世界文化連載分、十一

 ヨーロツパの宣教師たちが、アジアへきて、東洋人の最も大多數がもちいている漢字を、まつたくちがつた角度からながめはじめた、その直接の原因は、彼らの傳統であるアルハベツト金屬活字の觀念からであつた。彼らの製法を、漢字の世界におしひろげんとする心からであつた。もちろん、それは彼らの新教徒流に信ずる基督の教えを、東半球にもあまねくひろめようとする、熱心な信仰心とむすびついたものである。
 ダイアの「活字製造に用うべき」「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」は、前にのべた「十四人の支那人著者の、十四册の著書」にもとずいて、えらびだしていつたような、そんな仕事の成果であるが、漢字書物にたいして、こういう見方というものは、アジアにあつては、かつてなかつたことである。それを一方からいうと、一つの文字が、それだけでは意味をもたない、音符でしかないアルハベツト民族だから、出來たのだともいえる。もつとも、支那でも辭典以外に、漢字組織の例はあるが、だいぶ角度がちがつていたり、當時の、必要とする機械化の度合がひくかつたりするため、結局は、漢字の宿命に、もろくもおしつぶされたような例はある。たとえば支那印刷中興の祖といわれている、清の康煕帝の時代に、支那人の漢字組織についての考え方が、「印刷文明史」第二卷に、つぎのようにでている。
 八四四—八四五頁に、二つのさし繪があつて、あごひげのながい官人たちが、一方では組版の枠をつくつており、一方では枠のなかに銅活字を二本の箸で植えこんでいる。場所は武英殿の一部で、そりのふかい瓦屋根の一端と、ひろい庭園などがみえている。武英殿というのは、銅活字の貯藏されている場所であり、つまり政府の印刷局であつた。「およそ大字の書は二板を排列し、小字の書は一板を排列するのが一日の工程」であつたそうだが、「活字を排列するに際し——書法異るもその實、同字なるときは、殊にその異同を審かにし、正俗の體を辨別することとし、偏傍に歸屬せずして、檢査に困難なる文字は、辭典中の補遺、檢字等の方法によりて檢出するものである」という、わかりにくい説明がある。つまり原稿の文字が、實は同一であつても、書き方がちがえば「正俗の體」を區別して、むしろ活字の方をそれにしたがわせる。「偏傍」へん[#「へん」に傍点]やつくり[#「つくり」に傍点]などに重きをおかず、「體」に重きをおく文撰法であつた、というほどの意味だろうか。
 アジアには、十六世紀を前後して、銅活字の時代があり、朝鮮でも、日本でも行われている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を發している、家康、家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし繪にみる康煕帝印刷局は、はるかに大規模で、組織的であることがわかる。しかし、日本でも「お湯殿日記」にみるような、最初の文撰工は「お公卿たち」であつたが、支那でも、あごひげのながい官人たちであつた。明治になつて、印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など、文字に馴染みのある階級だつたように、私の徒弟だつたころの、先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだつたことを思いだす。おそらく、平民で、義務教育六年制度をおえて、印刷工となつたプロレタリアは、私などの世代を最初とするのだろうと思うが、こんなことも階級分化とむすびついて、漢字がもたらす特徴の一つではないだろうか。餘談になつたけれど、この宿命は、劃時代的な康煕辭典がつくられた時代にあつても、やつぱり「偏傍に歸屬させなかつた」り、「正俗の體を辨別」したりして、漢字組織を「繪の世界」にとじこめながら、その發展を妨害していたことがわかろう。
