世界文化連載分、十五

 そして私はさらにここで、インドへきたウイリヤム・ケアリーを先頭とする、新教徒宣教師たちのアジアへの發足が、やはり十八世紀の後半からはじまつているのに思いあたるのである。もちろん、その以前にも、宣教師たちは印度その他に散在していたことは明らかであるか「胡椒及び靈魂のために」といつたような、クラシツクな舊教的なものでなしに、「ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイ」や「外國傳道協會」を結成させた「印度からの手紙」といつたような、近代的な新教的な意味でである。そしてどういう事情によつて終刊されたか明らかにしないけれど、かれらの聯絡機關であつた、支那叢報が創刊の一八三二年から二十年存續したとすると、一八五一年まで、つまり彼らの旺盛な活動もこの時期にあたるのである。
 この同時代性は、明らかにイギリスを先頭とする産業革命との因果關係を物語るものであろう。事實、かれらは出先會社や工場の雇い説教者であつたり、通譯官であつたり、水先案内人であつたりした。ロバート・ウイリヤムズは嘉永六年最初のペルリの日本來航の通譯官であつたし、ギユツツラフは一八三二年、アーモスト卿の案内人として未踏の中支、北支の全沿岸を一巡し、いわば十年後の「阿片戰爭」の露拂いをしたのである。また、澳門にミツシヨンスクールをつくつて、アピールを活動させたアメリカのオリフアント會社こそ、渡邊華山に「愼機論」を、高野長英に「夢物語」を書かせる動機となつた「モリソン號」の仕立人であつたし、つまり、かれら新教宣教師たちと、その活動は、その本國の意志をおびて出動してくる艦隊や、出先會社や、出先き工場と、無關係には考えることが出來ぬほど、密接なことがわかろう。
 したがつて、かれら新教徒宣教師たちの考え方も、ペルリの艦隊やアーモスト卿や、オリフアント會社的なものから、まつたく別物であることは出來ないわけである。たとえば支那叢報第一卷には前に述べたメドハーストの「和英語彙」の紹介にさきだつて、こう書いてある。——日本が、その政策を變更して鎖國を解く日もさう遠くはあるまい。位置といひ大きさといひまたその他の點からも日本は英國に似てゐる。日本が正しい教を受け容れるならば、大して遠くない將來に西の英國と拮抗するに至るであらう。かつてのやうな排外的風潮は今の日本にはなくなつてゐるが、しかしまだまだである。——と、これが一八三三年だから、まだ鎖國の土臺も鞏固であつた天保四年になるが、これと、前にみた「和英語彙」紹介文とあわせ讀むならば、ペルリの艦隊やオリフアント會社的なものと共通する半面が、容易に理解できるというものである。
 つまり、彼ら新教徒宣教師たちは、東南アジアとその住民を、「顧客」にしてしまつたヨーロツパの資本主義と、一身同體であつた。イギリスを先頭とする産業革命の「申し子」であつた。それは一見むじゆんする。いや一見どころかあくまでむじゆんする。たとえば、印度人にとつてケアリーは忘れてならぬイギリス人であるが、ジヨーヂ五世が、戴冠式をデリーで擧行したという事實は、また別の意味で印度人にとつては忘れてならぬことであろう。では、このむじゆんはどこからくるだろうか?
