四、pp.313-326

 日露下田談判のときも、通詞昌造の活動はあまり明らかでない。榮之助改め多吉郎は、このときもはや末輩ながら幕府直參だから、その活動が主體的に記録に殘つてゐるが、同じ通詞としてこのときはたらいた堀達之助にくらべても表だつた記録が尠いやうだ。ペルリの「日本遠征記」などには、當時の長崎通詞が殆んど殘らず記録されてあるのに、昌造だけがない。しかもペルリの通譯官として最も活動したポートマンが、特に昌造について注目してゐる前記の榮之助宛書翰を思ふとき、何かしら昌造の性格の一面がそこらにある氣がする。これはのちの話にもなるが、彼は通詞としては生涯「小通詞過人」から陞ることがなかつた。初代庄太夫以來世襲的な「通詞目付」として、長崎通詞最高の家柄であつた彼が「小通詞過人」から陞らなかつたといふことは、常識的にみて不審の一つである。長崎談判以來、大きな外交事件には引續き拔擢されて參加してゐるから、語學や通辯力量に劣つてゐたとも思はれないが、そのへんに長崎通詞一般とちがつた、どつか己れの科學的才能と共に思ひをひそめた一克なところがあつたのではなからうか。
 安政元年十一月以來、つまり下田談判の中途から、彼はロシヤ人と共に伊豆の戸田村にゐたことが、「古文書幕末外交關係書卷ノ八」の記録によつてわかる。「昨十四日豆州戸田村到着仕候處――魯西亞使節私共着之趣承り急き面會仕度段、通詞本木昌造を以て申越候に付、直に使節罷在候寶泉寺へ御普請[#底本は「普譜」]役御小人目付等引連れ罷越及面會――」云々。これは翌年二月十五日付で、ロシヤ應接係の一人、勘定組頭中村爲彌から川路宛の上申書の一節であるが、ロシヤ人たちは戸田村海岸で船をつくつてゐたのである。前年十一月四日の海嘯と、宮島沖でのフレガツト沈沒などで、ロシヤ使節は數百名の乘組員を歸國させるのに船が足りないでゐた。アメリ捕鯨船を借用したりしたが、その間捕鯨船乘組のアメリカ人たちを上陸させ、待たせておく場所が困難で、幕府役人との間に起つた面白い※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話も幾つか記録にみえる。プーチヤチンは最初軍艦の建造を懇請したが、沖合に出沒してゐる英佛艦隊と中立地帶で海戰でもされては困るので、幕府は許可せず、運送用としてのスクーネル一隻が、ロシヤ人と日本人とで建造されつつあつた。
 翌二月十六日にも、川路へ上申した森山多吉郎からの上申書があつて、「今十六日、魯西亞使節多吉郎へ面會仕度旨、通詞本木昌造を以申立候に付、其節御屆之上幸藏一同と右宿寺戸田村寶泉寺え相越し面談仕候――」云々。プーチヤチンはスクーネルの建造をはじめてからは、監督をかねて戸田村の寶泉寺へ宿泊してゐた。したがつて昌造は造船場及び寶泉寺付として、當時の通詞中一ばんロシヤ人と接觸してゐたわけである。
 戸田村は下田から十里餘を距てた駿河灣の内懷にあるが、このときから日本ではじめて洋式の近代船を打建てた歴史的な土地となつた。スクーネルの建造は勿論ロシヤ人の設計で、ロシヤ人の船大工がこれに當つたが、日本人の船大工も澤山これに參加した。プーチヤチンは萬里の異境に在つて多くの船を失つた窮状を、日本側がよく諒解して建造に助力してくれた點について感謝した趣きは、彼自身の記録にも、また翌年ロシヤ政府の名を以て送られた感謝状にも明らかであるが、幕府としてもこの稀有な機會をつかんで洋式造船術を學びとらんとしたわけで、當時參加した船大工も、關東一帶の腕利きばかりを集めたと謂はれる。
 またロシヤ人たちも自分たちの技術を傳へるにやぶさかではなかつた。二月二十九日寶泉寺で會談したプーチヤチンは中村爲彌に次のやうに語つてゐる。「スクーネル新船之儀は繪圖面其外巨細之儀、川路樣え可申上、尤私出帆まで兩三日之日合有之候――スクーネル船日本にて御用ひ被成候節は長崎まで三日程にて相※[#「舟+走」、317頁7行]り申候、隨分御用辨に相成可申候――スクーネル船には、輕荷積入不申候ては不宜候間、石にても御積入可被爲、尤も荷數之儀は猶委細可申上候――」といふので、船底が深いから荷物が輕いときは石でも積めといふことや、江戸、長崎間を三日ではしるなどは當時としては驚異的なことであつたらう。
