世界文化連載分、十

 一八三三年十月ずけのダイアの報告文は、たしかに成功的であると、私は思う。解説文には逐次的な經過は示されてないし、英語の方はたやすくは讀めない私であるが、それでも、原書の方も第四卷、第五卷となると、ダイア活字についての記事は、少くなつていることがわかる。しかし、それなら、一八三三年十月の鋼鐵パンチ製造によつて、ダイアの漢字活字は、一擧に完成へむかつたのだろうか?
 第二卷の解説文には、ダイアという人物の經歴とあわせて、つぎのような事柄がのべてある。
「——サミユエル・ダイアは一八〇四年に、ロンドンのちかくにあるグリーンウイツチ王立病院の主事の子として生れた。最初はオツクスフオード大學で法律をおさめたが、一八二四年、つまり二十歳のとき、ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイの一員となつて、とおくアジアの布教師たらんことを志ざし、ゴスポート神學校に轉じた。そして一八二七年末に故郷をはなれ、翌二八年はじめ、はるばる、マレー半島の沿岸にある一小島ペナンに着いた。以來、一八三五年十月、マラツカに移住するまで、都合八年間、ペナンを布教の根據地として活動し、その間東洋語を習得・説教および學校經營に盡瘁した。
 漢字の金屬活字製作に意を用い、そのためモリソン[#「モリソン」は底本では「モリンソン」]の印刷所のあるマラツカを再度おとずれ、ついに一八三五年十月以後四ケ年間、マラツカに定住して、印刷所を管理しつつ、金屬活字の使用に苦心し、一八三八年ようやく、金屬活字「打ち拔き器」を考案した。一八三九年、妻の病氣のために皈國を餘儀なくされて、一八四二年再び來航、シンガポールにて、布教に從事したが、一八四三年、香港に開催された東洋布教師大會に出席の皈途、船中に病をえて、澳門に於て四十歳の生涯を終つた。
 彼には漢文の著作として「福音總論」(七葉・一八三九年)があり、また、彼が終生の事業とした漢字金屬活字製造にもちうべき三千字を收録した“A Selection of three thousand Characters being the most lmportant in the Chinese Language”(一八三八年シンガポール發行)を公けにしている——」
 この解説文は、おほざつぱで、やや警戒を要する。ダイアがペナン在住當時も、漢字活字をつくるために、すでに一八二八年來、マラツカにあつたモリソンの印刷所(英華學堂)へ、研究のためにいくどか訪れたということは、よくうなずけるが、「一八三八年ようやく金屬活字『打ち拔き器』を考案したというのは、解説者の、或は原文である支那叢報記者の、年代的誤りではなかろうか? 前にみたごとく、一八三三年十月ずけの報告文にはダイアの署名があるし、文の内容がまた具體的に、すでにパンチ二百本の作成を語つているからである。もつとも“Punch”というのを、このばあい、「打ち拔き器」と譯してあるから、何か別樣のものかとも考えてみたが、電胎法以前の活字製法としては、今日から想像もできぬような餘地はないようだし、やはり「打印器」とか「押字器」とか譯されるものと、同一であろうから、したがつて年代的誤りだろう、と判斷するのである。
 もつとも、この解説文に直接かかわつてではないが、こんなことは考えられる。三三年十月すでに二百本の鋼鐵パンチを製作中であつたことはたしかだが、それで終局的ではなかつたろうということである。二百本のパンチの最終はいつであつたか? 二百本以後はどんなふうに増加していつたか? またパンチによる銅字母はどれくらいの性能で、鉛活字を産みだしたろうか? それは明らかになつていない。ダイアは前記の報告文で、漢文字千二百種のパンチを第一目標にし、やむなくんば既成の二百本でも、と云つているが、一等多く使用される二百とか千二百とかは、漢文字中もつとも字かくが單純であることも明らかだし、したがつて、二百以後、千二百以後は、字形のふく雜化からも、パンチ彫刻が困難を加えてきたにちがいない。金屬についての化學が、日本の嘉平や昌造よりもたかい水準にあることや、アルハベツト金屬活字製法の傳統から、すぐれた「流し込み」技術をもつていたとしても、なおパンチによる字母では、その限界はおよそ想像できるというものだ。したがつて、一八三八年になつても、ダイアは工夫に工夫を加えねばならず、一八三三年當時の、華々しい見とおしと、同じ調子では進展しなかつたかも知れぬ、ということは考えられよう。
