世界文化連載分、九

「ペナンのサミユエル・ダイア氏は、マラツカに移つて、英華學堂に關係するという。ペナン滯在中、彼は金屬活字を造つていた。これは大變な、成功であるらしい。小文字は出來あがつて、大文字も、少くとも、一萬四千字から成るものが、用意されてある。ダイア師の金屬活字で印刷した、新約聖書があるが、支那人によつて作られた木版印刷の、最上等のものに比しても遜色はない。迅速にくめることが、この活字の特色である」
 と、第一卷の終り、一八三三年三月號の雜誌欄「マラツカ」の項に、また、でている。ダイアが、ペナンから、同じマライ半島のマラツカに移つた、消息もわかるが、英華學堂とは何であるか。第四卷の九八頁をみると、イギリス人ロバート・モリソン博士によつて、一八一八年に創立された、中國人に、基督教と、科學知識を普及する學校で、基督新教徒が、東洋で最初につくつた印刷工場が、附屬していたとあるから、ダイアの學堂入りには、彼の活字製作と、關係があるにちがいないが、一八三三年三月の、この記事は、もはやダイアの漢字活字が、完成したことを意味するか、どうか?(小文字は出來あがつて、大文字も、少くとも一萬四千字から成るものが用意)されているというけれど、一萬四千は、活字の本數なのか、それとも文字の種類をさすのかも、はつきりしない。第一に、ダイアはどういうふうに、それをつくつたか、わからない。
 私は、自分で原書がよめぬのが、くやしかつた。たとえば、第三卷(一八三四年五月から、三五年三月まで)の解説書には、(一、支那における歐人の印刷事業、四三——四四頁)(二、支那の印刷に用いられる木版、石版、活版の適正なる費用と、各々の得失、二四六——二五二頁)などと、みだしだけの飜譯をならべてあるところがあつた。私は指摘してある原書の頁をさがしだして、字引とてらしあわして、二三行ずつよんでみるが、さつぱりわからない。考えてみれば、本の解説者が、私と同じに、活字に興味をもつているとは思えなかつた。九卷め、十卷めとなつてくると、文化面はいちじるしく少くなり、解説書の方は、殆んど阿片戰爭に關するもので、うずめられてしまつている。解説文の調子も、第一卷、第二卷のころとちがつて、太平洋戰爭の進行と、しだいに、調子があつてきている。
 また、第二卷の解説文には「支那文字の金屬活字の作成」と題する文章が、原書一八三四年一月にあると、述べている。それは二頁ほどのものであるが、終りの方に Samuel.Dyer という署名がよめた。つまり、これは、支那叢報記者の記事ではなくて、ダイア自身の報告であることがわかる。私は、最初、これだけを寫眞にとろうかと考えたが、それも圖書館にはばかられる。それで、小いちんちかかつて、これを筆記したが、書體、印刷體とりまぜて、つずられる私の英語は、ほんとに不安で、骨が折れた。私は植字工だつたし、歐文植字も少しはやつたから、これを活字で文撰するのなら、その三分の一の時間も、かからなかつただろう。
 私は、そのこころもとない原文筆寫を、ドイツ語の教師である、友人のM氏のところえ持參した。M氏はその難解な、私のアルハベット文字を、赤鉛筆でなおしながら、ていねいに飜譯してくれるのだつたが、M氏にもときどきわからないような專門用語がでてくる。たとえば「メタル・タイプ」とか「フオント」とかいうたぐいで、それは字引をひいても、その意味はでてこない。しかし、幸いに私には「メタル」と「タイプ」という、意味が説明されれば、「ははあ、字母のことだな」と、察することが出來る、實際的な經驗があつた。そんな、つんぼとめくらの問答みたいな調子で、ようやく二頁の英語を、日本文にすることが出來たのであるが、冐頭に——支那の金屬活字——と題する全文は、つぎのようなものであつた。
「われわれは、支那語の金屬活字の製造に關する、短かい報告を、讀者諸君に紹介する事を、大いに喜びとするものである。ダイア氏の目的および、努力は、きわめて稱賛に値するものである」というサブタイトルが、支那叢報記者のもので、以下がダイア自身の報告である。——「これまでに、支那語の金屬活字が、不利益であるとか、支那において、普通印刷に用いられている木版印刷にくらべて、金屬活字がおとつているとかいうような議論が、多く提出されていた。しかしこうした議論は、完全に拒けられ、今では支那語の金屬活字が有用であり、しかもそれを美しくつくりうるということは、議論の余地がないと考えられる。——
 ——これまで、支那語の活字は、活字用金屬の表面に、あらゆる文字を個々別々に彫刻するという、不完全で、費用のかさむ、方法によつてのみ、製造されていた。支那語の活字を作る、主要困難は、これまで、次のような點にあつた。即ち、それら銅の母型が打彫される、美しくて安い、鋼鐵の刻印器を作ること、及び、活字鑄造ということである。——