 もちろん、それはかんたん明瞭である。機械化による生産の劃時代的發達である。産業革命が、人類の進歩であるならば、ヨーロツパ資本主義も、またその初期においては進歩的であることが出來たということである。東南アジアを顧客にし、阿片戰爭によつて、鎖港上海をおし破つたような結果は、すでに、最初から内包されていた矛盾であつたけれども、それが限界に達しない以前には、ヨーロツパの資本主義も、その流儀で「自由」であり「平和」であることができた。もつともかれらの「自由」と「平和」は、條件つきであり、たとえば一方で、阿片を密輸しておいて、一方では「普天の下卒土の濱、國のさま/″\なるその數を知らず、されどその一として、至高の支配を受けざるはなく、悉くこれ一家の同胞なり——互に他に對して上位に誇ることあるべからず」と、上海城壁に布告したような、「平等」主義であるが、阿片の密輸が事實ならば布告の文意もまた嘘ではなかつたのである。まだ、印度産の阿片が、しきりと澳門や廣東から、はこばれていたとき、まえにみたイラ・トラシーの「鴉片速改文」が、おなじ廣東で、ダイアの活字で、印刷發行されているのである。私はこの本の内容をみるすべをもたぬけれど、支那人で、英華學堂出身の梁亞發の協力によつてできているこのパンフレツトが、支那人の阿片吸飮を戒ましめた目的のものであるだろうことは、疑いのないところで、イラ・トラシーの阿片の害を説いた本心を、また、だれが疑うことができよう。
東洋文化史上における基督教」(三六二頁)で、溝口靖夫氏は、前にのべたメドハーストが(Ibid, P.366)じぶんの、當時の經驗を、追懷した文章を根據にして、つぎのようにのべているところがある。——第五の困難は、鴉片問題と宣教師の關係であつた。メドハーストが、廣東についた一八三五年は、鴉片戰爭の直前であり、支那英國のあいだに、險惡な空氣がみなぎつていた。このときに當つて、宣教師たちは、きわめて困難なる立場におかれた。宣教師たちは、しばしば鴉片をつんだ船に乘つてきた。しかも、メドハーストらは、切符は買つているが、積荷について容嘴する權利はなかつた。‥‥宣教師は、英國人と支那人との間にたつて、しばしば通譯の勞をとらねばならなかつたが、こんなとき支那人は鴉片貿易は、正義にかなえるものなりや否や? をただすのであつた。‥‥故に、當時宣教師たちのこいねがつたのは、一艘の傳道用船をうることであつた。これにより鴉片の罪惡からまぬがるることであつた。——一艘の傳道船で、鴉片からのがれることはできないけれど一と口にいつて、「印度からの手紙」は、英國議會をして、宣教師らの活動を保證させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」をかちとらねばならぬほどそれが首かせになつたことをしめしている。つまり、産業革命がうみだした、アルハベツト人種の革命的進歩性は、おなじ、産業革命がうみだした「阿片の罪惡」と、衝突しなければならなかつたが、このむじゆんこそ資本主義のむじゆんの中味であり、限界であつた。
 しかし、産業革命がはこんでくるものは、阿片だけではなかつた。まだアジアの人間がみたこともない、新らしく、そして豐富で、低廉な品物のかずかずであつた。それは封建制以前の世界にいる、原始的な民族たちを魅惑させるに充分であつた。産業革命後の一世紀ばかりは、若い資本主義にとつて、東南アジアは、はても知れぬ、ゆたかな市場であつた。かれらは自信にみちみちて、「自由」でもあり、「平和」であることもできたのだ。
