世界文化連載分、十七

 阿片戰爭によつて割讓された香港と、ヴエールが剥ぎとられた上海とが、一八四二年以後を、どう變化していつたか?
「——香港島そのものの地勢を見廻して見給へ。諸君の眼は、點々と緑草の入つた代赭色の山に惹きつけられるだらう、丁度繪の懸つた壁を見るやうに。この山の麓の海岸には家が群がつて、人家の間からはまるで見せかけのやうに芭蕉の葉の叢が覗いてゐる。——その代りに砂と石とは全く夥しいものである。イギリス人達はこの材料を使ひこなしたのだ。山の頂上にも、石造の獨立家屋や、地均らしのすんだ敷地が見えるだらう。人間の勞力と技術は、絶壁の上まで伸びてゐるのだ。海岸通りの壯麗な邸宅を眺めてゐると、この山の未來の姿が自然と想像に浮んで來る。支那人たちは一八四二年の南京條約によつて、花かをる舟山列島の代りに、この不毛の岩石をイギリス人に讓渡したときには、紅毛の夷狄共が、この岩石をどうするのか夢にも考へなかつた。況んや彼等支那人自ら自分の手でこの岩石を切り出して、自分の首にかついで壁や胸墻に組み上げ、大砲を据ゑつけようなどとは全く夢にも考へなかつたのである……」
 ロシヤの作家ゴンチヤロフが「日本渡航記」にこう書いたのは一八五三年の六月だから、阿片戰爭後ちようど十年めだ。曽我祐準が、砲台をみあげて「轉た感慨に堪へず」と日記に書いた慶應二年からは、十三年前である。阿片戰爭の前年、一八四一年に、スエズ運河が開通して、地中海を近廻りしてくるイギリスの手は、この岩塊を團子のように捏ねあげて、都市にしてしまつた。最初の二年間に、港が築かれ軍艦と商船が碇泊した。英國政府が支出する、一八五五年までの、毎年の行政費は、二萬磅であつたが、軍事費は、その十倍の二十萬磅であつたという。
 しかし、この熱病の巣である岩塊が「極東に於ける商業上の重鎮」となるためには、「一八四二年には、香港停泊中の軍艦アギンコートの乘組員が、半數まで死亡」し、「一八四三年には、駐屯軍一千五百二十六名の、一年内入院度數七千八百九十二回、即ち平均一人入院各五回以上に及び、一隊の兵士約七、八百名中、二十一ケ月内に死亡者二百五十七名を算」(「上海史話」二七六頁)えねばならなかつたし、物貨の貿易が不振なときは、代つて「人間の貿易」をもしなければならなかつたのである。カリフオルニヤと濠洲で、金鑛が發見されて、海外移民の需要がさかんになつたとき、「支那の法律の及ばぬ地點で募集して、ここから積み送ることは出來」たところの香港からの「一八五三年の移民總數は、一萬三千五百九人」にのぼり、「ハバナへ向つた二萬四千人のうち、五千五百人すなはち總數の二二%以上が、中途で病死」(同、二八二頁)しなければならなかつたのである。
 そして一八六六年には、香港住民の死亡率が二%にくだり、一八四五年に、香港へ入港した商船の數一六八隻が、一八六八年には、二七、五〇〇隻に上昇し、「香港の發展は、實に地勢の關係による。その港灣は許多の船隻を停泊せしむることが出來、同時に商業は頻る[#「頻る」は底本のまま]安全自由であり、且つ如何なる關税も課せられず、汽船による運輸は、香港をその樞軸としてゐる。氣候の方面も、人工的改良によつて、頻る[#「頻る」は底本のまま]よくなつた。これら種々のものが、香港をして商業の中心地たらしめ、歐米、印度及び支那の貨物を、すべてここに集中せしめるのである。」(同、二八五頁)と、一八六三年に、イギリスの一商務官が、報告中に香港の繁榮を謳歌するに至つたが、「香港の發展は、實に地勢の關係による」というとき、イギリス人の頭には、石塊と熱病の巣そのものが眼中にあるのではなくて、支那海の咽喉くびをしめている、アジアの國々、島々にむかつてひらかれた、巨大な砲台と、港の位置をいうのであつたろう。
