世界文化連載分、十三

 さて、それなら、サミユエル・ダイアとはどういう人物であつたろうか? まえに引用した支那叢報第二卷の解説文中にみる以上のものを、ざんねんながら、私はさがしだすことができない。あるいは、東方の基督教史や、彼の生國には、傳記があるのだろうと思うが、他日、東洋人によつてしさいな「傳記」が書かれなければ、東洋の恥となるだろう。とにかく、それは歴史專門家にゆずるとして、さて、私は前記のかんたんな解説文中の略歴からでも、あらまし、つぎのことは理解できるのである。王立病院主事の息子で、オツクスフオード大學の學生であつた彼が、アジアの布教師たらんとこころざして、ゴスポート神學校に轉じたという事實は、その主たる動機が、この二十歳の青年の、理想にあつたということだ。もし、ダイアがごくただの英國紳士であろうと欲するだけならば、彼が家庭は、經濟的なものにも妨げられなかつたし、才能的にも法律學生として、すでに道はひらけていたからである。また、一八二七年に故國を船出してから、一八四三年に、風土病で澳門で死ぬ日までの行動も、理想と信念に、生涯を捧げつくして悔いない人の、一本氣なコースとして表現されている。
 それではダイアのこの理想への情熱は、たまたま、彼一人だけに、とつぜん、うまれでたものだろうか? 昔から、宗教ほど思想的なものはないし、したがつて宗教家がおのれの理想に殉じたためしは、東西を通じてまことに多い。しかし、同時に、すべての宗教家が理想や信仰に殉じたのではなかつた。既成の形式のうちに安住してゐる無數の宗教家と、その眠られたばく大の時間をもつ、それぞれの宗教の歴史がある。そういう事實は、一方で、必らずしも宗教家個人の偉大さのみにはよらないという、つまり、宗教もまた、その「時代」と「事情」に左右されざるを得ないということを、歴史は、私たちにおしえてくれる。
 一法律學生をとらえて、生涯、その熱情をわきたたせたものに、何かがなくてはならぬ。「ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイ」とは何であるか? それが目的で神學校に轉じさせたところの「アジアの布教師たらん」というのはどんな特別な内容をもつていたものであるか? 新教徒ダイアの、基督への信仰が、かりに人一倍あつかつたとしても、ごく普通な意味で、神學校に入學し、町の教會牧師になろうとするのとも、あきらかにちがつている。また「アジアの布教師たらん」といつても、いわゆる「きりしたんばてれん」など、舊教徒のアジア布教ともちがうようである。バスコ・ダ・ガマの希望峰發見以來いわゆる「胡椒及び靈魂のために」アジアへやつてきた布教師の歴史は、消長はあれ、すでに四世紀を經ていて、たんにそれだけでは、特に十九世紀の一法律學生の熱情をとらえるには、何かしら不充分な氣がするではないか。
 私はかつてクリスチヤンであつたこともないし、また學問的な意味でも、基督教についてほとんど知らない。したがつて「ダイア活字」の生いたちを知るにつけて、べつに印刷工でもなかつた彼が、どうして漢字活字をつくろうなどいう、困難な念願を起したのか?「文化、宗教の傳播に非常に有用なもの」だつたからという、「支那叢報」第一卷の説明があるが、それなら、ダイアはなぜに「文化、宗教の傳播に」熱心になつたのか? というぐあいに、疑問は、だんだんつよくなつていつた。
 私は泥棒をとらえてから繩をなう式で、また、そんな書物をあさりはじめたのであるが、すると、たちまちにして、ダイアのような人物、つまり、東洋へ文化、宗教の傳播をしたいという熱情にかられて、はるばる地中海や大西洋から、印度洋、支那海をこえてやつてきた人間が、五人や八人ではなかつたということを知つた。たとえば、私のまずしい知識で、うたがいのないところをならべてみても、次のごとくであつた。
