訪ねていつたが、あいにく會うことが出來なかつたと、「中牟田倉之助傳」は傳えている。
 漂流民についての研究は、史學の間でもまだ未開拓の分野だとされているそうだが、田保橋潔氏の「幕末海外關係史」には、たとえば岩吉、音吉の一行は太平洋上に漂ようこと十四ケ月、カナダ、コロンビア州の沿岸クインシヤイロツト島に漂着して、アメリカインデヤンの手に落ちていたが、アメリカ商船によつて救出された。この頃イギリス及びアメリカは、そのほかフイリツピンや、南洋諸島に漂着した日本人を收容し、新教宣教師の手にあずけて、マカオや香港あたり轉々させたという容子が記してある。これらの漂流民が、みんなでどれほどの數であり、どんか名前だつたか、もちろんわかりようもないが、私はここでフツとおもいだす。前に述べた新教宣教師で、のち上海で活動していることを「オブロモフ」の著者によつて消息されたメドハーストの世界最初の「和英語彙」が、當時マラツカにあつた英華學堂内の、日本人勞働者二人の協力によつて出來たということである。
 もちろん「二人の日本人勞働者」が音吉たちであるかどうかはわからない。音吉たちの漂流は天保二年、一八三一年で、「和英語彙」が一八三三年の發行であるから、そして「和英語彙」が「支那叢報」のブツクレビユにみるような素朴な單語集にすぎないとすれば、時間的には無理がないけれど、よし、それが音吉らであろうと、ほかの日本漂民であろうと、事の本質の重要さに變りはないわけだ。メドハーストより二三年遲れて、支那へまたドイツ人ギユツツラフも「日本語はマカオで漂流民からギユツツラフが先づ學び、後にウイリアムスも習つた。ウイリアムスの廣東『支那叢報』印刷所には日本人が二名ゐたらしく思はれます。」と、前掲「上海史話」の著者からの手紙の一節にあるし、またほかにも、ギユツツラフに日本語を教えたのは音吉、久吉の二人だという説がある。しかしいずれにもしろ、日本をおとずれて、渡邊華山や高野長英に、命がけの文章をかかせ、鎖國日本をおしゆすぶつた「平和の使節」といわれる「モリソン號」の、導びきとなつたのがギユツツラフの「日本語」であり、「ペルリの艦隊」「嘉永の黒船」の通譯が、ウイリアムスの「日本語」であつたのをみるとき、それが誰だつたにもしろ、日本漂流民の功績が、歴史の大きな齒車の一つとなつていることを否むことは出來ないだろう。
 廣東の「支那叢報」印刷所にいた日本人が、マラツカの英華學堂印刷所にいた「二人の日本人勞働者」と同一かどうか、私にはわからない。またメドハーストの「和英語彙」の日本文字がどんなものであつたか、木彫か、金屬彫刻か知るよしもない。しかし前掲「上海史話」の著者は手紙の一節で、コールの後任ギヤンブルが來任してから、「――一八六〇年十二月印刷所を上海に移轉して擴充し」たとき「二種の新漢字活字を有し、日本文の活字(小型)も有してゐました。日本文字といふのは四十八文字の假名活字のことと思はれます。」と書いているとき、私はそれを自然に肯定することが出來るのである。岸田吟香が「ヘボン辭書」の印刷に當つて日本文字の種字を書いて、金屬活字を作らせたという事實は日本印刷史上有名で、たとえば、後年吟香は追憶して「岸田吟香氏の朝野記者に語りし新聞實歴談」(石井研堂著「明治事物起原」)の一節はいつている。「當時上海に美華、墨海の二活版所あり、共に耶蘇宣教師が漢文聖書を印刷して布教に資するものなり、さて印刷せんとするに方りて、この活版所に、日本かな字の無き不都合に逢ひ、予自ら平かな片かなの細字(五號)版下を書き、之を黄楊に刻ませて、字母を作り、活字を鑄造せしめたるが、我邦の假名字を以て、鉛活字となせるは、蓋しこれが嚆矢ならんか。」ところが、これは吟香が知らないので、黄楊に木彫したことは、電胎法字母をつくることができた證據であるし、かなの鉛活字の傳統は、前卷以來みたところ、すでに昌造の「蘭話通辯」があるし、英華學堂でつくられた「日本勞働者」のそれによるものはもつと古い。しかし、私が岩崎克己氏の家でみた「サツマ辭書」の片假名活字の字形はなるほどりつぱであつた。「ヘボン辭書」と同一のものを使つたという、この片假名は、しよせん「尾張の音[#「音」は底本のまま]」や「通辯リキ」などに書ける文字ではないけれど、それにしても、金くぎ流の文字で、たぶんは、めつたに使われることもないままに、不揃ひにもなつた何本か、何十本かの片假名活字が、マラツカ以來、廣東、香港、寧波、上海と、轉々しつつ、工場のすみつこに埃りをあびていただろう、その歴史こそ貴重であつたと思うのである。


世界文化連載分、十七

 阿片戰爭によつて割讓された香港と、ヴエールが剥ぎとられた上海とが、一八四二年以後を、どう變化していつたか?
「——香港島そのものの地勢を見廻して見給へ。諸君の眼は、點々と緑草の入つた代赭色の山に惹きつけられるだらう、丁度繪の懸つた壁を見るやうに。この山の麓の海岸には家が群がつて、人家の間からはまるで見せかけのやうに芭蕉の葉の叢が覗いてゐる。——その代りに砂と石とは全く夥しいものである。イギリス人達はこの材料を使ひこなしたのだ。山の頂上にも、石造の獨立家屋や、地均らしのすんだ敷地が見えるだらう。人間の勞力と技術は、絶壁の上まで伸びてゐるのだ。海岸通りの壯麗な邸宅を眺めてゐると、この山の未來の姿が自然と想像に浮んで來る。支那人たちは一八四二年の南京條約によつて、花かをる舟山列島の代りに、この不毛の岩石をイギリス人に讓渡したときには、紅毛の夷狄共が、この岩石をどうするのか夢にも考へなかつた。況んや彼等支那人自ら自分の手でこの岩石を切り出して、自分の首にかついで壁や胸墻に組み上げ、大砲を据ゑつけようなどとは全く夢にも考へなかつたのである……」
 ロシヤの作家ゴンチヤロフが「日本渡航記」にこう書いたのは一八五三年の六月だから、阿片戰爭後ちようど十年めだ。曽我祐準が、砲台をみあげて「轉た感慨に堪へず」と日記に書いた慶應二年からは、十三年前である。阿片戰爭の前年、一八四一年に、スエズ運河が開通して、地中海を近廻りしてくるイギリスの手は、この岩塊を團子のように捏ねあげて、都市にしてしまつた。最初の二年間に、港が築かれ軍艦と商船が碇泊した。英國政府が支出する、一八五五年までの、毎年の行政費は、二萬磅であつたが、軍事費は、その十倍の二十萬磅であつたという。
 しかし、この熱病の巣である岩塊が「極東に於ける商業上の重鎮」となるためには、「一八四二年には、香港停泊中の軍艦アギンコートの乘組員が、半數まで死亡」し、「一八四三年には、駐屯軍一千五百二十六名の、一年内入院度數七千八百九十二回、即ち平均一人入院各五回以上に及び、一隊の兵士約七、八百名中、二十一ケ月内に死亡者二百五十七名を算」(「上海史話」二七六頁)えねばならなかつたし、物貨の貿易が不振なときは、代つて「人間の貿易」をもしなければならなかつたのである。カリフオルニヤと濠洲で、金鑛が發見されて、海外移民の需要がさかんになつたとき、「支那の法律の及ばぬ地點で募集して、ここから積み送ることは出來」たところの香港からの「一八五三年の移民總數は、一萬三千五百九人」にのぼり、「ハバナへ向つた二萬四千人のうち、五千五百人すなはち總數の二二%以上が、中途で病死」(同、二八二頁)しなければならなかつたのである。
 そして一八六六年には、香港住民の死亡率が二%にくだり、一八四五年に、香港へ入港した商船の數一六八隻が、一八六八年には、二七、五〇〇隻に上昇し、「香港の發展は、實に地勢の關係による。その港灣は許多の船隻を停泊せしむることが出來、同時に商業は頻る[#「頻る」は底本のまま]安全自由であり、且つ如何なる關税も課せられず、汽船による運輸は、香港をその樞軸としてゐる。氣候の方面も、人工的改良によつて、頻る[#「頻る」は底本のまま]よくなつた。これら種々のものが、香港をして商業の中心地たらしめ、歐米、印度及び支那の貨物を、すべてここに集中せしめるのである。」(同、二八五頁)と、一八六三年に、イギリスの一商務官が、報告中に香港の繁榮を謳歌するに至つたが、「香港の發展は、實に地勢の關係による」というとき、イギリス人の頭には、石塊と熱病の巣そのものが眼中にあるのではなくて、支那海の咽喉くびをしめている、アジアの國々、島々にむかつてひらかれた、巨大な砲台と、港の位置をいうのであつたろう。
 そこで、イギリス自身は決してしやべらない一八五三年當時の香港島を、いま一度、ゴンチヤロフに語らせてみよう。「——ヴイクトリア市はなるほど一本の通りしかない。然しこの通りには家らしいものは殆んど一軒もないのだ。前に「家」といつたが、それは誤りで、ここにあるのはどれもこれも宮殿で、その台石は海の水に浸つているのだ。これらの宮殿のバルコニーやヴヱランダは海に面し」てゐるのだつたが、「二つの住宅地から出來」てゐる支那街の方は「その一つは小舟を住み家とし、今一つは小さな棲み家である。その家はぎつしりとかたまつて、海岸一杯にへばりつき、中には海に打ちこんだ杭の上に建て」たものであつた。そして、この山の未來を誤りなく想像することの出來たロシアの作家は、當時の支那人がどう働いていたかをも見のがさなかつたのである。「支那町を一渡り——歩いて、私達は丘に登つた。丘は丁度この邊で人工的に切り拔いて滑らかな絶壁となつてゐた。ここには新道が出來ることになつてゐた。そこには一聯隊程の勞働者が集つて、土を掘つたり、石を切つたり、塵芥を運んだりしてゐた。それは全部ポルトガルの植民地たる澳門から來た移民である。イギリス人達がここで植民を目論んで、一聲呼聲をあげたかと思ふと、澳門は殆んどがら空きになつてしまつた。仕事が、つまり食と金が、三萬人からの支那人を此處へ誘つたのである。彼等は澳門で貧乏しているよりも、此處で無限の勞働と無盡藏の賃銀を取つた方がよいと思つたのだ。彼らは、最初の間猖獗を極めた傳染性の熱病にもおどろかなかつた。彼らはイギリスの指導を受けて、土地を整理し乾燥させた。——」(前掲「日本渡航記」井上滿譯)
 それでは一つ、開港後の上海はどうであつたろう? 南京條約成立の最初の年に、イギリス人は二十五人しかいなかつた。彼らはみな上海城内に住んでいたが、將來の發展をみこして、城外の土地を買いつけた。その値段が一畝あたり五十錢から八十錢であつた。
 一八四五年になつて、上海道台と初代英領事との間に、土地章程がきめられて、上海最初の外人租借地が出來た。當時の面積は八百三十畝であつたが、一八四八年には、一躍二千八百二十畝となり、この擴張要求を貫徹したのが、二代目領事であり、のち、日本へきて初代駐日公使となつた、「吾人は不斷に新しく擴大される市場を——」云々のぬし、オールコツクであつた。
 一八四六年には、アメリカが、一八四八年には、フランスが、というふうに、上海は、たちまちアルハベツトの聲におゝわれていつた。開港翌年、八、五八四噸が、五年後には、五二、四七四噸の、ヨーロツパ船が入港するようになり、そして輸入品の五分の三までが、あいかわらず阿片であつた。「イギリス人に開かれた五港の一つである上海——が、現在如何に輝かしい役割を演じてゐるか、又將來演ずるであらうかといふことを結論することは出來ない。現在でも上海はその巨大な貿易高において、カルカツタに次いで、この界隈第一位を占め、香港、廣東、シドニーの名聲を蔽うてゐる。それが全く阿片のためだ! 支那人は阿片の代りに茶も、絹も——汗も、血も、エネルギーも、知識も、全生命も拂つてゐるのだ。イギリス人とアメリカ人はそれを全部平然として取り上げて——顏も赧らめずにこの非難を甘受してゐる。——上海に着く十六浬手前の呉淞には——阿片船が一艦隊となつて碇泊してゐる。——この阿片船は荷物を卸すばかりである。——この商賣は支那政府によつて禁止されてをり、呪はれてさへゐるのだが、力を伴はぬ呪咀など問題にならぬのだ。——」と、同じヨーロツパ人のゴンチヤロフが痛烈に書いた。
 この偉大なる作家が、上海に上陸したのは、一八五三年の十一月で、香港を訪れてから五カ月めである。上海に關する外國人の紀行文が、どれくらいあるか、私にわからぬけれど、「オブロモフ」の著者であるゴンチヤロフの名譽にかけて、私は、「日本渡航記」の一部「上海」を信用するのであるが、このロシヤ作家のうしろについて、しばらく當時の上海風景をみてゆこう。「上海に近づくに從つて、河は目立つて活氣を呈して來た。木の繊維や皮で作つた例の赤紫の帆をかけた戎克が絶え間なく行違つた。支那の戎克は構造はいくらか日本の小舟に似てゐるが、あの艪の切込みがないだけだ。」前卷でみたように、この作家は、長崎で、傳馬船の艪の構造を一と眼みて、當時の日本の封建的性格を指摘したのであつた。「そら上海が見え出した。——立派なヨーロツパ風の建築物、金色燦爛たる禮拜堂、プロテスタント派の教會、公園——さう云つたものが全部まだぼんやりした塊になつて、まるで教會が水の上に建つてゐて、船が街路の上に浮んでゐる樣に見え」る朝方の風景のなかを上陸して、「私は眼を皿のやうにして支那を探し」ながら、やがて市内に入つた。そして、市内を一巡したとき、もうこの作家は、はつきりと、當時の支那人の生活ぶりから、この民族の特徴的性格が、新らしいヨーロツパ人たちと、どう觸れあつてるかを描寫してしまつたのである。——