 そこで、イギリス自身は決してしやべらない一八五三年當時の香港島を、いま一度、ゴンチヤロフに語らせてみよう。「——ヴイクトリア市はなるほど一本の通りしかない。然しこの通りには家らしいものは殆んど一軒もないのだ。前に「家」といつたが、それは誤りで、ここにあるのはどれもこれも宮殿で、その台石は海の水に浸つているのだ。これらの宮殿のバルコニーやヴヱランダは海に面し」てゐるのだつたが、「二つの住宅地から出來」てゐる支那街の方は「その一つは小舟を住み家とし、今一つは小さな棲み家である。その家はぎつしりとかたまつて、海岸一杯にへばりつき、中には海に打ちこんだ杭の上に建て」たものであつた。そして、この山の未來を誤りなく想像することの出來たロシアの作家は、當時の支那人がどう働いていたかをも見のがさなかつたのである。「支那町を一渡り——歩いて、私達は丘に登つた。丘は丁度この邊で人工的に切り拔いて滑らかな絶壁となつてゐた。ここには新道が出來ることになつてゐた。そこには一聯隊程の勞働者が集つて、土を掘つたり、石を切つたり、塵芥を運んだりしてゐた。それは全部ポルトガルの植民地たる澳門から來た移民である。イギリス人達がここで植民を目論んで、一聲呼聲をあげたかと思ふと、澳門は殆んどがら空きになつてしまつた。仕事が、つまり食と金が、三萬人からの支那人を此處へ誘つたのである。彼等は澳門で貧乏しているよりも、此處で無限の勞働と無盡藏の賃銀を取つた方がよいと思つたのだ。彼らは、最初の間猖獗を極めた傳染性の熱病にもおどろかなかつた。彼らはイギリスの指導を受けて、土地を整理し乾燥させた。——」(前掲「日本渡航記」井上滿譯)
 それでは一つ、開港後の上海はどうであつたろう? 南京條約成立の最初の年に、イギリス人は二十五人しかいなかつた。彼らはみな上海城内に住んでいたが、將來の發展をみこして、城外の土地を買いつけた。その値段が一畝あたり五十錢から八十錢であつた。
 一八四五年になつて、上海道台と初代英領事との間に、土地章程がきめられて、上海最初の外人租借地が出來た。當時の面積は八百三十畝であつたが、一八四八年には、一躍二千八百二十畝となり、この擴張要求を貫徹したのが、二代目領事であり、のち、日本へきて初代駐日公使となつた、「吾人は不斷に新しく擴大される市場を——」云々のぬし、オールコツクであつた。
 一八四六年には、アメリカが、一八四八年には、フランスが、というふうに、上海は、たちまちアルハベツトの聲におゝわれていつた。開港翌年、八、五八四噸が、五年後には、五二、四七四噸の、ヨーロツパ船が入港するようになり、そして輸入品の五分の三までが、あいかわらず阿片であつた。「イギリス人に開かれた五港の一つである上海——が、現在如何に輝かしい役割を演じてゐるか、又將來演ずるであらうかといふことを結論することは出來ない。現在でも上海はその巨大な貿易高において、カルカツタに次いで、この界隈第一位を占め、香港、廣東、シドニーの名聲を蔽うてゐる。それが全く阿片のためだ! 支那人は阿片の代りに茶も、絹も——汗も、血も、エネルギーも、知識も、全生命も拂つてゐるのだ。イギリス人とアメリカ人はそれを全部平然として取り上げて——顏も赧らめずにこの非難を甘受してゐる。——上海に着く十六浬手前の呉淞には——阿片船が一艦隊となつて碇泊してゐる。——この阿片船は荷物を卸すばかりである。——この商賣は支那政府によつて禁止されてをり、呪はれてさへゐるのだが、力を伴はぬ呪咀など問題にならぬのだ。——」と、同じヨーロツパ人のゴンチヤロフが痛烈に書いた。
