四、pp.387-406

 ヒヨイと摘んでステツキへ
 ケースの前の植字工
 その眼が速いかその手はすぐに
 すばやく活字を摘みあげ
 一語又一語と形づくる
 おそいが併し堅實に
 おそいが併し確實に
 一言一言とつみ重ね
 そして尚つづけられる
 火の言葉は灼熱と化し
 無音の不思議な言葉は
 全世界をへめぐつて
 怖るべき戰慄を起さしめ
 抑壓された足|械《かせ》をこぼつ
 言葉は正しき鬪ひにおいて
 我に三倍する劍の力をうち破る
 人は活字を鉛の集合物と見做し
 これを指先にて弄ばんも
 印刷者は微笑をもて一字又一字
 恰も正確な時計の如くに拾ひあげ
 鼻唄まじりに文字を組み
 己が仕事に熱中してゐる
 俺のやうにこんな簡單な器具で
 世の中を支配してゐる者は他にあらうか?
 ちやちな印刷機と鐵のステツキ
 それにホンの少しばかりの鉛の花型
 白い紙に黒いインキ
 ただそれだけだ
 正義を支持し不正をこぼつ
 この印刷者の力に刄向ふ者は誰か?
 この詩、「活字の歌」の原文を私は知らない。あまりすぐれた飜譯ではないやうだが、「世界印刷年表」に收録されてゐるもので、世界最初の印刷雜誌の編輯者トーマス・マツケラー(アメリカ人)が、西暦一八五五年に歌つたものだといふことであるが、この「活字の歌」の調子にみても、ヨーロツパや、殊にアメリカでは、活字はいまや近代文化の中心になりつつあつたことがわかる。この時期の西洋活字はもはや「流し込み」ではなかつた。電胎法字母による活字であり、デヴイツド・ブルースが發明した近代的な「ブルース式カスチング」による活字であつた。そして活字の任務ももはや教會所屬の宗教書印刷や、領主や封侯所有の歴史や、古典の手寫本を再刻する段階から飛躍して、ごく一般的な庶民の日常生活のなかで空氣のやうに普く作用する道具となつてゐたのである。
 西洋の印刷歴史書が説くところに從へば、十五世紀中葉グウテンベルグの「流し込み」活字は、十八世紀に至つて第二の開花期に達してゐたのであつた。つまりヨーロツパ大陸からアメリカ大陸へ活字が渡つていつてから、第二の飛躍が起つたのである。もちろんこの地理的事情と、印刷發達事情との時間的一致は世界産業の發達と聯關するところだらうけれど、ヨーロツパと比較すれば二世紀もおくれて輸入されていつた印刷術が、第二の飛躍をアメリカで遂げたといふ事情はなかなか興味ふかいことであつた。
 西暦の一四五五年ドイツで發明された「流し込み活字」は、「印刷文明史」によると、次のやうに流布していつてゐる。一四六五年イタリー、一四六六年ギリシヤ、一四六八年スイス、一四七〇年フランス、一四七三年オランダ、一四七三年ベルギー、一四七三年オーストリヤハンガリー、一四七四年スペイン、一四七七年イギリス、一四八二年デンマーク、一四八三年スエーデン、ノルウエー、一四八七年ポルトガル、一五三三年ロシヤ、そして北米合衆國が一六三八年であつた。もつともかういふ年代別も嚴密にはむづかしいもので、論者によつては若干の相違があるけれど、ドイツ、マインツを發祥地としてみるときこの波及していつた年代は地理的にみて理解できるであらう。グウテンベルグ及びその協力者フストとシヨフアーの活字を國境からはこんだのはライン河である。その下流はオランダへ、デンマークへ、スエーデンへはこび、その上流はスイスへはこびフランスへはこんだし、殊にローマへヴエニスへはこんだ。ヴエニスは十五世紀から十六世紀へかけて全歐洲での印刷文化の中心とさへなつた。いはゆる「イタリツク活字」を産んだのもヴエニスだし、十六世紀初頭には全イタリーで四百三十六の印刷工場があつたといふ。ヴエニスのマヌチウス父子、ウエストミンスターのカクストン、パリのロバートらその他、それぞれに華やかな第一期西洋活字文化の花を咲かせた人々として有名である。彼らは獨自の種字を書き、鉛を流しこんだ。木製のハンドプレスで印刷して、活字のほかに木彫の頭文字で圖案化し、幾つもの色彩さへ應用した。同時に著述もし、書籍賣捌もやつた。彼らの多くはその印刷術の故に法王廳からある位を授けられたり、町や市の名譽職となつて、地方の文化の指導者ともなつた。しかし第一期の印刷文化は主としてバイブルや教義に關するものが多かつたと謂はれる。古典手寫本の飜刻などで、ウエストミンスターのカクストンは彼自身ラテン語その他の手寫本から飜譯したものが二十二種に及ぶといふ。つまり第一期の印刷文化はグウテンベルグの最初の印刷物が「三十二行バイブル」であつたといふことに象徴されてゐるといつてよからう。一方からいへばこの時期の印刷者たちは、教會や神學校、大にしてはローマ法王廳の庇護なしには成功できなかつたとさへいへるだらう。そのことはまた當時の印刷物が「流し込み活字」を主體にしてゐたとはいへ、非常に手のこんだ木版の輪廓や、手寫による複雜な圖案とか、色刷とかの美麗な印刷物であつたことと比例して興味あることである。