シンガポールの建設者ラツフルズが——吾人の目的は領地にあらず、貿易にあり。先づ通商咽喉の要區を扼するを得ば、吾人は臨機應變——云々と云つたように、また日本にきた初代のイギリス公使オールコツクも——吾人は不斷に増大する生産の慾望と力とに應ぜんが爲め、新らしき不斷に擴大する市場をもとめる。そして、この市場は主として極東に横たわつて居る如く見える。——(山口和雄著「幕末貿易史」三頁)と云つた。また、前卷でみたごとく、江戸灣にきた「嘉永の黒船」の目的が、第一に通商にあつたこと、ペルリが、本國海軍長官に宛てた報告文にみる通りである。つまり、彼らの、新らしい、豐富で低廉な品物が、アジアじうに、まだ充分のはけ口を、未開拓の市場を、もつている間は、「自由」であつたし「平和」であつた。——吾人の目的は領地にあらず、貿易にあり——という間は、貿易通商が可能ならば、機械生産によつて利益が保證されるならば、そして貿易を妨げるものが、その對象國になかつたならば、または、競爭者としての第三國がなかつたならば、「平和」で差しつかえなかつたのである。しかも東南アジアの隅々まで、市場が「發見」されつくしてしもう間は、それは可能だつたわけである。それは前節でみたように、あの廣大な東南アジアぜんたいの、「顧客」にされてしもう過程が、大平洋戰爭後の今日からみれば、その軍事力が、おどろく程微少なものであつたことでも、判斷できる。
 ——吾人は不斷に増大する生産の慾望と力とに應ぜんがため、新らしき不斷に擴大する市場を求める。——というオールコツクの言葉は自信にみちみちているではないか。それは機械化された生産力が云わせる言葉であつた。産業革命以後には、武器さえ商品であつたのだ。明治維新前まで、つまり開港後の安政五年から慶應三年まで日本の幕府及び諸侯が買い入れた艦船の數が百十一、價格が七百萬弗で、鐵砲がおよそ四十八萬挺、價格が六百六十萬弗であつて、そのうち六割がイギリス、三割がアメリカだつたという。
 少青年期のヨーロツパ資本主義にとつては、まだ——領地にあらず貿易にあり——であつた。そして——不斷に増大する生産——こそ、オール・ライトであつた。上海城壁の布告文が——されど一として至高の天父の支配を受けざるはなく——と云い「和英語彙」の紹介文が——日本が正しい教を受け容れるならば——というのも、つまりは、其の背光に照らしだされたイデオロギーであつた。そこに、新教プロテスタントの振つて[#「振つて」は底本のまま]たつところがあつた。したがつて——領地にあらず、貿易にあり——と云えなくなつたとき、生産が——不斷に増大——しなくなつたとき、プロステタント[#「プロステタント」は底本のママ]も、昔日の面影を變えたこと、今日の私らが見るとおりであるけれど、サミユエル・ダイアをうんだ當時にあつては、「印度からの手紙」は、二十年後には、もはや出先會社や、本國の制肘覇絆[#「覇絆」は底本のまま]からさえも脱しようとして、「信教の自由憲章」を通過せしむるところまでいつたのであつた。
 私のような門外漢でも、これをヨーロツパ宗教史の上からみれば羅馬教會に叛旗をひるがえしたカルヴインや、ルツター系統のプロテスタント派も、大陸からイギリスへ渡つて、産業革命とともにはじめて完成したのだということがわかる。新教發生の本土であつたドイツその他の大陸では、新教の聖書的究義に日をくらしているとき、イギリスに渡つたプロテスタント派は、カトリツク派の英國々教會をも新教化してしもう勢いで、活溌な實踐段階に入つていつた。館岡剛氏の「基督教會史」(四〇九頁)によると、十八世紀後半のイギリスを述べて——政府部内に多くの改革や大なる殖民政策の發達あり海の覇王となつた。宗教状態は此期のはじめメソヂスト運動に依り急速に改善せられ、信仰の自由と平等が著るしく發達して、多くの現代的宗教運動が起つた。(一)現代の日曜學校は一七八〇年、グロスター市に於てロボルト・レイクスの創始したるものである。(二)一七九二年、バプチスト派のウイリヤム・ケアリーは印度に渡り、新教徒外國傳道の先驅者となつた。