世界文化連載分、五

 「嘉平の活字」は、「昌造の活字」とくらべると、こんなに性質も色合もちがつていた。そしてこんな性質と色合のちがいのうちに、日本木版印刷史の終末があり、嘉平の生涯は、一方で、その挽歌をうたつたのだけれど、また一方では、解體せざるをえない「江戸期の印刷工場」のむじゆんの卵を、自分で産み落したのでもあつた。「自らこのんで、木版界を脱落しようとしたからでは」なかつたにしても、彼の電胎活字は「江戸期の印刷工場」にとつてはまさに鬼ツ子であつた。そして、この鬼ツ子は、充分に陽のめをみられなかつたけれど、鬼ツ子は、さらに彼の門人、徒弟のうちから、鬼ツ子を産んだし、彼の子供のうちからさえ、叛逆者が、あらわれてきたのであつた。
 その一は、弟子梅村翠山であり、その二は弟子打田霞山であり、その三は、嘉平の末ツ兒、赤次郎である。梅村翠山は、幕末から明治初期えかけて、銅版畫家として知られた人であるが、一方では、日本最初の銅石版印刷會社をおこして、近代精密印刷術の端緒を拓らいた人である。翠山が嘉平の弟子となつた年月は、明瞭でないけれど、西村貞氏の「日本銅版畫志」によると、「上總國武射郡南蓮沼の産」で、「天保十年十一月一日の出生」であり、「江戸神田の小柳町に住する、木版彫刻師木村嘉平の門を叩き、木版彫刻の技を修め」「時に翠山二十歳あまりの青年であつた」というのだから、およそ安政から萬延までの間だろう。木村嘉次氏の「剞※[「(厂+(逆−しんにょう))+りっとう」]木村嘉平とその門下」では、「名を亥之吉といひ」「父親ともども江戸へのぼつて、嘉平の門に入つた。ここで父親は、其の帳付をし、自らは木版彫刻に從つた」とある。嘉平は三十六七歳の壯年期で、このころはパンチによる活字にあいそをつかし、電胎法習得にうつりかけた時期にあたつている。「當時、嘉平の活字製造の事が始まつていたので、翠山はこれに助工として携はり、旁々、其の仕事場の一隅で、銅版腐蝕の方法を研究し」て、「明治四年、嘉平の家を去つて、神田福田町に獨立開業」することになつた。だから、翠山は二十歳ごろから、三十いくつまで、十餘年を嘉平に師事し、嘉平の電胎活字製造を、手つどうかたわら、化學的操作も、何かと學んだということになる。
 もつとも、翠山が、嘉平から學んだという中味は、今日、まだこれ以上明らかになつていない。また、何故、翠山が木版をやらないで、銅版をやつたか、その動機もわかつていない。さらに翠山の、銅版藝術家としての獨立が、直接に、嘉平の電胎活字との、因果關係を語つたものも、私は知らない。「日本銅版畫志」によると、文久三年に、既に翠山の銅版作品は發表されているし、明治四年までのうちに、幾つかの作品が、發表されている。つまり、嘉平に弟子入りして、五六年めから、獨立開業するまで、弟子のままで、師匠の木版とはちがつた、銅版作品をつくつていたわけだから、銅版をもつて、獨立開業したとしてもそのときをもつて、急に師家に反逆したというわけでないし、人間的にもそういう筋合ではなかつただろう。むしろ、このとき獨立開業の機縁は、翠山が、その年には「官版普佛戰爭誌略」の口繪を銅彫し、翌明治五年には「輿地航海圖」を銅彫し、翌々六年には「官札」を銅彫した、というような事情が、主あで[#「あで」は底本のママ]つたろう。文久以來の、名所圖繪みたいな作品とはちがつた作を、明治政府の命令でしなければならなかつたような事情である。嘉平は、まだ木版で、加賀や薩摩の「藩札」を彫つていたときに、翠山は、「藩札」よりは、もつとひろい範圍の、數が多いために、それでなければ堪えられない銅版の、新政府の「官札」を彫るようになつた事情なのである。
 もちろん、これは結果的なものだ。嘉平の電胎活字製造を、手つだいながら、銅版官札のうつりゆきがわかつていたわけでも、なんでもなく、翠山には、藝術家として、銅版彫刻えの執心があつた、だけかも知れない。私は翠山について、くわしく知らぬけれど、このへんの事情について記録されたものもないようだけれど、しかし、嘉平の、ほかの弟子のうちからさえ、翠山のあとをおうてゆく人間がでてくるときは、おのづ、師嘉平、弟子翠山の兩人がもつ、主觀的なものとはべつな、客觀的なものが生れてくるのは、やむを得ぬだろう。
