2009-11-01から1ヶ月間の記事一覧

世界文化連載分、十九

しかしまた、上海で、岸田吟香が片假名の種字をつくつて、日本文字活字をふたたび誕生させたということは、一方からみると、けつして偶然ではなかつた。周知のように、吟香は元治元年にジヨゼフ彦(濱田彦太郎)らと“新聞紙”を發行した。「新聞」と名ずけた…

世界文化連載分、十八

ほんとに、活字は活字だけで、獨立に成長することはできなかつた。ダイア――コール――ギヤムブルと、ペナンから上海まで、のぼつてきた近代漢字活字も、それから、日本に渡るまで二十年も、電胎字母活字になつてからでさえ十年も、そこで足ぶみしているのであ…

世界文化連載分、十七

阿片戰爭によつて割讓された香港と、ヴエールが剥ぎとられた上海とが、一八四二年以後を、どう變化していつたか? 「——香港島そのものの地勢を見廻して見給へ。諸君の眼は、點々と緑草の入つた代赭色の山に惹きつけられるだらう、丁度繪の懸つた壁を見るやう…

世界文化連載分、十六

アジアの、近代的な鑄造の漢字活字は、ペナンでうまれた。うんだ背景は、ヨーロッパの産業革命であり、うみだしたのは、新教プロテスタントの宣教師たちであつた。私は、「上海行日記」で、中牟田倉之助のハイカラなみやげもの、文久二年の上海版「上海新報…

世界文化連載分、十五

そして私はさらにここで、インドへきたウイリヤム・ケアリーを先頭とする、新教徒宣教師たちのアジアへの發足が、やはり十八世紀の後半からはじまつているのに思いあたるのである。もちろん、その以前にも、宣教師たちは印度その他に散在していたことは明ら…

世界文化連載分、十四

こころみに、私は東南部のアジア地圖をひろげてみる。上部北邊は支那を中心にすると、東は臺灣、琉球から、日本本島の一部がみえ、東支那海をへだてれば北支那、滿洲などがあるわけだ。西は佛領印度支那、シヤム、マライ半島、ビルマ、印度と、地つずきで、…

世界文化連載分、十三

さて、それなら、サミユエル・ダイアとはどういう人物であつたろうか? まえに引用した支那叢報第二卷の解説文中にみる以上のものを、ざんねんながら、私はさがしだすことができない。あるいは、東方の基督教史や、彼の生國には、傳記があるのだろうと思うが…

世界文化連載分、十二

讀み書きのための漢字組織と、印刷工業として機械化するための漢字組織とは、おのずからちごう、と、私はいくどか、まえにのべた。それなら、ダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」は、まつたく、語學としての漢字とは、無關係につくられたも…

世界文化連載分、十一

ヨーロツパの宣教師たちが、アジアへきて、東洋人の最も大多數がもちいている漢字を、まつたくちがつた角度からながめはじめた、その直接の原因は、彼らの傳統であるアルハベツト金屬活字の觀念からであつた。彼らの製法を、漢字の世界におしひろげんとする…

世界文化連載分、十

一八三三年十月ずけのダイアの報告文は、たしかに成功的であると、私は思う。解説文には逐次的な經過は示されてないし、英語の方はたやすくは讀めない私であるが、それでも、原書の方も第四卷、第五卷となると、ダイア活字についての記事は、少くなつている…

世界文化連載分、九

「ペナンのサミユエル・ダイア氏は、マラツカに移つて、英華學堂に關係するという。ペナン滯在中、彼は金屬活字を造つていた。これは大變な、成功であるらしい。小文字は出來あがつて、大文字も、少くとも、一萬四千字から成るものが、用意されてある。ダイ…

世界文化連載分、八

しかし、その偶然が見舞つてくれるまで、もちろん、私は「上海」に、ひつかかつていた。中牟田倉之助土産の「上海新報」を、どこで見ることが出來るだろう? 明治の功臣などいう、そんなところえ縁の遠い私は、知人から知人をもとめるうち、新聞研究家のO氏…

世界文化連載分、七

「江戸の活字」は、以上のごとくであつた。日本最初の電胎活字が、ほとんど陽のめを見なかつた事實と、見ることが出來なかつた理由とを、みたつもりである。尤も、まだ現在の私に明らかに出來ないもので、前卷でみた「八王子の活字」がある。故陸軍中將秋山…