 川路も勿論この新造船に充分の關心を持つてゐたわけで、二月二十四日の日記に「晴、五ツ半時戸田村大行寺之魯人使節布恬廷呼寄候て及應接、夫より魯船製作所へ參る、日本之船大工異國の船大工集り候て働居申候、日本の方今は上手に相成候由――」と書いた。プーチヤチンから贈つたスクーネル繪圖面一切は川路より老中へ送られ、阿部は「――伊勢守殿へ御覽に入れ候處、軍艦には不相成共、至極便利之船に相聞候間、いづれにも一艘早くに打建」てよと命じ、ここに洋式造船術の一部がわがものとなつたわけであつた。
 このスクーネル船は長さ十二間、幅三間で、時の値段で三千餘兩かかつたと誌されてゐるが、前記の「古文書――卷ノ九」の冒頭にはこのスクーネルの進水式の繪がある。作者はたぶん伊豆代官江川の家へ食客となつてゐた無名の畫工だらうと謂はれる。その繪は當時の形を傳へて面白い。銅張りの船は青いロシヤ國旗を掲げていま水面に辷り出したところ、まはりには兩手をたかくあげた水平風のロシヤ人大工たちと、丁髷に鉢卷、股引に草履の日本人大工たちが腕拱みして見おくつてゐる。群集のなかに一きは背のたかいロシヤ人で何か祷りを捧げてゐるらしい宣教師と、羽織の裾を刀でピンとつつぱつた日本の侍とが、ならんでたつてゐる風景も歴史的な感じがでてゐる。
 プーチヤチンはこの新造船に乘つて歸國した。三月二十一日に一度出帆したが、沖合に待ち伏せてゐる佛軍艦を發見して引返し再び二十二日に出帆、やがて沖合に姿を消した。このスクーネルが銅張りだつたことは、まだわが國が鐵板製造に未熟だつたせゐであらう。ロシヤ人はスパンベルグ以來、いつもオホツク港で鐵張りの新船を建造する慣はしで、プーチヤチンも日本下田で船をつくらねばならぬ窮地に陷らうとは考へてゐなかつたにちがひない。「魯西亞人下官之内、船大工之者三四人有之、其餘大工鍛冶心得候者有之候間――布恬廷並士官之内三四人自身繪圖面歩割等以墨掛注文仕、多くイギリス國之書籍を以證據と仕候旨、通詞のもの申聞候――」といふ川路から老中への上申書中にみえる文でも、せいぜい破損修理に備へるくらゐの技術者たちであつたらう。海軍中將プーチヤチンはじめ半ば素人が總がかりでスクーネル一隻を作つたわけで、それは却つてこれに參加した日本船大工にもおぼえやすかつたらう。文中「通詞のもの」とあるはたぶん造船場付の昌造にちがひなく、彼はロシヤ人について伊豆一圓を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた木材買入れの最初から、その進水式まで關係してゐた。三谷氏の「詳傳」によれば、このときの昌造の勞苦を謝して、翌年ロシヤ政府は金時計を贈つたとあるが、プーチヤチンは歸國に先だつて日本側委員に贈物したときも、昌造には「湯ワカシ一個、繪二枚」と記録にある。「湯ワカシ」とはロシヤ名物の「サモワル」のことと察せられるが、川路に「セキスタント一箱、寒暖計一本、繪五枚」、森山に「寒暖計一本、毛氈一枚」、堀達之助や他の通詞たちは「布地若干」などと比べると、ほんの贈物ではあるけれど、昌造がロシヤ人に比較的ふかく感謝されてゐることがわかるやうだ。
 しかし昌造たち通詞も嘉永末年以來、急速に忙しくなつてゐた。新たに開港された蝦夷箱館にも常住の通詞をおくらねばならなかつたし、長崎は長崎で新たに英國にも開港した。下田は下田で條約調印のその日から捕鯨船などがやつてきて、アメリカ人が上陸徘徊するといふ次第で、長崎通詞はいまや長崎だけの通詞であることが出來なくなつてゐた。
「下田表に詰合罷在候阿蘭陀通詞之儀、是迄兩人に候處、異船渡來之節は、應接並びに飜譯もの、薪水食糧缺乏之品送り方等、勤向悉く多端にて、其上異人共遊歩の節、謂れ無き場所へ立寄候歟、又は多人數上陸等いたし、萬一混雜等有之候節は、通詞人少々にては甚だ差支へ、自然御取締にも拘り、其上當表之儀は、缺乏品、相調候ため渡來之異船而已にては無之、何國之船、何時渡來致すべきやも難計、此上共追々御用多に相成、迚も兩人にては手足兼――五人増人被仰付候樣仕度旨申立之趣も有之、いづれにても増人被仰付――尤も長崎表之儀も當節御人少之由、殊に重立候もの當表へ罷越候ては同所御用筋差支可申哉に付、小通詞助以下三人早々當表え差越候樣、長崎奉行え被仰渡候――」云々といふのは、二月二十五日に川路から老中宛の上申書で、その附書には、堀達之助、志筑辰一郎兩人下田詰合通詞の、下田奉行への増人方願文がある。