 一七九三年、印度のカルカツタに、はじめて新教の一派パプチスト[#「パプチスト」は底本の通り]派の傳道師ウイリアム・ケアリーが、協力者の外科醫ジヨン・トマスをともなつてきた。そして九年かかつて、セランポールで印度人の受洗者が、やつと一人できた。協力者トマスは、よろこびのあまり發狂してしまつたほどである。ケアリーは、三十八年間、一八三〇年まで、カルカツタを中心に活動し、三十五種類の印度語聖書を完成したが、そのほか植物學、農業學、印刷術などを、印度人のあいだにひろめ、特に社會事業につくすところが多かつた。たとえば、毎年の祭事には、幾人かの少年の生命を絶つて犧牲とする風習、または夫が死亡したときその若い寡婦は、火刑によつて殉死せねばならぬ風習など、ケアリーの努力によつて、永久に廢止された。ケアリーは、また英米の新教徒たちに手紙をおくつて、若いクリスチヤンたちを奮起させた。「ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイ」は、一七九五年に、アメリカの「外國傳道教會」は、一八一〇年に、ケアリーの「印度からの手紙」によつて、つくられた。一八一三年の、英國議會を通過した「印度國民の道徳及び宗教の向上に有益なる知識を移植すべき手段を講ずる事」という決議案は、「印度からの手紙」によつて、わきおこつた新教徒たちの輿論を反映したものであつた。
 一八〇六年、ヘンリー・マルチンが、東印度會社の説教者としてカルカツタにきたが、彼もケアリーの手紙によつて奮起した一人であつた。ペルシヤ、アラビヤ、ヒンヅー、サンスクリツト等の民族語を習得して、晩年ペルシヤ語の聖書を完成したが、一八一二年に長途の旅行中、小アジアで死んだ。
 一八〇七年、ロバート・モリソンは、イギリス人であるが、聖書の東洋語飜譯と出版の使命をおび、アメリカの「外國傳道協會員」として、廣東へきた。一八〇九年には、東印度會社廣東工場の支那語通譯官となつたが、のち、マライのマラツカに、「英華學堂」を創立、一八一三年に漢文聖書を出版、一八三四年に、廣東で死んだ。
 一八一二年、アメリカ人アドラム・ジヤツドソンが、カルカツタへきた。一八一三年、ビルマサイゴンへはいつて、のち、ビルマ語聖書をつくつた。
 一八一七年、イギリス人W・H・メドハーストが、マラツカへきた。彼はもともと印刷工であつたが、はじめ、ロバート・モリソンの英華學堂印刷所の印刷工募集に應じて、「ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサヱテイ」所屬となつたものである。モリソンの協力者ミルンの下にあつて、印刷工場ではたらくかたわら、東洋語を學び七ケ國語を自由に話した。のち、ペナン、バタビヤ、シンガポール、ボルネオ等を、傳道行脚してあるいたが、モリソンの死後、後繼者として一八三五年、廣東へきた。メドハーストには、日本語の字引「和英語彙」がある。發行年月を明らかにしないけれど、西洋人の日本語字典では、最初のものといわれ、支那叢報第一卷に紹介されているから、すくなくとも一八三三年以前であろう。——「和英語彙」についてであるが、何時の日か、日本語についても、もつと完全な説明や、鎖國内にちつ居しているこの國民の、各種の統計などについて、語り得るよう努力しよう——という、この本への批評からみても充分なものではなかつたらしいことがわかるが、メドハーストは、日本語を、英華學堂印刷所内にゐた「二人の日本人勞働者に習つた」と書いてある。
 一八二七年、サミユエル・ダイアがペナンへ來た年であるが、同じこの年にドイツ人ギユツツラフが、蘭印のバタビヤへきた。彼ははじめ、オランダの外國傳道協會員であつたが、まもなくロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイに籍を變えて、シンガポールへうつつた。この、日本にとつても周知の人物は、印度、シヤムなどをへて、北支の、天津まで單獨潜入してきたことがある。支那語に通じ、一八三四年には、日本漁民で、漂流者であつた尾張の岩吉、音吉、久吉等から日本語を學んだ。彼の、日本語版ヨハネ傳は、一八三七年、シンガポールで出版された。一八五一年、香港で死んだが、一八三七年、天保八年には「モリソン號」に乘りくんで、日本をおとずれたことがあり、琉球にもしばらく上陸していたことがある。(ついでに日本人についていうと、まえにのべたメドハーストが、英華學堂印刷所内の「二人の日本人勞働者」に日本語を教わつたというのが、ギユツツラフが教わつた岩吉、音吉、久吉等のいずれかであつたかどうか? 私は明らかにすることができぬけれど、メドハーストの、廣東移住が一八三五年で、「和英語彙」が一八三三年以前だとすると、とにかく英華學堂には、一八三三年以前に日本人がいたことがあるということになる。でなければ、日本にきたこともないメドハーストが、日本語をおぼえる機縁が考えられなくなる。