 また、武英殿の銅活字時代より四世紀もまえ、支那印刷術の初期に當る、もつともさかんであつた元の成宗時代、一三一四年ごろに王禎という、えらい文撰工がいて、「作※[#「灰/皿」、第3水準1-88-74]安字印刷法」というのを發明した。「作」なんとかいうむずかしい名前は、私にもよくわからないが、いわば、今日の活字の製版法の最初みたいなものである。支那は印刷術では世界の元祖だから、木活字の起原も古い。二十世紀になつて、西藏の北方、敦煌の石室からでてきた漢字の護符は、隋の大桑三年、西暦で六〇七年の印刷物であつて、何本かの木活字をあはせてしばり、紙に捺したものだ、といわれているくらいだから、王禎の發明にも、ながい傳統があつたわけである。この發明を解説すると、あらまし二つにわかれる。最初の「作※[#「灰/皿」、第3水準1-88-74]安字」というのを、字引から推量してゆくと、今日の「組みゲラによる組み方」ということになるらしい。木製の盤に、右邊と上邊に、木活字の頭が少しでるほどのたかさの枠をつけ、上邊のすみから木活字をくみこみ、ないしはひろいこんでゆく。以來支那では、しだいにこれが改良發達させられてきたというのであるが、千三百年後の今日でも、日本の關西、九州あたりで使用されている「組みゲラ」は、この系統であることが明らかだ。今日のは、枠が左邊と下邊について、右から活字をひろいこむ方法になつて、盤も金屬であるけれど、その傳統は疑いようがない。一方で、西洋流儀のステツキ植字法が、明治末期ごろから風びしてきて、だいぶすたれたけれど、まだいろんな形でのこつている。
 そして、いま一つの「輪盤式文撰法」というのが、漢字組織の歴史にとつては重要であつた。これは、例の「作※[#「灰/皿」、第3水準1-88-74]」「組みゲラ」をまんなかにして、まるい二つの廻轉テエブルをおき、テエブルの一つが、二十四のボツクスに仕切られている。ボツクスを「板」とよび、一板から廿四板まである。テエブルは二つだから、都合四十八板になる勘定だが、このボツクスに、木活字が、それぞれに區別していれてある。植字工兼文撰工は、その廻轉テエブルをまわしながら、活字を拾うという方法であつて、そのボツクスにいれられた木活字は、文字の韻、音別にいれてあつたという。形象文字といわれる漢字を、形によらず、音によつて區別した。これは支那語だから、音別ができたようなものだが、やつぱり大きなむじゆんがある。たとえば音尾が“Ou”である文字、私は支那語を知らないから、かりに日本語でいうと、「刀」「冬」「投」「豆」「宕」「桐」「盜」などは、みな「トウ」であるから、同じボツクスにはいるわけだつた。支那語に「訓」というものがないから、一應それができる。ところが、日本の植字工や文撰工は、不足の活字を、補助工にもつてこさせるとき、今日もまだこうさけんでいる。それが「公」という字だつたら「キミ、コウ一本」——「本」という文字なら「モト、ホン一本」——。支那語のばあい、それがないけれど、それでも「豆」をひろうのに「盜」や「宕」や「冬」やのうちから、ひろい出さねばならぬのは、容易ではなかつたろう。まして、同じ「トウ」のなかには、めつたに使用しないため、ほこりをあびた「トウ」や反對に、使用度がはげしく、もう背がひくくなつてしまつている、「トウ」も、いろいろと雜居していただろう。
 しかし、「組みゲラ」(關西では組み盆ともよぶ)が、永い傳統になり得たにくらべて、輪盤式文撰法のボツクス式は、「活字ケース」の遠い祖先にはなりえても、「音別組織」は、そうなることができなかつた。つまり、形象文字という漢字の性質からは、背反していたからである。歴史的にみれば、王禎の漢字組織も破格なものであるけれど、それは後年の、ダイアのそれとはまるでちごう。ダイアは、アルハベツト人の考えから、形を認めて「符號」としようとした。王禎は、形の上では手に負えないので、最初からあきらめて「符牒」とした。
