二、pp.347-362

 昌造のつくつた蒸汽船雛形が「砲二挺」を備へた一種の軍艦であつたことは、「海防嚴守」のたてまへから、土佐藩の註文であつたと謂はれるが、嘉永六年ペルリ、プーチヤチンの來航、安政元年の「神奈川」「下田」二條約の成立といふ、時の情勢と對應してゐて興味ふかい。安政二年江戸から歸國後、直ちに永井、勝らの海軍傳習所の通譯係を任命されたのも、時代の波が命ずるところであつたらう。同僚の森山榮之助は改め多吉郎となつて外國通辯方頭取となり、同僚堀達之助は蕃書取調所教授となつた。昌造もまたこのままでゆけば、いちはやく何らか幕府的に表だつた役柄となつたのであらう。ところが彼は同じ二年に幕府に罪を問はれて「入牢」してしまつたのである。
「この年氏は長崎へ歸りしが、時の長崎奉行水野筑後守は幕府の命によりて、氏に突然揚屋入りを申付けた。乃ち氏は牢獄の人となつた。その理由は、氏が江戸に滯在中、天文臺の諸役人より依頼を受けて、天文に關する蘭書の購入方を引き請けてゐたのが原因である」と「印刷文明史」は書いてゐる。
 三谷氏の「本木、平野詳傳」を除けば、福地源一郎の「本木傳」も「世界印刷通史日本篇」も、その他多くの本木傳が、彼の入牢説を支持してゐる。しかもその入牢期間は、一致して安政二年から安政五年十一月までといふ長期である。これは昌造の生涯にとつてほんの「躓きの石」くらゐではないだらう。前にも述べたやうに、通詞に對する罰則は一般にきびしくはあつたが、しかし「印刷文明史」のいふところを信じても、單に蘭書購入方取次といふだけではあまりに過重ではないかといふ氣がする。
「天文臺の諸役人」は幕府の外國關係の役所である。しかも安政二年には蘭書の輸入が間にあはなくて、長崎奉行西役所内に印刷所をつくつて「日本製洋書」をこしらへた程である。そして昌造を訊問した水野筑後守は「下田談判」當時の次席應接係で、昌造はその配下であつた。昌造の養父昌左衞門は通詞目付で現存してゐて、假に多少の私情がものをいふとするならば相當の力もあつた筈である。しかも昌造は「長崎談判」以來、長崎通詞中功勞のあつた人間である。嘉永の初期とちがつて尠くとも表面的には緩和されてゐた筈の「蘭書購入取次」くらゐが、何故にそれ程の重罪に問はれなければならなかつたらうかといふ氣がする。
「本木傳」の多くが彼の入牢を「ほんの躓き」とする傾向をおびてゐる。福地源一郎は「同年本木昌造先生故ありて入牢せられぬ。その故詳ならず、人の傳ふる所に依れば本木昌造先生が侠氣ありて己がいささかも係はらぬ事柄なるに他人の罪を救はんとて無實の罪を身に引受けられたるなりと云ふ」と書いた。「世界印刷通史日本篇」は單に「事ありて」と詳述を避け「本木、平野詳傳」は、この出來事についてもつとも詳細に記録をあつめてゐる點ですぐれてゐるが、「苟くも偉人たる本木昌造先生の名を傷けるものとして」入牢否定説に終始してゐる。つまり否定にしても肯定にしても、「入牢といふ不名譽」から昌造を無理矢理に引き離さうとしてゐる點で一致してゐるのである。
 しかし昌造の生涯にとつて大きなこの事件は日本の活字の歴史にも關係があるので、私もべつに新らしい材料を持つてゐるわけではないが、出來るだけ考へてみたい。「印刷文明史」は福地の説「他人の罪を救はんとて無實の罪を身に引受け云々」を敷衍して「――然るに氏の實兄であつた品川梅次郎なるものは、遊蕩の性なりしため、昌造氏の購求し居る洋書類を、密かに江戸の武士達に賣付けた。洋書に趣味なき武士達は、これらの蘭書類を洋學者連に高價に賣却して遊蕩の費に當てたなどのことが累を爲して、遂に昌造氏は牢屋に閉居せしめられ」たのだと書いてゐて、「入牢肯定派」の原因とするところは一に「蘭書取次」にある。
