三、pp.362-387

 昌造「揚屋入り」の安政二年は三十二歳で、保釋になつた同五年は三十五歳であつた。「印刷文明史第四卷」は萬延元年か文久一、二年頃、昌造三十七八歳の頃のめづらしい寫眞をかかげてゐる。傍註に「製鐵所時代の本木氏」とあるから、さう判斷するのであるが、とにかく本木傳の多くが掲げてゐる明治初期に撮つたものと思はれる晩年の寫眞とくらべて、ひどくおもむきが異つてゐるのにおどろく。その寫眞は五人の人物が撮れてゐて、前方に腰かけた三人は「製鐵所の役人」とあるだけで何人かわからない。後方向つて右に青木休七郎がたち、同じく左方に昌造がたつてゐる。たぶん外國人の撮影だらうが、幕末期乃至は明治初期にみる寫眞のやうに、これも西洋直輸入のギコチないポーズで撮れてゐる。右方に副主任の青木がゐるところからして、このとき昌造は主任であるわけだが、前方の「役人」たちは三人共若い丁髷で、何の某と名乘る大官でもなささうだから、主任ではあつても技術面の昌造らの位置といふものは今日の常識からは、はるかにひくいものだつたのであらう。
 とにかく昌造壯年期のこの寫眞は、晩年の白髮の總髮とよく調和してゐる清らかな雙眼や柔和な痩せ面などいふのとまるでちがつて、右肩をそびやかし、やや横向きの顏の肉もまだあつくて角々があり、眉根をよせて一點を凝視してゐるところ、傲岸不屈、鬪志滿々たるものが溢れてゐて、これが同一人物かと思ふくらゐである。前方の若い役人三人はそれぞれ由緒ある士分として幕府なり藩なりの勢力を負うて鷹揚に腰かけたところ、また右方の青木が後年貿易商となつた人物のやうに少しハイカラで商人的なおだやかな風姿などにくらべると、偶然な寫眞ポーズからばかりではないもの、一克さ、狷介さが殺氣さへおびてみえるのである。
 さて、昌造の萬延元年以後、日本で最初の長崎飽ノ浦製鐵所の技術者時代は後半に述べるとして、安政二年から五年に至る長期の謹愼時代は、昌造が日本活字乃至日本の印刷術に心をつくした第二期であつた。「活字板摺立係」を任命されたのは、想像するところ海軍傳習所傳習係通譯よりものち、二年の後半であらう。「揚屋入り」よりもさきかあとかはわからぬが、傳習係通譯以前の上半期は前述したやうに大凡わかつてゐるからである。また「揚屋入り」とか、「謹愼」とかの具體的性質が不明なので判斷しにくいが、これも私の想像するところでは、水野筑後の取調をうけたのち、名目はとにかく、實際的には政治的場面の通譯などから退き、門外不出ではないまでも、自宅に閉ぢ籠つてゐたほどのことではなからうか? そして摺立係任命がよしんば「揚屋入り」の以前であつたとしても、比較的純技術的なその役柄だけは微妙な形で繼續できたのではないか? 彼の問はれた罪のほんとの内容が前述のごとくであつたとすればより一層考へ得られることである。
「活字板摺立係」といふ名稱がその以前にも幕府にはあつたかどうか私は知らない。元來幕府自體としての出版物は「官版」と稱せられて、家綱、綱吉、吉宗、家慶などの歴代將軍のうち好學の人々が開板事業のその都度、職人をあつめて印刷所をつくつたやうである。家康時代には銅活字による印刷物を多く刊行したが、當時もそんな名前はもちろんなかつたし、書物は貴重にされてもそれをつくる仕事はひどくおとしめられたものであつた。記録によると、慶長二十年江戸金地院の開山崇傳の「大藏一覽集」を銅活字で印刷したとき、主として僧侶がこれに當つてゐることがわかる。