世界文化連載分、七

 「江戸の活字」は、以上のごとくであつた。日本最初の電胎活字が、ほとんど陽のめを見なかつた事實と、見ることが出來なかつた理由とを、みたつもりである。尤も、まだ現在の私に明らかに出來ないもので、前卷でみた「八王子の活字」がある。故陸軍中將秋山錬造氏の語る、アルハベツトの活字は、嘉平の活字、「江戸の活字」と、關係があるのか、それとも、齊彬と嘉平のような、ひそかにアルハベツト活字をつくつて、「和製洋書」をつくろうとする、べつな勢力とくわだてが、あつたのか、そのへんもわからない。しかし、これも記録の示すとおり、アルハベツト活字にかぎられていて、嘉平の漢字以上にも、日本近代活字の傳統と、なることが出來なかつただろうことは、明らかである。したがつて、「江戸の活字」が、そうだとすれば、私は、いまは唯一の、日本鉛活字の正統と考えられる「長崎の活字」え、もどつてゆかねばならぬのであるが、そして、前卷の終りにつづけて、萬延、文久以後の、「昌造の活字」をおつかけてゆかねばならぬのであるが、それ以前に、私は、長崎のむこう、上海を、知る必要があつた。つまり、とんできたボール、アメリカ人ガンブルという男と、それをキヤツチした昌造という男は、わかつているが、そのボールは、いつたい誰がなげたか? それが、日本の印刷歴史では、明らかになつていないのである。
 昭和十七年のくれから、十八年の夏えかけて、私は、「上海」をさがして、東京の街をあるきまわつた。上野の圖書館では、中牟田倉之助稿「上海行日記」中村孝也著「中牟田倉之助傳」高杉晋作著「游清五録」「曾我祐準翁自傳」などを讀んだ。これらは、上海については斷片的であつたが、幕末の日本に對して、上海のあり方を示すものの、一つだと私は考えた。これらの文章は、今日、私らが教えられている幕末歴史からは、すこしはみだしたものがある。なるほど、土佐の高杉や、薩摩の五代友厚は、船や武器を買いに行つた。しかも、それは國内的な必要だけではなかつたようだ。たとえば、五代は上海にむこう船中で、高杉や、中牟田に云う。「君命を體して軍艦、運送船を買入るるために、遣中に在るなり。語つて曰く、他日歸國の後、蒸汽船を修復すと稱して、上海邊にて貿易を開始せんと欲す。上海貿易先ず開かれなば、歐羅斯(オロス)、英吉利、亞米利加への渡船も、自ら開けむと。」そこで高杉が、「——私かに張膽明目して思へらく、薩藩の計畫此の如く進み、佐賀も亦之に雁行せんとするからには、好し乃公聊か所見ありと。」(中牟田倉之助傳二〇頁)、そして高杉が歸國すると、數ケ月して、長州藩和蘭汽船を買つたのは、周知の通りであるが、五代に限らず、大藩の武士たちが、上海をとおして、海のむこうに向わんとする氣持が、かかづらうところなく表現されている。そしてこれが文久二年、坂下門の變があり、生麥事件があり、「朝議攘夷に決し」た年のことである。
 彼らの乘つた船は、千歳丸で、徳川鎖國以來、幕府がはじめて海外にやる貿易船であつた。つまり、安政開港以後、七年めの、歴史的な幕府行事であるが、貿易事情にうとくて、石炭、人蔘、煎海鼠、昆布、塗物などを積んだこの船は、そつくりそのまま持つて歸らねばならぬほど、失敗したけれど、歴史的には、各雄藩の武士たちが、はじめて上海の文物に接したという點で、ふかい意味をもつていた。このとき、高杉はピストルなどを買つたが、中牟田の土産物の目録は、またハイカラであつた。上海製の、江戸灣や、函館などの日本地圖や、「數學啓蒙」「代數學」「航海書」「重學淺説」などの、ヨーロツパ科學書から、三百年間ご法度の切支丹である「新約聖書」や「日英對譯書」などまで、買つてきているが、そのうちに「上海新報」(第二號より第五十八號まで)というのがある。しかも、「上海新報」はもちろん、「代數學」「重學淺説」「數學啓蒙」などは、漢字版らしい。たとえば「航海書」などには(英語)と、説明を加えてあるからであるが、そうすると「日英對譯書」などには、漢字のほかに、假名も、用いてあるか知れぬ。その漢字活字は、いつたい何だろう? ガンブルが長崎えきた明治二年にさきだつこと七年のこのとき、もはや、鉛の、電胎活字だつたかも知れぬゾ、と考えた。私は、それをみたいのであるが、日本海軍の創設者だとか、明治維新の元勳とかいう、この人々の遺族の存在は、私にとつては、外國人よりも、もつと遠方にある氣がするのだが、さて、どう近づけばいいのだろうか?
