世界文化連載分、十二

 讀み書きのための漢字組織と、印刷工業として機械化するための漢字組織とは、おのずからちごう、と、私はいくどか、まえにのべた。それなら、ダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」は、まつたく、語學としての漢字とは、無關係につくられたものだろうか? もちろん、そうではなかつた。どだいからして、まつたく無關係でありうる筈のものでもなかつた。
 ダイアをはじめ、たくさんの新教宣教師たちが、學問としてこの漢字を習得しようとして、いかに苦心したかは、のちにみるところだけれど、ダイアが「——三千の文字の選集」をつくるまでには、彼らヨーロツパ人たちのうちに、それなりの傳統があるのであつた。たとえば、サミユエル・ダイアは、一九二八年にペナンへきた。そこで六ケ年、漢字を習得するかたわら、漢字活字をつくる苦心をつずけて、六年めの一八三三年十月には、前にあげたような、彼自身による、「流しこみ漢字活字」が、ある程度に達成した報告を發表した。そして、このころ、マラツカにあるロバート・モリソン經營の、英華學堂附ぞく印刷工場の監督となつた。英華學堂は、一八一八年、日本では文政二年にあたるとき、創立されたミツシヨン・スクールであつて、そこには「支那人の印刷工、活版工」がいて、アルハベツト活字のほかに、「活字用金屬の表面に、あらゆる文字を、個々別々に彫刻した」ところの「支那語の活字」を、すでにもつていた——ことは、前からみてきたところで、讀者にも明らかだと思う。
 それでは、前にみた“フオントのちごう彫刻漢字活字”は、ダイア活字以前に、どうしてつくられたろう? それはロバート・モリソンが、印度よりもさらに東のアジア大陸に、もつとも早くさきがけした新教宣教師が、「支那語の辭書」を刊行しようとしたからであつた。このモリソン博士つくる漢英辭典がどんなものだつたか、また完成したかどうか、私はほとんど知らないけれど「上海史話」の著者が、私の質問にこたえて、わざわざ上海からおくつてくれた手紙(これはのちに紹介する)によると、「——外人による、漢字の金屬活字の發明は、一八一五年、文化十二年、澳門の東印度會社事務所において、P.P. Thoms が、モリソンの辭書印刷のため、成しとげられました。この辭書第一卷は一八一七年、文政元年に出版。この種の金屬活字は、その後澳門、マラツカ、セラムポールの三ケ所で使用せられました——」ということである。この手紙の末文にいう「その後澳門、マラツカ、セラムポールの三ケ所で使用せられ」た活字、が、私の、本郷の大學圖書館で、いきなりぶつつかつた「漢字印刷」の文章にみた彫刻活字、支那叢報第一卷の解説文のそれと、符節合していることが、わかると思う。もつとも、私は未だに、この澳門の東印度會社事務所關係の、ピー・ピー・トムスなる人物を知ることが出來ないしトムスがどのようにして漢字の彫刻活字をつくつたか、も知らないけれど、少くとも、ダイアの活字より、さらに二十年ばかり早く、それが出來たことがわかる。そして長崎の「きりしたんばてれん」の、平假名の彫刻活字(これはまだ今日決定していない)をのぞけば、大鳥圭介の「築城典刑」の彫刻活字より半世紀もはやく、世界最初の、鉛漢字活字であつたということができる。
 考えてみれば、アルハベツト金屬活字の歴史では、彫刻のアルハベツト活字はつくらなかつたのに、漢字の金屬活字では、彼らも彫刻活字をつくつたのである。マルコ・ポーロ支那みやげにあつた漢字書物のヒントから、はじめてアルハベツトの木活字をつくりだしたアルハベツト人種たち。そして、手寫本の永い歴史から、アルハベツトの木活字をつくりはじめると、こんどはその歴史をほんのわずかしかもたないで、いきなりグーテンベルグたちの「流しこみ金屬活字」へいつたアルハベツト人たちが、漢字の世界へくると、短かい期間ながら、やつぱり彫刻の金屬活字をつくつている。