 翠山も、しよせんは藝術家であつた。昌造の後繼者平野富二のように、技術家ではあつても、科學者でも、實業家でもなかつた。そういう人柄でないことは、「日本銅版畫志」でも、またその子嘉次氏が語つてくれる、五代赤次郎からの、傳え話の談片でも、理解できる。しかし、嘉平の電胎活字製造と、その助手の翠山の銅版腐しよく法とに、機縁があるならば、歴史は、翠山にのりうつるのだ。銅版彫刻は、司馬江漢以來の傳統があるけれど、腐しよくの化學的操作は、依然として祕密であり、門外不出であつて、「日本銅版畫志」は、安田雷州以來、江戸にあつて、この技をついだ人は、高野長英門人本木道平をのぞけば、翠山一人だ、と云つている。そして嘉平も銅版師ではなかつたのだから、翠山の銅版腐しよく法は、たぶん苦心研究の自得ではないか、と謂われているとき、嘉平の活字手つだいの化學的操作が、おのづから意味をおびてくる。もちろん、電氣分解の原理によるそれと、銅版腐しよくのそれとは、また別箇であるけれど、まえに「本邦昔時鉛活字創製略傳」にみるような、梅酢と銅屑を煮つめて、復鹽銅液をつくつたりするような、素朴だけれど獨自な嘉平の化學的能力、また、薩摩屋敷をとおして、嘉平の周圍にあつめられる科學の力が、何かと役だつたろうと、考えることは出來る。そして翠山の銅版技術が、江漢時代と同一であつたとしても、彼自身、しよせんは藝術家であつたとしても、新政府の「官札」や「切手」や「土地證劵」やを、銅彫し、印刷しなければならなくなつたとき、翠山の技術は、新らしい意味をもつてくる。それは銅版彫刻藝術の、近代印刷術えの、つなぎめであり、翠山藝術の、新しい任務えの展開である。
 嘉平の弟子のうちから、翠山のあとを逐うたのが、幾人だつたかわからぬが、その一人は打田霞山である。通稱新太郎、江戸本郷の生れで、少年時から嘉平の弟子となつて、木版彫刻を習つたが、明治元年頃から、翠山に銅彫をまなんだ、と「剞※[「(厂+(逆−しんにょう))+りっとう」]木村嘉平とその門下」は、書いている。「大久保利通像」のほか、すぐれた作品もたくさんのこしたが、明治四年には、翠山と同じく、海軍水路局に出仕して、「輿地航海圖」などを彫つた。「主として海圖の作製に勵精」するため、「腕車を驅つて」往復したというのであるが、霞山は安政元年の生れだから、このとき、まだ十八歳でしかない。「海軍水路局」での、彼の役等がどんなものだつたか、翠山とくらべて、そのとき、どれほどの技術だつたのか、わからぬながら、一方では、「十八の小僧職人」までかりたてても航海圖の作製をいそぐ、明治新政府の空氣があつて、一方では、嘉平の弟子であり、嘉平の娘しげを、妻としたほどの人間的つながりながら、明治元年頃、といえばまだ十四五の少年で、木版を、銅版にのりかえてゆくような、翠山よりもつと新しい型の、人間ができたわけである。
 明治七年、梅村翠山は、銅版技術改良の志をたてて、自分の門人からえらんで、研究生をアメリカにやる計畫をたてた。研究生は同年三月、海を渡つたが、そのとき、海軍水路局出仕をなげうつて、すすんで研究生となつたのが、霞山であり、いま一人の、中川耕山であつた。しかし、アメリカえ着いた二人は、途方にくれてしまつた。海のむこうの國では、江漢以來の銅版印刷など、とつくになくなつていた。アメリカでは、もつとすすんで、銅彫印刷より、はるかに精密な、石版印刷の時代であつた。耕山は、翠山にこの事情を報告するため、霞山ひとりをのこして、日本え戻つてゆくと、路用もつきてしまつた霞山は、道路掃除人夫になり、コツクの手傳人になつたりしなければならなかつた。そして、ようやく、耕山の復命によつて翠山は、翠山の生涯をきめる「彫刻會社創立」を決心し、二萬圓の金策となつて、霞山は、當時、世界的な名工と謂われた彫刻師、オーストリヤ人、オツトマン・スモリツクと、一流の印刷工、アメリカ人、シ・ゼー・ポーラードの二人をともなつて、歸國することとなつた。つまり、銅版藝術家梅村翠山と、その門下によつてくわだてられた、銅彫印刷の改良は、おもいがけない、石版印刷となつて、出現したのであつた。