 文久ごろの、一八六〇年代の上海は、すでに「中國の上海」ではなかつたことを、「游清五録」も「上海行日記」も、物語つていた。中牟田や、高杉や、五代やが、上海で觸れたものは、西洋文化であつた。そして、中牟田たちの關心も、支那支那人でなくて、西洋人であり、西洋文書であつた。すると、その西洋文化はいつごろ、そうしてどういう風に、上海に入つてきたか? いかにして「中國の上海」に「西洋の上海」が出來あがつたのか? そのへんに中牟田のハイカラな土産物、名前こそ、中國風だが、中味はヨーロツパの科學が、東洋の文字によつて表現される、機縁があるにちがいない。そして、そのへんに、東洋の漢字が、木から金へ化ける、西洋の化學とのむすびつきが、つまり、日本の昌造が、アメリカ人ガンブルに、活字の作り方を傳授されるような、そんな遠い原因が、あるにちがいないと考えた。
 私は、ある日、新刊廣告で「上海史話」というのをめつけて買つた。著者は米澤秀夫という人である。目次は「上海開港前史」「上海邦人發展史」「幕末の上海渡航者」などとわかれている。いわば、上海に關する歴史雜話であつて、主に、幕末當時の、日本人と上海の※[#「插」の真ん中の棒が下へ突き抜けた字、第4水準2-13-28]話に、作者の眼がおかれてあるが、考證の豐かさばかりでなく、珍奇にとらわれず、主觀的におしつけようとするところもなく、信用出來る本であつた。「上海邦人發展史」のうちには、ヘボン博士と共に「和英詞林集成」印刷のために、上海えきていた岸田吟香の動靜について、記録があり、私は、吟香についても、新しい知識を加えたが、それは、後で紹介するとして、この書物で、「上海」について得たところの知識は、あらまし次のようなことであつた。
 ——上海は、日本本土から支那大陸えの最短距離にあつて、長崎から西南にむかい、海上約七百粁である。揚子江とその支流黄浦江が合して、海にそそぐ三角地點をいう。別名を「滬」といい「滬涜」ともいう。支那第一の大河揚子江の門戸を占めるこの三角洲は、もちろん有史以前から形成されている。支那歴史四千年、古い上海は、中國人にとつても傳説のうちにある。ようやく海港として、歴史にあきらかにされたのは、宋代の咸淳三年、西暦の一二六七年に、市舶司がおかれたころにはじまる。日本暦にすれば一九二七年の鎌倉時代で、文永十一年の「蒙古來」にさきだつこと、わづか七年でしかない。宋から元、元から明となつた嘉靖三十二年、西暦一五五三年ころの上海は、中國からいえば「倭寇」、日本からいえば「八幡船」の襲來が、しようけつをきわめて、ようやく周圍九里にわたる城をきづいて、これを拒いだというが、上海が、日本長崎とは、もつとも近い距離にありながら、ほかの中國の貿易港、たとえば南よりの寧波や、泉州や、福州にくらべて、縁故がうすかつたようにみえる。その原因は、中國自體の經濟的事情や、倭寇問題や、また十五世紀ごろからは、スペイン、ポルトガル、オランダなどの、ヨーロツパ船が、東洋え進出してきて、中國南邊と、日本長崎の間を、リードした事情などにもよるのだろうが、もつと大きな事情は、中國自身、澳門や、廣東や、南邊の港は、ヨーロツパ勢力に與えても、軍事的不安から、北邊までは、うかがわせまいとして、これを封鎖したということにあるだろう。
 明から清となつた十七世紀後半には、「倭寇」や、明の遺臣國姓爺以來の「海寇」やも、跡を絶つて、上海は、國内的に、やや繁盛におもむいた。なかには、封鎖をやぶつた中國船が、安南、シヤムあたりに出貿易をしたばかりか、そのいくらかは「南京船」として、長崎えもきたという。しかもヨーロツパ船は入港できなかつたが、舊教の宣教師たちは、單獨に潜入してくるのであつた。彼らは、朝廷や、貴族たちに、異國の珍奇な土産物、當時のヨーロツパ文明器具を贈ることで、一身の安全を得、布教活動をし、上海にも、その一端をうえつけた。