 漢字を克服しようとして、新教宣教師たちは、ほんとに手をやいた。支那叢報第五卷は、ロバート・モリソンが「アルハベツトによる支那語の音寫法」を、提唱したと紹介している。それはヘボン式ローマ字よりも、はるかに古いことになるが、つまり、廣東總督や省撫院あたりの、官邊用語を基本として、發音のままに、アルハベツトで音寫するというのであるが、その後につずく支那叢報をみても、實際に行はれなかつたようである。ローマ字とちごうことはもちろんで、何で、それが行われずして終つたかも、わからないけれど、漢字人種の私たちには想像できよう。それは片假名で、漢詩をつくるようなもので、同じ音でも、中味がちがい、原字の形と意味がわかつていなければ、音のもつ中味がわからない。それはアルハベツトと、成りたちがちがつている。
 このほか、同第五卷には、漢字への、アルハベツト人の見解が、いろいろでているが、そのうち「支那語新教授法の提唱」というのがあつて、彼らは、漢字は一つ一つが、アルハベツトの數文字に當る、つまり「合成文字」であるという見解から、これをばらばらにときほぐそうとした。たとえば「人」とか「水」とか「火」とか、「竹」とか「草」とかは、たとえば「人べん」にぞくする以下の諸文字の、「水」は「水へん」にぞくする以下の諸文字の、それであるように、これらはすべて「基礎單語」であるから、これを最初に習得すべきである、という議論であつた。したがつて、この「基礎單語(へん)や(かむり)を教えこんだら、つぎに、語の構成、ということを、しつかり教えこまなくてはいけない。たとえば「書」という文字は、聿(筆)と日からできているように、「箱」という字は、竹と木と目から成るものだというぐあいにである。そして「——若しかくの如き教授法がとられたとするならば、現在使用されている時間の半分はたすかるであろうし、兒童たちは、もつと幼くても學校にあがりうるに至るであろう——」とのべている。
 これは「アルハベツトによる音寫法」よりはるかにすすんでいる。同時に、この論者に至つて、漢字の本質である「形」をみとめてきていることもわかるであろう。そしてこういう議論が、彼らアルハベツト人の間にたたかわされたとき、まえにのべたような「ダイアの活字」に、(へん)だけの、または(かむり)だけのものが作られているという事實を、おもいあわせることができるだろう。彼らも、ついに「形」をみとめた。みとめたけれど、やはりアルハベツト流に「合成文字」に對して、文法をあてがおうとしたのだ。
 しかし、へんやかむりが「基礎單語」となりえないことは、アジア人の私たちが、よく知つているところである。(へん)や(かむり)は基礎たることが出來ても、(つくり)は不規則であつた。今日の簡略化された漢字辭典ででも、人べんだけで三百からあり、水へんだけでも四百からある。つまり漢字というのは、自然の形象が百萬あるならば、文字の數も百萬なければならぬ性質のものであつた。
 アルハベツト人たちが漢字をもてあましたのはいうまでもなかつた。しかし彼らは彼らのキリストへの信仰心からも、また文字と言葉を通ずることによつて、人種や國境をこえて、神の平和と、彼らの文明を世界にひろめることが出來るという新らしい自信からも、彼ら自身、まず漢字を習得し、文盲のアジア人にも習得させねばならなかつた。したがつて彼らの多くの人が、それについてこもごもに意見を發表したし、實踐もしたのであつた。支那叢報第八卷(一八三九—四〇年)の解説には「支那語學習法論」と題して、イラ・トラシーが書き、「支那語文法論」と題して、ダイアが書いている趣きも、かんたんに紹介してある。