(三)一八四〇年、倫敦に於て基督教青年會が創設せられた。(四)一八六一年、倫敦に於て救世軍が創設せられた。——ということが書いてある。イギリス議會が奴隷制廢止を國法としたのも、「印度からの手紙」がイギリス青年の血を湧かせていた一八二四年であるが、「神の前には萬人平等である」という、ルツター以來のプロテスタント教義はイギリスの新教徒によつて、はじめて實踐に移されたわけである。プロテスタントは司祭制度、僧制的教會を否定した。彼らにとつて、羅馬本山の坊主共は、「神の仲買人」でしかなく、基督と人間の間の仲介者は要らぬと主張した。教會は「神の住宅」ではなくて、基督を信ずる人間の祈祷所であり、集會場所であればよいとした。神の救いは人間の信仰のうちにだけあるのであつて、教會の權威のうちにあるのではない。坊主はたんに平信徒の代表者でしかなく、基督にとつて、坊主と坊主でない人間との區別がある筈がないとしたのであつた。そしてこの主張と實踐こそ、十六世紀以來の宗教改革運動が到達した成果であつた。幾世紀かにわたつて、ヨーロツパの封建的歴史に低く垂れこめていた僧制的重壓は、いわば基督紀元以來、産業革命の背景によつてこそ、のぞかれたといえる。「神の仲買人」は放逐されたし、いまや基督はあらゆる人間にとつて平等に君臨したのである。ケアリー以來の新教宣教師たちは、いま一歩、人間界にちかく基督を引きおろしてくる教義の持主であつたのであり、同時に「海の覇王」となつたイギリスの産業革命のうちにこそ誕生し得たものであつた。
 したがつて、同じく東洋へきて、同じく基督の教えを傳道するために生涯をささげた宣教師ではあつても、いわゆる「きりしたんばてれん」のそれと、支那叢報を連絡機關として活動した新教宣教師たちのそれとが、おのずからおもむきを異にしているのは當然であつた。それは舊教と新教の相違であると同時に、基督自身の相異でもあつた。その相異をおおまかにいうならば、「きりしたんばてれん」たちは、まずアジアの王侯貴族のうちに、信者を求めたのにくらべて、ケアリー以來の新教宣教師たちは、いきなりアジアの民衆のなかへ、信者をもとめていつたことなどにあらわれている。
 周知のように、フランシスコ・ザビエーが、印度から日本の鹿兒島へ來たのは、一五四九年であつた。また、マテオ・リツチが印度から支那へ來て北京に教會を建てたのは、一六〇一年だつた。そしてザビエーが最初に會つたのは鹿兒島の領主島津貴久であつたし、次には山口の領主大内義隆であつたし、また次には豐後の領主大友義鎭であつた。以來日本へ來た同派の宣教師たちの多くが、そのようであつた。ガスパル・ビレラは、京都で將軍足利義輝に謁しルイス・フロイスは、二條城で織田信長に謁し、オルガンチノ・グネツキは、大阪で豐臣秀吉に謁した。もちろん、それは「きりしたん」布教の許可を受けるためであつたが、同時に、有力者のうちに基督信者を獲るためでもあつた。ザビエー以來の大友、大村、有馬などの九州の諸大名、または京都守護職和田伊賀守や、丹波の内藤飛騨守、八尾の池田丹後守、高槻の高山右近等、その他多くの「きりしたん大名」を私らは知つている。そしてザビエー以來の「ばてれん」たちは、まず、持參した土産物を、王侯貴族に獻上した。ザビエーが大内義隆に謁したときは、時計、眼鏡、三連銃、ガラス等を。ビレラが、義輝に謁したときは、砂時計等を。フロイスが、信長に謁したときは、ガラス瓶にいれた金米糖や蝋燭等を上へたてまつつた。もちろん、ザビエー以來の「ばてれん」たちの布教對象が王侯貴族のみにあつたのでもなく、珍奇な獻上物も、布教の許可と便宜を得んがための方便であつたことは、いうまでもないけれども、また、百人の庶民信徒よりも、一人の有力な信徒を得るのを喜んだのはたしかであつた。