 これに比べて、「入牢否定説」の「本木、平野詳傳」は、有力な反證をあげて次のやうに述べてある。その一は安政二年より三年にかけて昌造は出島の蘭館で活版技師インデル・モウルを監督して「蘭話字典」を印刷してゐること。その二は安政二年「活字板摺立係」を命ぜられてゐること。その三は安政二年造船海運についての「由緒書」を奉行荒尾岩見守を經て永井玄蕃頭に提出してゐること。その四は安政三年「和蘭文典文章篇」を著述してゐること。その五は安政四年和蘭で出版した「日本文典」の日本活字の種書を送つてゐること。その六は安政四年、「和英對譯商用便覽」を出版してゐること。その七は安政五年「物理の本」を出版してゐること。その八は安政四年に次男小太郎が産れてゐること。その九は長崎奉行所の「入牢帳及犯科帳」にも記録がないこと等であつて、このうち「活字板摺立係」任命は月が不明なので事件前か後かわからぬし、造船、海運の「由緒書」は海軍傳習所設置當時だからこれも事件前かも知れぬが、その他の反證はたしかに現存する文書や、家系が示すところによつて疑ふ餘地がないが、「本木、平野詳傳」の著者もまた古賀十二郎氏の談をあげて「然し蘭書輸入の點ではとがめは受けて居る」と云ひ、「安政二年に幕府の命に依り、奉行水野筑後守の調を受けて居る。それは和蘭書無斷買入れであ」ると、「蘭書取次原因説」[#底本、始めカッコなし]【「、[#底本、始めカッコなし]】に同意して、しかし「微細なものにて、入牢せられたものとも想像されず」と否定説を固持してゐるのである。
 そこで私らが判斷しうることは、入牢肯定、否定を通じて、昌造が安政二年には「蘭書取次」あるひは「購入」で幕府に罪を問はれたことだけは確實だといふことである。たとへば「印刷文明史」のいふ如く「揚屋入りを申しつけ」られたといふ「入牢形式」ではなかつたかも知れぬが、「本木、平野詳傳」の著者のいふところもまた、その他の形式による處罰もまつたくなかつたと否定し得てゐるわけではない。逆にいへば、昌造の通詞としての公的生活は、殊に嘉永六年以來は非常に多忙で、常識的にいへば順調だつたにも拘らず、安政二年以後は萬延元年末飽ノ浦製鐵所御用係となるまで、ほとんど絶えてしまふのは何故であらうか? 通詞としては「下田談判」以來の小通詞過人から生涯のぼることのなかつたのは何故だらうか? といふ疑問にも答へ得るものとはなつてゐないことである。
 つまり肯定説、否定説のどちらも、その全部を信用することは出來ぬのであるが、假に判斷を想像的に延ばしてゆくならば、共通する原因の「蘭書購入」にもとめてゆかねばならぬだらう。「詳傳」の著者もいふごとく、それが「微細な」罪であつたかどうかである。前記したやうに安政二年の後半からは尠くとも表面的には「蘭書の輸入が間にあはな」かつたほどの時代であつた。そのために日本で最初の公許の「印刷工場」が出來た時代であつた。嘉永二年の「近來蘭醫増加致し世上之を信用するもの多くある由、相聞え候、右は風土も違候事に付、御醫師中は蘭方相用候儀、御禁制仰出され」た「御布令」の時代から見ると格段の相違があつたやうに見えるが、また一方では「長崎談判」の折森山榮之助が譯述して公用に役立つた英書を同じ應接係役人の箕作阮甫でさへが讀むことが出來なかつたやうな實情もあつて、それが嘉永六年の末である。また安政元年から二年まで同じく川路左衞門尉に隨つて「下田談判」へ參加した阮甫のある※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話について呉秀三氏はこのやうにも書いてゐる。「されば安政の初に清水卯三郎が、阮甫が下田に居る所へ行つて弟子入りを頼むと、阮甫はそれを探偵と思つたと見え、なかなか許さない。段々頼んだ所、江戸へ行つてから教へてやらうといふ約束で、清水は其後江戸で阮甫の門に入つた。」また「西洋の書物の飜譯や其出版の事が寛かになつて來――たのは、是からズーツと後で、――阮甫は長い間天文臺の飜譯方で、唯天文方の下に屬して、命令の儘に洋書を飜譯するばかりであつた。」