 印刷術の最初期が宗教文化と密接な關係を持つたことは西洋でも例外ではなかつたわけで、グウテンベルグやシヨフアーの印刷物にはわざわざ手寫本に僞せたものもあるといふ。一方では手寫本に僞せることでその價値を保ち、一方では美麗な印刷物であることで宗教的尊嚴をたかくしたといふ關係は、東洋における印刷術初期の歴史と相通じてゐるが、さてその活字を宗教と古典の世界から、近代的、大衆的、科學的な世界へ導びきだした最大の功勞者は、周知のやうに世界印刷術中興の祖と謂はれるベンジヤミン・フランクリンであつた。
 フランクリンが十三歳で印刷屋の小僧となつてから、十七歳の一七二三年フイラデルフイアに移つて以來週刊新聞を發行するまで、彼のイギリス渡りの二三枚の活字ケースがどんな重大なはたらきをしたかは、周知のやうに彼の「自傳」が彼がアメリ憲法草案を書いたときのそれにも劣らぬ感動をもつて語つてゐるところだ。フイラデルフイアの町はすべてが新らしくすべてが草創であつた。コロンブス發見以來日の淺いこの大陸へ移住してくる人々は、しかも過去十八世紀の文化の傳統を持つてをり、そしてすべての人々が獨力で新らしい天地を築きあげようといふ熱意に燃えてゐた。フランクリンのわづかの活字はさういふ人々の生活のなかで、新らしい秩序をつくり、町の發展と方針を定める輿論の寵兒とならねばならなかつた。ケース二三枚の古活字は木彫頭字の圖案化や手描きの彩色などしてゐる餘裕はない。肝腎のことは活字自體があらはしてゐる文字の正確さである。活字が表現する言葉と思想である。古風な「イタリツク」や「ローマン體」よりも、正確で端的な「ニユウスタイル」である。豐富な言葉を敏速に表現し、しかも大多數に行渡ることが必要であつた。フランクリンの古活字はたちまち磨滅し、ヨーロツパ渡りの古風なハンドプレスは使用に堪へられなくなつたばかりでなく、不便でもあつた。しかも活字鑄造所はフイラデルフイアは勿論アメリカぢゆうにさへなかつた。彼は活字を買ひに大西洋を渡つてイギリスへ再度旅行したが、十九歳のとき自分で活字鑄造法を考案したと「自傳」で述べてゐる。「アメリカには活字の鑄造所はなかつた。――けれども私は鑄型を考案し、手許にある活字を打印器に使つて鉛に打ち込み、かうして却々上手に足りない活字を揃へたものだ。また時折はその他種々のものを彫刻し、インキも作り――」といふので、ここでいふ打印器とは種字の意味であらう。西洋の印刷歴史書では、彼がロンドンの活字鑄造所で見覺えた趣きも書いてあるが、「自傳」に書かれてゐる限りでは簡單すぎてグウテンベルグ以來の鑄造法にどれほどの改良を加へることが出來たかは判斷できない。ただ彼が周知のやうな電氣發見その他の大科學者であつたことからして多少の改良を加へただらうと想像するだけであつて、たとへばオスワルドの「西洋印刷文化史」もこの點詳細な記述はない。しかし今日のこるフランクリン考案の印刷機は多少の新工夫を加へたものだとされ、「印刷文明史」はこの寫眞を載せてゐる。巨大な木製のハンドプレスで、レオナルド・ダ・ヴインチが最初に考案した印刷機に酷似してゐる。“Benjamin Frankrin, printing press”と誌された機臺の上には、それを組みたててゐる五人の人物が小さく見えるくらゐだから、これのハンドをひくときは恐らく數人がかりだつたにちがひない。
