一、pp.329-347

 第三囘めのロシヤ使節が長崎へ來た嘉永六年は昌造三十歳であつて、この年はじめて父となつてゐる。當時の慣習からすれば晩い方であらうが、妻女縫はこのとき十五歳で長男昌太郎を産んだのである。三谷氏の「詳傳」家系圖によれば、縫は養父昌左衞門と後妻クラとの間に、天保五年四月に出生したのだから、正確には十四年と何ヶ*1月であり、ずゐぶん若いお母さんである。したがつて昌造らが結婚したのは、恐らく昌造二十八九歳、縫十三四歳のときであつたらう。
 縫と昌造は從兄妹同志である。「印刷文明史」の著者は「氏は元服を加へたるとき、家女と結婚し、間もなく家業の通詞職をも襲ぎしが」と書いてゐるが、昌造元服は十五歳だから、縫はこの年生れたばかりで、つまり赤ン坊と許嫁の式を擧げたのであらう。
 もちろんかうした結婚風習は江戸時代の世襲制度と深く結びついてゐる。通詞には古くから一種の試驗制度があり、幕末期には對外關係の急激な膨脹から新規取立の通詞も澤山あつたやうだが、特別の缺陷がない限り、武家と同樣、世襲制度は強力に生きてゐた。このことは日本の文書にも明らかだし、シーボルトやゴンチヤロフの手記にもみえる。昌造が昌太郎の父となつたとき、養父昌左衞門はまだ「大通詞兼通詞目付」として羽振りをきかせてゐた。そのことは「長崎談判」の折、ロシヤ使節側から幕府委員及び立會の通詞たちに贈物をしたとき、その談判には直接たづさはらなかつた昌左衞門を通詞側の筆頭にして、「通詞目付本木昌左衞門へ、銀時計一個」と「古文書――卷ノ七」に記録されてあるのでも明らかである。通詞目付は通詞取締といふ役目で、「洋學年表」元祿八年の項に「十一月長崎和蘭通詞目付の員を設け衆員を監督せしむ、本木庄太夫始て補さる」とあり、世襲して昌造はその六代目を約束されてゐたわけであつた。
 縫は昌太郎の次に安政四年小太郎を産んで、その翌年七月死亡した。長男昌太郎はそれより四ヶ*2月前、縫に先だつてゐるが、小太郎は明治になつてから、民間に始めて出來た活字製造會社「東京築地活版」の社長となつた人である。のち、昌造は後妻タネをむかへ、清次郎、昌三郎をなし、他に妾某との間に娘松があり、晩年には子供は出來なかつたが妾タキがあつた。娘松を産んだ妾某は、元治元年昌造が八丈島に漂流した折にできた女であるが、かうした多端な過程にみても、彼の結婚生活はあまり幸福ではなかつたやうである。後妻タネの死亡年月は不明であるけれど、清次郎を元治元年に、昌三郎を慶應三年と、矢繼早に産んで、それきり後絶してゐるのをみると、二度目の妻にも先だたれたのか知れない。いはば女房運の惡い人であつて、そのことが最初の妻縫が十三四歳で結婚し、十九歳の短生涯で終つたことや、昌造が生れたての赤ン坊と結婚式を擧げねばならなかつたことや、そんな不自然さと結びついてゐるやうに私には思へてならないのである。
 昌造自身、かういふ當時の男女風習についてどんな見解をもつてゐたか、彼の今日殘る著書のうちにも示してゐないのでわからないが、假に何らか新らしい見解が彼にあつたとしても、さういふ風俗なり慣習上の問題は當時の過渡的な政治や科學よりむづかしいもので、明治の維新なくしては考へられぬことであらう。彼は一般に科學者とだけみられてゐるし、彼の著書もそれ以外には見ることが出來ぬやうである。「印刷文明史」の著者は、明治四十五年昌造へ御贈位の御沙汰があつたとき、當時在世中であつた昌造の友人諏訪神社宮司立花照夫氏、門人境賢次氏などを長崎に訪ねて、昌造についての感想を求め、次のやうに書いてゐる。「――當時氏の眼中には最早渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた。この間氏は常に多くの諸書を渉獵して、專ら工藝百般の技術を研究し、殊に自己の修めた蘭學を通じて、泰西の文物を研究するに日も尚ほ足らずといふ有樣であつた。此頃に於ける我が國情は鎖國の説專ら旺盛を極め、異船とさへみれば無暗に砲撃を加へるといふ状態なりしが、昌造氏は毫も之に心を藉さず、心中私かに開港貿易の時機到來を信じてゐた。然して早晩――通商條約が締結されるであらうと考へ、先づ外國の人情風俗工藝技術の如何にも悉く調査研究して、豫め外國に對する方策を定め、世を擧げて鎖國論に熱中して居たに拘らず、氏は心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐたのである。」
 昌造在世中の友人、門人のこの感想も今からは三十數年前のことで、再び求むるに由ない貴重なものであるが、文章があまりに抽象的で殘念な氣がする。時代も天保十三年の「異國船打拂令改正」以前のやうにも思へ、また神奈川及び下田條約以後の、つまり萬延、文久頃の五ヶ*3國條約實施問題をめぐる攘夷論沸騰時代のやうにも思へて甚だ曖昧であるが、とにかく「眼中には最早渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた」とか「毫も之に心を藉さず」とか「心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐた」とかいふへんは、嘗ての友人や門人やが傳へる昌造の性格の一面としてそのまま信じてよいだらう。つまり昌造はその頃の日本人が當面する大きな仕事として、海外の科學を吸收してわがものとすることに一切を打ち込んでゐたのであらう。
 そして彼のこの特徴的な性格は、「長崎談判」のときプーチヤチンから彼と楢林榮七郎だけに贈られた「書籍一册づつ」「ロシヤ文字五枚」といふ事柄や、ペルリの通譯官ポートマンから森山榮之助へ與へた書翰にみる昌造への傳言文など。殊に下田談判のとき、昌造だけがひとり戸田村のスクーネル船工事場付の通譯であつたことが、對幕府的にもあまりはえ[#「はえ」に傍点]ない場所に自らもとめて行つたやうにも思はれるし、これらを思ひ合せると、どつか符節が合するやうで、時代を超えてとほくを見詰めてゐるやうな科學者らしい風貌がうかんでくる。
 昌造が下田から長崎へ戻つてきたのは、安政二年の何月だか現在の私にはわからない。プーチヤチンの下田退帆が三月二十三日で、まだ乘組員の一部は殘つてゐたし、いろいろ後始末もあつたらうから御用濟はそれより若干遲れてゐよう。また公用の暇々には、造船や蒸汽機關などにも當時としては先覺であつた彼など、「大船建造禁止令解放」直後の、造船熱の旺んだつた大名などに招かれたりしてゐるから、眞ツすぐに長崎に戻つたか否かもわからない。しかし同年七月長崎に出來た永井玄蕃頭、勝麟太郎らを主とする海軍傳習所の傳習係通譯となつてゐることは前記した通りだから、夏には確實に長崎へ戻つてゐたわけである。嘉永六年七月以來足かけ三年、昌造は文字通り東奔西走であつたわけで、このことは縫が長男昌太郎を産んで、次男小太郎を産むまで、嘉永六年から安政四年まで四年間のあひがあるといふこととも比例してゐる。
 安政元年の七月に、昌造が土佐侯の築地の造船場にゐたことは前に述べた。「吉田東洋傳」に見える引用文では九月初旬まで昌造の名が出てくるが、恐らく彼は九月中旬まで江戸にゐて幕府天文方の仕事をしてゐたのだと思はれる。つまり神奈川條約成立後、ペルリの退帆が六月で、九月下旬大阪の安治川尻にあらはれたプーチヤチンの船へ幕府の諭書を持參するまでの期間である。それに箱館奉行經由のプーチヤチンの書翰を森山(當時榮之助)と連名で飜譯してゐる事實からみて、天文方の仕事もしてゐただらうと判斷するわけであるが、「東洋傳」によれば、昌造は江戸において最初の洋式船舶建造の功勞者といふことになつてゐる。
