三、pp.296-313

「――西の海へさらりとけふの御用濟み、お早く歸りマシヨマシヨ」と、正月十六日の日記にかう書いた、「安政の開港」の立役者川路左衞門尉は、無事日本の面目を辱しめず、プーチヤチン使節を退帆せしめて同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の騷ぎを知つて心を痛めねばならなかつた。「――長門下關え着――一昨日より浦賀え異國船渡來の説、いろいろと申――さる島へかかりたるはアメリカ船にてペルリの黨なるべし、江戸にてはいかにやと昨日は少もねられ不申候」。川路の日記で考へると、その長崎出發直前に榮之助は挨拶にきてゐるのであるから、前記一月末日に江戸參着といふ「村垣日記」と照合すれば、榮之助たち長崎通詞は十日間くらゐの早駕籠で筒井、川路の行列を追ひぬいたか、特別な便船で海上を江戸へむかつたかといふことになるが、恐らく確實性のある前者によつただらうと思はれる。
 とにかく當時でも江戸のニユースが下關へんまで十數日でつたはつてゐることがわかるが、海防係川路の惱みは大きかつたにちがひない。林大學も老中宛のある書翰で「墨夷」と「魯戎」は相はからつて、魯戎が長崎でネバつてゐるうちに一方墨夷に先乘りさせる魂膽だ、といふ意味を述べてゐるが、半年も經たぬうちに再來したのは、まさしく不意打の感があつたであらう。また前年渡來のときの態度からして、なかなか「ぶらかし」なども容易でないと考へられたらうし、留守中の幕閣評議が「撃攘」となるか「和」となるか、複雜な事態にも思ひを及したらう。撃攘と和とそのいづれを望んだか、彼の日記にも明らかでないけれど、實際家である川路は、開國は必至、ただ國の安泰と面目を維持して、どう自主的にするかと考へてゐただらう。川路は江川や筒井らと共に當時の役人中新らしい政治家とされたが、必ずしもハイカラとはいへない。いはば深謀才能ある誠忠無二の武士だといへよう。彼は先んじて寒暖計や懷中時計を生活にとりいれた人だが、實際に便利なるがためであつたやうだ。同年十二月、日露の下田談判進行の際、魯艦が修理のため※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]航中颱風に遭つて沈沒したとき、日記にかう書いた。「十六日くもり。昨今にて魯戎之條約も大かたは片附くべし、この戎の存外なるは左衞門尉などの少もはたらきにあらず、一ツの不思議を證としてあぐる也、それは異船沈みたる一條也、――朝まで天氣のどかにて船頭共もよろしと申したれば曳船百艘ばかり附、二里ほど曳き參りたるに一朶の怪雲出で、船頭あやしとみる間に俄に西の大風起りて、山のごとき立浪きたりてフレガツトの城を水中に置きたる如き船をくるくる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したり、その勢ひおそろしと申候も大かたなり――」
 江川はまだ若く、筒井は老年、海防係として幕閣中の囑望をあつめてゐる川路であつたが、しかし川路在府で林に代つてゐたとしても、「神奈川條約」があれとはまるで異つたものにならうとは考へられない處であらう。筒井、川路の江戸歸着のときは幕閣の方針も「和」にむかひ「穩便」に決してゐたときであつた。歸着※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々の二月二十五日付で、筒井、川路より阿部伊勢守へ宛て「今般亞米利加人渡來いたし候に付、御挨拶之儀、一體之御趣意、何卒以御書面私共より魯西亞人へ挨拶及置候趣と齟齬仕候儀無之樣仕度候。――亞米利加への御挨拶はとりも直さず魯西亞人への御挨拶と不思召候ては後日大事を引出可申と甚懸念仕候」と書いたのは當然である。しかし林對ペルリの交渉は、「通商拒絶」では一縷の面目を保つたけれど、漂民取扱の一件は修好條約にまで發展してしまつた。林も事前に逃げを打つて「魯西亞人――再渡之節は應接致し方餘程六ヶ*1敷可相成――月末迄には筒井肥前守川路左衞門尉も歸都可被致候間――引續き兩人にて取扱候樣宜敷被仰渡候樣、前々御申上置可被下候――」と江戸老中宛に書いてゐる。