 武英殿の銅活字は康煕帝の孫、高宗の代になると、つぶされて銅貨となつた。日本でも家康時代の銅活字は、おなじ運命をたどつているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もつと大きな原因は、金屬活字にあつて、漢字組織が出來ないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの發達による木版の方が、容易であり便利であつた。ボデイが銅であれ、鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて、再び木版術が榮え、極彩色の藝術的な印刷物も出來るようになつた。康煕、乾隆の時代にみられるこの傾向は、十七世紀の終りから、十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術をうみだした日本と、時間的にも、ほぼ一致している——ということも、漢字がもつ共通の宿命がするわざであつたろう。
 だから、ダイアがつくつた「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」というものは、漢字の、くらい、永い歴史にあびせた新らしい光であつた。それは「康煕辭典」の創造にもおとらない世界史的意義をもつものであつた。“A Selection of three thousand Characters being the most lmportant in the Chinese Language”という、長たらしい名前の書物を、いま私はみるすべをもたない(たぶん現存しないと思われる)けれど、それはきつと、印刷における漢字組織の、最初の傳統をつくつたものとして、今日、アジアじうの、印刷工場にある漢字ケースのなかに生きているにちがいない。
 ダイアをはじめ、新教宣教師たちは、漢字の機械化、漢字の印刷術を發達させることに熱心であつた。さらに、その印刷術の發達による出版物、出版物による「輿論」のつくりだしに熱心であつた。彼らの機關紙は、支那で出版される木版や、木活字や、そぼくな石版などによるものにも、非常な關心をもつてとりあげている。
「——「院門報」は一片の小紙から成り、蝋版をもつて印刷されているから、きわめてよみずらい。これは省當局の認可なしに、毎日發行される。記事は、總督と撫院とが行つた訪問、および彼らがなした面會に關するものが主で、毎日の夕方、出版屋の番頭は、總督や巡撫の官署の門前で、その日の事件を通告され、門報は翌朝早く配布される。——」
 これは支那叢報第五卷(一八三六—三七年)のうちにある文章の一つだが、このほか同種のものが雜多にのせられている。日本では天保七年—八年にあたるこのとき、南支那の廣東では「新聞」が發行されていたのである。「出版屋の番頭」は、廣東總督や省巡撫の官邸門前をウロウロしながら、大官たちの出入動靜、政治的な決定や、人民への布令などを、拾いぎきしながら、そくざに文章をつずつて、蝋版で印刷した朝刊をつくつた。この「出版屋の番頭」は、今日の新聞記者の元祖であり、同時に經營から印刷工まで、兼ねているようなものだつたか知れない。一方からいうと、阿片戰爭以前に南方支那はそれほど發展していた。インドや澳門は古いけれど、ペナン、マラツカ、新嘉坡、廣東と、新らしく東漸してきたヨーロツパの力は、支那人社會に、新聞が必要なほど、南方を成長させつつあつたということになるが、それで「きわめてよみづらい」一と晩のうちにつくられる「蝋版」というのはどんなものか? これはかなり後まで、上海へんでも行われていた例があるので明らかであるが、木ないし金屬の盤面に、ある厚さに、蝋を平らに流しこんで、ナイフまたは鐵筆みたいなもので、凸型か凹版に彫刻するのである。多くは凹型で、つまり石刷りみたいな白ぬき文字であるが「院門報」も、そのたぐいであつたことは疑いがない。