支那人は活動的な民族である。仕事をしてない人間は殆んどない。その騒音、混雜、動き、叫び、話聲。一歩毎に擔き人夫に出合ふ。彼等は規則正しい叫びをあげて調子を取りながら、大股に走るやうに荷物を搬んでゐる。——從順で謙遜で非常に身綺麗である。こんな人夫となら出會つても恐ろしくはない。例の規則正しい叫び聲をたてて警告を發する。——もし相手が聽き入れなかつたり、道を讓らうとしないなら、こちらで立停つて道を讓るのである。」そして「數名の支那人が家の戸口のところで夕食を食つてゐ」る上海郊外では「二本の箸を使つて敏捷に茶碗から口の中へ飯をかきこんで、いつまでも詰めこんでゐたものだから、私達が『請々《チンチン》!』(今日は)と挨拶しても、返事が出來ないで、愛想よく頭を下げるばかりであつた。」という支那農民について「だがこの惡臭や、哀れな窮乏ぶりや、泥濘があるにもかかはらず、農業上、村内經營上の些細な點に至るまで、支那人の知識と、秩序と、几張面[#「几張面」は底本のまま]さを認めざるを得なかつた。——どんな物でも投げやりにしないで、十分考へて用に使つてある。すべてが仕上げ濟みであり、完成されてゐる。無雜作に、所構はずに捨てられたものは藁の小束一つ見えないのだ。倒れたままの垣根とか、畑の中をうろついてゐる羊や牛といふやうなものもない。——ここではどんな木片でも、小石でも、芥でも、必らずそれぞれの使途があり、用に供せられるやうに思はれる。——」と。
 ゴンチヤロフのこの觀察は、アジア人である私らがみるとき、逆にいえば、それは當時のロシヤ人氣質を裏寫しにしているようなものだけれど、これ以上のすぐれた觀察は、恐らく一世紀後の今日にも無いであろう。そして勤勉で、從順で、几帳面で、しかも「哀れな窮乏ぶり」の、當時の支那人はヨーロツパの新らしい主人たちをどういう眼でみたか?「私達は部落と離れて遊歩道に出た。これは乘馬用として、又散歩道として、ヨーロツパ人のために割いた郊外の一地帶である。——私達は競馬場に出た。上海の男女ヨーロツパ人がそこで行つたり來たり馬を乘り廻してゐた。イギリスから輸入した優秀なアングロ種の馬を飛ばす者もあれば、小さな支那馬に乘る者もある。無蓋馬車に乘つて一家族が來るかと思ふと、牧師の細君と思はれるレデイを、二本の竹竿に鐵製の椅子を置いて四人の支那人が擔いでゐるのもあつた。數名の歩行者、船の士官、それに私達が觀客を作つてゐた。いや皆が登場人物となつてゐたのだ。本當の觀客は都市、農村の平和な住人であり、一日の仕事を終つた支那の商人や農民であつた。そこにはいろいろな服裝が入りまじつてゐた。商人の絹の上衣や廣幅のズボン、農夫の青い長着や——この群衆が文字通り手をこまぬいて、しかも好奇心をもつて、外國人を見まもつてゐた。その外國人は力づくで彼等の領土に闖入したばかりでなく、自分は勝手に畑の中を歩き廻るくせに、主人たる支那人がこの道路上を通行することを禁ずるといふ文句を書いた立札まで立てたのである。支那人たちは苦々しげに一人一人の通行人を送迎してゐた。ことに乘馬の婦人は彼等の注意を惹いてゐた。これは彼等の國では未曾有の現象だ! 支那の婦人はまだ家政上の附屬品の樣なもので、牝獅子となるのは前途遼遠なのだ。——」
 己れ自身をさえ「登場人物」とすることのできる眼でみた、この數行によつて、はじめて當時の上海風景が、一世紀後の私らに遺憾なく傳えられたのだといえよう。竹竿につるした轎(かご)をかついでいる四人の支那人と、それに乘つている髮の毛の赤いヨーロツパ婦人と、アングロ種の馬を乘り廻すレデイと「手をこまぬいて」、眼をみはつている支那人群衆と。そこに阿片や艦隊をふくめても、なお「不斷に増大する生産」力に驅りたてられて、際限なくおしよせてくるアルハベット人種の、新らしい相貌がある。しかも一方では、支那の婦人はまだ家政上の附屬品」でしかなく、印度産の罌粟の實が、そつくり吸いこまれるような古い支那への、ゴンチヤロフ自身の、おどろきと諷刺があつた。——「アメリカ領事カニングハム氏は、有名なアメリカのロツセル商事會社の上海代表者を兼任してゐるが、その邸宅は上海で最も立派な邸宅の一つである。この邸宅の建築費は五萬ドルを越えた。邸宅の周圍は公園だ。いや正しく云へば樹を植えた庭だ。廣々としたヴエランダは美しい柱廊の上に乘つてゐる。夏は涼しいことであらう。太陽は日覆のかかつた窓を襲ふことはないのだ。バルコニーの下に當る車寄せには、街頭に向つて大きな大砲が一門据えてあつた。——」(前掲「日本渡航記」)
 私らはこれ以上、ロシア作家をわずらわさなくてもよいだろう。まさに、一八五三年代の上海は、このとおりであつた。香港を團子のように捏ねあげたおなじ力は、上海を、開港十年めにすでにアジアにおける最大の國際都市にしてしまつたのであつた。マンチエスターの、ニユーヨークの、リオンの「不斷に増大する生産の欲望と力」は、こういう形で噴出していたのである。阿片と大砲はその花束の一つに過ぎない。ヨーロツパの船は、絹や茶を搬び去つてゆき、綿製品や毛製品を搬んで來た。呉淞河に懸けられた、眞ン中から二つに割れる鐵の橋は、支那人から橋錢をとりあげたし、汽車は高價な賃錢を請求した。しかし橋は渡らねばならぬし、レールにそむいて歩くわけにはゆかない。たとえばカニングハム氏の邸宅に据えられた大砲が、どこにむかつて砲口をひらいているか、それはゴンチヤロフよりも支那人自身が一等よく知つているところだけれど、しかし同時に、大切なことは「新しい支那」にとつては、それは恐怖である以上に、驚異であり發見でもあるということだつた。
 最初の呉淞鐵道が開通したとき、最後まで反對したのは支那政府であつたが、乘客は連日超滿員であつた。延長四分の三哩のレールの上を、時速十五哩で「中華帝國號」がはしつたとき、線路の兩側にむらがつた支那民衆と、同じ支那人乘客は歓呼して喜んだといわれる。もつとも最初の呉淞鐵道は、ある日、金に買われた兵士風の男が、線路の上を眞ツすぐにあるいてきて、汽罐車の下敷になつたということから、支那政府とイギリス領事との政治的接渉となつて、揚句は數十萬兩で買ひとつた支那政府の手で、レールも汽罐車も、わざわざ臺灣の海邊へはこんで遺棄される始末となり、その後十餘年間は、支那大陸に汽車は見られなくなつたけれど、一度發見された汽車は、やはり「新しい支那」にとつては限りなき將來をもつものであつたろう。それは紅ツ毛の鐵道經營者がいくら儲けたかとか、または「民衆の興味を惧れた」支那政府の謀略が、どれほど成功したかとか、そういうことからはまつたく獨立の、支那民衆の驚異であり發見であつたのだ。
「——彼等には狂信といふことがない。彼等は佛教徒の狂信にさへ感染しなかつたのである。孔子教は宗教ではなくて、單なる通俗倫理であり、實踐哲學であつて、如何なる宗教をも妨碍するものではない。——支那人の實際的、工業的精神には、カトリツク教よりも、新教の精神の方がぴつたりするやうである。新教徒は通商を開始し、最後に宗教を持つて來た。支那人は通商の方は大喜びで取入れ、宗教の方は何も邪魔にもならぬので、目立たぬやうに取入れてゐる。——」と、これはゴンチヤロフのみた支那民衆のあざやかな特質であるけれど、しかしこの特質は同時に、一方ではヨーロツパ文明を充分に吸收消化するばかりか、アジア的特徴をも加えて、プラスにしうるところまで成長した時代的素質ででもあつたろう。——
「上海で私は支那語の本を三册買つた。新約聖書と地理とイソツプ物語だ。これは新教宣教師の好意であつた。——最も活躍してゐる宣教師の一人であるメドハースト氏は支那に三十年も生活し、休む暇もなくキリスト教の傳道に活躍し、ヨーロツパの本を支那語に譯し、各地を巡回してゐる。この人は現在は上海に住んでゐる。」と、ゆくりなくも、晩年のメドハーストの消息を、ゴンチヤロフはつたえている。
 前卷でみたように、江戸と長崎と凾館とをひらかせたプーチヤチンの艦隊について、日本にやつてきた、この帝政ロシアの九等官は、長崎で、片假名の流しこみ活字などつくつていた。まだ若い小通詞の「昌造」に、たびたび逢つているが、上海で、ペルリの艦隊をまちあわせているうちに、もと、イギリスの印刷工、いわばダイア活字の協力者、もう老人のメドハーストに逢つているのであつた。ここでいう「支那語の本三册」とは、もちろん、漢字活字による印刷物であることがわかるが、もうそのころ「華字版の印刷物」は、新約聖書や、イソツプ物語や、地理やの「三册」ばかりではなかつた。ダイア以來、コール以來の、アルハベット人によつてつくられた、パンチによる漢字活字の、鉛の活字の、近代的印刷術が花ひらいていたのであつた。中牟田倉之助みやげにみるような「重學淺説」や「代數學」などがあつたように、日本に渡つて、近代醫術の手がかりともなつた、上海傳道病院々長、そしてアメリカ外國傳道協會々員A・ホブソンの「西醫略説」や、「内科新説」や、または「博物新篇」などいつたものが、ひろく支那人のあいだに、人類にとつて新らしく有益な、澤山の知識をふりまいていたのであつて、そして、こんなアルハベツト人種の、善き知惠と理想とこそが、じつは彼らの大砲や阿片におとらず、支那を、アジアを、虜にしたにちがいないと、私は考える。



世界文化連載分、十六

 アジアの、近代的な鑄造の漢字活字は、ペナンでうまれた。うんだ背景は、ヨーロッパの産業革命であり、うみだしたのは、新教プロテスタントの宣教師たちであつた。私は、「上海行日記」で、中牟田倉之助のハイカラなみやげもの、文久二年の上海版「上海新報」という新聞が、どんな活字であつたかを知ろうとして、安政五年の寧波版「中外新報」や、嘉永三年の香港版「遐邇貫珍」などに、ぶつつかり、かえつて途方にくれてしまつたけれど、ダイア活字の發見によつて、香港よりも、もつと南方で、しかも天保三年に、その源の、發生していることがわかつた。
 それで、それなら、ペナンの漢字活字は、その後、どういう風にして、南方から、支那本土へ、東漸していつたろうか? まず、ペナンから、マラツカ、廣東までいつた事情は、讀者も、前章のうちで理解できたと思う。ダイア自身が、ペナンからでて、英華學堂の印刷所を、監督經營することになつたからである。そして、その英華學堂が、こんどは、香港にひつこしたのである。溝口靖夫は「東洋文化史上における基督教」(三三五頁)で、いつている。「一八二二年六月二日、ミルンの歿後、その學院は、他の後繼者により、うけつがれたが、一八四二年、香港に移轉した。」——「學院」というのは「學堂」のことで、ミルンは、モリソンの協力者であり、「學堂」の經營責任者であつた。まだこの頃、學長ロバート・モリソンは生きているが、多くは布教にあたつていたのである。廣東での、モリソンの後繼者は、もと印刷工のメドハーストということになつているから、こゝにある「他の後繼者」というのが、私にはわからないけれど、上海時代まで活動しているメドハーストが、移轉した香港時代も、とにかく學長だか「經營責任者」だか、そのいずれかであつただろうし、英華學堂とともに、ダイア監督の印刷工場が、ともに香港へ、ひつこしただろうことは、うたがいない。
 つまり、一八四二年には、ペナンから香港まで、ダイア活字は、のぼつてきたが、大事なことが、廣東時代にある。アメリカ人ブリツヂマンが、一八三〇年、廣東へきて、「支那叢報」を創刊したことと、同じ一八三〇年に、ロバート・ウイリヤムスが、廣東へきたことである。ウイリヤムスは、モリソンの息子で、父親の意志により、「支那傳道の印刷者」になれるよう、幼いころから、ロンドンの印刷工場で、印刷術の修業をしていたのであつた。父親は、一人前の修業をつんだ忰をみてから、三年ばかりのち、死んでいるが、モリソンたちが、印刷術をどんなに重くみていたかがわかろう。モリソン及びウイリヤムス親子は、周知のように、日本の歴史にとつても、大事な人々であつた。ウイリヤムスは、のち、澳門の東印度會社經營の印刷工場も、監督しているが、「支那叢報」の創刊には、父親とともに、ブリツヂマンにとつて、大事な協力者であつた、と「東洋文化史上における基督教」は、かんたんだが、のべている。「支那叢報」は、もちろん、アルハベツトだから、ダイア活字が、直接には、どう關係したかわからぬけれど、メドハーストが、一八三五年、モリソンの歿後をうけて、廣東にきたときは、廣東の印刷所では、ちやんとした漢字の印刷物が、つくられていたことが、明らかになつている。たとえば、メドハーストが後年、思いでをのべた、前に引用した文章で、「阿片と宣教師の關係」は、「第五の困難」であつたが、「第三の困難」というのは、「漢字印刷物にたいする、支那官憲のあつぱくであつた。」(東洋文化史上における——三五九頁)といつていることでもわかる。そのころ、阿片戰爭がはじまるまえで、アルハベツト人種と、支那政府とのあいだは緊迫していた。廣東で出版する宣教師たちの、雜誌や本は、アルハベツトのものは許されても、漢字印刷物は、直接に支那人へ影響をあたえるとして、支那官憲は、きびしく取締つた。そのために、辛苦の末、やつと出來あがつている漢字の組版が、工場にふみこんできた、支那刑吏たちによつて、幾度も破かいされたり、不足の漢字活字を、木活字でうめようとして、街にもとめにゆくメドハーストらが、たびたび危害を加えられた、というのであるから、たとえ、不足の文字は、木活字でまにあわせたとしても、實際に、ダイア活字が、印刷物となつて、活動していた證據にはなる。