 ところが、幕府の政治的場面にある阮甫などはさうであつても、當時江戸の杉田成卿とか大阪の緒方洪庵などは東西に大きな塾を開いてゐてなかなか旺んであつた。「緒方洪庵傳」(緒方富雄氏著)に見えるところでは、安政元年に「當時病用相省き、專ら書生を教導いたし、當今必要の西洋學者を育て候つもりに覺悟し」などと手紙に書いてゐて意氣軒昂であり、大村益次郎大鳥圭介やなど多數の塾生を擁してゐたのをみると、かなり寛やかだつたやうでもある。福澤諭吉が二十一歳で長崎へ遊學したのは安政元年で、大阪の洪庵塾へ入つたのは同二年であるが、當時も「内塾生」だけで「五六十人」からあり、他に通學生もあつたといふから恐らく百人を超えてゐたらうし、「緒方の塾生」といへば大阪では有名だつたと謂はれる。「福翁自傳」などでみると、某大名が洪庵に貸し與へたある蘭書を、諭吉ら塾生一同が徹夜で手寫して返したなどの話がある。この場合もその原書が高價でもとめがたいといふところに力點があつて、それほど事自身が祕密でも法規に觸れたものでもないやうである。
 洪庵が「當今必要の西洋學者を育て」云々は、著者も云つてゐるやうに勿論「西洋かぶれの學者を育てる」意味ではなくて、最初の黒船來航以來、何としても泰西の文明をわがものとして、外夷に備へる必要からであるが、緒方洪庵文久二年に西洋醫學所頭取となつた晩年わづかを除けば、生涯を民間の醫者としてまた蘭學者として功勞のあつた人で、ほとんど政治的面には出なかつた人であり、杉田成卿も蘭學者ではあつたが開國論者ではなかつたと「箕作阮甫傳」はつたへてゐる。
 つまりこれらを綜合してゆくと、蘭書の購讀とか勉強とかいふ問題は、まことに微妙なものだつたことがわかるやうだ。泰西の文明をわがものとして外夷に備へなければならぬことは當時の大勢であつても、政治的な實際方法の場面では「鎖國」と「開國」にわかれて、また「鎖國」にも佐幕派がある如く、「開國」にも尊皇派があつて、昌造など勿論「尊皇開國派」であるが、それが政治的波動のたびに複雜にもつれあひ、同じ蘭學者でも政治的面にある人は阮甫のやうに入門者でも一應は探偵ではないかと疑つてみねばならぬやうな情況にもおかれたのであらう。
 つまり安政二年頃になると、蘭書の輸入なり勉強なりの取締は寛かになりつつあつた。尠くとも蘭學への關心は「安政の開港」と共に一般的にも急速にたかまりつつあつて、幕府も國防の必要だけからも「日本製洋書」をつくらねばならなかつた。しかしまた蘭書購讀についての法規が改正されてはをらず、また改正されてゐようとゐまいとに拘らず、その購讀者、勉學者自體の性質なり、在り方なりによつては幕府なり幕府以外の方面からなり強い壓力を蒙らねばならなかつたといふことになる。箕作阮甫緒方洪庵とくらべてみて、いろんな意味でそのことがわかるやうだ。昌造などの場合、その以外に彼が通詞といふ蘭書買入れに特別の便宜をもつた職掌は、も一つの危險があつた。この危險は人格的に下劣な單に「金儲け」からくるそれもあるが、同時に人格的に下劣でなく、學問的な意味からそれを利用する場合もありうることで、「蘭學事始」以來の洋學者は、その「脇荷」的輸入方法からまつたく無關係に勉學し得た場合の方がむしろ尠いかも知れぬ。そして昌造がそのいづれの側であるかはいままでみてきたところ、またこれからみてゆくところでおのづと明らかだから述べないが、とにかくその危險は長崎に生れ通詞の家に育つた彼の宿命の一つであり、しかも士分でもない彼等は、「藩の勢力」などといふ庇護的背景はまるでなかつたのである。