 したがつて六月二十八日、ペルリが日本を退帆しても海防係たちの苦心は去つたわけでなかつた。そして果然、プーチヤチンの軍艦は九月十八日に思ひがけなく兵庫洋にあらはれた。大阪市内には城代からの緊急町觸れが出て、畏くも同月二十三日には七社七寺へ御祈祷のことなどがあつた。その他安治川尻に進航してきた一行の船をめぐつていろいろの※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話ができる騷ぎであつた。昌造が魯艦との間に桂小五郎五代友厚などの通辯をしたのもこのときだと、前記三谷氏の文にあるが、いまは確實な資料をもたぬので述べぬ。しかし大阪市中の騷ぎにも拘らず、沖にゐる魯艦は至つて平穩だつたと大阪城代の記録が誌してゐる。
 九月二十九日には老中よりの諭書が魯艦宛に屆いて、同日即刻大阪城代から沖合にゐるプーチヤチンへ手交。「――箱館において差出され候横文字並に漢文之書翰、江戸到着致し、老中披見に及び候、大阪港は外國應接之地に無之故、總て應對難致候、伊豆下田港え渡來可致候、筒井肥前守川路左衞門尉も速に下田え可相越候間、得其意、早々下田港え相越候を相待候也」といふのがそれで、文中、箱館においてプーチヤチンから江戸老中宛に出した書翰といふのが、まだ出役中で江戸滯在の森山榮之助及び本木昌造兩人で飜譯したものである。「大日本國の執政に此一翰を呈す」とはじまつてゐるが、この飜譯文などは從來の長崎通詞の譯文としてはきはだつてハイカラになつてゐる。「我長崎の港に至りし度、日本政府の貴官に告しは、二ヶ*2月を經てアニワ港に赴くへしと。然るにロシア國とヱゲレス國フランス國との不和ありしに依て、我國の海濱を去り難きに及へり。――もはやその事果て、箱館に來り、此一書を江戸に送つて、フレガツトに薪水食糧を貯んとす。――日本政府の貴官と治定の談判を遂んかため、此地より直接大阪に赴くへし。――日本政府の望み江戸に於て治定の談判ありたしとならは其旨大阪に告示あらんことを乞ふ、速に江戸表へ來るへし。」
 さらにこのプーチヤチン署名の書翰の日付をみると八月三十一日で箱館奉行へ呈出されたものであつた。私はこの緊急重大な書翰がどんな交通機關によつて搬ばれたか、蝦夷から江戸に何時到着したか明らかにしないが、恐らく「薪水食糧を貯」へて數日後に出帆した船足のはやい魯艦に追ひ越されたのではないかと考へる。つまりプーチヤチンの手紙が、彼の船よりおくれずに江戸へ着くことが出來たらば、「兵庫洋にあらはれた異國船」の正體が早くわかつて、大阪市中ももつと平穩であることが出來たらう。
 慶長、元和以前の昔は知らず、家光以來の二百數十年、海の日本に船らしい船が造られなかつたといふことは記憶さるべきであつた。ゴンチヤロフが不思議がつた「何故貴國の船は艫のところにあんな波の入る切込みをつけて、不恰好な高い舵をはめてゐるのか?」といふ船は、日本の海岸を這ひまはるだけであつた。勇敢なる船乘高田屋嘉兵衞が國後、擇捉間の航路を拓いた苦心は、海の日本の誇るべき語り草であるが、吃水の深い波の入らない異國の船は、嘉兵衞のやうに勇敢老練でなくともその一世紀もまへから赤道を横切り、太平洋を横斷し、北氷洋から千島列島を南下することも出來た。水戸齊昭の主唱によつて幕府の「大船建造禁止法」はまづ打ち破られたが、この大きなギヤツプ、造船技術、航海技術を急速にうづめないことには、あらゆる異國船は、依然として日本の海岸を脅やかすだらう。弘化、嘉永以後、特に安政の開港以後は、當時の日本にとつて、何よりも船だつたと察することができる。
 十月十四日、プーチヤチンの軍艦「デイヤナ號」以下三隻は、下田へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]航してきた。筒井、川路らは同月十七日再び任命されて下田へ出張。十一月一日から「下田談判」は始まつてゐる。同四日には下田の大海嘯で一帶の大被害、魯艦一隻も大破損、のち修理をもとめて港外へ曳航中沈沒などの出來事があつて、會談は十二月二十一日までかかつて「日露修好條約」は成立した。箱館、下田、長崎三港をロシヤ船及び同漂民のために開いたこと。日露の國境はエトロフ島とウルツプ島の間、カラフト島は境界をわかたず從來仕來りの通りと決定。スパンベルグ以來百年め、ロシヤは漸く半ば目的を達したわけであつた。