後者は西洋人が西洋人のために、支那語の文法的特質を理解せしめようとしたもので、前者はいかにして支那語を自分自身でも習得し、また文盲の支那人に教授すべきか、その經驗を説いたもので「——最初の半年を會話專門としかくして修得した會話の能力により、支那人の師について讀書を學ぶ」また布教の對象である文盲の支那人への「——讀書のテキストは四書五經等の漢籍もあげているが、多くは歐米人宣教師のあらわした漢文の布教書である」と謂う。第八卷めにあたる此年にはダイアの自作自著「福音總論」もでており、一八一八年以來、英華學堂の最初の鉛漢字活字(彫刻と推察される)による、幼稚ながら若干の漢文聖書が發行されていた筈で、二十餘年の間にはアルハベツト人種流に相當漢字を征服していたのにちがいなかつた。
 それは彼らにとつてたしかに困難なたたかいであつた。「——支那語の書物は數百の文字の形とその意味とを暗記してしまうまでは、これを解讀することが不可能である。」と、トラ・イラシー[#「トラ・イラシー」は底本のママ]は三六年の支那叢報で、卒直になげいている。漢書を解讀するには數百どころか數千の文字の暗記を必要とすることを私たちは知つているが、アルハベツト人種には數百でさえ驚くべきことであつた。しかし彼らの強味は一方で二十六文字によるべつな言葉の組みたて方を知つていることだつた。彼らは却々降伏しない。支那人梁亞發との協力によつて「鴉片速改文」の原稿を書いたこの宣教師は、その言葉につずけて書いている。「——支那人の兒童の教育が通例、彼らが七、八歳になるまで始めないのは、恐らくこれによるであろう」。
 そして「——幾千もの黒い符號の形を暗記するということは行動の變化と興味とをもとめている兒童の心を滿し得ない」と批判を述べ「——かかる訓練を受けた多數の青年の精神は必然的に、はなはだしく歪められ、その成長を抑制することになるのである。支那人の思想に變化のないこと、その結果としての發明、改善の缺除は、ヨーロツパ人が支那に來るや、直ちに彼らの注意をひくものであるが、少くともその一因はこゝに存するのである。」と主張したのだつた。
 以上は「支那語の改革に關する一考察」と題する第五卷からの拔き書であるが、主張の是非善惡はとにかく、これは彼ら當時のヨーロツパ人がもつ、漢字に對する不滿および主張を代表するものの一つであつた。また一方からいえば、彼らの漢字組織、印刷工業的には漢字機械化への根本方針でもあつたろう。したがつて、ダイアの活字は、こういう彼らの漢字論のうちに生れでたものであることはいうまでもない。ダイアの活字が、その後西洋人、東洋人相協力して、上海の美華書館の電胎活字へまでの發展は、後に述べるところであるが、歴史的に云つてダイアの漢字活字を今日の漢字活字の先祖とするときは、いわば一世紀後の今日の漢字ケースには、イラ・トラシーやダイアたちのこうした漢字論の一斑が、實現しているわけでもあつた。
 そして、それはたしかに「ある程度成功」した。讀者諸君が、いま私のこの本で見らるる程度に成功しているのである。この本は漢字の國、日本において、ごく普通の印刷手段であるけれど、この洗練された字形の活字は、電胎法による字母であり、自動鑄造機によつて、一分間約五十個の割合で製造された活字である。そして前に述べたように、これらの活字は漢字々引などと、ずいぶんちがつた漢字組織によるケースによつて採字され、植字されたものである。讀者諸君は自分の身邊に、新聞や雜誌をはじめ、各種の漢字印刷物をみるに事を缺かないであろう。