安政元年七月、長崎の通譯本木昌造、公用を帶びて下田に來るの途次、轉じて江戸に入る。八月廿九日、豐信(容堂侯)昌造を召して海外の事情を聽き、携ふるところの蒸汽船の模型を見、隨從の工夫幸八に命じて、更に模型を作らしめ、幕府に請ふて試運轉を爲す。是れ江戸に於て、洋式船舶製造の濫觴なり――」
 吉田東洋土佐藩の船奉行で開國論者、文久二年攘夷派の志士に暗殺された人である。この文にいふ「下田に來るの途次、轉じて江戸に入る」といふところは、前記したやうな昌造の動靜から推しても異つてゐるやうだが、いづれにしろ昌造が造船その他海外科學に造詣がある人間だといふことは、當時その方面の人に知られてゐたらしい。明治四十五年御贈位内申書には「蘭話通辯」の他に「海軍機關學稿本」などがあつて、多くの印刷術發明に功勞のあつた人人が他の部門でもさうであつたやうに、昌造も日本の艦船發達の歴史では、その名前を缺くことの出來ない一人となつてゐる。「翌二年豐信參覲交代の期に際し、歸國の後之を高知に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]漕し、浦戸港内に泛べ、豐資その他連枝及び諸士に縱覽せしめて西洋事情の新奇進歩せる實物標本を紹介して、大いに頑夢を覺醒せしむるところありたり」
 土佐藩士を「大いに――覺醒せしめ」たのは勿論吉田東洋のことを云つてゐるのであるが、土佐藩の洋式船舶建造が東洋の發起であるならば、昌造を推薦したのも東洋かと思はれるし、東洋と昌造は若干の知己であつたかも知れぬ。しかし土佐藩の洋船が日本で最初かどうかは疑はしい。土佐藩の船が築地で出來上つて、土佐の港で運轉したのは翌二年の八月だが、薩摩藩の昇平丸が江戸へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]航してきたのは同じ二年の四月である。土屋喬雄氏の「封建社會崩壞過程の研究」によれば、薩摩藩嘉永五年に蘭書に基いて蒸汽船雛型を作つた。表面は琉球警備に名を藉りて幕府の許可を得てゐたもので、水戸齊昭の主唱によつて「大船建造禁止令」が打破されるや、建造中のその一隻を幕府に獻納したものだといふから、「東洋傳」の限りでは一歩遲れてゐることになる。
 しかしそれはとにかく、土佐藩は昔から船では名のある國で、土佐と薩摩は建艦競爭してゐたといふから、「禁止令」解放後先鞭をつけたことは疑ひなく、昌造としても生涯の名譽の一つであらう。昌造持參の蒸汽船模型がどんなものであつたか、それは今日何も傳つてをらぬのでわからぬが、大きな水溜か何かで運轉してみせたらしい。「東洋傳」中、引用の寺田志齋の日記は、それを見物してびつくりしてゐる。
「七月朔日(安政元年)晴天、九ツ過ニ退ク。遠江守樣御出ニ付、八ツ頃再ビ出動、直チニ退ク。長崎鹽田氏幸八ト云者、蒸汽船雛形持出シ、御馬場ニ於テ御覽アリ、實ニ奇ト云フベシ。右見物ニ暮前ニ出デ、日暮テ退ク」とあるから、その馬場は土佐藩士の見物でいつぱいだつたらう。