「――大藏一覽の板行仰出候に付、物書衆六七人入申由に候、貴寺臨濟寺へ可申旨御諚に候、臨濟寺には折節無人にて漸一人從被遣由に候、貴寺衆僧五六人可被成御越候則從今日奉待候――三月廿二日、金地院、拜呈清見寺侍衆閣下」といふのであるが、「物書衆」といふのは原稿の手寫のほかに銅活字の種字を書くことをも意味してゐる。「校合」今日の「校正係」といふのが頭立つたもので、これも僧侶が當つてゐた。そして左の記録によれば印刷の仕事にたづさはる人々を漠然と「はんぎの衆」と稱んだらしい。「大藏一覽集」は銅活字で刊行されたが從來の名稱のままさう稱んだのであらう。「請取申御扶持方之筆、一合壹石八斗者、右是者大藏一覽はんぎの衆、上下十八人、三月廿一日より同晦日までの御扶持方也、但毎日一斗八升づつ、以上」として、その扶持をうける内譯人の名前が「校合、壽閑」を筆頭に「字ほり、半右衞門」とか、「うへて、二兵衞」とか、「すりて、清兵衞」とか九人の名があり、「慶長廿卯三月廿六日」といふ日付が誌してある。つまり「はんぎの衆」の日當は一日米二升であつて、「すりて」は印刷工、「うへて」は植字工、文撰工その他一切の製版工に當り、「字ほり」は今日の活字鑄造工程一切の仕事に當るわけだが、これらの記録を通覽しても、「印刷」といふのが常住的に幕府の役柄としては存在しなかつたことがわかる。民間では出版物が非常に旺盛になつた江戸中期になつても、出版物檢閲の役柄についてはいろいろ記録があるが、幕府自身の常住的な印刷所についての記録はまだ知らない。
 川田久長氏の「蘭書飜刻の長崎活字版」(昭和十七年九月號學鐙所載)によれば、このときの「活字板摺立所」の總裁に赤沼庄藏、取締に保田愼作、今井泉三郎が任ぜられ「本木昌造の如きも活字板摺立御用係の命を受けた一人であつた」とある。總裁初め新たに任命されたといふ事實にみても從來にはなかつたことで、それが洋式印刷であるといふ點からも日本の印刷歴史上劃期的なことであつた。たぶんは幕府直參なり長崎奉行所配下の士分であつたらうと思はれる赤沼、保田、今井について私は知るところがないが、昌造の卑い位置であつたらうことは當然で、しかもそのことで昌造の日本印刷史に占める位置については微塵の影響もあらう筈がない。ましてや記録の示すが如く「活字板摺立所」設立の具體的動機の一つが昌造ら購入活字にあつたことを思ひ、昌造が「蘭話通辯」の出版者、最初の「流し込み活字」創造者であることを思へば、印刷史的には赤沼の總裁より昌造の摺立係にこそ必然的な重要性があらう。
 三谷氏の「詳傳」が入牢否定の證にあげたやうに、昌造はこの摺立係時代に三つの著述をしたとある。安政三年に「和蘭文典文章篇」、同三年に「和英對譯商用便覽」、同五年に「物理の本」である。尚同四年には和蘭で出版された「日本文典」のために昌造は活字の種書となるべき日本文字をおくつたといふ。「日本文典」は長崎に一册現存するさうで、私はまだ見たことがないから、いづれ後半で昌造の書いた日本文字種字が何であつたかは述べる機會を得たいと思ふが、目下のところは假名か片假名かではないかと想像してゐる。また前記三著のうち「和英對譯商用便覽」も一册現存して、安政元年にイギリス船へも開港した長崎の商取引のため、若しくは蘭語から英語にうつりつつあつた時代に魁けたものだといはれる。ごく大衆的な單語の和譯であるが、通詞中では祖父庄左衞門以來英語の家柄を語るといへばいへるだらう。