 しかし、讀者諸君が一歩印刷工場のなかへ足をいれてみるといい。諸君はたちまち私が「ある程度の成功」という意味を理解するだろう。工場の一方では輪轉機や自動式シリンダーロールが廻轉している。一方ではこれも自動式による紙型壓搾機がメーターの針をふるわせているかとおもえば、こちらでピヤノのようにきれいな自動鑄造機が數臺ならんで、時計の秒針よりも正確な音をたてている。また一方では、ときどきマグネツトの青い閃光が室じうを染めながら、寫眞版や銅版がつくられているし、階下の製肉室からは、自動式のインク攪拌機の遠雷のようなとどろきがつたわつてくるだろう。それらはすべて近代的に機械化されたシーンである。ところで一方、活字製版室をみてみたまえ。ここには機械のかわりに人間ばかりがいる。くらい、カビくさい室のなかからは、規律のない人聲だけがきこえている。ここでは他の室とちがつて風俗までがちがう。ぶさいくな木箱と原稿をにぎつている文撰工たちの多くは、まだ草履をつつかけ、裾のひらいた和服を作業衣にしてゐる。解版女工たちは手拭いで姉さんかぶりにし、植字工たちの多くは仕事臺の隅に灰吹をおいて煙管をくわえる。このはなはだしいシーンの相異は何を意味するか?!。
 もちろん、それは製版室をくらくしながら、壁のようにさえぎつている活字ケースである。何千年も眠りつずけるかのように、頑固につつたつている漢字ケースである。ダイア以來一世紀の間、青い眼の人間や、黒い眼の人間の努力によつて、改良に改良を加えたが、いまだ容易には機械にむかつて根城を明けわたさない、萬という異つた顏をもつ漢字の群である。アルハベツト活字のケースは、グウテンベルグ以來、テエブルの上に、あうむけにねてゐた。AからZまで、ボツクスの眼じるしさえあれば、植字工たちは一々活字の顏をながめる必要はなかつた。ヨーロツパでは、植字工のほかに文撰工というものは、昔から必要がなかつた。しかし漢字のケースは倒すことが出來ない。あうむけにすることが出來ない。活字製版室では、文撰工がもつとも多數を占めているが、若し文撰工が眼を痛くしながら、複雜な彼女らの顏を一つ一つみつめなかつたら「誤字」となつて忽ち復讐するだろう。彼女らはまだ今日も工場の天井につかえるほど、ひろい空間を占めながら、文撰工たちを見おろしているのである。
 つまり、讀者諸君が印刷工場でみることのできるこのはなはだしいシーンの相異は、漢字とアルハベツト文字がもつ性質のあらわれである。形の文字が機械化への行く手を頑固にさえぎつて、從業員たちの風俗までも、手工業的におしとどめている姿である。
 もちろん、人間は一歩々々、彼女らを攻めたてている。彼女の周圍は、いまや近代科學にとりまかれている。人間は搦め手からも攻めたてるし、たとえば寫眞製版術の進歩は、やがて彼女のシガめつつらを、そのままで虜にするか知れぬ。またたとえばここ十年來、日本製の自動鑄造機は優秀で、且つ多量に生産されるようになつたために、全日本の印刷工場で、彼女らの牙城はその半分が陷落しつつある。それは文撰工に「返版」がなくなつたからである。彼女らは文撰工はよつて[#「文撰工はよつて」は底本のまま]採字され、版となつて紙型にとられ、再び文撰工の手で一本ずつケースに「返版」され、また採字という順序でくりかえされていた。しかし自動鑄造機の發展は、紙型壓搾機の下からでてきたしゆんかん彼女らをいきなり溶鉛にしてしもう。一分間五十個の速度で、二度の勤めはしないところの、新らしい彼女らが出來、それがケースごと取換えられてしまう。つまり文撰工は採字だけすればよくなつたのである。
 しかし、これらの發展は漢字の本質的な變化だろうか? 漢字の主體的な發展であろうか? もちろんそうではない。將來も科學は搦め手から、もつと彼女を攻めたてるだろう。遠くない將來に、アジアの印刷工場では、いま少しはびつこ的でない印刷工場の風景が見出されると信じられてよいだろう。それでも漢字がもつ本質的な問題は、搦め手のかぎりでは解決されたわけではないのであつた。
 日本の近代活字は、アジアの近代活字である。そしてアジアの近代活字の歴史は、漢字とのたたかいであつた。そしてダイアをはじめ當時のヨーロツパ宣教師と、それに協力したアジア人、印度人や支那人や日本人たちの、漢字活字の創成は、その最初のたたかいであつたのである。