 ここでいふ「鹽田氏幸八」は昌造が長崎から同道してきた大工幸八のことで、寺田の日記にみても、昌造監督のもとで實際は幸八が船をつくつてゐることがわかる。同じ四日には昌造自身で運轉してみせた。「晴、四ツニ出ヅ、今日長崎譯官本木昌造、蒸汽船雛形持出シ御覽アリ。朔日ニ上ツリタルヨリハ大ニシテ仕形モヤヤ精密ナリ、七ツ過ギ退ク。夜澁谷、傳氏ニ行ク、小南、朝日奈、出間ト同クス。四ツ時カヘル。昌造ノ咄ニ此度ビ、魯西亞、獨兒格(トルコ)ト戰ヒ、英佛ノ二國獨兒格ヲ援ク、魯西亞ノ軍艦十隻爲メニ英軍ニ獲ラル」と志齋は書いてゐる。四日の雛形は朔日のそれより大きく精密なものを昌造自身で運轉してみせたのであらう。この文で見ると、あとにつづく日記のそれと綜合して、昌造は土佐藩士澁谷傳氏といふ人の邸にゐたのだらうか。小南とか朝日奈とか出間とか、同藩士かどうかわからぬが、そんな人達がやはり來合せてゐて、昌造からクリミヤ戰爭のニユースなどを聽いてゐる容子がわかる。昌造の咄ぶりがどんなだつたか知る由もないけれど、海外の政治情勢と結びつけて、海外科學の紹介、海國日本の海防の急などが、恐らく寺田はじめ居合せた人々の腦裡に植ゑつけられた話の内容だつたらうと想像することが出來る。寺田志齋は東洋と同じく土佐藩の仕置役として藩政に參畫し、容堂の側用人を勤めたことがある。川路左衞門尉などとも親交があつたといふから、後年佐幕派連署組の巨頭となつたといふやうな當時の複雜な政治的經緯は別として、昌造の海外ニユースなどにもいつぱしの見解をもつて關心するほどの人物だつたにちがひない。
 七月十六日にはまた澁谷へ行つて蒸汽船註文の事を昌造と相談し、二十四日は築地の造船場を他の藩士たちと共に下檢分してゐる。「終ニ本木昌造ヘ酒ヲ給ス」とあるから、昌造はその造船場で既に指揮に當つてゐたものであらう。八月朔日には「本木昌造ヨリ約束ノ品ヲ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]シ來ル」と、品名を匿してあるが、私の想像ではたぶん蘭書の類ではなかつたかと思ふ。蘭書は當時の志ある武士の多くが欲してゐたところで、しかもまだ特別の人以外には購求出來なかつたし、蘭書の種類によつては殊にさうだつたからである。八月五日には建造中の船の事で昌造と談じ、九月七日には「雨、出テ蒸汽船製造場ニ過タル、船ノ形、頗ル成ル」と書いてゐる。
 昌造が土佐藩のために骨折つたのは、雛形作りだけでも一再でないし、工夫に工夫を凝らしたらしい。容堂の日記でみると、八月四日は「供揃ニテ、供※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]リノ面々モ馬乘ニ申付、砂村屋舖ニ相越シ、長崎之通辭召連レ、蒸汽船一覽セラル」とか、同八日には宇和島藩主伊達侯を招待して「夕方本木庄藏ト申ス通辭、蒸汽船持參致シ候ニ付、馬場ニ於テ伊達遠江守殿ト一所ニ一覽セラル、ソノ節中濱萬次郎モ呼寄セ――」と誌してあるから、昌造はこのときアメリカ歸りのジヨン萬次郎とも逢つたわけである。中濱萬次郎は漂民として嘉永三年日本へ歸着、後二年間は自由の身ではなかつたが、安政の開港以後その語學と海外知識を買はれて後幕府の軍艦操練所教授となつた人で有名である。土佐藩は幕府にさきがけて萬次郎を登用し藩士に列せしめてゐたから、このときも呼び寄せて昌造の雛形を彼の知識によつて批判せしめたものであらう。
 神奈川條約成立以後は日本の上下をあげて近代的な大船建造熱が旺盛であつた。「閏七月(安政元年)廿四日、御用番久世大和守殿に左之伺書留守居共持參差出候處、被請取置、同八月廿三日、同所え留守居共被呼出、右伺書え付紙を以て被差返上、則左之通」と土佐藩記録にあつて、「今度大船製造御免被仰出候ニ付、爲試」と、一ヶ*4月の短時日を以て幕府も許可してゐる。昌造の雛形提示が前記したやうに七月朔日に始まつてゐるのだから、土佐藩の伺書提出はそれによつて決定したものだらう。そして昌造の雛形及び監督によつて建造された江戸において最初の蒸汽船はどんなものだつたらう。同じく土佐藩記録はその伺書の内容を次のやうに誌してゐる。「蒸汽船一艘、長サ六間、横九尺、深サ五尺四寸、砲數二挺」といふから小さいながら一種の軍艦であつた。「右之通雛形、築地於屋舖内、手職人エ申付爲造立度、尤長崎住居大工幸八ト申者、此節致出府居候ニ付、屋舖エ呼寄、爲見繕申度、出來之上於内海致爲乘樣、其上彌以可也乘方出來候時ハ、海路國許エ差遣シ、船手之モノ共爲習練、江戸大阪共爲致往還度、彼是相伺候、可然御差圖被成可被下候、以上、閏七月廿四日、松平土佐守」