 この周知の「日露修好條約」文を讀むと、「日米修好條約」文とくらべておもしろい。國境問題を除けば、内實としてはどちらも殆んど同じ骨子であるけれど、「日米修好條約」文の「日本と合衆國とは、其人民永世不朽の和親を取結び、場所人柄の差別無之事」といふ第一條のアメリカ的な文章にくらべて、「日露修好條約」文のそれは至つて地味である。「今より後、兩國末永く眞實懇ろにして、各々其所領において、互に保護し、人命は勿論什物においても、損害なかるへし」といふのが、同じ第一條である。つまり後者の方が前者にくらべて幕府的自主的な匂ひがする。内容ではなくて文の調子といつたものを指していふのであるが、このへんにも林大學對ペルリと、川路對プーチヤチンの相違があるやうだ。
「日露修好條約」の場合も、蔭にかくれた長崎通詞らの活動を考慮にいれなければならぬ。川路は「日米修好條約」が成立してから間もない四月二十九日付で、アメリカ應接係の林大學へ通達して「紅毛大通詞過人森山榮之助儀――當分拙者共手付にいたし置候樣、伊勢守殿被仰渡候、尤此程及御答置候通魯西亞人渡來迄は、下田表御用相勵、拙者共において先は差支無之候、此段爲御心得及御達候也」といふので、つまり阿部伊勢守殿も御承知の事、榮之助は依然自分たちの手付だからお含み置きを乞ふといふわけである。「魯戎」はいつ渡來せぬとも限らぬ。しかもすぐれた通詞は絶對必要で、榮之助など奪ひあひだつたわけであらう。榮之助は改め多吉郎となり、士分にとりたてられて、「下田談判」のときは、「横濱談判」のそれよりも活動したのであるが、他の通詞たちも、長崎から出役してくるほどの者はそれぞれにすぐれてゐたにちがひなく、記録に殘つてゐなくても、當時の海防係を援けていろいろと活動したことは疑ひないところである。
 川路は力量才幹ある政治家であつた。ペルリ以上の人物と謂はれるプーチヤチンと太刀打の出來る外交家は、當時の幕閣において、川路をのぞけば他になかつたらうとさへ、今日の歴史家は云つてゐる。プーチヤチンもまた前二囘のロシヤ遣日使節にくらべて出色の人物であつた。當時のプーチヤチンの立場はまつたく四面重圍のなかにあつたので、ペルリの比ではない。「長崎談判」以前から始まつてゐたクリミヤ戰爭は、そのころは日本の海岸までに及んでゐた。英佛の艦隊はプーチヤチンの「デイヤナ號」および乘組の兵員を捕獲しようと、安政二年の三月五日と十一日には、佛艦「ポーテアン」が大砲六門をならべて、下田沖合に出現したし、同じ十二日には、箱館に三隻の英艦があらはれて、大砲四十門をならべて、プーチヤチンの歸航を待ち伏せてゐた。故國を離れてすでに多年萬里の異境にあつて、しかも彼はそこでも「招かれざる客」である。ロシヤ使節に對する水戸齊昭のある種の意見、阿部の返翰などの記録がそれを物語つてゐるが、さらにプーチヤチンの軍艦一隻は海嘯を喰つて破損、修理のため曳航中宮島沖で沈沒、プーチヤチン自身ですら身をもつて海岸に泳ぎついたといふ遭難事件もあつた。しかもプーチヤチンは佛艦を逆襲して、これを拿捕しようといふやうな戰爭を一方でやりながら、條約が締結し終へるまで、日本側委員にすこしの弱味も見せなかつた男である。
 川路は「下田日記」の十二月八日に書いてゐる。「――おもへは魯戎の布恬廷は、國を去ること十一年、家を隔つること一萬里餘、海灣の上を住家として、其國の地を廣くし其國の富を増さむとしてこころをつくす、去年以來は英佛二國より海軍を起して魯國と戰ひ、かれも海上にて一たひは戰ひけむ、長崎にてみたりし船は失ひて、今は只一艘の軍艦をたのみにて、三たひ四たひ日本へ來りて國境のことを爭ひ――一たひはつなみに遭ひ――艦は海底に沈みたり、されと少も氣おくれせす再ひこの地にて小船をつくり――常にはフテイヤツなとといひて罵りはすれとよく思へは――かくお用ひある左衞門尉なとの勞苦に十倍とやいはむ、百倍とやいはむ、實に――眞の豪傑也――」