 そこで、ダイア活字が、廣東、香港へときて、しだいに發展、實用化されてきたが、さて、それからが私にわからない。ダイアは、一八四二年のこの年に、死んでいるが、上海へはどうしてのびていつたか? また、ダイア活字が、そのまま、未完成の形で、上海へ流れこんでいつたのか、どうか? もつとも、これを人間のうごき、宣教師たちのうごきだけでみれば、たとえば、前にみた宣教師であり、醫者であつた、ロンドン・ミツシヨナリー・ソサエテイ所屬のW・ロカートは、一八三八年、廣東にきて、一八四〇年には、英軍が占領していた舟山島に入り、翌々年、開港の第一日に、上海へ入つて、布教と醫療の活動をはじめている。おなじく醫者で宣教師のA・ホブソンも、一八三九年に澳門に着、まもなく廣東へきて、「支那叢報」創刊者のブリツヂマンと同居、上海へいつた年が、私にわからぬが、一八五六年にはW・ロカートの病院の後繼者となつて、「西醫略説」以下、二種の、鉛の漢字活字による書物を上海で發行している。つまり、人間のうごきでだけなら、印度・ペナン・マラツカ・シンガポール澳門・廣東・香港・上海と、ずツとまえからみてきたところで、明らかになるけれど、活字という、物の形ではわからない。一八五六年の、上海版「西醫略説」が、ダイア活字、そのままの發展か、どうか、わからぬのである。「支那叢報」の解説版も、九卷、十卷となつてくると、ほとんど阿片戰爭の記事ばかりで、ダイア活字の行衞は、わからなくなつている。
 私は、また、この關所にひつかかつたまま、昭和十八年の前半をすごしてしまわなければならなかつたが、ある日、思いがけなく、上海から手紙がきた。昭和十七年のくれにだした私の手紙、讀者からの質間にこたえて、「上海史話」の著者は、しんせつに回答してくれたばかりか、「滬上史談」という本を、一册そえて、おくつてくれたのであつた。「滬上史談」については、あとでのべるが、私はまず、手紙のあらましを、讀者に紹介しようと思う。手紙という形は、私的だけれど、中味は、著者から讀者へという性質であるから、「上海史話」の著者も、許してくれるだろう。——
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——漢字の金屬活字——外人による漢字の金屬活字の發明は、一八一五年、澳門の東印度會社事務所において、トムス(P.P.Thoms)が、モリソンの辭書印刷のため、成し遂げました。この辭書第一卷は、一八一七年出版。このための金屬活字は、その後澳門・マラツカ及びセラムポールの、三ケ所で使用されましたが、「支那叢報」記事にある通り、一八二七年、ペナンへきたダイア(Samuel, Dyer)の六ケ年の苦心、改良研究により一八三三年には、一萬四千字の字母が出來、小型のものも製造されはじめ、のち一八五九年コール(Richard, Cole)により、完成されました。
美華書館——(American[#「American」は底本では「Ameican」], Pressytesion, Mission, Press)は、一八四四年、アメリカのミツシヨンのローリイ(Water, Rowrie)が、パリでつくられた、漢字の字母をとりよせ、支那へむけて發送し、同年、コールを主任として、澳門に印刷所をおこさせたのに始まる。當所、Onr(?)がアメリカへ、つれてもどつた支那少年(A. yuk)に、印刷技術を教えこみ、この少年を、また澳門につれもどして、三百二十三個の字母で、作業を開始しました。印刷工二名、組版工一名の、小規模でしたが、翌年一八四五年には、寧波へ移轉して、擴張し、ダイアの活字をも採用。一八四八年には、一日平均一三・三一四1/2頁を、印刷するくらいになりました。一八五五年には、職工九名。
ギヤンブル——(William, Gamble)一八五九年に、來任して、改良型の字母や、印刷機をもたらし、翌年一八六〇年十二月、印刷所を上海に移轉して、擴充しました。當時“Electrotype, Faunding[#「Faunding」は底本のまま] of Matrics”を採用し、二種の新漢字活字をもち、日本文字の活字(小型)も、有していました。日本文字というのは、四十八の假名文字のことと思われます。
ギヤンブルは、アイルランド生れの米國移民、一八六九年、日本へきて、本木昌造に協力しました。其後、Sheffield, Scientibis, School 及び Yale callege から、A・Mの學位をおくられ、藥學の研究にも、從事したことがあり、パリでしばらく暮したこともあり、一八八六年頃、ペンシルバニアの某地で、死亡いたしました。
上海美華書館は、一八六二年、擴張移轉、シリンダープレスを採用、一年後、年産一千四百萬頁。ヘボン、吟香等は、一八六六年、上海に來り、美華書館で辭書を印刷。(別送「滬上史談」參照)印刷當時の動靜は、吟香の手紙(慶應三年正月廿三日附、川上冬崖宛)で、判ります。これは土方定一著「近代日本洋畫史」(昭和十六年)に全文あり(中略)
上海新報、文久二年、中牟田が買つてもどつた新聞は、字林洋行(ノース・チャイナ・ヘラルド社)發行の華文版で、これは一八六一年に創刊されました。主筆は林楽知(Young, L, Allen)一八七二年「申報」創刊、「上海新報」廢刊。(中畧)
美華書館史には(The Mission Press In China l895)という、小册子があります。日本文字についての記述は、きわめて僅少です(以下畧)——
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 以上、「上海史話」の著者からもらつた手紙のあらましが、私にとつて、どんなに有難いものであつたかは、讀者にも同感できるところだと思う。これで、私は最後の關所を、通ることができるのである。もつとも、この關所の通り方は、他人のうしろから、頬かむりして、すりぬけるようなもので、大手をふつて通る、通り方ではない。この手紙が明示し、或は暗示している、澤山のことがらの、枝葉まできわめるためには、おそらく、また相當の月日をついやさねばならないだろうけれど、しかし、現在の私にも、およそ、つぎの程度には、この手紙を消化できるというものだ。
 手紙のうちの、第一のこと、澳門、マラツカ及びセラムポールの三ケ所で使用せられた彫刻活字のことは、まえにたびたびのべたように、讀者もすぐわかるところのものだが、これがP・P・トムスという人によつてつくられたということが、新たに記憶さるべきことであつた。第二のダイアの活字が「一八三三年には、一萬四千の字母が出來、小型のものも製造されはじめ」云々は、まえにみた通り、「支那叢報」の記事が過大で、手紙も同樣である。第三は、非常に大きなことがらで、リチヤード・コールと、ウオーター・ローリイという人物の出現である。とりわけ、リチヤード・コールであると考えられるが、これが、いわば、ダイア活字との、つぎめであろう。「後、一八五九年、コールにより完成されました」という文句は、私にとつて、かんじんかなめのところだけれど、かんたん過ぎて、上海まで、大聲でどなりたい氣がするのである。
 しかし、あとにつずく文章で、まるでわからないことはない。一八四四年に、パリでつくつた漢字々母で、澳門に印刷所をおこし、三百二十三個の漢字で、仕事をはじめたが、翌年には、ダイア活字を採用している。パリ産の漢字々母と、ア・ヨークという、アメリカ名前しかわからない支那少年印刷工と、その何年以前かに、この支那少年を、アメリカへつれていつた Onr という、手紙の字をいくらみても、Oとnとrとしかよめない、私にわからぬ、たぶんアメリカ人らしい人物などの、つまり、ダイアをイギリス系統とすれば、これはアメリカ系統の、漢字印刷努力の集積が、ここで結合したということである。
 コールの「完成」は一八五九年というから、イギリス系統とアメリカ系統の結合の、一八四五年から十五年めということになるが、具體的には、何を指すか? 手紙にあるように、電胎法字母は、まだこの後であるから、彫刻による字母、大小ともに、フオントのそろつた、そして少くとも、ダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」が示す、漢字の種類を完成したことをいうのだろう。そして、それをそうさせた力は、支那少年ア・ヨークにみるような、支那人と、マラツカの英華學堂以來、記録のはしばしにみる日本人漂民の、つまり漢字人種印刷工の參加と、たまたま、ここへあらわれたような「パリで作られた漢字の字母」のような、ヨーロツパや、アメリカ本國の、科學技術の授助であつた。ダイアのつくつた漢字々母と、パリ産の漢字々母のいずれが、すぐれていたか、私に知る由もないけれど、ヨーロツパの印刷技術が、アジアの文字を消化しようとしていたことは、前卷でみたように、嘉永末年頃、一八五一、二年頃、本木昌造が、日本長崎から、はるばるオランダへ、日本文字(漢字および假名)の種書をおくつている例でもわかる。つまり、電胎法なしには、ほとんど不可能な、日本では、江戸の嘉平も、長崎の昌造も、さじを投げた。彫刻字母、パンチによる漢字活字が、ここではヨーロツパや、前卷でみたような、フランクリン以來の、世界印刷術中興の祖というべき、アメリカの技術にささえられて、一應の成功をなしとげたのであつた。寧波版「中外新報」にみるような活字、字ずらの不ぞろい、線のそぼくさは、一とめでわかるほどながら、それは木版や、木活字とくらべるとき、格段の、金屬的鮮明さと、近代的強度をもつものとして、成功したのであつた。
 第四は、日本の活字にとつて、最も歴史的な美華書館の歴史と、アメリカ人宣教師ウイリヤム・ギヤムブルの素性が明らかになつたことであつた。さらに第五は、一八六〇年に、“Electrhotype[#「Electrhotype」は底本のまま], Founding of Matrices”つまり、電胎字母を採用したことと、一八六二年に、アジアではじめて、シリンダー・プレスを採用したことであつた。電氣分解による字母製法は、漢字活字製法に、一切の解決を與えた、歴史的なものであるけれど、シリンダー・プレスの採用も、印刷歴史にとつて、革命的なものであつた。廻轉動力は、人間の手、ガス、石炭などを經て、電動機となるまでは、日本でも、この以後、半世紀をついやしているけれど、廻轉胴による印刷法は、アジアでは「ばれん」でこする式、西洋では葡萄しぼりのあつさく式から、完全に、機械的に解放されたものであつた。つまり、一八三九年完成したフアラデーの法則は、一八六〇年に、一八二〇年ごろ、ドイツ人フリードリツヒ・ケーニツヒの發明したシリンダー・プレスは、一八六二年に、漢字印刷の歴史に登場したのであつた。
 そして最後に、第六は、ダイア活字が、アメリカ系統と結合して、香港から寧波へ、寧波から上海へと、東へ、東へと、すすんでいつた足どりが、とにもかく、明らかとなつたことであつた。ペナンでうまれたダイア活字は、上海の美華書館へ、とつながつている。文久二年、一八六二年の上海版、中牟田倉之助の「上海新報」は、あきらかに電胎活字であることが出來、そこにはダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」が、生きているのであつた。
 そこで、當然、私はリチヤード・コールという人物について、述べねばなるまい。いまや、私の頭には、P・P・トムスや、ウオータア・ローリイをのぞいても、ダイア——コール——ギヤンブル——昌造——富二と、不連續線が、できあがつてしまつている。時間的には、一八一五年、文化十二年から、一八七一年、明治四年にいたる、空間的には、ペナンから、東京にいたる、日本近代活字のコースである。ところが、コールなる人物について、私は何も知らない。たぶん、アメリカ人で、イギリス系だとしても、アメリカ傳道協會にぞくする人物には、ちがいない、くらいしかわからない。私は、百科辭典にもでていないコールについて、何によつて知ればよいか、また、支那少年ア・ヨークを、アメリカへつれていつたという、發音のわからない“Onr”という人物について、教えてもらいたいと、「上海史話」の著者に、また手紙をかかねばならなかつた。そして、さいわいに、二度めの手紙が、つゝがなく先方について、「上海史話」の著者の好意が、再び、私のところへもどつてくる日、あらためて、讀者への責を果たそうと、思うのであるが、飛行便にすることのできなかつた、二度めの手紙の返事は、一年たつても、まだ返事がこない。これを下書きしている現在は、昭和十九年十月である。すでに東支那海も、アメリカ潜航艇の手の中にあるし、B29が日本々土の上空を、しばしばおとずれる、きようこのごろ、手紙ばかりか、「上海史話」の著者も、私自身も、無事であることが出來るだろうか?
