2009-05-01から1ヶ月間の記事一覧

作者言、pp.407-412

この小説をどういふ氣持で書くやうになつたかは、作の中で述べたつもりである。 しかし、ありていのところ、書く以前も、書きはじめてからも、しばらくは混沌としてゐた。本木昌造だけの傳記的なものとするか、活字ないし印刷術の歴史を中心とするかについて…

四、pp.387-406

四 ヒヨイと摘んでステツキへ ケースの前の植字工 その眼が速いかその手はすぐに すばやく活字を摘みあげ 一語又一語と形づくる おそいが併し堅實に おそいが併し確實に 一言一言とつみ重ね そして尚つづけられる 火の言葉は灼熱と化し 無音の不思議な言葉は…

三、pp.362-387

三 昌造「揚屋入り」の安政二年は三十二歳で、保釋になつた同五年は三十五歳であつた。「印刷文明史第四卷」は萬延元年か文久一、二年頃、昌造三十七八歳の頃のめづらしい寫眞をかかげてゐる。傍註に「製鐵所時代の本木氏」とあるから、さう判斷するのである…

二、pp.347-362

二 昌造のつくつた蒸汽船雛形が「砲二挺」を備へた一種の軍艦であつたことは、「海防嚴守」のたてまへから、土佐藩の註文であつたと謂はれるが、嘉永六年ペルリ、プーチヤチンの來航、安政元年の「神奈川」「下田」二條約の成立といふ、時の情勢と對應してゐ…

一、pp.329-347

一 第三囘めのロシヤ使節が長崎へ來た嘉永六年は昌造三十歳であつて、この年はじめて父となつてゐる。當時の慣習からすれば晩い方であらうが、妻女縫はこのとき十五歳で長男昌太郎を産んだのである。三谷氏の「詳傳」家系圖によれば、縫は養父昌左衞門と後妻…