 しかしまだそれだけなら昌造の問はれた罪は單純であらう。前に述べたやうに彼の祖父四代目通詞目付庄左衞門は同じやうな事を甲比丹ヅーフから時の長崎奉行に密告されたことがあつたが、そのことで庄左衞門の通詞的立場は妨げられなかつた。また「脇荷」によるある種の利益は、古くから一般通詞のみならず奉行所役人に至るまでその「餘祿」とされたといふから、このことだけで昌造が、その六代目通詞目付を襲ぐことは出來なかつたとしても尠くとも通辭的公職から身を退いたも同然となるやうな結果は考へにくい。しかも「揚屋入り」の形式の如何はとにかく、安政二年から同五年末に至る長期のある種の處罰は、「蘭書取次」といふ原因に相違はないとしてももつと深い事情がありさうである。
「――通詞の職にある氏は洋書の購入に便利があつた。殊に元來が大に西洋文物の輸入に努めて居た氏の事故、天文書を購入する序をもつて、内々開化思想の普及に力を盡したのであつた。」と「印刷文明史」は書いてゐる。また三谷氏の「詳傳」も、「本木翁が入牢説云々は「蘭話通辯」を印刷出版したることと、蘭書に因りて「和英對譯辭書」を著述せんとする企あることを密告せるものあること、翁が開國論者たることの世に聞えたる等に起因せりといふ」と書いてゐる。このへんは入牢肯定派、否定派どちらも「蘭書取次原因説」に共通したやうに、その原因の背景となる蘭學者としての昌造の性質や在り方を觀る點でも共通してゐるが、「詳傳」はさらに昌造の在り方を強調して「――先生は佐幕黨にはあらざるも、痛烈な開國論者であつたために一時は鎖國論者の非常な的となられ――當時長崎に本木昌造先生を刺さんと、夫等の志士が頻りに出入したために、身の危險を慮りて京洛に上り、一時某公卿に身を寄せて居られたこともある」と書いてゐる。それが何時頃のことか、某公卿とは何人であるかわからぬし、たぶんに長崎での云ひ傳へをそのまま記録したやうなふしもあるが、全體として昌造が「蘭書取次」で罪を問はれたほんとの内容がおぼろ氣ながら理解できるやうである。
「印刷文明史」のいふ「揚屋入り」は恐らく間違ひではないまでも誇張に過ぎたものと私も考へる。そして古賀十二郎氏の談のやうに「水野筑後の取調を受けたことは事實で」あつて、同時にそれは「揚屋入り」ではなくても重大な、意味深長なものだつたらうと考へる。長期に亙る一種の謹愼閉門であつて、その状態は萬延元年飽ノ浦製鐵所御用係に登用されるまでつづいた。「當時紀州侯の御用達を勤めて居た青木休七郎氏がこの事情を知り、安政五年八月十五日の夜、私かに新任の奉行岡部駿河守の役宅を訪れ、現下有用の逸材である本木昌造氏を、何時までも揚屋に留め置くは國家の一大損失である所以を説いて保釋を願ひ出た。すると駿河守もその理に服したと見えて、十一月二十一日の夜、用人小林某を休七郎宅へ遣はし、愈々本月二十八日昌造氏を保釋する旨を傳へしめた、斯くて氏は長き牢屋生活から保釋の身となつた」(印刷文明史)といふやうな經緯《いきさつ》は、「揚屋」の内容は疑問としても、まるきり無視することの出來ない文章であらう。青木休七郎といふ人は昌造の親友でのちにも出てくる人であるが、この文章は昌造の罪が「蘭書密輸」などいふ金儲け的なものとちがつて、機微な政治的性質を帶びてゐることをも物語つてゐる。