 この偉大なる作家が、上海に上陸したのは、一八五三年の十一月で、香港を訪れてから五カ月めである。上海に關する外國人の紀行文が、どれくらいあるか、私にわからぬけれど、「オブロモフ」の著者であるゴンチヤロフの名譽にかけて、私は、「日本渡航記」の一部「上海」を信用するのであるが、このロシヤ作家のうしろについて、しばらく當時の上海風景をみてゆこう。「上海に近づくに從つて、河は目立つて活氣を呈して來た。木の繊維や皮で作つた例の赤紫の帆をかけた戎克が絶え間なく行違つた。支那の戎克は構造はいくらか日本の小舟に似てゐるが、あの艪の切込みがないだけだ。」前卷でみたように、この作家は、長崎で、傳馬船の艪の構造を一と眼みて、當時の日本の封建的性格を指摘したのであつた。「そら上海が見え出した。——立派なヨーロツパ風の建築物、金色燦爛たる禮拜堂、プロテスタント派の教會、公園——さう云つたものが全部まだぼんやりした塊になつて、まるで教會が水の上に建つてゐて、船が街路の上に浮んでゐる樣に見え」る朝方の風景のなかを上陸して、「私は眼を皿のやうにして支那を探し」ながら、やがて市内に入つた。そして、市内を一巡したとき、もうこの作家は、はつきりと、當時の支那人の生活ぶりから、この民族の特徴的性格が、新らしいヨーロツパ人たちと、どう觸れあつてるかを描寫してしまつたのである。——
支那人は活動的な民族である。仕事をしてない人間は殆んどない。その騒音、混雜、動き、叫び、話聲。一歩毎に擔き人夫に出合ふ。彼等は規則正しい叫びをあげて調子を取りながら、大股に走るやうに荷物を搬んでゐる。——從順で謙遜で非常に身綺麗である。こんな人夫となら出會つても恐ろしくはない。例の規則正しい叫び聲をたてて警告を發する。——もし相手が聽き入れなかつたり、道を讓らうとしないなら、こちらで立停つて道を讓るのである。」そして「數名の支那人が家の戸口のところで夕食を食つてゐ」る上海郊外では「二本の箸を使つて敏捷に茶碗から口の中へ飯をかきこんで、いつまでも詰めこんでゐたものだから、私達が『請々《チンチン》!』(今日は)と挨拶しても、返事が出來ないで、愛想よく頭を下げるばかりであつた。」という支那農民について「だがこの惡臭や、哀れな窮乏ぶりや、泥濘があるにもかかはらず、農業上、村内經營上の些細な點に至るまで、支那人の知識と、秩序と、几張面[#「几張面」は底本のまま]さを認めざるを得なかつた。——どんな物でも投げやりにしないで、十分考へて用に使つてある。すべてが仕上げ濟みであり、完成されてゐる。無雜作に、所構はずに捨てられたものは藁の小束一つ見えないのだ。倒れたままの垣根とか、畑の中をうろついてゐる羊や牛といふやうなものもない。——ここではどんな木片でも、小石でも、芥でも、必らずそれぞれの使途があり、用に供せられるやうに思はれる。——」と。
 ゴンチヤロフのこの觀察は、アジア人である私らがみるとき、逆にいえば、それは當時のロシヤ人氣質を裏寫しにしているようなものだけれど、これ以上のすぐれた觀察は、恐らく一世紀後の今日にも無いであろう。そして勤勉で、從順で、几帳面で、しかも「哀れな窮乏ぶり」の、當時の支那人はヨーロツパの新らしい主人たちをどういう眼でみたか?「私達は部落と離れて遊歩道に出た。これは乘馬用として、又散歩道として、ヨーロツパ人のために割いた郊外の一地帶である。——私達は競馬場に出た。