 しかし、以上のことは、上海にとつて、すべて古典にぞくする。年代にすればわずかだけれど、西暦一七〇〇年、新教國イギリスが、マラツカに東印度會社を創立して、ポルトガル勢力を打倒して、アジアの海上に覇權を確立した歴史こそが、處女上海の花ひらく運命であつた。東印度會社は、廣東一港に滿足しなかつた。一七〇〇年、上海にちかい舟山島の定海に、トラムポール號を侵入させて以來というもの、一世紀半にわたる、おどろくべき忍耐ぶかさをもつて、上海をうかがつている。一七五五年には、東印度會社員アレン・フリトンが、舟山島からでて、北支の天津まで潜航して捕えられ、澳門の監獄に、三年入つた。一七八七年と一八一六年には、英本國から、再度の使節が、はるばる派遣されてきた。一八三二年には、宣教師ギユツツラフを道案内として、東印度會社員リンゼイが、現地官憲との直接談判を目的として、はじめて上海にヨーロツパ船を乘入れた。呉淞砲臺からの射撃をあびながら、黄浦江をさかのぼつて、強引に中國官憲と面會したが、これも失敗に終つたような、こまかにみてゆけば、その他數えきれぬ出來事がある。これももちろん、前卷でみてきたように、日本の周邊におしよせてきた波の性質と同樣のものだが、かりに織豐時代から徳川家光までを第一期、弘化元年の開國勸告使節オランダ蒸汽船の來航までを第二期とすれば、ここでは日本より二三十年も早く、第三期の波がおしよせていたといえるだろう。
 そして遂に、一八四二年には、阿片密輸問題を機會として、呉淞沖の英支海戰となり、上海城占領となり、南京條約となつた。上海は、いわゆる「阿片戰爭」によつて、イギリスのためにヴヱールを脱がねばならなかつた。一八四六年にはアメリカが、一八四八年にはフランスが、イギリスにつづいて、上海にその足場をきずいたのである。これを日本が、アメリカを筆頭に、ヨーロツパ諸國え、江戸灣その他を開港した、下田條約成立の、安政二年にくらべると、十餘年さきだつている。前卷でみたように、ペルリのアメリカ東印度艦隊も、或いはプーチヤチンのロシヤ使節艦隊も、みんな上海を足場として、江戸灣え、長崎えと、來航したのだということを、思いだすであろう。上海の開港! それは中國だけの問題ではなかつた。日本の問題であり、東洋の問題であつた。一方からいえば、ヨーロツパ文明が、東洋の最初の、そして最後の關門をおし破つたのである。
 一八四五年には四十四隻、一八四八年には百三十三隻の洋式帆船や、蒸汽船が、上海の港に入つてきたと記録してある。そのうちの七割がイギリス船、二割がアメリカ船で、それらの船の多くが、印度産の阿片を積んでいたという有名な事實は、東洋の門戸をおしやぶつたヨーロツパの力の性格の一面と、おしやぶられなければならなかつた中國の性格の一面を、もの語つているようなものだ。しかし、ヨーロツパ文明が、中國に與えたものは、けつして阿片のみではなかつたということである。「阿片戰爭」を「竹の大砲」でたたかわねばならなかつた中國は「鋼鐵の大砲」や、軍艦をあやつることをおぼえ、汽車や、電燈やも知つたし、アルハベツトや、新教キリストをも知つたのである。
 上海城占領の直後、英國全權代表は、直接中國民衆にむかつて、次のような布告をしたといわれる。——