「印紙類 手形類
 地圖類 畫像類
 西洋錦繪類
 其他圖畫類各種
 右石版ニテ大小精粗共、御求ニ應ジ、廉價ニ印刷仕候
  東京・銀座四丁目一番地
   彫刻會社」
 尾張町のまんなかにできた、この會社が、こんな「引札」をくばつたのは、明治七年の秋だつたが、「右石版ニテ大小精粗共——印刷仕候」というビラの文句は、一大名一貴族えの挨拶ではなくて、ハイカラであり、大衆的なもので、翠山およびその門下たちの心意氣は、江戸期の銅版藝術家とは、ちがつたものがある。石版術の、日本での傳統は、伊豆下田の下岡蓮丈など、ごくわづかの人が試作した程度だつたから、ヨーロツパぢうで、指折りというスモリツクと、一流の印刷工ポーラードとが、當時の日本に與えた影響の大きさは、いうまでもない。「かかる名工らの下に、多數の青年が養成されて、金子政次郎・多湖實敏・稻垣太郎・小柴英のごとき人が、輩出し」(日本銅版畫志)て、近代日本精密印刷術の土臺の、もつとも大きな一つが、ひらかれた。
 しかし、翠山を社長とし、霞山と耕山を、傳習生として、出發した「彫刻會社」は、その存續した六年間の、あらゆる時期が、「苦心さん膽」の連續であつた。それは「長崎の活字」が、明治四年に、はるばる上京してこのかた、困難しん苦のつかみかさねであつたのと、よく似ている。「彫刻會社」は「毎月の損失數千圓にのぼり」「翠山の刻苦經營にいたつては、到底筆舌の盡すところではなかつた」と、「日本銅版畫志」はいつている。明治十二年に、彫刻會社を、國文社にあけわたしてから、晩年の翠山には、銅版畫の作も少くひたすら、俳句と宗教のうちに、慰安を見出して、「末路また蕭條たるうちに、明治三十九年六十八歳をもつて、東京で死んだ、というのであるから、いわば、翠山の精魂は、彫刻會社とともに燃えつきた、かにさえみえる。
 考えてみると、銅版藝術もまた、木版藝術の木版印刷との關係と、同じであつた。法隆寺の陀羅尼經以來、銅版による護符、繪圖などの印刷は、藝術である以上に、手工業的な印刷工業であつた。凹版の銅版畫は、司馬江漢以來、銅版腐しよくという化學的操作法の、渡來の結果であつて、陀羅尼經以來の、凸版の、それとは格別の因縁をもつけれど、あらましは、通じて、少數藝術家の意慾をみたすだけのものではなかつた。たとえば「日本銅版畫志」の口繪に例をとつても、亞歐堂田善の「今戸瓦燒圖」、司馬江漢の「天球圖」、同「皮工圖」、安田雷州の「甲斐かじか澤富士川渡しの圖」、牧墨遷の「西醫外科施行圖」、同「蕃船圖」、同「紀年圖」、申亥の「銅鐫袖珍經卷三部經典」、松本安居の「海船圖」、梅川夏北の「大日本國掌賢全圖」等々。その他の、名所圖繪をふくめても、一般繪畫の、花鳥風月とはちがつている。これは産業の、暦術の、醫術の、造船の、軍事の、地理の、紹介であり、普及であつた。しかも、それが藝術的であつたことは、この印刷法の實用的要求と、何の衝突をするものでもなかつたし、まだなかば以上、江戸期の銅版作家であつた翠山が、己れの藝術を橋渡しとして、近代日本の、精密印刷術の端緒をひらいたことは、「江戸期の印刷工場主」であつた嘉平が近代活字をつくつたと同樣、おのづからな機縁が、あつたわけであるが、しかも、翠山の銅版は、海外に志をひろげ、ハイカラなビラをくばるまでに、よく江戸期の銅版畫家から、そこを踏み切り得たろうか? 人間的なことを別にしていえば、一つの原因は、次のことにあつただろう。木版技術にくらべると、銅版技術は、より近代的であつた。活字印刷に比べれば、條件も小さかつたが、しかし、何よりも、「明治の新政府」という性格であつた。