 さて、しかし、ここまでくれば、誰しも氣がつくことであろうと思うが、ペナンでうまれて、廣東、香港までせりあがつたダイア活字がこんどは一擧に、寧波、上海へと、せきをやぶつたように進出したのは、阿片戰爭によるイギリスの勝利の、直接影響ということであつた。英華學堂の香港移轉が、一八四二年、美華書館の寧波移轉が、一八四五年、そして上海の入口、舟山島で待機していたW・ロカートの上海入りが、一八四二年、上海開港の第一日であつた、ことを思えば足りよう。支那政府の、阿片密輸への抵抗が、一八三九年、以來、イギリス艦隊の舟山列島占據となり、上海城攻畧となつて、一八四二年、南京條約成立までの「阿片戰爭」とあだ名される支那とイギリスの戰爭が、どんな性質のものであつたかは、讀者周知のところであろう。南京條約の中味は、香港の割讓であり、上海、寧波以下、三港の、アルハベツト人への解放であつた。
 阿片戰爭は、「竹の大砲」が、「鋼鐵の大砲」にうちやぶられねばならぬ戰爭であつた。同時に、「阿片」と「大砲」を懷中にいれた「平等主義」の布告文さえ、支那民衆にとつては、新らしい思想をもたらした戰爭であつた。岩塊と熱病ばいきんの巣でしかなかつた香港島に、近代的な砲臺と港がきずかれ、有史以來の鎖港であつた上海は、「歐羅波諸邦之商船、軍艦數千艘碇泊」うんぬんと、高杉晋作が感嘆したところの、東洋第一の開港場となつた。アルハベツトと一緒に、懷中時計が、寫眞機が、ピストルが、「テレガラフ」が、汽車が、ながれこんできた。楊子江[#「楊子江」は底本のまま]の上流には、四億の支那庶民が住んでおり、海上七百キロのむこうには、まだ開かれざる「處女日本」があつた。「新しい不斷に擴大される市場」を、もとめてやまぬヨーロツパの「不斷に増大する生産の慾望と力」とは、うなりをあげて殺到してきたのであつたが、その最も先頭をすすんだのが、「神の前には萬人平等なり」という、新教プロテスタント宣教師と、アルハベツトおよび漢字の活字だつたのである。



世界文化連載分、十五

 そして私はさらにここで、インドへきたウイリヤム・ケアリーを先頭とする、新教徒宣教師たちのアジアへの發足が、やはり十八世紀の後半からはじまつているのに思いあたるのである。もちろん、その以前にも、宣教師たちは印度その他に散在していたことは明らかであるか「胡椒及び靈魂のために」といつたような、クラシツクな舊教的なものでなしに、「ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイ」や「外國傳道協會」を結成させた「印度からの手紙」といつたような、近代的な新教的な意味でである。そしてどういう事情によつて終刊されたか明らかにしないけれど、かれらの聯絡機關であつた、支那叢報が創刊の一八三二年から二十年存續したとすると、一八五一年まで、つまり彼らの旺盛な活動もこの時期にあたるのである。
 この同時代性は、明らかにイギリスを先頭とする産業革命との因果關係を物語るものであろう。事實、かれらは出先會社や工場の雇い説教者であつたり、通譯官であつたり、水先案内人であつたりした。ロバート・ウイリヤムズは嘉永六年最初のペルリの日本來航の通譯官であつたし、ギユツツラフは一八三二年、アーモスト卿の案内人として未踏の中支、北支の全沿岸を一巡し、いわば十年後の「阿片戰爭」の露拂いをしたのである。また、澳門にミツシヨンスクールをつくつて、アピールを活動させたアメリカのオリフアント會社こそ、渡邊華山に「愼機論」を、高野長英に「夢物語」を書かせる動機となつた「モリソン號」の仕立人であつたし、つまり、かれら新教宣教師たちと、その活動は、その本國の意志をおびて出動してくる艦隊や、出先會社や、出先き工場と、無關係には考えることが出來ぬほど、密接なことがわかろう。
 したがつて、かれら新教徒宣教師たちの考え方も、ペルリの艦隊やアーモスト卿や、オリフアント會社的なものから、まつたく別物であることは出來ないわけである。たとえば支那叢報第一卷には前に述べたメドハーストの「和英語彙」の紹介にさきだつて、こう書いてある。——日本が、その政策を變更して鎖國を解く日もさう遠くはあるまい。位置といひ大きさといひまたその他の點からも日本は英國に似てゐる。日本が正しい教を受け容れるならば、大して遠くない將來に西の英國と拮抗するに至るであらう。かつてのやうな排外的風潮は今の日本にはなくなつてゐるが、しかしまだまだである。——と、これが一八三三年だから、まだ鎖國の土臺も鞏固であつた天保四年になるが、これと、前にみた「和英語彙」紹介文とあわせ讀むならば、ペルリの艦隊やオリフアント會社的なものと共通する半面が、容易に理解できるというものである。
 つまり、彼ら新教徒宣教師たちは、東南アジアとその住民を、「顧客」にしてしまつたヨーロツパの資本主義と、一身同體であつた。イギリスを先頭とする産業革命の「申し子」であつた。それは一見むじゆんする。いや一見どころかあくまでむじゆんする。たとえば、印度人にとつてケアリーは忘れてならぬイギリス人であるが、ジヨーヂ五世が、戴冠式をデリーで擧行したという事實は、また別の意味で印度人にとつては忘れてならぬことであろう。では、このむじゆんはどこからくるだろうか?
 もちろん、それはかんたん明瞭である。機械化による生産の劃時代的發達である。産業革命が、人類の進歩であるならば、ヨーロツパ資本主義も、またその初期においては進歩的であることが出來たということである。東南アジアを顧客にし、阿片戰爭によつて、鎖港上海をおし破つたような結果は、すでに、最初から内包されていた矛盾であつたけれども、それが限界に達しない以前には、ヨーロツパの資本主義も、その流儀で「自由」であり「平和」であることができた。もつともかれらの「自由」と「平和」は、條件つきであり、たとえば一方で、阿片を密輸しておいて、一方では「普天の下卒土の濱、國のさま/″\なるその數を知らず、されどその一として、至高の支配を受けざるはなく、悉くこれ一家の同胞なり——互に他に對して上位に誇ることあるべからず」と、上海城壁に布告したような、「平等」主義であるが、阿片の密輸が事實ならば布告の文意もまた嘘ではなかつたのである。まだ、印度産の阿片が、しきりと澳門や廣東から、はこばれていたとき、まえにみたイラ・トラシーの「鴉片速改文」が、おなじ廣東で、ダイアの活字で、印刷發行されているのである。私はこの本の内容をみるすべをもたぬけれど、支那人で、英華學堂出身の梁亞發の協力によつてできているこのパンフレツトが、支那人の阿片吸飮を戒ましめた目的のものであるだろうことは、疑いのないところで、イラ・トラシーの阿片の害を説いた本心を、また、だれが疑うことができよう。
東洋文化史上における基督教」(三六二頁)で、溝口靖夫氏は、前にのべたメドハーストが(Ibid, P.366)じぶんの、當時の經驗を、追懷した文章を根據にして、つぎのようにのべているところがある。——第五の困難は、鴉片問題と宣教師の關係であつた。メドハーストが、廣東についた一八三五年は、鴉片戰爭の直前であり、支那英國のあいだに、險惡な空氣がみなぎつていた。このときに當つて、宣教師たちは、きわめて困難なる立場におかれた。宣教師たちは、しばしば鴉片をつんだ船に乘つてきた。しかも、メドハーストらは、切符は買つているが、積荷について容嘴する權利はなかつた。‥‥宣教師は、英國人と支那人との間にたつて、しばしば通譯の勞をとらねばならなかつたが、こんなとき支那人は鴉片貿易は、正義にかなえるものなりや否や? をただすのであつた。‥‥故に、當時宣教師たちのこいねがつたのは、一艘の傳道用船をうることであつた。これにより鴉片の罪惡からまぬがるることであつた。——一艘の傳道船で、鴉片からのがれることはできないけれど一と口にいつて、「印度からの手紙」は、英國議會をして、宣教師らの活動を保證させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」をかちとらねばならぬほどそれが首かせになつたことをしめしている。つまり、産業革命がうみだした、アルハベツト人種の革命的進歩性は、おなじ、産業革命がうみだした「阿片の罪惡」と、衝突しなければならなかつたが、このむじゆんこそ資本主義のむじゆんの中味であり、限界であつた。
 しかし、産業革命がはこんでくるものは、阿片だけではなかつた。まだアジアの人間がみたこともない、新らしく、そして豐富で、低廉な品物のかずかずであつた。それは封建制以前の世界にいる、原始的な民族たちを魅惑させるに充分であつた。産業革命後の一世紀ばかりは、若い資本主義にとつて、東南アジアは、はても知れぬ、ゆたかな市場であつた。かれらは自信にみちみちて、「自由」でもあり、「平和」であることもできたのだ。
シンガポールの建設者ラツフルズが——吾人の目的は領地にあらず、貿易にあり。先づ通商咽喉の要區を扼するを得ば、吾人は臨機應變——云々と云つたように、また日本にきた初代のイギリス公使オールコツクも——吾人は不斷に増大する生産の慾望と力とに應ぜんが爲め、新らしき不斷に擴大する市場をもとめる。そして、この市場は主として極東に横たわつて居る如く見える。——(山口和雄著「幕末貿易史」三頁)と云つた。また、前卷でみたごとく、江戸灣にきた「嘉永の黒船」の目的が、第一に通商にあつたこと、ペルリが、本國海軍長官に宛てた報告文にみる通りである。つまり、彼らの、新らしい、豐富で低廉な品物が、アジアじうに、まだ充分のはけ口を、未開拓の市場を、もつている間は、「自由」であつたし「平和」であつた。——吾人の目的は領地にあらず、貿易にあり——という間は、貿易通商が可能ならば、機械生産によつて利益が保證されるならば、そして貿易を妨げるものが、その對象國になかつたならば、または、競爭者としての第三國がなかつたならば、「平和」で差しつかえなかつたのである。しかも東南アジアの隅々まで、市場が「發見」されつくしてしもう間は、それは可能だつたわけである。それは前節でみたように、あの廣大な東南アジアぜんたいの、「顧客」にされてしもう過程が、大平洋戰爭後の今日からみれば、その軍事力が、おどろく程微少なものであつたことでも、判斷できる。
 ——吾人は不斷に増大する生産の慾望と力とに應ぜんがため、新らしき不斷に擴大する市場を求める。——というオールコツクの言葉は自信にみちみちているではないか。それは機械化された生産力が云わせる言葉であつた。産業革命以後には、武器さえ商品であつたのだ。明治維新前まで、つまり開港後の安政五年から慶應三年まで日本の幕府及び諸侯が買い入れた艦船の數が百十一、價格が七百萬弗で、鐵砲がおよそ四十八萬挺、價格が六百六十萬弗であつて、そのうち六割がイギリス、三割がアメリカだつたという。
 少青年期のヨーロツパ資本主義にとつては、まだ——領地にあらず貿易にあり——であつた。そして——不斷に増大する生産——こそ、オール・ライトであつた。上海城壁の布告文が——されど一として至高の天父の支配を受けざるはなく——と云い「和英語彙」の紹介文が——日本が正しい教を受け容れるならば——というのも、つまりは、其の背光に照らしだされたイデオロギーであつた。そこに、新教プロテスタントの振つて[#「振つて」は底本のまま]たつところがあつた。したがつて——領地にあらず、貿易にあり——と云えなくなつたとき、生産が——不斷に増大——しなくなつたとき、プロステタント[#「プロステタント」は底本のママ]も、昔日の面影を變えたこと、今日の私らが見るとおりであるけれど、サミユエル・ダイアをうんだ當時にあつては、「印度からの手紙」は、二十年後には、もはや出先會社や、本國の制肘覇絆[#「覇絆」は底本のまま]からさえも脱しようとして、「信教の自由憲章」を通過せしむるところまでいつたのであつた。