 しかし殘る二著「和蘭文典文章篇」と「物理の本」については、「蘭書飜刻の長崎活字版」は詳細な記述をかかげて三谷説を反駁してゐる。三谷氏のいふ「和蘭文典文章篇」印刷文明史のいふ「文法書シンタクシス」はその發行年月が同じ安政三年六月であることからしても川田久長氏が前題の文中にいふ「文法書セイタンキシス」と同一であることが肯けるし、寫眞でみる同書が川田説「西紀一八四六年(我國の弘化三年)に和蘭のライデンに於て出版されたもの」の飜刻であることは明らかであり、「物理の本」がやはり寫眞でみると原名「フオルクス・ナチユールクンデ」で、和譯して「理學訓蒙」と稱ばれたもので、昌造の著述ではないといふ川田説の妥當なことが明らかである。つまり三谷氏「詳傳」が昌造に同題の稿本があつたといふならば別であるが、活字板摺立所發行の限りでは昌造が印刷に携つた書物を著書と混同した形跡は否めないのであらう。
 ところで昌造が日本活字創造のこの第二期で、「流し込み活字」に努力したことは、たとへば今日帝室博物館に所藏される昌造作の鋼鐵製日本文字字母が、安政年間の作だといふ由緒によつても理解できよう。更にいま一つはこの摺立係時代に活版技師インデル・モウルと共に洋活字の流し込みもやつたと思はれるふしがある。前記「蘭書飜刻の長崎活字版」の文中掲げる寫眞、「セイタンキシス」及び同じく九月に發行された「スプラークキユンスト」の表紙及び扉、同じく川田氏所藏の「理學訓蒙」扉の寫眞をみると、和蘭活字に雜つて明らかに日本製と思はれる洋活字が澤山あることだ。「理學訓蒙」扉の一部に「TE NACASAKI IN HET 5de IAAR VAN ANSEI (1858)」とあつて、このうちの洋數字の不揃ひな活字は明らかに和製であり、そのほかNが時計數字のIV[#「IV」は縦中横]の如くになつてゐる點や、印刷の素人であつても一見明らかである。それは川田氏所藏の大福帳型「和蘭單語篇」の洋活字、嘉平のそれではないかとみられる「江戸の活字」とも明らかに字型がちがふ。從つてその活字板摺立所製と判斷される洋活字がインデル・モウルの指導があつたとしても、「流し込み活字」の經驗者昌造と無關係ではなかつただらう。
 安政三年六月の「セイタンキシス」が、同九月の「スプラークキユンスト」になると和製洋活字の混合度合が増加し、五年の「理學訓蒙」となるといま一段めだつてゐる。いふまでもなく原版刷りの活字は激しく磨滅して使用に堪へなくなり、しかも補給は萬里の海外に求めねばならないからであつた。昌造らの苦心は想像することが出來るが、しかしまた手工業的な「流し込み」といつても、相應の歴史と傳統が必要であらう。昌造ら輸入の洋活字は既に四世紀の歴史をもつてゐて、緻密精巧になり小型となつてゐる。十二ポイントそこらのパイカを最大とするくらゐだから、和製の洋活字も補給のためには、それに傚はねばならなかつたことを「流し込み」の初期グウテンベルグらの活字が非常に大きなものだつたことと照しあはせて困難だつたと思ふのであるが、また昌造の意圖が、今日殘る安政年間の鋼鐵製遺作字母が、日本文字のしかも漢字であつたことを思へば、洋文字活字をもつて本意としてゐなかつたことも理解できるであらう。
 昌造のこの時期の心中を、私らはわづかの記録や遺作によつて想像するよりないが、「和英對譯商用便覽」が一枚板の木彫で、わづかに和製洋活字のノンブルを附けたに過ぎないものであつたのをみれば、ときには大きな絶望に襲はれることもあつたかと思ふ。未曾有の變動期「安政の開港」をめぐる幕府の印刷工場も、わづか「プレス印刷」の歴史を殘しただけで、七年の歴史を閉ぢねばならなかつたと同じく、昌造の日本文字の「流し込み活字」は、それが印刷物となつてのこるほどの發展はつひに見ることが出來なかつたのであつた。
