世界文化連載分、三

 一方で、「昌造の活字」のみなもとをもとめて、「上海」をさがしながら、一方では「嘉平の活字」の、てづるをもとめて、春から秋まで、くらしてしまつた。私のような場合、圖書館とか、個人の文庫とか、專門の學者を訪ねるとか、それ以外の積極的な方法を知らないのであるが、また、しばしば偶然もてつだつてくれた。昭和十八年のくれになつてから、鷺ノ宮のA・M氏から「明治文化」十一月號に「安政年間に於ける鉛活字の鑄造者、木版彫刻師木村嘉平」という題で、木村嘉次という人の文章がのせてあるが、この筆者は、三代嘉平の子孫ではあるまいか、という知らせがあつた。私は早速その雜誌を讀んだ。文章から察するところでは、嘉平の長男庄太郎が、明治になつて四代をついだが、早逝して、次男赤次郎が、五代をついだ。嘉次という人は、六代をついだかどうかわからぬが、赤次郎の子で、つまり三代嘉平の孫だというのである。
 すると、また、鷺ノ宮のA・M氏におつかけて、牛込のK・H氏から便りをもらつた。昨夜、偶然に、木村嘉次という人が訪ねてきて、嘉平の遺品數點をみせてもらつた。その一つは、嘉平活字によるリンドレー・マレーの英文典蘭譯文の扉の校正刷、その二は、蝋石材に彫刻した漢字種字、その三は、それの電胎法による銅字母、などであつて、たいへん得るところが多かつた、というのである。私はすぐ牛込にK・H氏をたづね、もつとくわしい話をきき、その足で、蒲田區に木村嘉次氏の住所をさがしていつた。
 いまはそのへん、あとかたもないだろうけれど、どぶの多い、小家のひしめきあつたところであつた。そこだけは、朽ちかたむきながらも門があり、荒れた前栽のあいだに石疊がつづき、周圍とくらべて、間のびしたかまえである。古く住んで、いつか長屋や、工場の塀などにとりまかれ、くらい家になつてしまつた、という感じであつたが、やつとさがしあてたとき、私にはそれが、どつか偶然ではない氣がするのであつた。
「よく、おわかりになりましたね」
 室に坐つていると、四十年輩の嘉次氏が、でてきた。何というのか、うこん色のような時代のついた羽織をきているが、下にはくりえりのシヤツなどきていて、ベレー帽をかぶつても似合うような、奇妙につりあいのとれた人柄にみえる。六代目は名乘つておらず、舊市内のスタヂオにつとめて、寫眞や圖案などやつているという。自身で、最近まとめた「剞※[#「(厂+(逆−しんにょう))+りっとう」]木村嘉平とその門下」という印刷物を貸してくれたり、K・H氏にくれたと同じの、アルハベツト活字の校正刷を一枚、記念のためだといつて、くれたり、また嘉次氏が、五代嘉平、赤次郎からのつたえ話などしてくれた。
「私が、幼いころには、三代嘉平がつかつていた豆電氣が、四つ五つありました。若いころ、そんなもの何とも思はなかつたので、どつかえなくしてしまいましたが、土器製のものでした。」
 土藏の床下にかくれて、活字をつくつていたとき、嘉平は豆電氣をつかつたというのであるが、何年ごろだろう?
