世界文化連載分、四

 木村嘉平、三代嘉平がどんな人柄であつたか? それを知るに充分な記録は、まだ無い。昌造とともに、身分的にひくかつた嘉平について、じつは日本人にとつて記憶さるべき、この二人の人物について、今後も、そういう記録をもつことは、出來ぬか知れない。現在では、五代嘉平の文章が、その基礎だという前記「本邦昔時鉛活字創製略傳」と、嘉次氏の二文章「剞※[「(厂+(逆−しんにょう))+りっとう」]木村嘉平とその門下」及び「安政年間に於る鉛活字鑄造者、木版彫刻師木村嘉平」のうちにみられる程度のものであろう。
 私は、「横文字錺方」という、嘉平唯一の遺墨である帳面を、ひざの上にひろげている。いわば仕事日記で、嘉平がいつも仕事場のすみに、つるしておいたものらしい。丈夫な和紙を袋とぢにしたその帳面の表紙には、つよい筆致で、「横文字錺方」と、まんなかに太く書き、その左右の肩に「安政四年」「己正月」とあつて、これはまだ電胎法以前、ひたすらパンチ法によつて、アルハベツト活字をつくつてゐた頃だつたということが、わかる。どの頁をくつても、自身の意志や感情をのべたところは、一字もめつけだせないが、「二月二日上り入 鑄形壹個 田金十五本 金壹分貳朱二月二日渡し」とか「二月廿四日上り入 田金五十本地金とも 金貳分二月廿四日渡し」とか「三月八日 一鑄形直し 一あか金壹分五厘角 長さ壹千貳分九本」とか、そんなことばかり、書いてある。「上り入」とは、活字か、パンチかわからぬけれど、一應出來上りの品を、薩摩屋敷え、みせるか、納めるかしたものらしく、田金はたがね(鏨)のことで、これは鍛治屋とか、金物屋から仕入れて、金を拂つた、心おぼえらしい。走り書きながら、流義のあるつよい筆ずかいで、「鑄形」とか「田金」などの文字のそばには、原寸法らしい、その形の繪がそえてある。丹念な、その文字や繪をみれば、はつきりと、克明で、不屈な、風貌がうかんでくるようである。
 三代嘉平は文政六年(一八二三年)の生れ、初代以來神田小柳町に住んだが、十八才のとき、義太夫などに凝つていた二代嘉平が死んだ。ひどい貧乏のうちに三代をついだので、若年から非常な努力をしたという。嘉平は繪も彫つたが、特に文字彫りに秀でて、嘉永安政のころには、江戸一の名人となつて、「筆意彫り」の別名は、「嘉平彫り」と稱ばれた。嘉平の作は、今日も澤山のこつていて、「江戸名所圖繪」の河三亥の序文「官許新刻詩韻大成」の大沼枕山の序跋・飯沼慾齋の「重訂草木圖説」の序、安積澹泊の「烈祖成績」の序、および凡例など、有名で、その他、上野博物館の門標、芝青松寺山門の額、淺草門跡善龍寺山門の額など、嘉平の木版彫刻史における、存在の大きさを語るものだと、謂われている。「安政年間に於る鉛活字鑄造者、木版彫刻師木村嘉平」によると、「嘉平は、天保の中頃」から、木彫界に頭角をあらわして、齊彬の命により、幕府の眼を忍んで、鉛活字を作りはじめた頃には「小柳町の嘉平の居宅兼彫刻場は、古老の話では、冠木門が東向きに、通りに面し、廣い植込みをぬけて、玄關と應接室を兼ねた室があり、その左手に、摺りをやる室がつらなり、そこから座敷をおいて、白塗りの土藏がある。その前にいつも坐つて、仕事をしながら、監督してゐたのです。彫刻場は、又その奧の方であります。そして、それらの室々を、又植込みが圍つてゐたといふのですから、よく/\の事がなければ、祕密は洩れなかつたらうと存じます。」と、當時の模樣が、云い傳えに、傳わつている。「官許新刻詩韻大成」は明治五年刊、「重訂草木圖説」は明治七年刊、上野の博物館の門標は明治十三年であるが、木版彫刻の衰勢を挽回するために、都下九十名の木彫師によつて、第一勸業博覽會に出品された木版本「烈祖成績」は、嘉平によつて、編輯とうかつされたものだというから、「冠木門が東向き」だつたころから、六十四歳で胃癌でたおれる日まで、江戸木版界に重きをなしていたばかりでなく、その生涯を木版彫刻と、その印刷にささげた人だともいうことが出來る。
 そういう嘉平が、どういう動機から、鉛活子[#「活子」は底本のママ]などをつくるようになつたのか? ついには日本ではじめての、電胎活子[#「活子」は底本のママ]さえつくつたのか? しかも、遺作遺品にみる、これだけの成功を、昌造にもさきがけておりながら、何故、近代的な洋式印刷工場をはじめることをしなかつたろうか? 木版彫刻などふりすてて、近代印刷術え全身を傾けてゆかなかつただろうか?