上海の男女ヨーロツパ人がそこで行つたり來たり馬を乘り廻してゐた。イギリスから輸入した優秀なアングロ種の馬を飛ばす者もあれば、小さな支那馬に乘る者もある。無蓋馬車に乘つて一家族が來るかと思ふと、牧師の細君と思はれるレデイを、二本の竹竿に鐵製の椅子を置いて四人の支那人が擔いでゐるのもあつた。數名の歩行者、船の士官、それに私達が觀客を作つてゐた。いや皆が登場人物となつてゐたのだ。本當の觀客は都市、農村の平和な住人であり、一日の仕事を終つた支那の商人や農民であつた。そこにはいろいろな服裝が入りまじつてゐた。商人の絹の上衣や廣幅のズボン、農夫の青い長着や——この群衆が文字通り手をこまぬいて、しかも好奇心をもつて、外國人を見まもつてゐた。その外國人は力づくで彼等の領土に闖入したばかりでなく、自分は勝手に畑の中を歩き廻るくせに、主人たる支那人がこの道路上を通行することを禁ずるといふ文句を書いた立札まで立てたのである。支那人たちは苦々しげに一人一人の通行人を送迎してゐた。ことに乘馬の婦人は彼等の注意を惹いてゐた。これは彼等の國では未曾有の現象だ! 支那の婦人はまだ家政上の附屬品の樣なもので、牝獅子となるのは前途遼遠なのだ。——」
 己れ自身をさえ「登場人物」とすることのできる眼でみた、この數行によつて、はじめて當時の上海風景が、一世紀後の私らに遺憾なく傳えられたのだといえよう。竹竿につるした轎(かご)をかついでいる四人の支那人と、それに乘つている髮の毛の赤いヨーロツパ婦人と、アングロ種の馬を乘り廻すレデイと「手をこまぬいて」、眼をみはつている支那人群衆と。そこに阿片や艦隊をふくめても、なお「不斷に増大する生産」力に驅りたてられて、際限なくおしよせてくるアルハベット人種の、新らしい相貌がある。しかも一方では、支那の婦人はまだ家政上の附屬品」でしかなく、印度産の罌粟の實が、そつくり吸いこまれるような古い支那への、ゴンチヤロフ自身の、おどろきと諷刺があつた。——「アメリカ領事カニングハム氏は、有名なアメリカのロツセル商事會社の上海代表者を兼任してゐるが、その邸宅は上海で最も立派な邸宅の一つである。この邸宅の建築費は五萬ドルを越えた。邸宅の周圍は公園だ。いや正しく云へば樹を植えた庭だ。廣々としたヴエランダは美しい柱廊の上に乘つてゐる。夏は涼しいことであらう。太陽は日覆のかかつた窓を襲ふことはないのだ。バルコニーの下に當る車寄せには、街頭に向つて大きな大砲が一門据えてあつた。——」(前掲「日本渡航記」)
 私らはこれ以上、ロシア作家をわずらわさなくてもよいだろう。まさに、一八五三年代の上海は、このとおりであつた。香港を團子のように捏ねあげたおなじ力は、上海を、開港十年めにすでにアジアにおける最大の國際都市にしてしまつたのであつた。マンチエスターの、ニユーヨークの、リオンの「不斷に増大する生産の欲望と力」は、こういう形で噴出していたのである。阿片と大砲はその花束の一つに過ぎない。ヨーロツパの船は、絹や茶を搬び去つてゆき、綿製品や毛製品を搬んで來た。呉淞河に懸けられた、眞ン中から二つに割れる鐵の橋は、支那人から橋錢をとりあげたし、汽車は高價な賃錢を請求した。しかし橋は渡らねばならぬし、レールにそむいて歩くわけにはゆかない。たとえばカニングハム氏の邸宅に据えられた大砲が、どこにむかつて砲口をひらいているか、それはゴンチヤロフよりも支那人自身が一等よく知つているところだけれど、しかし同時に、大切なことは「新しい支那」にとつては、それは恐怖である以上に、驚異であり發見でもあるということだつた。
