三「――西の海へさらりとけふの御用濟み、お早く歸りマシヨマシヨ」と、正月十六日の日記にかう書いた、「安政の開港」の立役者川路左衞門尉は、無事日本の面目を辱しめず、プーチヤチン使節を退帆せしめて同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の…
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