 私のような門外漢でも、これをヨーロツパ宗教史の上からみれば羅馬教會に叛旗をひるがえしたカルヴインや、ルツター系統のプロテスタント派も、大陸からイギリスへ渡つて、産業革命とともにはじめて完成したのだということがわかる。新教發生の本土であつたドイツその他の大陸では、新教の聖書的究義に日をくらしているとき、イギリスに渡つたプロテスタント派は、カトリツク派の英國々教會をも新教化してしもう勢いで、活溌な實踐段階に入つていつた。館岡剛氏の「基督教會史」(四〇九頁)によると、十八世紀後半のイギリスを述べて——政府部内に多くの改革や大なる殖民政策の發達あり海の覇王となつた。宗教状態は此期のはじめメソヂスト運動に依り急速に改善せられ、信仰の自由と平等が著るしく發達して、多くの現代的宗教運動が起つた。(一)現代の日曜學校は一七八〇年、グロスター市に於てロボルト・レイクスの創始したるものである。(二)一七九二年、バプチスト派のウイリヤム・ケアリーは印度に渡り、新教徒外國傳道の先驅者となつた。(三)一八四〇年、倫敦に於て基督教青年會が創設せられた。(四)一八六一年、倫敦に於て救世軍が創設せられた。——ということが書いてある。イギリス議會が奴隷制廢止を國法としたのも、「印度からの手紙」がイギリス青年の血を湧かせていた一八二四年であるが、「神の前には萬人平等である」という、ルツター以來のプロテスタント教義はイギリスの新教徒によつて、はじめて實踐に移されたわけである。プロテスタントは司祭制度、僧制的教會を否定した。彼らにとつて、羅馬本山の坊主共は、「神の仲買人」でしかなく、基督と人間の間の仲介者は要らぬと主張した。教會は「神の住宅」ではなくて、基督を信ずる人間の祈祷所であり、集會場所であればよいとした。神の救いは人間の信仰のうちにだけあるのであつて、教會の權威のうちにあるのではない。坊主はたんに平信徒の代表者でしかなく、基督にとつて、坊主と坊主でない人間との區別がある筈がないとしたのであつた。そしてこの主張と實踐こそ、十六世紀以來の宗教改革運動が到達した成果であつた。幾世紀かにわたつて、ヨーロツパの封建的歴史に低く垂れこめていた僧制的重壓は、いわば基督紀元以來、産業革命の背景によつてこそ、のぞかれたといえる。「神の仲買人」は放逐されたし、いまや基督はあらゆる人間にとつて平等に君臨したのである。ケアリー以來の新教宣教師たちは、いま一歩、人間界にちかく基督を引きおろしてくる教義の持主であつたのであり、同時に「海の覇王」となつたイギリスの産業革命のうちにこそ誕生し得たものであつた。
 したがつて、同じく東洋へきて、同じく基督の教えを傳道するために生涯をささげた宣教師ではあつても、いわゆる「きりしたんばてれん」のそれと、支那叢報を連絡機關として活動した新教宣教師たちのそれとが、おのずからおもむきを異にしているのは當然であつた。それは舊教と新教の相違であると同時に、基督自身の相異でもあつた。その相異をおおまかにいうならば、「きりしたんばてれん」たちは、まずアジアの王侯貴族のうちに、信者を求めたのにくらべて、ケアリー以來の新教宣教師たちは、いきなりアジアの民衆のなかへ、信者をもとめていつたことなどにあらわれている。
 周知のように、フランシスコ・ザビエーが、印度から日本の鹿兒島へ來たのは、一五四九年であつた。また、マテオ・リツチが印度から支那へ來て北京に教會を建てたのは、一六〇一年だつた。そしてザビエーが最初に會つたのは鹿兒島の領主島津貴久であつたし、次には山口の領主大内義隆であつたし、また次には豐後の領主大友義鎭であつた。以來日本へ來た同派の宣教師たちの多くが、そのようであつた。ガスパル・ビレラは、京都で將軍足利義輝に謁しルイス・フロイスは、二條城で織田信長に謁し、オルガンチノ・グネツキは、大阪で豐臣秀吉に謁した。もちろん、それは「きりしたん」布教の許可を受けるためであつたが、同時に、有力者のうちに基督信者を獲るためでもあつた。ザビエー以來の大友、大村、有馬などの九州の諸大名、または京都守護職和田伊賀守や、丹波の内藤飛騨守、八尾の池田丹後守、高槻の高山右近等、その他多くの「きりしたん大名」を私らは知つている。そしてザビエー以來の「ばてれん」たちは、まず、持參した土産物を、王侯貴族に獻上した。ザビエーが大内義隆に謁したときは、時計、眼鏡、三連銃、ガラス等を。ビレラが、義輝に謁したときは、砂時計等を。フロイスが、信長に謁したときは、ガラス瓶にいれた金米糖や蝋燭等を上へたてまつつた。もちろん、ザビエー以來の「ばてれん」たちの布教對象が王侯貴族のみにあつたのでもなく、珍奇な獻上物も、布教の許可と便宜を得んがための方便であつたことは、いうまでもないけれども、また、百人の庶民信徒よりも、一人の有力な信徒を得るのを喜んだのはたしかであつた。たとえば永祿八年、一五六五年に、アジアへゆく宣教師たちの、いわば世話係であつた、當時の蘭領印度總督ドン・アントン・デ・ノローニアにあてて、ポルトガル王ドン・セバスチヤンは、こう書いてゐる。——友なる總督、朕は卿に對し、大に祝意を表す。日本に在る耶蘇會のバードレ等が、昨年認めたる書翰に依り、かの地方に於て、聖教の弘布し、歸依する者多きこと、並びに、かの地方に於て、重要なる地位を占むる大村の領主ドン・バルトラメウが、多數の家臣と共に我聖教に歸依し、臣民に、洗禮を受くることを勤め、大に布教を庇護援助することを聞き、我等の主が、彼を用ひ、同國を救ひ、歸服せしむる道具たらしめ給ふことを明かに悟りたり。——今、彼に與ふる一書を本書に添へて卿に送付す云々(辻善之助著「増訂海外交通史話」三八二頁)——これは、たぶんに政治的であるけれども、當時のポルトガルや、スペインと、羅馬本山との關係を考えあわせれば、最もたしかな宗教的色彩であつたともいえよう。また一五八二年、有名な「天正遣歐使節」が、羅馬へいつたとき、法王シスト五世は、明らかに三人の使節を、區別した。——豐後、有馬、大村三侯への答書を認め、十字架の遺物[#「遺物」は底本のまま]三箇、銀の劍二口、天鵞絨の帽子二箇を賜はつた。この十字架は耶蘇の鮮血を染めたもの、劍と帽子とは歐洲列國の國王に與へられるもの、大友と有馬とを王とし、大村を侯と認め、前二者にだけ與へられた。(幸田成友著「日歐通交史」一〇七頁)——大友も有馬も、大村同樣大名であつて、羅馬本山の誤認であるけれど、區別したということは、誤認以外のものである。
 三人の「日本貴公子」によつて代表さるる天正遣歐使節は、日本における基督教の初期を飾る花であつたが、同時に、それが當時の性格を象徴しているとも云える。秀吉の禁教令がでた天正十五年には、日本じうの「きりしたん」信徒は、十五歳に達したといわれ、徳川期になつても、島原、天草等の騷動を思えば、民衆のうちにも、深く根をおろしたことは疑いないところだけれど、——耶蘇會は布教を盛大ならしむる方法として、まず國郡の主宰者を教化し、その命令によつて全國全郡の土民を悉く教化する策を採つた。——大村領、有馬領、大友領において幾度かその實例が生じている。(前掲一二五頁)——というようなことが、當時の日本の政治事情、交通や經濟事情としぜんに防び[#「防び」は底本のまま]ついているばかりでなく、羅馬本山の、舊教的性格に添うものでもあつたのだ。
 そして、支那大陸にあつても、この性格は、およそ共通していた。ザビエーと同じジエスイツト派のマテオ・リツチは、明の神宗の寵遇によつて、最初の基礎を拓いたというし、以來、ロンゴ・バルヂ、アダム・シヤール、フエル・ビーストなど、明朝の保護により、或は明朝の家來ともなつて、布教した。もつとも、支那では、明朝から清朝の康煕乾隆代に至るまで、つまり、布教を許された期間が永かつたせいで、宣教師たちによる西洋文化の移植も、日本の場合にくらべれば、めだつているようだけれど、それらもすべて、まずは、支配者の寵遇により、貴族土侯の信者の權力によつて、基督への信仰者を、擴大していつた方法は同樣であつた。
 だから、それに比べるとき、ケアリーが、九年めに、たつた一人の印度庶民の信者をえて、協力者のジヨン・トマスが、喜びのあまり發狂してしまつたという事實は、だいぶ變つている。ロバート・モリソンの英華學堂には、支那人の王侯貴族は一人もいない。一八三四年度の報告文にみえるとおり、四十名の支那人卒業者たちは、その多くが、町にでて勤勞しなければならぬ人々であつた。印刷工であつたメドハーストは「二人の日本人勞働者」から日本語を習い、ブリツヂマンは「支那叢報」を刊行して、支那の王侯貴族に西洋文化を獻上するのではなしに、支那の實状をヨーロツパへ報告し、ケアリーは「印度からの手紙」によつて、逆に本國の青年へ愬えている。
 これこそ、まことに著るしい相異であろう。彼らは第一に、王侯貴族の寵遇を必要としなかつた。第二に、彼らは少數の有力者よりも、多數の民衆に重きをおいた。第三に、彼らは教堂の建立よりも、パンフレツトなどによる、印刷物に力をそそいだ。そして、第四に、もつと大事なことは、布教の對象であるアジア民衆の間に存在する惡い習慣や、出來事を、世界的規模において、社會問題としてとりあげたことであつた。それは「印度からの手紙」が、少年の犧牲や、寡婦の火刑やをとりあげたように、たとえば「きりしたんばてれん」が、日本の大名信者に、一夫多妻と男色を許さなかつたような教義的範疇からも遠くはみだしたものであつたことである。
 彼らは、もはやアジアへきて、王侯貴族の寵遇を得る必要がなかつたのだ。彼らの背後には、機械化された武器と、規律ある軍隊とがあつて、一大名や、一將軍に、眼鏡や金米糖を上(たてまつ)る必要があろうか。さらにかんじんなことだが、彼らの生産品は「土産物」にするには、あまり多量にすぎるのである。綿織物、毛織物、藥品、メリケン粉、バター、ガラス器、石鹸、さては懷中時計から寒暖計、香水からオルガンにいたるまで、しよせん、アジアの全民衆を顧客としなければ、間尺にあわぬものであつた。たとえば將軍信長が、寶物とした「赤毛布」でさえ、いまでは「水呑太郎作」にいたるまで、買つてもらわなければ困るのである。マンチエスターで、ニユヨークで、リヨンで、——不斷に増大する生産——は——新しき不斷に擴大する市場——をもとめてやまないのであつた。彼ら新教宣教師の背後には「明の神宗」や「將軍信長」のかわりに、利益でふくらんだ、自國の出先會社がひかえているし、難破する危險がないうえに、數倍の速力をもつ蒸汽船を通じて、聲をたてればきこえる程の距離に、本國自體がアジアへ近ずいてきてもいるのだ。印度からマライ半島へ、シンガポールから澳門へ、廣東から上海へ、教會と、ミツシヨンスクールは、會社や工場とともに、前進していたのである。
 それはずいぶんちごう。「セミナリヨ」と「ミツシヨンスクール」とが、ちごうようにちごう。「きりしたん」の「ばてれん」たちは、波のまにまに、飄然とやつてくる「南蠻船」と「珍奇な土産物」しか、背景にもつていなかつたように、「セミナリヨ」は、少數の——貴族の子弟を收容してラテン語西洋音楽——(幸田成友著「日歐通交史」九四頁)を授けるに過ぎなかつたが、新教宣教師たちの背後には、印度洋も太平洋も一とまたぎに、マンチエスターの、機械織機の音がたからかにきこえていた。「ミツシヨンスクール」は、ラテン語のかわりに、イギリス語を教えて、世界語としたばかりでなく、アジアの島々、國々に「國民の道徳」を説き「有益なる知識」を與えて、アジアの民衆を「教育」したのであつた。