 最初の呉淞鐵道が開通したとき、最後まで反對したのは支那政府であつたが、乘客は連日超滿員であつた。延長四分の三哩のレールの上を、時速十五哩で「中華帝國號」がはしつたとき、線路の兩側にむらがつた支那民衆と、同じ支那人乘客は歓呼して喜んだといわれる。もつとも最初の呉淞鐵道は、ある日、金に買われた兵士風の男が、線路の上を眞ツすぐにあるいてきて、汽罐車の下敷になつたということから、支那政府とイギリス領事との政治的接渉となつて、揚句は數十萬兩で買ひとつた支那政府の手で、レールも汽罐車も、わざわざ臺灣の海邊へはこんで遺棄される始末となり、その後十餘年間は、支那大陸に汽車は見られなくなつたけれど、一度發見された汽車は、やはり「新しい支那」にとつては限りなき將來をもつものであつたろう。それは紅ツ毛の鐵道經營者がいくら儲けたかとか、または「民衆の興味を惧れた」支那政府の謀略が、どれほど成功したかとか、そういうことからはまつたく獨立の、支那民衆の驚異であり發見であつたのだ。
「——彼等には狂信といふことがない。彼等は佛教徒の狂信にさへ感染しなかつたのである。孔子教は宗教ではなくて、單なる通俗倫理であり、實踐哲學であつて、如何なる宗教をも妨碍するものではない。——支那人の實際的、工業的精神には、カトリツク教よりも、新教の精神の方がぴつたりするやうである。新教徒は通商を開始し、最後に宗教を持つて來た。支那人は通商の方は大喜びで取入れ、宗教の方は何も邪魔にもならぬので、目立たぬやうに取入れてゐる。——」と、これはゴンチヤロフのみた支那民衆のあざやかな特質であるけれど、しかしこの特質は同時に、一方ではヨーロツパ文明を充分に吸收消化するばかりか、アジア的特徴をも加えて、プラスにしうるところまで成長した時代的素質ででもあつたろう。——
「上海で私は支那語の本を三册買つた。新約聖書と地理とイソツプ物語だ。これは新教宣教師の好意であつた。——最も活躍してゐる宣教師の一人であるメドハースト氏は支那に三十年も生活し、休む暇もなくキリスト教の傳道に活躍し、ヨーロツパの本を支那語に譯し、各地を巡回してゐる。この人は現在は上海に住んでゐる。」と、ゆくりなくも、晩年のメドハーストの消息を、ゴンチヤロフはつたえている。
 前卷でみたように、江戸と長崎と凾館とをひらかせたプーチヤチンの艦隊について、日本にやつてきた、この帝政ロシアの九等官は、長崎で、片假名の流しこみ活字などつくつていた。まだ若い小通詞の「昌造」に、たびたび逢つているが、上海で、ペルリの艦隊をまちあわせているうちに、もと、イギリスの印刷工、いわばダイア活字の協力者、もう老人のメドハーストに逢つているのであつた。ここでいう「支那語の本三册」とは、もちろん、漢字活字による印刷物であることがわかるが、もうそのころ「華字版の印刷物」は、新約聖書や、イソツプ物語や、地理やの「三册」ばかりではなかつた。ダイア以來、コール以來の、アルハベット人によつてつくられた、パンチによる漢字活字の、鉛の活字の、近代的印刷術が花ひらいていたのであつた。中牟田倉之助みやげにみるような「重學淺説」や「代數學」などがあつたように、日本に渡つて、近代醫術の手がかりともなつた、上海傳道病院々長、そしてアメリカ外國傳道協會々員A・ホブソンの「西醫略説」や、「内科新説」や、または「博物新篇」などいつたものが、ひろく支那人のあいだに、人類にとつて新らしく有益な、澤山の知識をふりまいていたのであつて、そして、こんなアルハベツト人種の、善き知惠と理想とこそが、じつは彼らの大砲や阿片におとらず、支那を、アジアを、虜にしたにちがいないと、私は考える。