 ——活字を作る費用に關して、多くの見積りが、英國における一刻印器あたりの最低價格に基き、各文字によつて要求される、各刻印器の、平均價格にしたがつて、作成された。このばあい、ちがつた三千字の活字を作るところの、つまり三千の刻印器の費用は、三萬ルピー(一ルピーは約六十五錢——一九四〇年當時)にのぼるが、インドでは、賃銀が安いから、その費用は、四千ルピーを、大してこえないであろう。このことは實際の經驗によつて、すでに十分證明されている事である。もつとも、器具および、機械の不足のために、多くの困難や遲延が生じ、また多くの讀書によつて、刻印器を彫る知識をえなければならない。そして實驗は、多くの誤びゆうをもたらした。しかし、これらの誤びゆうは、持久的努力によつて、完全に克服された。——
 ——次のような方法、すなわち、最近非常な正確さをもつて、作成された段階にしたがつて、支那語における主要な文字の、刻印器を、初めに彫り、より必要な文字から、段々と、より必要でない文字えとすすみ、まれに用いられる文字は、まだ鋼鐵に彫られぬうちは、錫その他の活字用金屬の表面に彫つて(つまり、彫刻活字をつくつて)供給するという方法——によれば、約千二百の刻印器が彫刻されれば、それだけの組をもつて、非常に有効であることが出來る。また、しだいに、刻印器製作が、増大してゆけば、臨時の彫刻文字、その他の方法で、供給する必要は少くなるだろう。——
 ——刻印器の制作の平均價格は、ペナンでは、六十八セント(一セントは約二錢——一九四〇年當時)以上ではなく、それに二セント半を増せば、それらの刻印器から、銅の母型の、打刻されたものが出來る。さらに、費用節約のために、ある種の文字は、文字の美しさを傷つけないで、分割が行われるばあいには、タテには二分の一、三分の一、および三分の二に分割し、ヨコには二分の一に、分割する。こうした方法によれば、刻印器の數が、大いに節約されるであろうし、また、ある文字の、母型を打刻するとき、刻印器が破損したばあい、すこし修繕をくわえれば、かく(劃)がすくない、似た文字の母型を、刻印するとき用いられるだろう。——
 ——現在、約四百ルピーが、予約されており、約二百の刻印器が、打刻されている。のこつた金額では、大して製作を進めるわけにゆかない。しかし、予約されている金額だけの仕事は、すすんでいる。必要な金高をもつてすれば、五人の勞働者をやとい、その人々が、各刻印器を完全につくり、もし不完全なときは、彫刻しなおすという約束のうえで、一日に、約四個の刻印器を、つくることができる。——
 ——とくに注目にあたいすることは、われわれが、すでに成しとげた仕事は、これ以上進めることができないとしても、(これだけで)非常に大きな目的を、果すことができたということである。なぜかというに、すでにつくられた二百の文字は、もつとも必要な文字であつて、それらは普通のやり方でつくられた、つまり、錫に彫つた活字と、いつしよに使用されうるからである。——
 ——しかし、六十八セントの據金は、その一つで、われわれの仕事を、一歩前進させるであろう。われわれ(D・V)は、しだいに前進して、數千の刻印器を、つくりたいと考えている。——
 ——われわれの仕事の、進行の速度は、われわれの友人諸君によつて、決定される。支那に關心をもつ人は、すべてこの事業を援助されんことを希望する。この事業は、非常に多くの人々の助力を要する、もつとも困難な仕事であるが、しかし、人類の三分の一の幸福にかかわる、もつとも、祝福された事業である。——
 と、むすんで——一八三三年十月三十一日、ペナンにて、サミユエル・ダイア——と署名があり、その末尾に、また支那叢報記者の附言がある。——なお、據金されようとする方々は、つぎの人々あてに、お送りください。(チヤイニーズ・レポジトリー、廣東)(英支カレツジ學長、マラツカ)(ダイア氏、ペナン)——。
 右のように、M氏の助力によつて、日本文にすることができた、この原稿紙六枚ばかりの文章は、私にとつて非常にありがたいものであつた。これはダイア自身の報告であるし、六年餘をついやして漢字活字をつくつた、具體的な過程が、ほぼわかるからである。前に引用した一八三三年三月の(小文字は出來上つて、大文字も少くとも一萬四千字から成るものが用意され)云々の、これより半年前の、第一卷の記事は、したがつて、むじゆんしてくるようだが、しばらくそのせんぎはおいて、ダイア自身の報告を、土臺にみてゆこう。しかも、この報告は漢字活字創作の、根本的なものを、ふくんでいるからである。
 第一に、ダイアは、アルハベツト活字製法の流儀にしたがつて、鋼鐵パンチをつくつた。凹型銅字母から、凸型活字の再生まで、嘉平や昌造と、同樣であるが、字劃のふく雜な漢字を、「流しこみ」による鑄造では、やさしくないということを、自覺していること。自覺していること自體が、アルハベツト活字製法の傳統で、それがすぐわかるほど、逆にいえば、自信がある。
 第二は、ダイアは、たとえば嘉平などにくらべると、のちにみるように、活字製法では「素人」である。嘉平も、昌造も、自分で、パンチを彫つたが、その、ダイアは「勞働者を使用し」た。この「勞働者」は、彫刻技術をもつた勞働者であるが、つまりは「勞働者」である。素人のダイアが、ヨーロツパ社會では、永い傳統の、印刷常識によつて、それらをリードし、くみたてていることである。