 これを證據的に、それらの活字で製作された印刷物、漢字書物によつて考えてみると、前記の解説文にある「福音總論」が七葉で、つまり十四頁である。現品をみるすべはないけれど、前にみた「遐邇貫珍」などは、今日の菊判、或はA5判にちかい大きさである。活字も昔のものは概して大きいから、三十字詰十行くらいとして約三百本で一頁とすると、計四千二百本くらいが、活字の總體となる。これは十四頁を一度に製版したばあいであるが、たぶんはそうではなく四頁か、八頁ずつくらいだつたろうと思われる。この頃ヨーロツパでは、ドイツ人ケーニツヒのシリンダー式印刷機が發明されて、ロンドンの印刷工業界に旋風をまきおこしていたのだけれど、まだアジアには、せいぜい鐵製ハンド印刷機以上のものはなかつた筈だから、大きくても八頁掛以上は考えにくい。さらにも一つ、四千二百本の總本數のうちには、同字がある。文章の性質にもよるけれど、普通には同字が三倍ないし四倍を占めるものだから、およそ二百種では無理だとしても、千二百種をこえることはなかつたであろう。
 さらに第二卷の解説文中には、ダイアの活字によるものと判斷される出版物が、二三ある。一八三五年、アメリカ人宣教師イラ・トラシーの著書「鴉片速改文」(六葉)があるし、一八三七年に、同じくイラ・トラシーの「新嘉坡栽種會[#「會」は底本のママ]告訴中國倣産之人」(六葉)がある。これら、ダイアの自著「福音總論」をあわせてみても、どれもが同じ程度の頁數、大きさだということがわかる。
 またさらに、ダイアが「終生の事業とした漢字金屬活字製造に用うべき三千の文字を收録した“A Selection of three thousand Characters being the most Important in the Chinese Language”」という書物にみても、少くとも彼の生涯でつくりえた漢字パンチの數が、三千以下であつたことも、おのずから明らかである。最初、英語のわからない私は、字引をひきひき、この長つたらしい本の名前をどうよむべきか、ひどく迷つた。一つは“three thousand Characters”というのを、「三千の彫刻したる文字」とよんで、この「彫刻したる文字」にひつかかつた。つまり既に作成されたパンチ、ないしはそれによつて作られた活字ではないかと思つた。書物として、その三千の漢字文字を印刷するにも、既にそれがなければ不都合だろうと考えたのだ。しかし、どうもそうではない。またそうでないことが、この著書の使命の性質を明らかにする。本文は英文で、收録すべき漢文字三千のうちには、既成の漢字活字によつて印刷されたのもあろうが、末だつくられてない文字は、木や金の彫刻や、または手寫によつたりして、作られたのだろう。それで私は、解説者も飜譯していない、この長つたらしい本の名前を、これだけ、三千の文字が、漢字の金屬活字による印刷ではまず作成される必要があると主張した意味、つまり「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」というのであろうと、解釋したのである。
 もし、三千の漢字パンチが成功していたとするなら、活字製造に用うべき「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」というテーマ自體が不要であろう。いわば、この長つたらしい名前の書物(或いは二册か三册の手寫本だつたか知れない)こそ、みじかいダイアの生涯ではなしきれなかつたことを、後世の人々へ依頼する遺言状とみるべきだろう。そして同時に、この書物こそ、漢字印刷の歴史にとつて重大な意味をもつものだと、私は思う。周知のように康煕辭典はこれより約百年前、一七一六年に出來ていた。しかし活字、印刷などからみる重要な文字というのはまたちごう。それはおのずからべつな組織、べつな體系が必要だろうことは、素人でも理解できるだろう。數萬種類の活字を、康煕辭典ふうには、機械化することが出來ない。今日の日本でみる漢字の活字ケースがどんなに複雜に組織化されているか、モノタイプ植字機の鍵盤にもられた千餘の文字がいかに撰擇を經たものであるか、讀者はそこらの小さい印刷工場ででも、たやすくみることができよう。日本文字の片假名、平假名などをのぞいても、大出張、小出張、ドロボー、オビ、外字とこれは文選工の俗稱だけど、ごく普通の印刷工場の活字ケースでも、これだけの組織はある。もちろん、それは永い歴史のうち、時々刻々の社會的變化、政治的文化的變化ともむすびついてきたのだけれど、その最初に、海のような數萬種の漢文字に、字引にみるとはべつな角度で、組織を與えようとしたのが、ダイアのこの書物だつたということである。
 木版や、彫刻の木活字などには、まだ組織は要らない。それはまだ繪の世界であつた。ダイアの鋼鐵パンチによる銅字母製法「流し込み活字」によつて、はじめて東洋の漢字が、まつたくちがつた角度からみつめられたのだ。
 そしてたしかなところ、ダイアは二百個以上三千個以内のパンチをつくつた。それによつて自分の「福音總論」や、イラ・トラシーの「鴉片速改文」や「新嘉坡栽種會社告訴中國倣産之人」などを印刷した。それは六葉ないし七葉のうすつぺらな本だ。おそらく、このうすつぺらな本でも、不足の部分は木や金の彫刻活字で間にあわせたほどのものであつたろう。しかしこれが漢字印刷物にみる、機械化された最初の本であつたのである。