 同じ鉛活字ではあつても、そして、同じ「長崎版」ではあつても、慶長期の「きりしたん」版と、安政、萬延期の「和製オランダ本」とには、こんな性格の相異があるのであつた。——新らしき不斷に増大する市場——が、アジアの天地に、つかみどりに存在する間は、「平和」であり「平等」であつた。そして、機械化された生産の増大と、科學的な發展が、人類歴史の進歩であるかぎり、アジアの民衆が魅了されたのも、當然であつた。「きりしたん」的「セミナリヨ」的イデロオギー[#「イデロオギー」は底本のママ]にかわつて、「プロステタント[#「プロステタント」は底本のママ]」的「ミツシヨンスクール」的イデオロギーが誕生したのも、この故であり、貴族的から、大衆的へと發展したのも、この故であり、法律學生サミユエル・ダイアをとらえて、澳門で、その一途な、苦難な生涯を終らせたところの理想も、また、おのずからここに發生したものであつたろう。



世界文化連載分、十四

 こころみに、私は東南部のアジア地圖をひろげてみる。上部北邊は支那を中心にすると、東は臺灣、琉球から、日本本島の一部がみえ、東支那海をへだてれば北支那、滿洲などがあるわけだ。西は佛領印度支那、シヤム、マライ半島、ビルマ、印度と、地つずきで、印度洋をこえれば、もはやアジアではなくなるが、同じ有色人種の棲むアフリカがある。下部南邊は、大スンダ列島のスマトラ、ジヤヴアの二大島から、小スンダ列島までつながり、もつと南へ下れば、濠洲があるが、こんどは、逆に北上すると、セレベス、ボルネオとなり、もつと北上して、フイリツピンにとどく。これら大陸、島々をめぐらす海は、もちろん、西は印度洋、中央は南支那海、東は太平洋である。
 私など、もともと地理とか歴史とかに疎い方ではあるけれど、こうやつて東南アジアの大陸、島々を眺めても、なんだか漠然としている。太平洋戰下には、これらの島々や大陸に、日本の人民の多くが、知らぬうちに、日本軍隊が上陸した。これらの島々、國々の住民とは、なんのうらみももたない、日本人民の私たちは、その夫の、伜の、兄弟の生命を氣ずこう一心ばかりで、これらの島々、國々の名前や風土をおぼえたが、その以前は、まるで空白である。空白でなければ、こんどは一足とびに、三百年も昔に溯のぼつてしもう。フイリツピンが、「ルソン」として知られていた當時、豐臣秀吉は、スペイン人の總督に、手紙一本で「日本に降伏しろ」と使をやつた話や、「きりしたんばてれん」の舊教徒たちが、ここを根城として、しつように日本へ潜入してきた話。「南蠻船」の本家であつた、ジヤヴアのバタビヤから、年々でてくる船は、積んでくる珍奇な品物と、その「甲比丹」のつれずれの見聞報告が、徳川期を通じて、日本がもつ、世界へののぞき穴であつたことなど。印度は「天竺」とよばれて、世界のはてであつたし、タイがシヤムというときはようやく山田長政をおもいだす。勇敢な角倉船や、住吉船やが航海した、安南の海邊も、佛領印度支那となつてからは、まるで感じがちがつてくる。幕末三回の日本使節たちが、これらの東南アジアの島々、大陸を素どおりして、アメリカや、ヨーロツパに行かねばならなかつたように、明治以後の私ら日本人は、ロンドンや、ニユーヨークや、パリや、ベルリンやを記憶しなければならなかつた。上海も、香港も、マニラも、シンガポールも、カルカツタも、記憶したが、それらは、むしろロンドンへの、ニユーヨークへの、パリへの入口としてであつた。アルハベツト的な上海や、香港や、マニラや、シンガポールや、カルカツタには、支那人や、フイリツピン人や、印度人の匂いはしなかつたからだ。
 私が、東南アジアの地圖をみて漠然とした感じ、というのは、そういう意味である。これらの大陸や島々をみていても、そこに住んでいる原住民たちの聲はきこえてこない。孔子の、ジンギス汗の、アクバル大帝の、クラシツクな聲のつぎには、もう、アルハベツトの聲がきこえてきて、原住民たちのつぶやきはかき消されてしもう。ぼう大な東南アジアの大陸、島々には、ぼう大な人間が棲んでいながら、しかも、アジア人である私たちは、彼らを呼ぶことが出來なかつたし、彼らもまた、呼び聲に應じて答えることができなかつた。そして、私ら自身も呼び聲がだせなかつた理由の一つは徳川鎖國であつたが、いま一つは、彼らが呼び聲に應じて聲をだせないのとだいぶん似かよつた理由、つまり、東南アジアを素通りしても、まずはヨーロツパや、アメリカの都會へ行かねばならなかつた事情であつたろう。
 それは、ヨーロツパ文明のアジア進出である。アジアじうで完全な獨立を保ち得たのはたゞ日本一つしかなかつたほどの、アルハベツト文明の東漸である。もちろん、ヨーロツパ人種のアジア進出は、バスコ・ダ・ガマが、アフリカ南端のケープタウンを廻つて、大西洋と印度洋をつなぐ航路を發見してこのかた、つまり、十五世紀後半からはじまつている。たとえば天正十年、一五八二年、九州の大名大友、大村、有馬の遣歐使節一行が、長崎を發してから、支那、安南、マライ、印度を經て、ポルトガルリスボンに着くまでその船の寄るところが、すべて、ポルトガルや、スペインの植民地だつたり居留地だつたりしたことや、日本の戰國時代、すでにフイリツピンの「ルソン」がスペインの治下にあつたことなど周知であるけれど、しかし、この時代の白人種のアジア進出、十六世紀から十八世紀へかけての植民地競爭は、まだどつか「腕ずく」とでもいうような素朴さがあつた。南支那澳門は、印度洋や太平洋を横ぎる船が出現して以來の、重要な港であつたが、ポルトガル人は、一五五〇年以來、この土地を占據していても、法文的ポルトガル領となつたのは、十九世紀の後半であつて、つまり、ポルトガル人は三百餘年間、彼等自身が、そこに居住することで、勢力をたもつていたように、軍事だけでなしに、彼等自身商賣もし勞働もし、人と人との力の差で、勢力を張つたのであつた。當時においても、西洋文明は、東洋のそれにくらべてすぐれたものがあつたとしても、東洋にとつて影響するところはまだ、「珍奇」な、域から、とおく出るものではなかつたのだし、たとえば、支那人支那人流儀で、彼らと競爭できたのであつた。角倉船や、住吉船も南支那海を乘り切つたのだし、安南、シヤム、ルソンの港々には、通じて十幾つも日本人町が出來ていたのだから、澳門が、ポルトガル人の勢力下にあつたとしても、まだ、そこでは支那人の匂いがし、アジア人の聲がきこえていたのだつた。ヨーロツパ人も、その一員にふくめて、アジア人は、アジア人同志の呼びかけで、あるていど、受けも答えもすることが出來たから、東南アジアの地圖をながめても、クラシツクながら、二、三百年前なら馴染みがあるというわけである。
 そしてこう考えてくると、アルハベツト民族のアジア進出といつても、その五世紀間に、おのずから段階があることがわかる。私は、私の東南アジア地圖の大陸や島々がいつ、彼等の屬領や植民地や租借地や、ないしは、その勢力範圍となつたかを、簡單ながら赤鉛筆で書き込んでみた。
インド
 一七六〇年、イギリスのロバート・クライヴ、フランスのド・ラリー伯と、植民地戰爭で勝つ。以後アクバル大帝以來のムガール帝國、しだいに崩壞。一七七三年にはカルカツタを首都として、ベンガル、バハル兩省を占有し、イギリス政府は、印度總督をおくことに決定した。一八五五年には、全印度をおさめて、一八五八年には、統治權を東印度會社から、イギリス皇帝にうつし、一九一一年、ジヨージ五世は、印度デリーで、戴冠式をあげた。
マライ半島
 ペナン島
 一七八六年、イギリス人ライト、ケダー州の土侯より買收した。
 シンガポール
 一八一九年、イギリス人スタンフオド・ラツフルズが、はじめて商館をきずき、一八二四年にはジヨホール王から、東印度會社に割讓せしめた。田中華一郎[#「田中華一郎」は底本のママ]著の「東邦近世史」下卷をよむと、このとき、ラツフルズは「吾人の目的は領地にあらず、貿易にあり、先づ通商咽喉の要區を扼するを得ば、吾人は臨機應變、以て我國威を政治的にも顯彰すべし」といつた。
マラツカ
 一七九五年、佛和戰爭に乘じて、イギリス海軍、オランダ海軍を攻め、これを占領した。
マライ半島
 一八七四年、ペラ國の紛議を仲裁し、以後イギリス人の理事官を、行政に參與せしむる權利を得、一八九五年には、全聯邦に及び「イギリス保護マライ聯邦」と命名するにようになつた。
ビルマ
 一八二四年、イギリスは、第一次ビルマ戰爭において、アツサム、アラカン、テナセリムの三州を割かせ、一八五二年、第二回ビルマ戰爭において、ラングンをはじめ南部ビルマを奪い、一八八五年、第三回ビルマ戰爭でビルマの殘部すべてを占有、ビルマ王族を印度に放逐した。
印度支那
 一七八七年、安南王世祖阮軍に敗れて、宣教師ピニヨーを通じ、フランスに援助を求めたが、フランスは代償としてツーラヌ條約(安南ツーラヌ港及び崑崙島の割讓)を提供した。一八六二年、フランス海軍安南を攻めて、邊和、嘉定、定祥の三州を奪ひ、基督教の禁を解かせ、一八六七年には、平隆、昭徳、河僊の三州を占有。以後下交趾六州もフランス領となる。東京問題等を經て、一八八四年、首都東京に三色旗をひるがえし、清國南境の一帶を、フランス保護領として、李鴻章との間に條約をむすんだ。
スマトラ
 十七世紀はじめ、ポルトガル勢力を驅逐して、オランダこれに代る。十七世紀終り頃よりイギルス[#「イギルス」は底本のママ]も勢力を扶植したが、一八二四年、マラツカを正式にオランダより讓渡せしめる條件として、イギリスは手をひいた。以後、オランダは「三十年戰爭」を通じてスマトラ原住民最後の抗爭、アテエ族二十五萬を犧牲として、三百年來の支配をたもちつずけた。
ジヤヴア
 スマトラと同じく、十七世紀當初オランダ勢力となり、首都バタビヤは「オランダ船」の根據地として日本にも知られた。一八一〇年前後、イギリス海軍の占領するところとなり、のち、スマトラにみる同じ交換條件によつて、オランダに讓つた。
濠洲
 一七七〇年、イギリス海軍大佐ジエムズ・クツクが「發見」占有し、一七八七年以來本國から罪人を送つて、植民地とした。(クツク大佐の、當初の使命が、日本沿岸の探險にあつたこと、果し得ぬうちに、ハワイで死亡したことは「前卷」でのべた。)
ボルネオ
 一八三八年、第一次のビルマ戰役に從軍負傷した東印度會社員サア・ジエムズ・ブルツクが歸國後、二十の同志と、一隻のヨツトにのつて遠征、ボルネオの西岸サラワクに到着。たまたま原住民間の内爭にあい、ハツシム王を援けて、叛徒を平定した機會から、サラワク王となつた。一八八一年には北ボルネオ會社をおこし、一八八八年に、イギリス政府は、北ボルネオをもつて「保護國」と聲明した。
ハワイ
 一七七八年、イギリス海軍大佐クツクの「發見」。一七九五年、ハワイ島人カメハメハ一世統一して、一八四二年には米、英、佛等も、その獨立を承認したが、一八七五年、アメリカは互益條約を結んだ。一八九三年には、君主制を廢して共和制となり、星條旗をハワイ政廳にたて、一八九八年、ハワイ列島は、アメリカに合併された。
フイリツピン
 一八九八年、スペインと戰端をひらいたアメリカ海軍は、マニラを攻めてこれを保護した。さらにアメリカ陸軍二ケ師[#「二ケ師」は底本のママ]が上陸して、フイリツピンの勢力はスペインからアメリカにうつつた。