 第三に、ダイアの苦心は、活字つくりの實際にもあるが、もつと大きなことは、漢字の世界を、分せきし、システムをつくろうとしていることである。アルハベツト人のダイアは、漢字活字をつくるまえに、漢字を習得しなければならなかつた。第三卷、第五卷などにみる解説文のうちで、パンチを彫る「勞働者」たちは、漢字を知らない文盲が多く、「へん」や「つくり」を、反對にくつつけたりして、苦心の作品が、臺なしになる。それを一つ一つ教え、リードしなければならなかつた、ことなど、書かれているところがあるから、ダイア、六年の苦心という中味は、日本の昌造、嘉平とは、だいぶおもむきがちがつていることである。
 この報告文を、説明かたがた、要約すると、さしあたつて、四百ルピーの資金をもつて、二百のパンチが、完成しつつある。それは、第一卷一八三二年六月の報告にあるような、十四人の漢字書物から、えらびだした一ばん使用度のたかい、二百の文字である。千二百つくられれば、なお、よいが、やむなくんば、それだけでも、彫刻活字をまぜて、ある程度、印刷ができる。(タテには二分の一、三分の一、ヨコには二分の一に分割する)云々は、たとへば木へんの「松」とか「杉」とかは、三分の一の大きさの「木」のパンチが、共通できる。山へんの「峠」とか「峰」とかは、二分の一の山へんのパンチが、共通できるし、ヨコに二分の一というのは、たとえば心へんの「念」とか「思」とかは、二分の一の心へんのパンチが共通できるという意味で、それで、パンチの節約が、できようというのである。
 こういう、漢字えの考え方は、アルハベツト人の、ダイアには考えられても、漢字人の嘉平や、昌造には、考えられないことであつた。物の形である漢字が、木版印刷、數千年の歴史を、つくつたのだけれど、數十年[#「數十年」は底本のママ]の木版印刷の歴史が、また逆に、漢字のふくざつ化を、どれほどたすけただろう。「へん」だけの、刻印器をつくるという考え方は、異端であり、革命的であつた。印刷技術からいえば、實際的にみえて、あんがい、漢字そだちの印刷工である私たちなどにはこつけいに思えるけれど、そして、ダイアが「へん」だけのパンチをつくつたか、どうか、十卷までの、支那叢報にはみえないけれど、そんな歴史の名殘りか、どうか、明治末期ごろの、日本の活字には「へん」だけの字母や、活字が、存在していたのを、私はおぼえている。現在でも、地方の印刷工場にゆけば、文撰ケースの、各列に貼つてある帶文字の、「へん」から「へん」えのうつりめには、その最初に、「へん」だけの活字が、印刷してある。電胎法が發達した、今日では、漢字々引にも、ただそれだけの目的で、いろんな「へん」「かむり」だけの、字母をつくり、印刷してあるけれど、むかしは、もつと實用的な意味で、それが存在した。明治十年發行の、内閣印書局出版の、活字見本帳にも、「へん」ごとに、うすつぺたい二分の一、三分の一の、活字が印刷してある。明治末期ごろまでは、手廻しの、ブルース式カスチングが、唯一のもので、機械化が不充分だつたから、しばしば「割文字」というのをつくらねばならなかつた。たとえば「恃」というような「割文字」をつくるとき、「峙」と「情」の、二本をけづり、だきあわせるというたぐいである。もつとも、私の少年工だつたころでも、二分の一活字、三分の一活字というのを、實際に使用した記憶はなく、二本や三本の獨立活字を、ぎせいにすることくらいは、出來た時代だつたから、見本としてだけ、記憶しているものだけれど、こういう痕跡としてだけある傳統は、このダイア活字に、そのみなもとがあるのか、もつと後になつて、中國本土で、できたものが、ここで判斷はできぬけれど、すくなくとも、上海系統の、電胎活字が、長崎の昌造を通じて、傳來する、その以前から、あつたのだろうとは、想像できる。
 さて、ペナンで發生したダイア活字は、これからさき、どう發展し、成功していつたかは、のちにみるところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が、實際的に誕生したことは、明らかであつた。そして、嘉平や、昌造よりも、三十年早く。日本では昌造、嘉平の苦心にかかはらず、パンチでは成功しなかつた漢字活字が、ダイアによつては、成功したということ。それが、アルハベツト人におけるアルハベツト活字製法の、傳統と技術とが、成功させたものであるということも、明らかであつた。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、何で、世界で一ばんむずかしい漢字を、おぼえ、活字までつくろうとするのか? いつたい、サミユエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて、據金をつのり、世界三分の一の人類の、幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私は、それを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の、漢字鉛活字の、誕生した、その根據がわからぬ、と考えた。