「どんなかつこうでした?」
「こんな、これつくらいの、そうですね、中味は、よくみたこともありませんが、ランプは、いまのナシヨナル電池なぞのと似ていて、青い球のもあつたと、おぼえています」
 私は、そこで、私の宿望を、ほぼ達したということが出來る。嘉次氏は、島津家えおさめた以外、木村家に殘存している嘉平の遺作、遺品を整理していて、その全部をみせてもらうことが出來た。集成館のものとあはせて、恐らくそれは現存する「嘉平の活字」について、知ることの出來る最大限度にちかいものだといえよう。しかし、考えてみればおかしなもので、鹿兒島まで出かけていつたとき、私には嘉平の活字の存在が、まことに遠い、はるかな氣がしていたのに、嘉平の孫の嘉次氏は、じつは、私の前篇「光をかかぐる人々」をさえ、讀んでいるのであつた。
 私はひざのうえに、三代嘉平の寫眞をのせていた。はじめて嘉平の像にふれたわけであるが、もちろん晩年のもので、もうだいぶあかちやけて、色のうすくなつた寫眞臺紙の裏には「大日本東京淺草公園早取寫眞師江崎禮二製」などという字がみえるが、おそらく嘉平六十歳前後、明治十年頃とみえる。禿げあがつた前びたいのてつぺんに、丁髷のはしがのぞいていて、顏はぜんたいとしてつまつている。短かいが、ふとい鼻柱と眉毛、たかい頬ぼねとややくぼんだ眼など。一見百姓のような律義さと、一克さとがめだつ。これを本木昌造の、どつかハイカラな、鶴のようにやせて、面長な、白髮の總髮の學者風な風貌にくらべると、これはあくまで江戸職人的であつた。わざをいのちとして、日本木版彫刻史の末期をかざつた、名彫工であつた。
 さて、桐の小箱に、いろいろの形をした六種類の遺作品が、おさめてある。その一は鋼鐵パンチ。その二はパンチをうちこんだ銅字母。その三は鉛の漢字活字。その四は蝋石の種字。その五は漢字の鍍銅字母。その六は「流し込み」鑄造機の部分品であるが、このうち、一と二と三は、さきに集成館でみたところのもの。C・A・O・C・C・Rなど、パンチ六本の鋼鐵ボデイの尻が、二分角になつていて、集成館のそれとくらべると、やや異風だが、これは別段のしさいはあるまい。一ばん重要な點は、四と五にあつて、三の既成漢字活字と共に、嘉平が誰にもさきがけて、獨創的に、電胎活字をつくつたことを證據だてる、その過程を示すものであつた。
 その四の、蝋石材の種字には、「見」「矣」「孜」「釆」「尹」の五本がある。たかさ三分の方一分五厘。しろい上質の蝋石材で、既成の鉛活字とは別種の、小型であるが、これは方型で、明朝體にちかい字形であつた。その五の、漢字字母は、「天」「了」「壽」の三本。高さ三分の方二分。みたところは、字面も、ボデイも、同じくろずんだ銅であるが、これだけにみても、種字と字母は、同じたかさにつくり、活字にするときは、その二倍のたかさにしたこと。また同じ漢字でも、集成館陳列のものも、種字のものも、字母のものも、各々大きさがちがつていて、字形にも異風があることをみれば、嘉平が、いろいろにつくつてみたことがわかる。
 そこで次の問題は、漢字字母であるが、つまり、この「天」「了」「壽」の三本が、鍍銅字母であるか、どうかということであるが、その凹型になつている字面は、たしかにパンチでうちこんだものではなかつた。たとえば「壽」のような、字劃の複雜な文字が、これだけ精巧に刻印されることは、パンチ技術の傳統を、まるでもたない日本では、考えることが出來ない。のちにみるように、パンチ技術の發達したイギリス人はこれより三十年前、南方マライで、パンチによる漢字活字の創作に成功しているけれど、パンチの片假名をつくつた昌造も、漢字は鋼鐵の彫刻字母にながしこんだというし、嘉平自身、パンチによつては、アルハベツト活字さえ、しばしば失敗して、ついに電胎法えとすすんでいつたことは「本邦昔時活字創製略傳」が、語つているところであり、また漢字のパンチは一本も殘つておらず、試作した形跡もないということである。
 もちろん、私もそれを疑ふわけにゆかないが、私の知識で理解できぬのは、漢字字母字母面も、ボデイもまるつぶしのものにみえることである。鍍銅した字面の部分と、ボデイの部分との差異が、どんなにこすつてみても、肉眼ではとうてい識別できぬという點である。