 まつたく下田詰合二人では無理であらう。蘭語に通じた學者や侍は、當時日本全國では尠くなかつたらうが、通辯となればまた別で、加へて通詞といふのは一種の職人として扱はれてゐたから、前文中にも見えるとほり、長崎奉行の支配を受けねばならず、たとひ蘭語が喋れる學者や侍でも、進んで通詞にならうとはしなかつたらう。おまけに長崎通詞は蘭語が主であるが、條約を結んだ相手は米、露等であつて、三月一日に下田奉行が川路宛に愬へた書翰に、「只今同所に罷在候亞米利加人共は、蘭語を心得候もの無之、當方通詞共儀も、亞米利加語は昨年來自分心得にて端々聖か相覺申候得共、込み入り候儀に至候ては何分通じ兼ね――」といふ次第であつた。
 その「通じ兼ね」る通詞でさへ「――昨年來數年手掛け罷在候通詞堀達之助儀は、當節病氣にて引籠――右に付談判出來不申、甚差支候に付、定めし御地も御用繁に可有之御座候得共、若々御繰合出來候はば、御普請[#底本は「普譜」]役森山多吉郎を右談判相濟候迄御差越被下候樣――若右樣難相成候はば、通詞本木昌造にても早々御差越被下――」云々。この文でいふ談判とは下田柿崎村玉泉寺に、船をプーチヤチンに借りられた捕鯨船乘組のアメリカ人男女數十名が滯在してゐて、その始末についてアメリカ人との交渉である。ところが川路から下田奉行への返翰でみると、その本木昌造も劇務のため病氣になつてゐるし、森山はまた川路の手足となつて、日露修好條約の後始末をしてゐるのだから手が離せない。さればといつて玉泉寺のアメリカ人も勝手放題に歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて放つてはおけない。「――此上は昌造儀病中には候得共、此節柄餘儀なき場合に付、駕籠にて成共、押して出勤爲致度、御用相勤候樣――申渡候に付、明後朝頃は必定其地到着可致候間――且又今七ツ時頃、夷船遠沖に相見え――」云々と、下田奉行へ川路は書いた。
 まつたくの非常時局で、通詞はその最前線であつた。これは三月四日付戸田村からで、「夷船遠沖に相見え」は、翌五日最初に下田沖に出現したフランス軍艦のことらしいが、通詞らはその軍艦にも一々乘付けて來意をただし應接しなければならない。昌造が病躯をおして駕籠にゆられながら十里の山道を下田に越えねばならぬのも「餘儀なき」ことであつた。
 下田の町を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのは玉泉寺のアメリカ人ばかりではない。プーチヤチン歸國後もまだ船が足りずに百人前後のロシヤ人が殘つてゐた。その他あらたに入つてくるアメリカの他の捕鯨船などもあつて、準備の出來てない當局役人は取締に繁忙をきはめた。幕府傳統の切支丹は取締らねばならず、「當港之儀は異人遊歩をも被差免候事に付、きりしたん宗之儀、彌々に停止之、不自然なるもの有之節、申出御褒美被下候儀、若しかくし置あらはるるに於ては、夫々被行罪科候――」といふ觸書が出、「町在之もの、異人と直賣買堅致間敷」といふ觸書が出、「町在とも、若異人より音物等相送り候共、一切受申間敷、幼年之者など、何心なく貰ひ受候とも、早々奉行所え可申立、萬一かくし置きあらはるるにおいては――」といふ觸書が出た。
 それでも異人共は日々の生活品を求めて町々を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。異人相手の公許の日本品賣買所である「缺乏所」の商人も異人相手に片言の異人語なり手眞似で通ずることを止めねばならなかつたが、「無筆」のアメリカ「マタロス」どもは、日本字は勿論蘭字も讀めない。「缺乏所之儀、此程御談判之上、町人共と夷人直に引合致さざるため日本字値段之脇之蘭字をも認めさせ、右にて不便之事も有之間敷と取計らはせ候處、マタロスの類ひに至り候ては無筆の者有之、是迄の仕來りを以て、居合せ候町人共へ値を承り候得共、言葉を替せ候儀不相成故、終には憤り、手を振り上、又は口などつねり候――」といふやうなわけで、ここにも通詞が至急必要だと下田取締配下の平山謙次郎から川路へ愬へ出た。
 まつたく長崎通詞は、「長崎の通詞」であることが出來なくなつたばかりでなく、「オランダ語の通詞」であることさへ出來なくなりつつあつた。日本全國の港々の通詞でなければならず、蘭語は勿論、英語、露語、佛語の通詞でなければならなくなつてゐた。そしてもつと重大なことは、いま一つ彼等通詞が、單に通辯であることだけで止まつてゐられなくなつたことであらう。異人語に通じて異人の文化を知つた以上、そして祖國がそのために困難に陷つてゐる以上、彼等はその人間個性を通じて、夫々の方面に分化し、夫々に實踐しなければならなかつたのである。