 川路はまた敵を知つてゐたのである。「フテイヤツ」とはプーチヤチンのことを日本風には「布恬廷」と書いたから、その洒落をふくんでゐる。彼は日記の他のところで、「自分もプーチヤチンのやうに世界を股にかけ、四重五重の困難に遭つたらばプーチヤチンくらゐのえらい人間になれるだらう、何分泰平と鎖國の中にゐては眞の豪傑とは却々なれぬ」といふ意味の述懷をしてゐるが、當時にあつてこれだけの感想は、それだけでも値打あるものだつたにちがひない。
 毛色眼色はちがつても、豪傑は豪傑を知ることが出來る。日米、日露の修好條約文の調子にちがひが感じられるやうに、川路の太刀打は充分に自主性を護り得たものであつたと思へるが、その川路もまた時代の鎖國的な掣肘からは遠く出ることは出來なかつた。幕吏中の「新知識」もそれに災ひされて、思ひがけぬ窮地に陷らねばならなかつたのである。
 同條約文の第六條に、「若止むことを得ざる事ある時は、魯西亞政府より箱館、下田の内一港に官吏を差置くべし」とあり、同附録第六條には、「魯西亞官吏は安政三年より定むべし、尤官吏の家屋並に地處等は日本政府の差圖に任せ――」とあるのが、伊勢守の激怒する處となつた。「日米條約」の方にも第十一條に殆んど同樣の内容があり、調印後十八ヶ*3月を經て云々とあるが、阿部は「――神奈川條約已に誤れり。然れども彼は猶曖昧として後日談判の餘地なきに非ず。是れは明々に官吏を置くを許す。應接係の内にも左衞門尉の如きは才幹傑出の士なるに――遺憾の至りならずや」であつた。川路の處置が單なる先條約に準據した事務的な行過ぎであつたか、或は開港する以上、この處置は當然のこととする開國進取的な信念からであつたか、その日記にみても明らかでないけれど、尠くともロシヤ使節の武力やなどに氣壓されての結果でないことは明らかだと思へる。徳富蘇峰氏も「和親條約を結べば、領事を開港場に置くは必然の事。――如き不見識を――阿部正弘さへ暴露しつつあるを見れば――幕府對外の大方針、大經綸の、遂に定まる所なかりしも、亦宜べならずや」(近世日本國民史卷三十三)と書いたやうに、鎖國因循の氣風は嵐のやうな對外關係の改革期にあつても、その第一線に活動する人々の頭上を陰に陽に蔽うてゐたのであらう。安政二年二月二十四日付、伊豆戸田村寶泉寺においての川路對プーチヤチンの、この第六條取消談判の會話記録は、川路の苦衷を傳へて遺憾がない。
 左衞門尉
「――長崎以來の心盡しを不被顧、斯迄申談候儀をも、更に聞承不申候ては、拙者政府え對し申譯も無之、實に生死に拘り候次第に陷入候。然る上は右等之事は筑後守へ引渡し、以來一切拙者取扱申間敷候。
 布恬廷
 折角之御談には御座候得共、御沙汰の通りには難相成、乍去、一昨年來遙々御出張、御苦勞も被成、殊に厚き御談故、何とか御談之廉相立候樣、御受可仕候、尤御即答には難相成候間、暫く御猶豫被下樣仕度候。
 左衞門尉
 大慶いたし候、此方之迷惑は先達て使節、宮島沖にて難船におよび候節之比例には無之候。
 布恬廷
 條約之儀昨年以來厚く御心配被爲在候て、御取極相成候儀に付、政府御不承知之儀無之事と存候處、はからずも右等之次第を承り驚き入候。
 左衞門尉
 時分にも相成、麁末之辨當申付候、相用候樣可被致候。――」
 川路が「生死に拘り候」と云つたときの顏色はもはや切腹を覺悟してゐたにちがひない。それを「折角之御談には御座候得共、御沙汰の通りには難相成」と、一旦はつつぱねたプーチヤチンのふとさ。このへん數行は男二人の力比べで、左衞門尉が「時分にも相成、麁末之辨當申付候」といふところで大舞臺の幕切れといふ趣きであるが、川路が己れの生死に拘るといひ、この上は筑後守(さきの長崎奉行で、次席應接係であつた)へ引渡して自分は取扱はぬ、つまり一切を白紙に還元してしまふぞといふところと、プーチヤチンが「御取極相成候儀に付――はからずも右等之次第――驚き入候」といふあたりの對比は、川路一個にとつての恨事であるばかりではなかつたらう。








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