 繰り返すやうだが、活字の歴史にとつては、その民族の文字がもつ宿命は何と大きいであらうか。江戸の嘉平の洋活字、長崎の活字板摺立所の洋活字は、まがりなりにも比較的容易に印刷に堪へるものが出來た。しかも日本文字の流し込み活字は、至つて幼稚なものといはれる昌造の「蘭話通辯」をのぞけば、江戸の嘉平、長崎の昌造の苦鬪にも拘らず、今日何一つのこるほどのものがなかつたのである。考へてみればアルハベツトの民族は、前述したやうに木版や木活字の歴史をわづか半世紀足らずしか持たないで、流し込み活字の歴史を十五世紀から十九世紀へかけて四百年も持つた。それと反對にわが日本では「陀羅尼經」の天平時代から徳川の末期まで千年の間、木版と木活字の歴史をもつたかはりに流し込み活字の時代はまるでない。昌造の場合も第一期の「蘭話通辯」時代はとにかく、第二期ではもはや絶望してゐるかにみえる。それは以後慶應から明治初年に至る第三期まで、ふたたび「流し込み活字」を繰り返した形跡をみることが出來ないからである。
 種類が無限にもちかく、字畫が複雜をきはめる日本の文字は、木版のやうにまつたくの手業によるか、でなければいま數段の科學的方法によるかしかなかつた。その意味で明治二年長崎で、日本の誰よりも魁けて昌造が、ガムプルから電胎法を學びとつたことは、まつたく劃時代的であつた。その意義の重大さはそれを傳授したアメリカ人ガムプルには恐らく想像し得ぬ程のものであらう。何故ならアルハベツトの民族では、字母製造における電胎法の役割はそれほど大きくないからである。たとへばオスワルドの「西洋印刷文明史」には字母の電胎法による製造の歴史については誌されずに、一八四〇年以後に完成した電氣寫眞版及び凸版のことが、重大に誌されてゐる。ロシヤ人ヤコビ、イギリス人ジヨルデイン、アメリカ人アダムス、オーストリヤ人プレツチエらである。電氣凸版は勿論日本の印刷歴史にとつても重要だが、電胎法による字母製造のそれはより以上重大であつたのだ。
 日本の活字が創造されるには、いま一段の飛躍的な近代科學が必要であつたが、「フアラデーの法則」が確立されたのが西暦の一八三三年で、「活字板摺立所」が一八五五年であれば、昌造の「流し込み活字」に苦悶しつつ、しかも次の飛躍には容易にうつれない苦しい時期がわかるやうである。一八三三年と一八五五年との間は二十二年であり、「フアラデーの法則」が實際的に電氣凸版として應用されはじめたのを一八四〇年以後だとすれば、十年そこらである。そして東西の交通を憶ひ、當時の國情を省みるならば、その期間は決して永くはない。
 しかし江戸末期の科學者たちは、苦難の道を開拓しつつあつた。川本幸民が「遠西奇器述」で電胎法のことを祖述したのは嘉永六年で一八五三年、平賀源内や橋本曇齋、本木道平などの一種の發電機いはゆる「エレキテル」の實驗が、さらに溯ること天保年間、一八三〇年代であつたことを思へば、ペルリが書いたやうに、ゴンチヤロフが書いたやうに、シーボルトが書いたやうに、日本の民族はえらかつたのである。私は日本に於ける電氣學の發達歴史については何も知らぬが、天保年間の平賀、橋本、本木らのいはゆる「エレキテル時代」から、川本幸民らのそれは一時代を劃してゐるやうだ。「エレキテル時代」のそれは單純に空間に存在する電氣磁氣の眼にみえぬ力におどろいただけであるが、幸民らの時代には電氣分解、つまり電氣の性質内容に踏みこんだときであつたといへよう。幸民の「電胎法」(ガラハニ)が「江戸の活字」に影響してゐるだらうといふ推測は前に述べたが、電氣分解に關する研究なり、知識をもつた蘭學者は當時他にもゐたであらう。弘化から嘉永安政の初期へかけては「蘭學事始」以來、蘭學者の最も充實した時代だと謂はれる。そして私は箕作阮甫の「陝西紀行長崎日記」のうちにはしなくも吉雄圭齋が電氣分解の實驗をしてみせる個所を發見してびつくりした。それは安政の元年正月で、場所は長崎出島の蘭館においてである。