たとえば永祿八年、一五六五年に、アジアへゆく宣教師たちの、いわば世話係であつた、當時の蘭領印度總督ドン・アントン・デ・ノローニアにあてて、ポルトガル王ドン・セバスチヤンは、こう書いてゐる。——友なる總督、朕は卿に對し、大に祝意を表す。日本に在る耶蘇會のバードレ等が、昨年認めたる書翰に依り、かの地方に於て、聖教の弘布し、歸依する者多きこと、並びに、かの地方に於て、重要なる地位を占むる大村の領主ドン・バルトラメウが、多數の家臣と共に我聖教に歸依し、臣民に、洗禮を受くることを勤め、大に布教を庇護援助することを聞き、我等の主が、彼を用ひ、同國を救ひ、歸服せしむる道具たらしめ給ふことを明かに悟りたり。——今、彼に與ふる一書を本書に添へて卿に送付す云々(辻善之助著「増訂海外交通史話」三八二頁)——これは、たぶんに政治的であるけれども、當時のポルトガルや、スペインと、羅馬本山との關係を考えあわせれば、最もたしかな宗教的色彩であつたともいえよう。また一五八二年、有名な「天正遣歐使節」が、羅馬へいつたとき、法王シスト五世は、明らかに三人の使節を、區別した。——豐後、有馬、大村三侯への答書を認め、十字架の遺物[#「遺物」は底本のまま]三箇、銀の劍二口、天鵞絨の帽子二箇を賜はつた。この十字架は耶蘇の鮮血を染めたもの、劍と帽子とは歐洲列國の國王に與へられるもの、大友と有馬とを王とし、大村を侯と認め、前二者にだけ與へられた。(幸田成友著「日歐通交史」一〇七頁)——大友も有馬も、大村同樣大名であつて、羅馬本山の誤認であるけれど、區別したということは、誤認以外のものである。
 三人の「日本貴公子」によつて代表さるる天正遣歐使節は、日本における基督教の初期を飾る花であつたが、同時に、それが當時の性格を象徴しているとも云える。秀吉の禁教令がでた天正十五年には、日本じうの「きりしたん」信徒は、十五歳に達したといわれ、徳川期になつても、島原、天草等の騷動を思えば、民衆のうちにも、深く根をおろしたことは疑いないところだけれど、——耶蘇會は布教を盛大ならしむる方法として、まず國郡の主宰者を教化し、その命令によつて全國全郡の土民を悉く教化する策を採つた。——大村領、有馬領、大友領において幾度かその實例が生じている。(前掲一二五頁)——というようなことが、當時の日本の政治事情、交通や經濟事情としぜんに防び[#「防び」は底本のまま]ついているばかりでなく、羅馬本山の、舊教的性格に添うものでもあつたのだ。
 そして、支那大陸にあつても、この性格は、およそ共通していた。ザビエーと同じジエスイツト派のマテオ・リツチは、明の神宗の寵遇によつて、最初の基礎を拓いたというし、以來、ロンゴ・バルヂ、アダム・シヤール、フエル・ビーストなど、明朝の保護により、或は明朝の家來ともなつて、布教した。もつとも、支那では、明朝から清朝の康煕乾隆代に至るまで、つまり、布教を許された期間が永かつたせいで、宣教師たちによる西洋文化の移植も、日本の場合にくらべれば、めだつているようだけれど、それらもすべて、まずは、支配者の寵遇により、貴族土侯の信者の權力によつて、基督への信仰者を、擴大していつた方法は同樣であつた。
 だから、それに比べるとき、ケアリーが、九年めに、たつた一人の印度庶民の信者をえて、協力者のジヨン・トマスが、喜びのあまり發狂してしまつたという事實は、だいぶ變つている。ロバート・モリソンの英華學堂には、支那人の王侯貴族は一人もいない。一八三四年度の報告文にみえるとおり、四十名の支那人卒業者たちは、その多くが、町にでて勤勞しなければならぬ人々であつた。印刷工であつたメドハーストは「二人の日本人勞働者」から日本語を習い、ブリツヂマンは「支那叢報」を刊行して、支那の王侯貴族に西洋文化を獻上するのではなしに、支那の實状をヨーロツパへ報告し、ケアリーは「印度からの手紙」によつて、逆に本國の青年へ愬えている。