 以上は、百科辭典をひろげても、容易に知りうる程度のものである。もちろん大平洋戰爭以前までの歴史であるが、これだけをみても、東南アジア地圖の近世の性格は、そのあらましがうかがえるだろう。
 アルハベツト勢力東漸の、最初の根城は、印度であつた。印度で勝つ者は、東南アジアの王者であつた。佛、西、葡等をしりぞけたイギリスは、ラツフルズが予言したように、ペナン、マラツカ、シンガポール、香港、上海と東上して、支那大陸におよんだ。オランダは、たびたびイギリスにおびやかされたが、漸やくスマトラ、ジヤヴア其他をたもち、フランスも二世紀を費して、支那大陸の南邊を保護下においたが、ハワイからフイリツピンへと延びてきたアメリカは、また新らしい勢力であつたことがわかる。
 そしてもつと私らの注意をひく事實は、これらの新らしい勢力の變換が、あらまし十八世紀の後半から、十九世紀へかけて行われているということだ。たとえば、印度において十六世紀以來の植民地競爭は、葡、西、佛、和その他、十八世紀へかけての二百年間、その勢力の交代が、いとまなかつた。イギリスの東印度會社創立は、一六〇〇年で、以來百五十年間のうち、しばしば他の勢力におされて消長があつた。それが、十八世紀後半になつて、フランス植民地軍をおさえたころから、斷然と、他をしのいでしまつて、ジヨージ五世が、デリーで戴冠式をあげるまでの百年間の勝利のしぶりというものが、もはや、その以前の二世紀間にみる、交代する勝利者の、それとはまるでちがつたものになつている。フランスが、印度支那へ積極的に手をのばしはじめた「ツーラヌ條約」も、十八世紀の終りにちかいし、ジヤヴア、スマトラの再編成、オランダが、イギリスにおされた前後の出來事も十九世紀初頭であり、太平洋のむこう岸からのびてきた新勢力アメリカのそれも、またこれに前後した時期である。
 つまり、東南アジアへの、アルハベツト民族の進出は、アフリカ南端のケープタウン發見以來ではあるけれど、私が、東南アジアの地圖をみて感じる「漠然」としたものは、じつはこの一世紀間ばかりのうちに出來たことがらにうらずけられているということがわかつた。またアルハベツト民族の進出といつてもその中心はイギリスであるということもわかつた。
 そしてここで、誰しもがおのずと思ひあたるのは、同じ時期におこつた産業革命であろう。周知のようにヨーロツパの産業革命は、一七七〇年ころから一八五〇年ころまでに、完成されたと謂われている。しかも、それはイギリスを母胎としてはじまつた。一七六四年、ブラツクバーンの機屋ジエームズを嚆矢とする紡績機械の發明、同年、ワツトの蒸氣機關の發明などを先頭にして、以後の、一世紀餘は、地球をふきまくる機械産業誕生の嵐であつた。イギリスの一七七〇年を起點とすると、フランス、アメリカは五十年ずつを、ドイツは八十年を、日本は百年餘をおくれてこれにつずいた勘定になるのであるが、この産業の機械化、動力機關の發明こそ、インドにおいて、一六〇〇年來のイギリス東印度會社が、十八世紀の後半になつて、斷然植民地競爭にうちかち、東南アジア進出の先鋒となつた背景だということも、理解できよう。「海賊」とよばれたイギリス艦隊は、火力ではしる鐵張りの軍艦に乘つていた。同時に、彼らがアジア人たちにもたらす品物は「珍奇」であるばかりではなくて、もはや、豐富であり低廉であつた。火力ではしる軍艦にまもられた彼等の商船が、滿載した品物は、もはやアジアの王侯貴族への「土産物」くらいであることは出來なくて、アジアの民衆すべてを、顧客としなければならぬほどに膨脹していた。日本にはじめてきた蒸氣軍艦は、弘化元年、一八四四年の、オランダの開國勸告使節の艦隊であつたが、イギリスの軍艦は、もつと早くから、印度洋や南支那海をはしり廻つていたし、嘉永六年、一八五三年に、日本へ來航したアメリカのペルリの艦隊も、ロシヤのプーチヤチンの艦隊も、みな蒸氣軍艦であつた。
 日本海軍を建設した一人曾我祐準は慶應二年、一八六六年海軍術習得のために、イギリス商船に乘りくんで、上海、香港、シンガポール、ペナン、カルカツタなどを航海したが、當時の日記にこう書いてゐる。——
 十日(慶應二年十一月、一八六六年)
 香港に在り。氣候暖和、我が三月の如し。香港の地形の優勝なる、兵備の整々たる、英國が權力を東西に振ふ、實に此の根據あるを以てなり。感慨轉た禁ずる能はず。
 また
 二十日(同)新嘉坡に着。——馬車に乘り市街を見る。土民の野蠻なる風俗、倭小[#「倭小」は底本のママ]なる家屋、清國流民の夥多なる(約二萬人と云ふ)珍禽奇草の穰々たる、而して英人占領設備の至れる等、是皆吾人をして驚駭、羨嘆せしむる所なり。
 また、
 二十五日(同)ベンガル海を航す、此の日初めて測量を習ふ。余未だ測量器を有せざるを以て船長測量器壹個を貸し、且つ教示す。
 二十六日(同)初めて正確に經緯度を實測し得たり。喜び云ふべからず。(曾我祐準自叙傳一三三頁——一三五頁)
 筑後柳河藩の青年、曾我祐準もまた、東南アジアの海を乘り廻つてみて、注意を奪われざるを得なかつたものは、ヨーロツパ人とヨーロツパ文化であつた。「野蠻なる土民」も「夥多なる清國流民」も、その聲の下になつていたのであり、その聲を、自分の聲とするためには、日本の資本社會の「つくりて」たちは、まずは東南アジアを素通りしても、ヨーロツパ文化を獲得しなければならなかつたのであつて、つまることろ、東南アジアの地圖をみて、「漠然」としている私たちの感情というものは、その「つくられた人々」のもつものであるのだろう。


世界文化連載分、十三

 さて、それなら、サミユエル・ダイアとはどういう人物であつたろうか? まえに引用した支那叢報第二卷の解説文中にみる以上のものを、ざんねんながら、私はさがしだすことができない。あるいは、東方の基督教史や、彼の生國には、傳記があるのだろうと思うが、他日、東洋人によつてしさいな「傳記」が書かれなければ、東洋の恥となるだろう。とにかく、それは歴史專門家にゆずるとして、さて、私は前記のかんたんな解説文中の略歴からでも、あらまし、つぎのことは理解できるのである。王立病院主事の息子で、オツクスフオード大學の學生であつた彼が、アジアの布教師たらんとこころざして、ゴスポート神學校に轉じたという事實は、その主たる動機が、この二十歳の青年の、理想にあつたということだ。もし、ダイアがごくただの英國紳士であろうと欲するだけならば、彼が家庭は、經濟的なものにも妨げられなかつたし、才能的にも法律學生として、すでに道はひらけていたからである。また、一八二七年に故國を船出してから、一八四三年に、風土病で澳門で死ぬ日までの行動も、理想と信念に、生涯を捧げつくして悔いない人の、一本氣なコースとして表現されている。
 それではダイアのこの理想への情熱は、たまたま、彼一人だけに、とつぜん、うまれでたものだろうか? 昔から、宗教ほど思想的なものはないし、したがつて宗教家がおのれの理想に殉じたためしは、東西を通じてまことに多い。しかし、同時に、すべての宗教家が理想や信仰に殉じたのではなかつた。既成の形式のうちに安住してゐる無數の宗教家と、その眠られたばく大の時間をもつ、それぞれの宗教の歴史がある。そういう事實は、一方で、必らずしも宗教家個人の偉大さのみにはよらないという、つまり、宗教もまた、その「時代」と「事情」に左右されざるを得ないということを、歴史は、私たちにおしえてくれる。
 一法律學生をとらえて、生涯、その熱情をわきたたせたものに、何かがなくてはならぬ。「ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイ」とは何であるか? それが目的で神學校に轉じさせたところの「アジアの布教師たらん」というのはどんな特別な内容をもつていたものであるか? 新教徒ダイアの、基督への信仰が、かりに人一倍あつかつたとしても、ごく普通な意味で、神學校に入學し、町の教會牧師になろうとするのとも、あきらかにちがつている。また「アジアの布教師たらん」といつても、いわゆる「きりしたんばてれん」など、舊教徒のアジア布教ともちがうようである。バスコ・ダ・ガマの希望峰發見以來いわゆる「胡椒及び靈魂のために」アジアへやつてきた布教師の歴史は、消長はあれ、すでに四世紀を經ていて、たんにそれだけでは、特に十九世紀の一法律學生の熱情をとらえるには、何かしら不充分な氣がするではないか。
 私はかつてクリスチヤンであつたこともないし、また學問的な意味でも、基督教についてほとんど知らない。したがつて「ダイア活字」の生いたちを知るにつけて、べつに印刷工でもなかつた彼が、どうして漢字活字をつくろうなどいう、困難な念願を起したのか?「文化、宗教の傳播に非常に有用なもの」だつたからという、「支那叢報」第一卷の説明があるが、それなら、ダイアはなぜに「文化、宗教の傳播に」熱心になつたのか? というぐあいに、疑問は、だんだんつよくなつていつた。
 私は泥棒をとらえてから繩をなう式で、また、そんな書物をあさりはじめたのであるが、すると、たちまちにして、ダイアのような人物、つまり、東洋へ文化、宗教の傳播をしたいという熱情にかられて、はるばる地中海や大西洋から、印度洋、支那海をこえてやつてきた人間が、五人や八人ではなかつたということを知つた。たとえば、私のまずしい知識で、うたがいのないところをならべてみても、次のごとくであつた。
 一七九三年、印度のカルカツタに、はじめて新教の一派パプチスト[#「パプチスト」は底本の通り]派の傳道師ウイリアム・ケアリーが、協力者の外科醫ジヨン・トマスをともなつてきた。そして九年かかつて、セランポールで印度人の受洗者が、やつと一人できた。協力者トマスは、よろこびのあまり發狂してしまつたほどである。ケアリーは、三十八年間、一八三〇年まで、カルカツタを中心に活動し、三十五種類の印度語聖書を完成したが、そのほか植物學、農業學、印刷術などを、印度人のあいだにひろめ、特に社會事業につくすところが多かつた。たとえば、毎年の祭事には、幾人かの少年の生命を絶つて犧牲とする風習、または夫が死亡したときその若い寡婦は、火刑によつて殉死せねばならぬ風習など、ケアリーの努力によつて、永久に廢止された。ケアリーは、また英米の新教徒たちに手紙をおくつて、若いクリスチヤンたちを奮起させた。「ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイ」は、一七九五年に、アメリカの「外國傳道教會」は、一八一〇年に、ケアリーの「印度からの手紙」によつて、つくられた。一八一三年の、英國議會を通過した「印度國民の道徳及び宗教の向上に有益なる知識を移植すべき手段を講ずる事」という決議案は、「印度からの手紙」によつて、わきおこつた新教徒たちの輿論を反映したものであつた。
 一八〇六年、ヘンリー・マルチンが、東印度會社の説教者としてカルカツタにきたが、彼もケアリーの手紙によつて奮起した一人であつた。ペルシヤ、アラビヤ、ヒンヅー、サンスクリツト等の民族語を習得して、晩年ペルシヤ語の聖書を完成したが、一八一二年に長途の旅行中、小アジアで死んだ。
 一八〇七年、ロバート・モリソンは、イギリス人であるが、聖書の東洋語飜譯と出版の使命をおび、アメリカの「外國傳道協會員」として、廣東へきた。一八〇九年には、東印度會社廣東工場の支那語通譯官となつたが、のち、マライのマラツカに、「英華學堂」を創立、一八一三年に漢文聖書を出版、一八三四年に、廣東で死んだ。
 一八一二年、アメリカ人アドラム・ジヤツドソンが、カルカツタへきた。一八一三年、ビルマサイゴンへはいつて、のち、ビルマ語聖書をつくつた。