 しかし私の考へるところでは、フランクリンが「世界印刷術中興の祖」と謂はれる所以のもつとも大なるものは、活字や印刷機の多少の改良よりは、活字や印刷術を人々の日常生活のなかにひつぱりだしたこと、たとへばフイラデルフイアの町で、町有志の會合の記録などを、この青年書記が忽ち印刷にして配布し、その翌朝は町有志の人々が洩れなく昨夜の激論の推移と成果を知ることが出來、更に次の會合のため各自が一層己れの考へを進めることが出來るやうな印刷物を作つたこと、つまり活字のために新らしい任務を拓いた點にあるのであらう。フランクリンは圖書館をつくり、新聞をつくり、志ある人々をたすけてアメリカぢゆうに印刷所が出來るやう盡力した。しかし書籍組合創立や印刷所建設やではヴエニスのマヌチウスも、ウエストミンスターのカクストンも、フランクリンに劣りはしなかつたのだから、つまりフランクリンの功績の大なる所以は、彼の圖書館の建設方法や、同じ著述でもその内容や、新聞といふ獨自の形式と内容や、印刷所建設でもその經營方法と作業規律の内容や、その性質に相違があつたのである。それは古いヨーロツパ大陸ではみることの出來ない新らしい人々の集團と生活とに結びついた成果であり、グウテンベルグの活字をして過去三世紀には考へることも出來なかつた庶民の日常生活のなかへ、信仰と過去の知識と裝飾のみではない、今日と將來のための生々とした、しかも涯しないほどひろい大海原へ躍りださせたといふことにあるであらう。
 そしてそこにこそ第二期の活字が花ひらく要素もあつた。一七九六年、フイラデルフイアのアダム・ラメーヂが世界ではじめての鐵製のハンドプレスを作り、それと應へるやうにロンドンでも數學者スタンホープが「スタンホープ式ハンドプレス」を完成して伯爵を授けられた。一八一三年にはフイラデルフイアのジヨージ・クライマーが「コロムビア・プレス」を作り、一八二一年には紐育のラストとスミスが「ワシントン・プレス」を作り、一八二〇年にはボストンのダニエル・トリードウエルが世界最初の足踏印刷機を發明した。木が鐵にかはつたことや手が足にかはつたことは何でもないやうでゐて、じつは人間の動力といふものへの新らしい考へ方の發展がひそんでゐよう。そしてこのとき既にイギリス人ウイリアム・ニコルソンやドイツ人フリードリツヒ・ケーニツヒらは「シリンダー式印刷機」を完成してゐたのであつて、このシリンダー式こそ今日の「ロール」である。
 ドイツ人ケーニツヒの發明は最もすぐれてゐたと謂はれ、科學の民族ドイツ、光榮あるグウテンベルグ以來の印刷歴史の傳統を辱しめなかつたが、ケーニツヒの完成した「シリンダー式印刷機」は、その最初の門出をイギリスの「ロンドン・タイムス」でしなければならなかつたのである。流浪のケーニツヒの發明機は、老いぼれた當時のヨーロツパ大陸では誰も相手にしてくれないからであつた。
 西洋印刷術の傳統を破つた「シリンダー式印刷機」の發明がどんなに革命的であつたかは今日からみても想像できるところだ。それは同じ方向に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉する動輪の力だけで印刷物が飛びだしてくるのである。能力は一時間に千枚と謂はれ、イギリスの印刷工たちは大陸からケーニツヒの巨大な印刷機が渡つてくるといふニユースで一齊に動搖したと傳へられる。當時のロンドン・タイムス社長ジヨン・ウオルターは己れの傳記のうちに「――夜に入りて別に設けられたる建物中で新式印刷機によつてひそかに新聞印刷をなさんとせしが、職工の騷動を思ひ憂慮に堪へず、警戒を嚴重にせり――この機械は一時間に千百枚を印刷し頗る迅速なるにより、新式機械を設備するとも職工を解雇せず――と職工を宥めて、この機械を使用することとせり」と、當時の空氣を誌してゐる。
 しかしケーニツヒの「シリンダー式」はまだ「手※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し」であつた。今日の日本でもごく田舍にゆけばわづかにみられる、人間が手で※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してゐるあの機械であるが、それから十數年經つと、ニユーヨークの新聞テムペランス・レコードは「蒸汽力」によつてそのシリンダー式を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉させたのである。そして一八三八年には、ケーニツヒのシリンダー式以上に世界の印刷界を嵐のなかに捲きこんだ紐育のデヴイツド・ブルースの「ブルース式カスチング」の發明があり、同じニユーヨークでまた世界最初の輪轉機「ホー式※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉印刷機」が誕生した。それが一八四六年で、一八六〇年にニユーヨーク・トリビユーン紙が用ひた輪轉機は時速二萬枚を記録したのであつた。