 私のこういう疑問が、馬鹿げてみえなくはない。それは木版彫刻というものを、今日のように一つの藝術樣式としてだけみることを、前提しているときに、そうである。木版彫刻を、印刷術と引き離してみるときに、そうである。ところが、むかしの木版彫刻師や、摺り師やは、すなはち印刷工であつた。「冠木門が東向き」の、神田小柳町の、嘉平の居宅は、江戸期の印刷工場であつた。嘉平は「摺り手」や「彫り手」の弟子を、たくさんかかえた、親方であつた。土藏の前に坐つて、自分も仕事をしながら、「彫り手」や「摺り手」やを「監督」している、職長であり、經營主であつた。繪と文字が一緒になつた本を、彫り、そして刷り、引れ札や、名所圖繪、俳優の似顏や、相撲の番附も、刷るが、加賀藩薩摩藩の、藩札なども、彫り、そして刷つた。つまり、一世を風びするほどの「嘉平彫り」の名聲も、江戸期の印刷工場という、まだ、藝術と、工業の、區別のない、手工業の上に、花咲いたものにほかならないのだ。
 嘉平が、鉛活字をつくりはじめた、動機の必然性は、なかば以上、そこにある、と私は思う。嘉次氏の「安政年間に於る——木村嘉平」のうちで、「木版師たる木村嘉平が、將來家業の強敵の一たるべき、鉛活字の製造に着手しましたのは、自から好んで木版界を脱落しようとしたからではありません。實に薩摩版の圖書や藩札を彫刻してゐた關係から、島津齊彬公の命に依つたのであります」と云つているが、そして、それはその通りであるが、それはみぢんも、動機の必然性と衝突はしない。そのときの嘉平の考えが、どうあれ、齊彬が、嘉平に、それを命じた、ということが、既にそうであつた。齊彬が、特に嘉平をえらんだことは、嘉平の人物と、技術を信頼したからであろうけれど、やはり、嘉平を「印刷屋」とみていたからにちがいない。科學者とか、工藝家とかいう意味でなら、當時一流の科學者川本幸民をはじめ、齊彬は、そういう家來を、澤山かかえていたからであつた。
 そして、ほんとに「自ら好んで、木版界を脱落しようとしたからでは」なかつた嘉平が、「將來家業の強敵の一たるべき鉛活字の製造に着手した」ことこそ、「江戸期の印刷工場」に襲來してきた波であつた。直接には、蘭書を複刻してでも、急速に外國の文明をとりいれようとする、齊彬の意志を、とおしてあらわれたのであるし、それが、同時に、木版彫刻印刷の背負ふべき運命でも、あつたわけである。「安政年間に於る——木村嘉平」のいう通り、それが弘化四年からとすれば、元治元年まででも十七年間、嘉平は「家業の敵」を完成するために、辛苦したことになる。齊彬は、嘉平のパンチ活字が、最初の成功をみた萬延元年より二年まえ、安政五年に亡くなつていて、その後の島津家と、嘉平の關係は、「久光は——國事に奔走するに忙がしくて、かうした文化的方面にまで手がのびなかつた」(前掲)というから、齊彬死後も、島津藩の方針が、少からぬ庇護を與えていたにしろ、嘉平自身の科學的才能と、それにうちこんだ、不屈な人柄なしには、電胎活字えまでの、成功は考えられないけれど、それなら、それで、何故、嘉平は、十餘年間の晩年を、近代印刷術の完成えと、すすまなかつただろうか?