 船が出來たらばまづ江戸内海において運轉させ、それから國元土佐へ送つて藩の船手共へ習練させる、上達したらば江戸、大阪間を往復させるといふ意味であるが、文中幸八の名があつて昌造の名が出ないのは、昌造は長崎奉行配下で目下江戸出役中ゆゑ、幕府へは憚りあつたのであらう。
 その船が雛形どほりうまくいつたか? またいつ出來あがつて、江戸内海でどんな風に試運轉したか? それはわからないが、翌年八月、その船が土佐へ無事※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]航してきたことは、既に歸國してゐた寺田志齋の日記に見える。「四日、由比猪内ヘ過ク。夫ヨリ出勤。今日ハ早仕舞九ツ時退ク。――蒸汽船江戸ヨリ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]着ス」そして同じ八月二十三日には「――四ツニ出、八ツニ退ク。今日雅樂助君(容堂弟)蒸汽船御見物ニ御出。余モ亦往ケトノ命アリ、先ヅ三頭ニ至ル。少將公御出也、頃之御歸座、遂ニ彼ノ船ニ御上リ、余モ亦隨フ、此船余前官ニテ江戸ニアリテ頗ル此議ニ預ル、只迅速ナラザルノ恐アリシニ、果シテ進ムコト遲々タリ――」
「東洋傳」には、この蒸汽船が警護の傳馬船よりもはるかにのろくて、人々困惑したといふ趣きが書いてあるが、また機械でうごく船をみて人々がおどろいた趣きも書いてある。とにかく昌造及び幸八による、日本人によつて創られた最初期の蒸汽船はのろいながらも日本の海を進水したのであつた。
 しかし昌造は蒸汽船製作の實際を何によつて學んだのだらうか? 弘化元年來航のオランダ軍艦「パレムバン」以來、いくつか蒸汽船は見たにちがひないが、通詞ではあつても外國軍艦などの機關部點檢などはそんなに自由ではなかつた筈である。同じ弘化年間に幕府はオランダに註文して、小型の蒸汽機關を註文したことがあるが、その頃の昌造は稽古通詞の若輩であつた筈だから、自由な便宜も得られなかつたにちがひない。文書により、あるひは人知れず模型などつくつて、豫てからの苦心の結晶であらうが、のろいながらも日本人だけで創つた蒸汽船が進水したことは、この時代として特筆すべきことであらう。蒸汽船ではないが洋式船舶建造の最初の歴史としてのこる戸田村の「スクーネル船」は翌安政二年であつたことを思ふと、「長サ六間」の「砲二挺」を備へた船が「深サ五尺四寸」しかなかつたといふことは、それだけに却つて自然のやうで、昌造や幸八の苦心が想像されるやうである。









*1:青空文庫入力ルールに従ひKATAKANA LETTER SMALL KEとするが、入力者にはKATAKANA LETTER KEに見える、青空注記に非ズ

*2:青空文庫入力ルールに従ひKATAKANA LETTER SMALL KEとするが、入力者にはKATAKANA LETTER KEに見える、青空注記に非ズ

*3:青空文庫入力ルールに従ひKATAKANA LETTER SMALL KEとするが、入力者にはKATAKANA LETTER KEに見える、青空注記に非ズ

*4:青空文庫入力ルールに従ひKATAKANA LETTER SMALL KEとするが、入力者にはKATAKANA LETTER KEに見える、青空注記に非ズ