「――巡見とて、川路君大澤鎭臺に從ひ――一机上に電氣機器あり。錫※[#「竹/甬」、第4水準2-83-48]の内に一土|壺《こ》を内れ、更に内に錫※[#「竹/甬」、第4水準2-83-48]を内れ、藥汁を盛る。二行に六座の壺※[#「竹/甬」、第4水準2-83-48]を並べ、各々扁平銅條を外※[#「竹/甬」、第4水準2-83-48]につらね、其ガルハニ氣を興し、六壺の前に一硝子瓶をすゑその底に二細孔あり、其口を硝子塞にて固封せる者を置き、中に水を盛りて其半に至るときは、ガルハニ氣の二極に遭ひて水分析せらる。又別に一座の盤面に字を書せる、恰も時儀盤の状の如く、銅※[#「竹/甬」、第4水準2-83-48]より銅線の表に絹絲を糾纒せる者二條をつらねて、一は盤脚、一は盤底に接すれば、銅線に沿ひて電氣盤面の針を呼應し、針の指す所に應じ、その字を見て其の事の如何たるを知る、其奇巧驚くべし。――吉雄圭齋といへる醫人、精しくフアン・デルベルグよりその法を傳へるよしにて、後に三寶寺に來り、其設置を語りぬ――」と、つれづれの日記とちがひ、まことに精確な描寫ではないか。
 これは單純な電氣分解による水の分析である。今日の活字字母面製造に用ひる方式とはちがふけれど、ガラハニ氣を利用して、陰陽二極の面に相互から移しとる原理はすでにここで達せられてゐるのがわかる。「此術ハ一金ヲ他金上ニ沈着セシムル者ニシテ金銀銅鐵石木ヲエラバズ――ソノ上ニ彫刻スル所ノ者ニ銅ヲ着カシメコレヲ剥キテ其形ヲ取リ――」と、幸民が「遠西奇器述」にいふ「電氣模像機」は、圭齋の實驗にみる原理に發したものであり、「木版ハ數々刷摩スレバ尖鋭ナル處自滅シ終ニ用フベカラザルニ至ル、コレヲ再鏤スルノ勞ヲ省クニ亦コレヲ用フ――其欲スル所ニ從ヒ其數ヲ増スヲ得、其版圖ノ鋭利ナル全ク原版ト異ナラ」ざるものであり、一八四〇年以後ロシヤ人ヤコビ教授以下の人々によつて完成されたそれが、十數年後の日本ではもはやこれらの先覺者によつて緒についてゐたのだといへよう。たとへば「遠西奇器述」にいふ「電氣模像機」の實試法は詳細をきはめ、效用の範圍について木版などいふ日本獨自のものに適用してゐるところ、決して單なる蘭書の飜譯ではない。
 フアン・デルベルグについて私は未だ知らないが、吉雄圭齋は長崎人、吉雄流外科醫で幸載の子、幸載の伯父が吉雄流の祖となつた吉雄耕牛である。吉雄家は代々長崎通詞であり「日本醫學史」によれば耕牛は吉雄流外科の道を拓いたほか日本の診察術に小便の檢査を加へた最初の人と謂はれ、前野蘭化、杉田玄白も耕牛に師事し「解體新書」の成功も與かつてこの人にあると謂はれるが、圭齋はいはばその三世であつて、日本で最も早い嘉永二年に、自分の三兒に種痘を試みた人だと「日本科學史年表」には書いてある。
 阮甫の文中「後に三寶寺に來り」といふその寺は、「長崎談判」のため筒井、川路に隨從してきた彼の宿舍であつて、日記の日付は正月十三日、つまりプーチヤチンらの軍艦が退帆したあと「川路君」左衞門尉らと共に出島蘭館を巡見したときの一節である。同じ日付で同じ電氣分解か他の實驗かはわからぬが、「これはエレキテルとジシヤクを合したる法也」と川路は日記に書いた。そして「故にその先を握るに手をひひきく、その手をつかみをれは十人も廿人もみなひひく也、九十九一人持居たるに強く仕かけられアツといつて倒れたり」といふ川路の興味に比べると、阮甫の文章がいかにハイカラで科學的であるかがわからう。