「モリソン號」が、日本人漂民をのせて、江戸灣にきたときは、このほか肥後の漁民庄藏、壽三郎、力松——この力松は、一八五五年、プーチヤチンの艦隊をおつかけて、函館へきたイギリス軍艦の「通辯リキ」と、同一人物のようである。九州天草生れ、十三歳のとき漂流。片カナの日本語を示して通辯したという(大日本古文書卷ノ十)からながいこと外國人のあいだを轉々して、日本語の方が、へたになつていたのかも知れない——などもいた。田保橋潔氏の「幕末海外關係史」によると、このころ、イギリスおよびアメリカは、日本への關心から、フイリツピンやハワイ、南洋諸島にながれついた日本人(多くは漁師)を保護して、傳道教會などにいれ、澳門、香港あたりを轉々したおもむきが、書いてある。岩吉一行など、太平洋上にただようこと十四ケ月、カナダ、コロムビア州の沿岸、クインシヤイロツト島に流れついて、アメリカインデヤンのうちにとらわれていたということだし、そのほか名前もわからない日本人もいたと考えることができる。したがつて英華學堂内に「二人の日本人勞働者」が、一八三三年にいたとしても、みじん不思議ではないし、最初は印刷工であつたメドハーストが、たぶん、雜役かなんかしていただろう日本人勞働者から、日本語を教わつて、不完全にもしろ、世界最初の「日本語字引」をつくり、印刷したという事實はすこしも不自然ではない話であつた。)
 一八三〇年、アレキサンダー・ダフが、カルカツタに來た。以來、三十五年間を印度で活動し、一八六四年には「カルカツタ大學」を創立した。彼が社會事業その他につくした努力は、ケアリーをしのぐものがあつたという。たとえば近代印度國民文化運動の先驅者といわれる印度人ラーム・モーハン・ローイは、ダフの影響がうんだ人物の一人であつた。
 一八三〇年、アメリカ人、アピールとブリツヂマンの二人が、同じ船で、廣東へ來た。アピールは、アメリカ商人オリフアントの協力を得て、澳門に教會を作り、支那人の間に傳道し、ブリツヂマンは、一八三二年、廣東で「支那叢報」を發刊し、これを二十年間繼續した。「支那叢報」は、北はシベリヤから、南はアフリカのケープタウンに至る、日本を除いた、全アジアじうの、外人宣教師たちの連絡機關となる一方で、アメリカ大陸から、アルハベツト民族のうちに、讀者を持つたばかりでなく、アルハベツトがよめるアジア人にも、多くの讀者があつた。
 一八三二年、モリソンの息子、ロバート・ウイリアムズが廣東へ來た。彼は亡父の遺志によつて、支那傳道のための印刷者たるべく、少年のときから、英本國で、印刷術をまなんだ。廣東の「支那叢報」印刷所の監督となり、のち、澳門の東印度會社印刷所の監督者ともなつた。支那語に通じ、いくらか日本語もわかつた。一八五三年、アメリカの東印度洋艦隊司令長官ペルリが、江戸灣へやつてきたとき、彼は通譯官として、日本へ上陸した男である。
 一八三八年、W・ロカートが、廣東に來た。彼は醫師であつて、澳門に傳道病院をひらいたが、一八四二年、阿片戰爭によつて、上海が開港したその第一日めに移住した。以來十五年間、上海の傳道病院を經營し、のち、北京にも、最初の傳道病院をつくつた。一八六四年、元治元年歸國の途中、日本の横濱へ來て江戸にもはいつたことがある。
 一八三九年、A・ホブソンが、澳門へ來た。彼も醫師で、はじめロカートが上海にうつると、澳門の傳道病院をひきうけて經營し、一八五六年には、上海にうつつて、ふたたび、ロカートの上海傳道病院の後繼者となつた。ホブソンの「全體新論」「博物新篇」(以上廣東で發行)「西醫略説」「婦嬰新説」「内科新説」(以上上海で發行)の諸著述は、すべて漢文で書かれ、支那人の間に、急速な勢いで、西洋科學がひろまる大きな助けとなつた。
 以上、十人ばかりの新教傳道師の名前は、私が讀みかじつた二三の書物から、年代だけを順序として、ならべたものに過ぎない。このほかに、有名無名の新教徒傳道師たちが何倍も、或いは何十倍も、アジアにやつてきたか知れず、(支那におけるプロテスタント宣教師は一八六〇年現在百十五名だつたという。)また、この十人ばかりが、新教徒アジア傳道史のうちで、特にピツクアツプしなければならぬほどの位置を占めるものかどうかも、私に判斷はできない。