 ヨーロツパ宣教師たちの機關紙は、こんな新聞や、定期刊行物について、綿密な關心をはらつている。第五卷のうちでも「院門報」のほか「京報」とか「大清※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳全書」とかをあげている。發行所や印刷方法は明らかでないが、「京報」はやはり「私立の出版屋」がやるもので、新聞であるが、「大清※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳全書」というのは、いわば官報であつた。年四回、一回に六册を發行する定期刊行物であり、軍人、官人の官等姓名、その年收入等をならべたり、農業状態や、穀庫の在高や出入、學校や教育などについて報道した。そのほか、不定期のリーフレツトなどにもふれて、——同樣の新聞で、もつと不完全なものがある。印刷人が、讀者の興味をそそると考えられるような、特別な事件がおこるたびに發行される新聞で、八百ないし一千が一ドルに換算されるところの一錢が、その値段である。これは“新聞紙”とよばれている。しかしこれはヨーロツパの新聞紙とは、甚だ異なるもので、その意味の新聞という名には値しない——」とあるが、これらも蝋版か、たかだか粗末な木版であつたろう。
 しかし、彼らは、これらの汚ない漢字出版物を重要視して、こういつている。「——定期刊行物は、現代文化の華である。諸種の意見、事件、發見等は、これらを通じて迅速に、地球の一端から他の一端に傳達される。今までは干戈によるよりほかに解決のしかたがなかつたかのような係爭が、現在では、印刷物をもつて容易に處理される——」と。ここに彼らの、言葉を通じて、文字を通じて、人種の差別や、民族慣習の異同や、經濟の特殊性も、こえてしまおうとする自信が、端的にあらわれているではないか。それはもちろん彼らのキリストへの信仰心によつて代表される。彼らが歴史上、あきらかな東洋への侵略者であることや、またつぎにみる「英華學堂の一八三四年度報告」(これは支那叢報第四卷にある)のなかでみる、あきらかな人種的優越感などをふくめても、これらをつらぬく感情は、たしかに新らしい世界のものだつた。
「——英華學堂は一八一八年ロバート・モリソン博士によつて、マラツカに創立された學校である。その目的とするところは、支那人を教育して、“異教徒ではあるが知的水準のたかい”ところの彼らの間に、基督教的および科學的知識を、普及せしむるにある。同校は開設以來、各方面より多大の援助支持をうけてきたが、一八三四年における總長モリソンの死去は、實にはかりがたき損失であつた。
 開校以來の卒業生は總計四十人である。彼らは、あるいは眞摯な基督教徒となつて、周圍の迷信的な支那人の教化に盡力しており、または商店の事務員となつて、その職務に精勵しているが、いずれにせよ有益なる社會的活動を行つていない者はなく、すこぶる滿足すべき状態である。
 現在は三十五人の生徒が在學している。上級生は毎日、華文英譯英文華譯を課せられ——下級生は二組あり、支那語、英語、算術などを學習する。——朝夕の禮拜には、教師、生徒、支那人印刷工、活字工などの全員が出席する。また華文聖書の講讀は、火曜日および金曜日の夕七時より八時まで、教師、上級生、印刷工、活字工等によつて行われる。英華學堂の目的は、前述せる如く、支那青年のキリスト教的訓育にあるが、これに限定されているのではない。」
 この最後にある「これに限定されているのではない」というところ、甚だ意味ふく雜であつて、たとえば前にみたような、高野長英や渡邊華山の「蠻社遭厄事件」の發端となつた、アメリカのオリフアント商會に仕たてられた、武裝しない黒船「モリソン號」の江戸灣訪問や、北海道室蘭に來航したイギリス艦隊の日本人通譯が、じつは太平洋に難破漂流した日本の漁夫たちで、かつてはこの英華學堂に養われていたこと。ペルリの浦賀來航その他に、幾人もでる、「通辯リキ」とか「通辯乙松」などという、日本側にものこつた記録の數々をおもいだせば、その一端がうかがえるようなものであるが、そればかりでなく、この報告は英華學堂というミツシヨン・スクールと、印刷工場との關係もあきらかにしているし、支那人生徒や支那人活版工らが、信仰という形をとつて、その世界的な新らしいものへの參加をも、語つている文章であつた。英華學堂は、ダイアの漢字活字が創造される以前、まへにみた「マラツカの活字」という彫刻の漢字鉛活字を、もつていたし、ここでいう「支那人印刷工、活版工」たちは、もちろんアルハベツト活字の印刷や文撰にも從事していたのである。そしてそんな地盤、そんな環境のうちにこそ、ダイア活字の花ひらく自然さがあつたのである。