 これこそ、まことに著るしい相異であろう。彼らは第一に、王侯貴族の寵遇を必要としなかつた。第二に、彼らは少數の有力者よりも、多數の民衆に重きをおいた。第三に、彼らは教堂の建立よりも、パンフレツトなどによる、印刷物に力をそそいだ。そして、第四に、もつと大事なことは、布教の對象であるアジア民衆の間に存在する惡い習慣や、出來事を、世界的規模において、社會問題としてとりあげたことであつた。それは「印度からの手紙」が、少年の犧牲や、寡婦の火刑やをとりあげたように、たとえば「きりしたんばてれん」が、日本の大名信者に、一夫多妻と男色を許さなかつたような教義的範疇からも遠くはみだしたものであつたことである。
 彼らは、もはやアジアへきて、王侯貴族の寵遇を得る必要がなかつたのだ。彼らの背後には、機械化された武器と、規律ある軍隊とがあつて、一大名や、一將軍に、眼鏡や金米糖を上(たてまつ)る必要があろうか。さらにかんじんなことだが、彼らの生産品は「土産物」にするには、あまり多量にすぎるのである。綿織物、毛織物、藥品、メリケン粉、バター、ガラス器、石鹸、さては懷中時計から寒暖計、香水からオルガンにいたるまで、しよせん、アジアの全民衆を顧客としなければ、間尺にあわぬものであつた。たとえば將軍信長が、寶物とした「赤毛布」でさえ、いまでは「水呑太郎作」にいたるまで、買つてもらわなければ困るのである。マンチエスターで、ニユヨークで、リヨンで、——不斷に増大する生産——は——新しき不斷に擴大する市場——をもとめてやまないのであつた。彼ら新教宣教師の背後には「明の神宗」や「將軍信長」のかわりに、利益でふくらんだ、自國の出先會社がひかえているし、難破する危險がないうえに、數倍の速力をもつ蒸汽船を通じて、聲をたてればきこえる程の距離に、本國自體がアジアへ近ずいてきてもいるのだ。印度からマライ半島へ、シンガポールから澳門へ、廣東から上海へ、教會と、ミツシヨンスクールは、會社や工場とともに、前進していたのである。
 それはずいぶんちごう。「セミナリヨ」と「ミツシヨンスクール」とが、ちごうようにちごう。「きりしたん」の「ばてれん」たちは、波のまにまに、飄然とやつてくる「南蠻船」と「珍奇な土産物」しか、背景にもつていなかつたように、「セミナリヨ」は、少數の——貴族の子弟を收容してラテン語西洋音楽——(幸田成友著「日歐通交史」九四頁)を授けるに過ぎなかつたが、新教宣教師たちの背後には、印度洋も太平洋も一とまたぎに、マンチエスターの、機械織機の音がたからかにきこえていた。「ミツシヨンスクール」は、ラテン語のかわりに、イギリス語を教えて、世界語としたばかりでなく、アジアの島々、國々に「國民の道徳」を説き「有益なる知識」を與えて、アジアの民衆を「教育」したのであつた。
 同じ鉛活字ではあつても、そして、同じ「長崎版」ではあつても、慶長期の「きりしたん」版と、安政、萬延期の「和製オランダ本」とには、こんな性格の相異があるのであつた。——新らしき不斷に増大する市場——が、アジアの天地に、つかみどりに存在する間は、「平和」であり「平等」であつた。そして、機械化された生産の増大と、科學的な發展が、人類歴史の進歩であるかぎり、アジアの民衆が魅了されたのも、當然であつた。「きりしたん」的「セミナリヨ」的イデロオギー[#「イデロオギー」は底本のママ]にかわつて、「プロステタント[#「プロステタント」は底本のママ]」的「ミツシヨンスクール」的イデオロギーが誕生したのも、この故であり、貴族的から、大衆的へと發展したのも、この故であり、法律學生サミユエル・ダイアをとらえて、澳門で、その一途な、苦難な生涯を終らせたところの理想も、また、おのずからここに發生したものであつたろう。