アメリカの獨立憲法を草案したフランクリンの仕事は、自分で、活字をひろい、印刷した新聞の、輿論の結果であつたような、革命の性質にくらべるとき、明治の革命が、活字よりも銅版を、より早く必要としたような事情、である。明治七年に、「長崎の活字」を賣つて歩いた平野富二が、埼玉縣令を訪ねて、木版よりもすぐれた鉛活字の効能を、といてすすめたとき、舊知の縁故で、買つてくれたは買つてくれたけれど、そのまま幾年も、縣廳の物置に、ほこりをかぶせたままであつた。そして、縣行政のための印刷にも、やはり、木版で、事が足りていたような事情。そのくせ、「紙幣」や、「土地證劵」や、「切手」や、航海地圖や、軍事地圖などは、まつさきに必要としたような、新政府の性格である。
 さて、嘉平の晩年は、木版印刷の孤壘をまもつて、たたかつた。「維新の大業も成り——ここに木版彫刻師たちを脅かしだしたのは、泰西印刷術である。民間においては平野富二が、活版印刷機械の製造を開始し、七年には梅村翠山、小室誠一等が、銀座四丁目に彫刻會社を創立——之等が嘉平を始め——心を休めぬものがあつたが——嘉平はむしろ此際木版界に多少清新の風を吹き入れ」(「木村嘉平とその門下」)、「挽回せん」とはかつて、明治十年の第一回勸業博覽會に、都下の木版彫刻師九十餘人をあつめて、「烈祖成績」二十卷七一二丁を出品したりした。このぼう大な木版本は「最も精巧な、美麗な本」として賞牌をうけ、後世にのこる佳作となつたけれど、もちろん、これで「泰西印刷術」の脅威から、脱出することは出來なかつた。
 嘉平の長男庄太郎は、四代を襲名して、春海と號したが、嘉平晩年の志を、もつともよくついだ人であつた。父に劣らぬ木彫の名手といわれ、「專ら鳴鶴、春洞、一六、雪柯、枕山等の書、詩文等を彫刻」し、當時清國の公使館員であつた楊守敬の依頼で「古逸叢書」の複刻をし、宮内省藏版の「孝經」も複刻したりして、二十九年の短命だつたが、多くの仕事をのこした。ことに「孝經」刻版のときは、前後四年かかつている。「明治十二年から宮内省の梅の御茶屋に通勤」「大抵午前八時に出仕、先づ彫刀を研ぎはじめる。所が往々三時間餘におよんでも快適の切れ味が出ないことがある。すると、默つて道具をおさめて、(今日はどうも氣分が勝れず、刀もよく研げませんから、これでお暇を頂きます)といつて、歸つてしまつた」ような人柄であつた。嘉次氏宅の床間には、この四代嘉平の古びた畫像が、かけてあるが、五世田芳柳の描寫で、楊守敬の讃がある。おもだちは、三代に似ているところもあるが、もつと、おもながな、きやしやで、神經質で、羽織、袴も、やわらかに身についている。もう「江戸期の印刷工場の親方」ではなくて、近代的な木彫藝術家であつた。
 「木村嘉平者日本梓人第一——一藝之精通幽入神將以忠信僅見斯人曇花一現百卉失珍簡册不絶徽聲不泯」というのが、楊守敬の讃の一節である。死んだのは明治十七年、「孝經」複刻完成から一週間しか經つていなかつた。つもる疲勞に、くわえて、四年縷刻の苦心にもかかわらず、刻者名の※[#「插」の真ん中の棒が下へ突き抜けた字、第4水準2-13-28]入も許されなかつたという、その落膽が、死を早めたのだと、その甥にあたる嘉次氏は、私に語つた。そして、庄太郎の死は、また嘉平の死を早めたのでもあつた。末ツ子の赤次郎は、まだこのとき十五才の少年で、その翌々年、「生活はまつたく落莫」のうちに死んでいる。
 ところが、五代嘉平の赤次郎はすこしちがつていた。幼少から木彫のわざは、父や兄について學んだけれど、「首を振る張子の虎だ」とののしつて、いちはやく木版印刷に叛いたのである。宗家をつぐ者として、義兄打田霞山や、木彫界からよう立されて、五代の披露はしたけれど、その子嘉次氏が「活溌々地、その父の質實に對して浮華の嫌いがあり、放膽にふるまつて顧みる」ところがなかつたという赤次郎は、アメリカの印刷工ポーラードについて、近代印刷術をまなび、寫眞術を、當時工部大學にきていたバルトン教授に、まなんだりしている。幼時から、理化學にかくべつの興味と才能をもつていた人で、嘉次氏がみせてくれた赤次郎遺物のうちの、粗末なノートには、こんなことがいつぱい書いてある。「新ワニス」として「石油ニ膠ヲ混ジ・沸湯(まま)スルトキハ褐色膜ヲ生ズベシ、此處ニ於テ通例ノボイル油ニ由テ製シタルワニスヨリ一層乾燥性ニ富ムワニスヲ得ラルベシ、斯クシテ得タルモノニ樹脂ヲ混合スルトキハ「ペンキ」トナシ得ベシ」といつたたぐいであるが、あるところは鉛筆、あるところは墨汁インキのペン文字で、明治二十年前後と思はれる、少青年時代の、赤次郎の熱意が、こめられている。