 阮甫は醫學者であり博物學者であり兵學者であり科學者であつた。醫書、歴史書、地理書、地質書、鑛物書、應用工藝書、兵書、その他紀行文書、詩書など合して册數百六十に及ぶ著者であつたが、同じ十五日に川路らと共に、當時日本では數少い鐵精錬所をもつてゐる佐賀藩が自慢にしてゐた洋式新臺場をみて「鎖國の弊は到らざる所なし」と叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88] 【※[#「口+它」、第3水準1-14-88]】してゐる。「――神崎の新臺場は鍋島侯の新に造れるにて百五十tt[#「tt」は縦中横]二門、二十四tt[#「tt」は縦中横]幾門、其餘大小砲を備へける頗る多し、斐三郎(武田)曰く、砲制洋砲と合せざる者多く、轅馬海岸砲車も皆鹵莽、砲※[#「土+敦」、第3水準1-15-63]の制卑下にして胸壁も完からずと、これより先人々嘖々と新臺場の洋砲を用ひけるには西洋人も驚きたるよしなど申せしに、かかる粗漏なる者ならんとは思はざりしなり、火藥庫も淺露にして危うく、砲は岸頭に露はれ、ボムフレイも設けず、かかる塞堡にて自ら誇るは遼東の豚とやいはん、鎖國の弊は到らざる所なしと一口氣覺え大息す――」
 その黎明期において、日本の近代醫術は日本の近代科學の大宗と謂はれる。醫術はもつとも政治性にも克ちやすく、その醫術はまた文字の媒介によつて他の科學をも導きやすいといふのが理由の一つであらう。阮甫が既にさうであつたやうに吉雄流の外科醫圭齋が「電氣分解」の實驗をしたところで不思議ではなかつたのである。圭齋はのち長與專齋らと共に明治の醫學界を開拓した人。その圭齋と昌造との關係を「印刷文明史」はつたへて「本木氏とは竹馬の友にして、常に氏の相談役兼囑託醫として大いに――云々」と書いてゐるが、昌造は文政七年生れ、圭齋は文化十年生れで、圭齋が十年の年嵩だから「竹馬の友」は少しをかしいだらう。
 そしてさらに圭齋より二三年を距てて、福澤諭吉らも「フアラデーの法則」以後の新らしい電氣學をまなんでゐることが、「福翁自傳」のうちで語られてゐる。「――或歳、安政三年か四年と思ふ。先生は例の如く中ノ嶋の屋敷に行き、歸宅早々私を呼ぶから、何事かと思て行て見ると、先生が一册の原書を出して見せて『今日筑前屋敷へ行たら、斯う云ふ原書が黒田侯の手に這入たと云て見せて呉れられたから、一寸借りて來たと云ふ。之を見ればワンダーベルトと云ふ原書で、最新の英書を和蘭語に飜譯した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中エレキトルの事が如何にも詳に書いてあるやうに見える。私などが大阪で電氣の事を知たといふのは、只纔に和蘭の學校讀本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかつた。所が此新舶來の物理書は英國の大家フハラデーの電氣説を土臺にして、電池の構造法などがちやんと出來て居るから、新奇とも何とも唯驚くばかりで、一見直ちに魂を奪はれた」。(九〇―九一頁)
 「先生」とは緒方洪庵のことであり、洪庵は筑前侯のお出入醫師であつた。「ワンダーベルト」とは和蘭語であらうが、友人に訊くとドイツ語で「ウンダ・ヴヱルト」といふのがあつて、たぶん「不思議國」ないしは「驚異の世界」といふ程の意味ではなからうかといふことである。その原書も私は見たことがないけれど、諭吉の語るところに見れば、十九世紀初期から中期へかけて、當時ヨーロツパの躍進する科學、天文とか博物とか醫術とか、いろいろあつめた書物ではなかつたらうか?