 「長崎の活字」が上京してきたのは、明治四年も、夏の終りであつたから、嘉平の活字の、少くとも最初の一本は、日本ぢうでさきがけていたし、時代の先驅者として、陽のめをみた筈であつた。それがどうして、訪れる人も少ない、日本の南端の海べで、陳列棚におさまつているだけの、結果になつたであろうか? このことが、誤りなく結論を得るためには、第一に、元治元年以後の、嘉平の活字製作状態が、もつと明らかにされねばならない。第二に、電胎字母は得られたとしても、嘉平の「流し込み鑄造器」が、どんな性能のものであつたか、もつと詳細にされなければなるまい。そして、私も前述した以上の、手がかりを持たぬのであるけれど、次のことは明らかである。嘉平は、近代的な印刷機、プレスを持つていなかつた。「ばれん」刷り以外に、試みた形跡がない。嘉平は、齊彬の命で、アルハベツト活字をつくると、リンドレー・マレーの英文典の蘭語版をつくるという、目標はもつていたが、漢字活字をつくつても、それで本をつくつて、何かをうつたえようというものを、嘉平自身、もつていなかつた。少くとも、もつていないらしかつた。そして、このことが大事であつた。
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかに、いくつかの條件が必要である。第一には「ばれん」でこするかわりに、鐵のハンドでしめつける、プレスである。第二に、速度のある鑄造機である。第三に、「ばれん」刷りにはふさわしくても、金屬活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もつともつと、重要だが、近代印刷術による、印刷物の大衆化を見透し、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であつた大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開國以後の新空氣に胎動する、平民のなかえゆこう、とする思想であつた。
 苦心の、電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちにみるように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼつてきても、買手がなくて、昌造の後繼者平野富二は、大童になつて、その使用法や、効能を宣傳[#「宣傳」は底本では「宜傳」]しなければならなかつたし、和製のプレスをつくつて、賣りひろめなければならなかつたのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、綜合的な科學の力と、それにもまして、新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的に己れの意志を表現しようとする、中味が必要であつた。たとえば、これを昌造の例にみると、彼は蒸汽船をつくり、これを運轉し、また鐵を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に、活字のボデイに化合すべきアンチモンをもとめて、日本の鑛山の半分くらいは、探し廻つたし、失敗におわつたけれど、幾たびか舶來のプレスを手にいれて、これの操作に、熟練[#「熟練」は底本では「熱練」]しようとした。これらの事實は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶應までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくつたとき、最初の目的が、まづ己れの欲する中味の本を、印刷刊行したいことであつた。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない、大衆に讀ませたい、ということであつた。それは、前篇でみたように、彼が幕府から捕われる原因ともなつた、流し込み活字で印刷した、「蘭語通辯」や、電胎活字で印刷した「新塾餘談」によつても、明らかである。
 この相異を、一方は職人ないし藝術家だから、一方は通辯人ないし科學者だから、とするのは、一應も二應も、妥當であろう。主觀的にみれば、それぞれ兩者の面目を傷つけるところは、みぢんもない。嘉平はけつして齊彬の命をかしこんだからばかりではない。活字に限れば、昌造の最後的完成が、外人にまつたのに比べて、これは獨創的である。日本近代印刷史における、電胎字母創製の榮譽は、嘉平の頭上にかざられて、間ちがいないであろう。しかも、これを、客觀的にみれば、兩者がおかれた位置の相異の、歴史的たらざるを得ないのを、どうしよう。嘉平の活字が、實用的には未完成に終つたのにくらべて、昌造の活字は、まさに決定的であつた。「長崎の活字」は、「築地の活字」となつて、明治以後の、日本印刷史の土臺をおいたのである。
 嘉平がいつ、活字をつくることをやめたか明らかでないけれど、その晩年を、再び木版彫刻の衰勢を挽回するために、努力をささげて、近代印刷術えゆかなかつたのは、しよせん、彼をしばつている傳統の力が強かつたからだろう。嘉平は、稀代の名彫工であつた。今日、彼の遺作遺品は、集成館に陳列されて、齊彬の命を全うしたように、彼の科學的才能と、不屈な苦心も、歴史の外側えは、でられなかつた。「江戸期の印刷工場」から「洋式印刷工場」え飛躍するには、あまりにも大きな周圍と、世界に無比な千餘年の木版印刷、文字が繪からは、獨立していない印刷、あまりにも大きな花をつけすぎた「江戸の印刷」の、傳統の重石が、彼をおさえつけたからであつたろう。