 一八一七年、イギリス人W・H・メドハーストが、マラツカへきた。彼はもともと印刷工であつたが、はじめ、ロバート・モリソンの英華學堂印刷所の印刷工募集に應じて、「ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサヱテイ」所屬となつたものである。モリソンの協力者ミルンの下にあつて、印刷工場ではたらくかたわら、東洋語を學び七ケ國語を自由に話した。のち、ペナン、バタビヤ、シンガポール、ボルネオ等を、傳道行脚してあるいたが、モリソンの死後、後繼者として一八三五年、廣東へきた。メドハーストには、日本語の字引「和英語彙」がある。發行年月を明らかにしないけれど、西洋人の日本語字典では、最初のものといわれ、支那叢報第一卷に紹介されているから、すくなくとも一八三三年以前であろう。——「和英語彙」についてであるが、何時の日か、日本語についても、もつと完全な説明や、鎖國内にちつ居しているこの國民の、各種の統計などについて、語り得るよう努力しよう——という、この本への批評からみても充分なものではなかつたらしいことがわかるが、メドハーストは、日本語を、英華學堂印刷所内にゐた「二人の日本人勞働者に習つた」と書いてある。
 一八二七年、サミユエル・ダイアがペナンへ來た年であるが、同じこの年にドイツ人ギユツツラフが、蘭印のバタビヤへきた。彼ははじめ、オランダの外國傳道協會員であつたが、まもなくロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイに籍を變えて、シンガポールへうつつた。この、日本にとつても周知の人物は、印度、シヤムなどをへて、北支の、天津まで單獨潜入してきたことがある。支那語に通じ、一八三四年には、日本漁民で、漂流者であつた尾張の岩吉、音吉、久吉等から日本語を學んだ。彼の、日本語版ヨハネ傳は、一八三七年、シンガポールで出版された。一八五一年、香港で死んだが、一八三七年、天保八年には「モリソン號」に乘りくんで、日本をおとずれたことがあり、琉球にもしばらく上陸していたことがある。(ついでに日本人についていうと、まえにのべたメドハーストが、英華學堂印刷所内の「二人の日本人勞働者」に日本語を教わつたというのが、ギユツツラフが教わつた岩吉、音吉、久吉等のいずれかであつたかどうか? 私は明らかにすることができぬけれど、メドハーストの、廣東移住が一八三五年で、「和英語彙」が一八三三年以前だとすると、とにかく英華學堂には、一八三三年以前に日本人がいたことがあるということになる。でなければ、日本にきたこともないメドハーストが、日本語をおぼえる機縁が考えられなくなる。「モリソン號」が、日本人漂民をのせて、江戸灣にきたときは、このほか肥後の漁民庄藏、壽三郎、力松——この力松は、一八五五年、プーチヤチンの艦隊をおつかけて、函館へきたイギリス軍艦の「通辯リキ」と、同一人物のようである。九州天草生れ、十三歳のとき漂流。片カナの日本語を示して通辯したという(大日本古文書卷ノ十)からながいこと外國人のあいだを轉々して、日本語の方が、へたになつていたのかも知れない——などもいた。田保橋潔氏の「幕末海外關係史」によると、このころ、イギリスおよびアメリカは、日本への關心から、フイリツピンやハワイ、南洋諸島にながれついた日本人(多くは漁師)を保護して、傳道教會などにいれ、澳門、香港あたりを轉々したおもむきが、書いてある。岩吉一行など、太平洋上にただようこと十四ケ月、カナダ、コロムビア州の沿岸、クインシヤイロツト島に流れついて、アメリカインデヤンのうちにとらわれていたということだし、そのほか名前もわからない日本人もいたと考えることができる。したがつて英華學堂内に「二人の日本人勞働者」が、一八三三年にいたとしても、みじん不思議ではないし、最初は印刷工であつたメドハーストが、たぶん、雜役かなんかしていただろう日本人勞働者から、日本語を教わつて、不完全にもしろ、世界最初の「日本語字引」をつくり、印刷したという事實はすこしも不自然ではない話であつた。)
 一八三〇年、アレキサンダー・ダフが、カルカツタに來た。以來、三十五年間を印度で活動し、一八六四年には「カルカツタ大學」を創立した。彼が社會事業その他につくした努力は、ケアリーをしのぐものがあつたという。たとえば近代印度國民文化運動の先驅者といわれる印度人ラーム・モーハン・ローイは、ダフの影響がうんだ人物の一人であつた。
 一八三〇年、アメリカ人、アピールとブリツヂマンの二人が、同じ船で、廣東へ來た。アピールは、アメリカ商人オリフアントの協力を得て、澳門に教會を作り、支那人の間に傳道し、ブリツヂマンは、一八三二年、廣東で「支那叢報」を發刊し、これを二十年間繼續した。「支那叢報」は、北はシベリヤから、南はアフリカのケープタウンに至る、日本を除いた、全アジアじうの、外人宣教師たちの連絡機關となる一方で、アメリカ大陸から、アルハベツト民族のうちに、讀者を持つたばかりでなく、アルハベツトがよめるアジア人にも、多くの讀者があつた。
 一八三二年、モリソンの息子、ロバート・ウイリアムズが廣東へ來た。彼は亡父の遺志によつて、支那傳道のための印刷者たるべく、少年のときから、英本國で、印刷術をまなんだ。廣東の「支那叢報」印刷所の監督となり、のち、澳門の東印度會社印刷所の監督者ともなつた。支那語に通じ、いくらか日本語もわかつた。一八五三年、アメリカの東印度洋艦隊司令長官ペルリが、江戸灣へやつてきたとき、彼は通譯官として、日本へ上陸した男である。
 一八三八年、W・ロカートが、廣東に來た。彼は醫師であつて、澳門に傳道病院をひらいたが、一八四二年、阿片戰爭によつて、上海が開港したその第一日めに移住した。以來十五年間、上海の傳道病院を經營し、のち、北京にも、最初の傳道病院をつくつた。一八六四年、元治元年歸國の途中、日本の横濱へ來て江戸にもはいつたことがある。
 一八三九年、A・ホブソンが、澳門へ來た。彼も醫師で、はじめロカートが上海にうつると、澳門の傳道病院をひきうけて經營し、一八五六年には、上海にうつつて、ふたたび、ロカートの上海傳道病院の後繼者となつた。ホブソンの「全體新論」「博物新篇」(以上廣東で發行)「西醫略説」「婦嬰新説」「内科新説」(以上上海で發行)の諸著述は、すべて漢文で書かれ、支那人の間に、急速な勢いで、西洋科學がひろまる大きな助けとなつた。
 以上、十人ばかりの新教傳道師の名前は、私が讀みかじつた二三の書物から、年代だけを順序として、ならべたものに過ぎない。このほかに、有名無名の新教徒傳道師たちが何倍も、或いは何十倍も、アジアにやつてきたか知れず、(支那におけるプロテスタント宣教師は一八六〇年現在百十五名だつたという。)また、この十人ばかりが、新教徒アジア傳道史のうちで、特にピツクアツプしなければならぬほどの位置を占めるものかどうかも、私に判斷はできない。しかし、これだけの羅列のうちから、ドイツ人ギユツツラフ(それものちにロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイに籍を變えたが)をのぞけば、すべて英米人であり、ことにイギリス人が大多數であることや、彼らの、最初に上陸した土地が、年代があたらしくなるにつれて、印度からマライ、南支の澳門から中支の上海へと急速に東漸してきていることもわかる。またもつと重大なことは、ヘンリー・マルチンが東印度會社の雇い説教者であることや、ロバート・モリソンが同じ會社の廣東工場通譯官であることや、アメリカ人アピールが、商人オリフアントの協力によつて教會をつくつたことや、ギユツツラフが、モリソンの後繼者として、東印度會社の通譯官だつたり、イギリスの支那進出に幾度か水先案内をつとめたことや、ロバート・ウイリヤムズが、ペルリの日本來航の通譯官だつたりしたことや、つまり、これらアジア布教師たちが、本國政府の、出先會社の、ないしは、商人たちと、きつてもきれぬ關係にあることが一目であきらかだということが、わかるのである。
 しかし、それと同時に、彼ら、アジアの布教師たちが、そういう事情のなかで、なかなか獨立的にも、新教徒流儀の理想をふりかざして活動しており、よし、異國の土に骨をうずめても、あえてかえりみるところがなかつたこともわかるであろう。たとえばケアリーの「印度からの手紙」は、一八一三年のイギリス議會をして「印度國民の道徳及び宗教の向上に有益なる知識を移植すべき手段を講ずる事」という長たらしい名前の決議案を通過させたが、それから、二十年のちの一八三三年には、印度の布教師たちは、イギリス政府からも、東印度會社からも、まつたく自由であり、拘束されないための「新教[#「新教」は底本のまま]の自由憲章」を、イギリス議會から獲得している。つまり、彼ら布教師たちは、政治的、經濟的な束縛から脱出して彼らの理想なり、信仰なりを實現せんとするところまで行つたのである。
 ケアリーは、基督新教東漸の、最初の礎石をきずいた人だという。インドを數世紀の永きにわたつて保護國とした、イギリスの歴史はうごかないところであるが、また、ケアリーや、アレキサンダー・ダフの名は、よし、印度の解放が實現されたのちまでも、印度人の記憶から消える日はないだろう。また英華學堂の創立者ロバート・モリソンや、「全體新論」「博物新篇」以下の著者A・ホブソンなどは、また、支那大陸の原住民から、永久に忘れられぬ人となつているにちがいない。印度語の、ビルマ語の、支那語の、ペルシヤ語の、日本語の、かれら布教師たちが、生涯の努力をかたむけて完成した、あらゆる民族語の聖書は、よしんば宗教としての基督教が、世界じうの人間の頭から亡びる日があつたとしても、當時の、皮膚のしろい人種たちが、考えだした文字と言葉に表現されているものは、永久に、アジアの地中に消化され、堆積となつてのこるだろう。
 これは明らかに人間の進歩であるし、プラスであつた。祭壇のまえに悶絶する少年、火炎のなかに叫喚する妻なる女性をみて、ケアリーが、力を借りるために、故國の人々にうつたえずにいられなかつた新らしい人間感情を、今日の私らは、容易に想像できる。しかも、當時の印度では「神聖」であるし「當然」だとする思想と力の方が、まだ勝つていたのであり、ここに、ケアリーの「印度からの手紙」が歴史にのこる値打ちをもつのであろう。
 しかもロンドンの、ワシントンの、青年たちのあいだでは、充分に「印度からの手紙」で、火を點じられるだけの、思想がもえていたのだ。かれら皮膚の白い青年たちは、アジアの人間たちは、許すべからざる野蕃と無智のなかに呻吟していると考えた。かれらの新教的基督は、かれらの理想をむすびつけるに値するほど、まだ新らしかつた。そして同時に、かれらの人間生活は、一本の手紙の内容によつては、たちまち、社會的に反響をよびおこすことのできる段階にも達していた。坊主ではない、醫者や、印刷職工やが、名利を離れて、生涯を捧げても、なお正當だとする精神状態に達していたのである。
 二十歳の大學生サミユエル・ダイアも、つまり、その一人であつた。ざんねんながら、アジアの近代活字にとつて忘れてならぬこの人物について、私はくわしい傳記を知らぬけれど、これだけは云えると思う。その生涯を、漢字のパンチ活字と、「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」に捧げつくしたものは、ダイアの新教徒的理想である「文化宗教の傳播」のためであつた。