 嘗て十六世紀初頭にヴエニスで花咲いた第一期の西洋印刷文化は、二世紀後にはアメリカで第二期の花を開いたわけである。その原因の一つは前述したやうな、フランクリンをして「世界印刷術中興の祖」たらしめたところの精神であつたので、またその精神こそ百年後にトーマス・マツケラーをして「活字の歌」をうたはしめたものであらう。
 そしてここで私たちは「活字の歌」がうたはれた一八五五年が、わが皇紀二千五百十五年であり、ちやうど昌造が活字板摺立係となつた安政二年であつたことに思ひ當るのである。つまりわが日本に西洋活字が傳來した兩度の歴史のうちで、元龜、天正の頃、いはゆる切支丹宗門と共に渡來した最初のものは第一期のそれであり、昌造らを以て嚆矢とした嘉永以後の舶來活字は第二期のそれであつて、同じ鉛活字にちがひはなくても、活字のもつてゐる社會的性質にはずゐぶん相違があつたので、よしそれがオランダから渡來しようと、アメリカ大陸から渡來しようと、やはり十九世紀の活字であることに變りはなかつたのである。
 世界で最初期の全鐵製ハンドプレス「スタンホープ・プレス」いはゆる「ダルマ型」が、オランダから幕府へ獻納されたのが嘉永の三年だ。西暦では一八五〇年だから、數學者で新伯爵スタンホープの發明後五十年である。「ワシントン・プレス」が上海を經て長崎奉行所の印刷工場に使用されたか知れぬといふ川田久長氏の説を假に事實とすると安政年間であり、それを別としても開港以後上海經由で輸入された形跡はたぶんにあり、昌造が薩摩の島津屋舖から慶應年間に讓りうけたハンドプレスや、明治初年に平野富二が銀座の古道具屋から發見した某大名からの流れものといふ形状不明のハンドプレスなど考へあはせると、尠くとも明治以前であり、發明後三十年ないし四十年である。ドイツ人ケーニツヒの「シリンダー式印刷機」を東京朝日新聞社で使用したのが明治十年だ。西暦にすると一八七七年だから、發明後六十年である。フランスで發明された「マリノン式輪轉機」は新聞印刷機として日本へ最初に入つてきたものだが、それが明治の三十年だ。「マリノン式」の完成は一八七〇年代だから、發明後二十年そこらである。
 安政の開港以後ないしは明治維新の前後、國内事情と對外關係の機微な事情によつて、輸出國もまた輸入方法やその徑路も複雜な變化があるけれど、印刷機といふものは、發明後比較的早く容易に渡來したことがわかる。つまり印刷機は活字とだいぶ異ふのである。「スタンホープ式」も「ワシントン式」も「マリノン式」も、日本へきてもそのままで※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉することが出來た。しかし活字は、文字は、日本へきてもそのままでは通用せぬのである。
 しかも活字は印刷術の主體である。嘉永三年に「スタンホープ式」が渡來しても幕府の物置小屋で赤錆びるよりなかつたのは當然であらう。昌造らの苦心はまだつづかねばならない。江戸の嘉平も幕府の眼を避けながら手燭を灯した密室で慘憺しなければならぬ時期であつた。
 そしてまた日本ぢゆうの科學者たちが刻苦精勵しなければならぬときであつた。日本の近代活字は自分ひとり誕生したのではなかつたからである。他のいろんな近代科學の誕生とつながりあつてうまれたからである。船や、大砲や、汽關車や、電氣や、それから近代醫術や、太陽暦や、丁髷廢止やと結びあはねば誕生することが出來なかつたからである。つまり明治の維新なくしてはうまれることが出來なかつたからである。
 日本の活字は西洋の活字とくらべて生ひたちがまるでちがふ。それは前記したやうに日本の活字は木版などのまつたく手業によるかでなければ電胎法といふ高度の化學によるかしかないといふ自身がもつ宿命と同時に、幕末のごくわづかな年月と政治的大嵐のなかで誕生したといふ世界無比の特徴をもつてゐるのだつた。
 したがつて私の主人公は一人昌造のみではない。まだ「江戸の活字」も行衞不明のままである。昌造の活字を大阪から東京にひろめ、印刷機械を日本で最初に製作した平野富二についても述べねばならぬ。日本最初の新聞人岸田吟香が書いたといふ「ヘボン辭書」の平假名が上海でどういふ風にして作られたかを探らねばならぬし、日本の製紙業がいかにして今日の基礎を築いたかも述べねばならぬであらう。福澤諭吉らによつて代表される明治初年の洋學者の行衞や、當時東洋の文化都市上海と長崎の交通的事情やも、日本の活字誕生にとつては缺くべからざるものであつて、讀者と共に私はこの後半を、昌造萬延元年以後の事蹟とともにみてゆきたいと考へるのである。