 「――私は先生に向て『是れは誠に珍らしい原書で御在ますが、何時まで此處に拜借して居ることが出來ませうか』と云ふと『左樣さ。何れ黒田侯が二晩とやら大阪に泊ると云ふ。御出立になるまで彼處に入用もあるまい』『左樣で御在ますか、一寸塾の者にも見せたう御在ます』と云て、塾へ持て來て『如何だ、此原書は』と云たら塾中の書生は雲霞の如く集つて一册の本を見て居るから、私は二三の先輩と相談して何でも此本を寫し取らうと云ふことに決心して『此原書を唯見たつて何にも役に立たぬ。見ることは止めにして、サア寫すのだ。併し千頁もある大部の書を皆寫すことは迚も出來られないから、末段のエレキトルの處丈け寫さう。一同筆紙墨の用意して惣掛りだ』――」(前掲九一―九二頁)さて、「惣掛り」といつたところで、筑前侯の大切な書物をこはすことは出來ないから、一人が讀み、一人が書く。讀み手が少しでも疲勞すれば次が代り、書き手の筆が微塵でも鈍れば控への者がすぐ交代する。疲れた者から眠り、眼をさました者から交代して、晝夜の差別がない二日間の模樣は「福翁自傳」のうちでも最も感激的なくだりであるが、「――先生の話に、黒田侯は此一册を八十兩で買取られたと聞て、貧書生等は唯驚くのみ。固より自分で買ふと云ふ野心も起りはしない。愈よ今夕、侯の御出立と定まり、私共は其原書を撫くり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、誠に親に暇乞をするやうに別を惜んで還した――」と云ふ。八十兩といふ値段はたぶん和蘭船が日本人に賣渡した最初の値段ではあるまいが、そのへんにも「貧書生」の苦しみがあつたわけで、しかしその「貧書生」らこそ「――それから後は塾中にエレキトルの説が面目を新にして、當時の日本國中最上の點に達して居た――」と申して憚らなかつたのであらう。
 考へてみれば、活字板摺立係の昌造が「流し込み活字」と苦鬪しつつあつた時代に、同じ長崎でも、大阪でも、江戸でもその科學的飛躍の母體が徐々に生誕しつつあつたのである。今日からみれば圭齋の實驗から「電胎法による字母製造」はいま一歩であつた。しかしまたときによつては人間の思考も何と迂遠であらうか。幸民の「電氣模像機」は「木版ハ數々刷摩スレバ――云々」とは云つても「木活字」とは云はなかつたのである。昌造もまた同じ長崎に住んで、とにかく友人ではあつただらう圭齋のその實驗をまるで知らなかつたとも思へないが、グウテンベルグ流の「手鑄込み器」だけに奪はれてゐる思考が、電氣分解によつて銅粉を密着させ、父型から母型に交互にうつしとるといふ字母製法までに到るのは無理であつたらうか。實驗者の圭齋自身も亦そんなところに頭がむいてゐたとも考へられない。幕末期の科學者たちはそれぞれに苦心しつつあつた。そしてあまりに科學の分野は廣かつた。しかも「よせくる波」と共に急激に不規則に海邊に打ちあげてくる科學の數々、そこにはまだ統一がなかつたし、基本がなかつたのである。人々は各がままに闇と光の交錯する日本の近代科學の黎明期をひたすらに突きすすむよりなかつたのであらう。