 赤次郎の才能を愛する後援者は、少くなかつた。田中光顯、杉孫七郎・郷純造・宮島大八などがあつて、「その前途は甚だ多幸なるものがあつたが、彼の變通の才が之を妨げ」五代嘉平の由緒も、「木版など、張子の虎だ」とののしつて、自らなげうつた。そして、赤次郎の、最後にとりかかつた仕事が、翠山や霞山の石版印刷よりも、さらに高度な、寫眞製版であつた。
 寫眞術應用による製版印刷が、近代精密印刷術の、最高であることはいうまでもない。明治中期の日本で、寫眞版術を開拓した田中亥太郎や、小川一眞等の製版所に入つて、その實際を、援けたのが、五代嘉平の赤次郎であつたといわれている。木版彫刻時代に、寫眞乾板製造を企てて、田中光顯などの後援をえたが、濕度の誤算から、失敗したりしている。しかし後援者から見離されるような失敗は、よく酒をのんで「放達に振舞う」性格の方にあつた。赤次郎は、嘉平五十の子で、宮島大八の「詠皈舍閑話」でも書いてるように、「弟嘉平も名人で、とても天才で、版木など刻つてはをれないといつて、原色寫眞を、日本で一番にやつた。」のであるけれど、「皆、人に先んじ、世に率ち、その數四は世に弘く行はれたとはいへ、一事を刻苦大成しなかつた憾がある」と、その子嘉次氏がいうところの、赤次郎であつた。
 寫眞製版に到達する前後のものが、天然色寫眞、不變色寫眞、乾板などで、その後が色鉛筆・繪具・顏料・不燃セルロイド、セロフアン、陽畫感光紙などがあり、卷煙草機械などもあつた。繪具は、今日の「三星えのぐ」の先祖となり、卷煙草機械は、岩谷天狗に讓渡されたものだと、嘉次氏はいう。赤次郎の、寫眞をみると、これはまた三代とも四代とも、まるでちがつている。三十いくつの年頃のものだが、チヨツキとズボンだけの、洋服姿で、椅子によつたかつこうは、いかにも忙がしげである。どつかいま、海のむこうから船で戻つてきたばかりといつたふうの、嘉平に似て、すこしつまつた顏だちだけれど、鋭どい眼光に、覇氣あふれてみえる。「全く起伏つねなく一生を送り」五十九才で、「千住の茅屋において、腦溢血で世を去つ」たのであるが、嘉次氏の話では、そのころは、貧窮のうちに、永らく病んでいたそうで、たおれた瞬間も、最後の仕事であつた陽畫感光紙を一方に、いま一方には、コイルをつかんだままであつた。
 長男庄太郎と、末ツ子赤次郎とは、いわば嘉平の身うちにひそんだ、歴史的なむじゆんの、表現であつた。ことに赤次郎の悲劇的生涯は初代以來の木版嘉平えの反動でさえあつた。木版印刷が「江戸期の印刷工場」として保たれたのは、三代嘉平までであり、四代嘉平は、すでに木版藝術家でしかなく、五代に至つては、そのどつちでもなかつた。
 「嘉平の活字」は、まさに鬼ツ子であつた。矛盾の卵であつた。それは日本近代印刷術にとつて、充分には傳統となることができなかつたけれど、それが、やはり、翠山や、霜山[#「霜山」は底本のママ]や、赤次郎を産んだということが出來る。三代嘉平は、その稀代の才能によつて、木彫藝術を護らねばならなかつたけれど、その傳統の重さ、顧客の力の大きさによつて、己れが産んだ卵を、充分肥だたせることは出來なかつたけれど、しかも、日本最初の電胎活字の創始者たる榮冠は、彼の頭上にささげらるべきであろう。私も「安政年間に於ける鉛活字創始者、木版彫刻師木村嘉平」の筆者とともに、ためらうところなく云う。「——嘉平は確かに、夜明け前に眼を覺して、晝の仕事の土臺をきづいておいた一人であります。——」