しかし、これだけの羅列のうちから、ドイツ人ギユツツラフ(それものちにロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイに籍を變えたが)をのぞけば、すべて英米人であり、ことにイギリス人が大多數であることや、彼らの、最初に上陸した土地が、年代があたらしくなるにつれて、印度からマライ、南支の澳門から中支の上海へと急速に東漸してきていることもわかる。またもつと重大なことは、ヘンリー・マルチンが東印度會社の雇い説教者であることや、ロバート・モリソンが同じ會社の廣東工場通譯官であることや、アメリカ人アピールが、商人オリフアントの協力によつて教會をつくつたことや、ギユツツラフが、モリソンの後繼者として、東印度會社の通譯官だつたり、イギリスの支那進出に幾度か水先案内をつとめたことや、ロバート・ウイリヤムズが、ペルリの日本來航の通譯官だつたりしたことや、つまり、これらアジア布教師たちが、本國政府の、出先會社の、ないしは、商人たちと、きつてもきれぬ關係にあることが一目であきらかだということが、わかるのである。
 しかし、それと同時に、彼ら、アジアの布教師たちが、そういう事情のなかで、なかなか獨立的にも、新教徒流儀の理想をふりかざして活動しており、よし、異國の土に骨をうずめても、あえてかえりみるところがなかつたこともわかるであろう。たとえばケアリーの「印度からの手紙」は、一八一三年のイギリス議會をして「印度國民の道徳及び宗教の向上に有益なる知識を移植すべき手段を講ずる事」という長たらしい名前の決議案を通過させたが、それから、二十年のちの一八三三年には、印度の布教師たちは、イギリス政府からも、東印度會社からも、まつたく自由であり、拘束されないための「新教[#「新教」は底本のまま]の自由憲章」を、イギリス議會から獲得している。つまり、彼ら布教師たちは、政治的、經濟的な束縛から脱出して彼らの理想なり、信仰なりを實現せんとするところまで行つたのである。
 ケアリーは、基督新教東漸の、最初の礎石をきずいた人だという。インドを數世紀の永きにわたつて保護國とした、イギリスの歴史はうごかないところであるが、また、ケアリーや、アレキサンダー・ダフの名は、よし、印度の解放が實現されたのちまでも、印度人の記憶から消える日はないだろう。また英華學堂の創立者ロバート・モリソンや、「全體新論」「博物新篇」以下の著者A・ホブソンなどは、また、支那大陸の原住民から、永久に忘れられぬ人となつているにちがいない。印度語の、ビルマ語の、支那語の、ペルシヤ語の、日本語の、かれら布教師たちが、生涯の努力をかたむけて完成した、あらゆる民族語の聖書は、よしんば宗教としての基督教が、世界じうの人間の頭から亡びる日があつたとしても、當時の、皮膚のしろい人種たちが、考えだした文字と言葉に表現されているものは、永久に、アジアの地中に消化され、堆積となつてのこるだろう。
 これは明らかに人間の進歩であるし、プラスであつた。祭壇のまえに悶絶する少年、火炎のなかに叫喚する妻なる女性をみて、ケアリーが、力を借りるために、故國の人々にうつたえずにいられなかつた新らしい人間感情を、今日の私らは、容易に想像できる。しかも、當時の印度では「神聖」であるし「當然」だとする思想と力の方が、まだ勝つていたのであり、ここに、ケアリーの「印度からの手紙」が歴史にのこる値打ちをもつのであろう。
 しかもロンドンの、ワシントンの、青年たちのあいだでは、充分に「印度からの手紙」で、火を點じられるだけの、思想がもえていたのだ。かれら皮膚の白い青年たちは、アジアの人間たちは、許すべからざる野蕃と無智のなかに呻吟していると考えた。かれらの新教的基督は、かれらの理想をむすびつけるに値するほど、まだ新らしかつた。そして同時に、かれらの人間生活は、一本の手紙の内容によつては、たちまち、社會的に反響をよびおこすことのできる段階にも達していた。坊主ではない、醫者や、印刷職工やが、名利を離れて、生涯を捧げても、なお正當だとする精神状態に達していたのである。
 二十歳の大學生サミユエル・ダイアも、つまり、その一人であつた。ざんねんながら、アジアの近代活字にとつて忘れてならぬこの人物について、私はくわしい傳記を知らぬけれど、これだけは云えると思う。その生涯を、漢字のパンチ活字と、「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」に捧げつくしたものは、ダイアの新教徒的理想である「文化宗教の傳播」のためであつた。