「普天の下、卒土の濱、國のさまざまなる、その數を知らず。されど、その一として、至高の天父の支配を受けざるはなく、ことごとくこれ一家の同胞なり。然らば、相和して、兄弟のごとく好みを通じ、互に他に對して上位を誇ることあるべからず。(以下略)」
 この文章は、甚だイデオロギツシユである。阿片と大砲を懷中にいれている自由主義は、キリストの名において、自信にみちみちている。しかも、阿片と大砲を懷中にいれたかぎりでは、その新教的「平等」主義が、當時の中國民族にとつて、なおかつ革命的であつたにちがいない。
 上海は、いまや東洋第一の文化の中心地となつた。揚子江をさかのぼれば、四百餘州と、四億の人間がいた。極東の國、全島黄金をもつて成るという、傳説の國日本は、海上七百粁の最短距離に位する。十九世紀後半は、ヨーロツパ各國が、數世紀にわたつてしのぎをけずつた植民地獲得競爭の、大詰期にあたる。「海賊」とよばれたイギリス人を筆頭に、ナポレオンのフランス人も、ビスマークのドイツ人も、新興アメリカも、その他オランダ人、ロシヤ人、スペイン人、ポルトガル人、イタリヤ人など、軍人、商人、宣教師、學者、技術家それぞれに、みんな上海えあつまつてきた。
 知らぬは、徳川鎖國の日本ばかりであつたわけであるが、上海開港の一八四五年は、弘化二年であり、開國勸告使節のオランダ軍艦が、長崎から追いかえされた翌年であつて、長崎見習通詞であつた昌造は廿二歳である。オランダ軍艦にかぎらず、ことに安政開港前後からは、イギリス船、アメリカ船、ロシヤ船などが、みな一度は上海え立寄つて、長崎え來たのだから、上海の文物、とりわけ、彼が執着している印刷術、鉛活字についても、何かと風のたよりに聞き知るところがあつたろう、と推察するのは不自然だろうか。
 ところで、米澤氏の「上海開港前史」は、阿片戰爭、南京條約で終つている。これのテーマとしては當然であるけれど、私の目的は、いよいよそれからである。イギリスの船、アメリカの船は、阿片のほかに、何を積んできたか。つまり、中牟田が土産にした「上海新報」や、その他の漢字活字や、昌造に電胎法を教えたガンブルの、アメリカ傳道印刷會社の、印刷工場などは、いつごろ出來たか——それを知らねばならない。
 私は「上海史話」の著者が、どこに住んでいるか、本の發行所である、九段下のU書房え訊きに行つた。するとU書房の主人が、親切に教えてくれるには、米澤秀夫という人は、上海に住んでいて、その勤務先の會社の支社が、東京の大阪ビルにあるから、そこの飛行便をたのんだがよかろう、ということだつた。私は家えもどつて、早速に長い手紙を書いたが、しかし考えてみると、かりに「上海史話」の著者が、見ず知らずの一讀者の質問に答えてくれるとしても、さて、この切迫してきた戰時下に、空にもしろ、海にもしろ、無事に、先方えとどくだろうか?
 歴史をしらべるなどということは、本人の意圖と、努力のいかんにかかわらず、偶然や必然の條件がともなつて、特別な「時間」というものがあるのだつた。不馴れな私は、苛らだちながら、手もちぶさたな日を過ごさねばならなかつたが、すると、また、こんどは思いがけない幸運が、私に舞いこんできた。私の知つたこの事實は、日本人島谷政一の「印刷文明史」にも、アメリカ人ジヨン・クライド・オスワルドの「西洋印刷文化史」にも、故人三谷の「本木平野詳傳」にも、その他、私の讀んだ印刷歴史書の、どれにもないものであつた。この事實の存在の發見は、日本の活字の由來のみならず、西洋の鉛活字が、東洋の鉛活字に轉身していつた、その「つぎめ」がはつきりわかるほど、私にとつて重大なものであつた。