 嘉平の電胎字母製法の過程は、さきにA・M氏の島津家史料のうちでもみたところだが、鍍銅された、つまり父型の臘石種字から剥がした母型銅面を、どう操作したかは、あまり明瞭にかいてない。たとえば、これを嘉次氏の「安政年間に於る鉛活字鑄造者、木版彫刻師木村嘉平」によつてみても、「——さて、ガルバニ電池によつて鍍金法を會得したので、嘉平は蝋石に種字を凸刻し、これを蜜蝋え、蜂の巣よりとれる一種の蝋の溶液えいれて直ぐ引きあげ、余分の液を刷毛ではらつて、これに銀と銅との合粉をはきかけて、電氣の良導體になし、これを電槽中に懸座して、活字母型を造ることに成功いたし、これを先に考案しておいた鑄造機にはめて、鎔鉛をながしこみ、ここに速かに活字が製作されることに成りました」とあつて、今日の私らの感じでは蝋石の凸型字面に密着した液中の銅粉が、ごくうすい凹型字面となつて剥がされ、字母ボデイのどこかにはめれたごとく思われて、ここにみる「天」「了」「壽」のような、活字のような方形まるごとのものは、まつたく想像のほかであつた。今日つくられている電胎字母も、もちろん同じ原理であるが、はがされた凹型字面は、銅よりもつと硬質の、ボデイ横面に象篏されるのであつて、ボデイとの區別は、一見あきらかだ。
「やはり、これははめこんだものでしようか」
 すかしみながら訊くと、
「そうだろうと思いますが、私も、活字のことは素人だもんですから」
 と、嘉次氏がこたえた。
 よくみれば、たとえば「壽」などは字面のまわりを、あきらかにけづつた跡があり、何かの細工をした風だが、象篏とすれば、これはまた何と巧みなものだろう。
 さらに三つめの問題は、こういう形をもつた字母を、どこにはめて、鉛を流しこんだだろう?、ということであるが、漢字の鑄造器は一つも殘つていないのであつた。私はここで、鑄造機と書かないで、鑄造器と書いたのは、それは機械というより、まだ器(うつわ)であるからだ。一八三八年、文政九年に、アメリカ人デヴイツド・ブルースの「ブルース式カスチング」が生れでるまでは、世界ぢうの鑄造機が、まだ流し込み式で、いわゆる鑄造器だから、不思議はないけれど、いま、私の眼のまえにある(その六)の鑄造器部分品は、みなアルハベツト用のものばかりであつた。三個の、赤錆びたそれは、縱一寸横六分の表面をもち、五分の厚みをもつた鐵のボデイである。縱の左右にまるい空氣穴が二つ、まんなかに活字の大きさに準じて、たとえば「i」と「O」とは、大きさがちがうように、ちがつた流し込み穴があつて、またボデイの横腹には、同じ鐵質のくさび型の割りこみがある。加熱による精度の變化をさけるため、と思われるけれど、或は、五分の厚みの内部に仕掛があるのか、それは分解でもしてみねばわからない。
「漢字の、印刷物はのこつていないんですね?」
 嘉次氏が、うなづく。
「こつちも、書物にはならなかつたんでしようか?」
 記念にもらつた、アルハベツトの試刷り一頁分をみながら、私は訊いた。扉のつぎの、第一頁めは、イタリツク風の、鮮明な電胎字母による活字であるが、元治ごろに、木版風に、ばれんでこすつたらしい印刷物であつた。
「もつと、あつたのか知れませんがね」
 嘉次氏は、それには答えずに、私にくれたのこりの、二三枚の試刷紙片を、たたみにひろげている。三頁めまでしかない、アルハベツトの試刷の紙片は、順を追うていて、散逸したとしても、本にはならなかつただろうことは、容易に推察できるが、これは十餘年の、嘉平苦心の結晶であつた。
 しかし、殘された問題は、まだいくつかあるにせよ、嘉平が、獨創的に、電胎活字をつくつたという事實は、もはや明らかであつた。「天」「了」「壽」の、パンチでもなく、彫刻ではもちろんない、三本の銅字母と、「見」「矣」「孜」「釆」「尹」の五本の臘石種字。これは電胎法を前提せずには、その存在が考えられない性質のものであつた。嘉平が、電氣という科學を、どれほど身につけていたものか? 土器製の豆電氣というのが、どんなものだつたか? 青い球もあつたというランプが、もう、安政の開國以後であるにしろ、日本では出來なかつたのだから、どんな勢力の、どんな歴史の裂けめをぬうて、嘉平の手まで、はこばれてきたろうか? それはいまの私に判斷できぬけれど、一世紀をへだてて、いま眼前にある、ちつぽけな金屬の數々は、思いがけない、幕末と明治維新の一面が、ぽつかりと出てきた氣がする。
 嘉平は、いつ、この電胎活字をつくつたか? という四つめの問題。前節以來みてきたところの懸案は、やはり、ここでも明らかにすることは出來なかつたが、この英文典蘭譯文の試刷の出現によつて、あらまし、次のことは明らかになる。つまり、嘉平が、パンチ技術に不便を感じて、電胎法習得に苦心したのが、萬延元年以後元治元年までの、足掛け五年であつて、それの成功した元治元年に、最初につくつた活字が、齊彬の命によるように、アルハベツト活字であつたということ。したがつて、漢字の活字は、その以後、少くとも元治元年以前ではなく、元治より明治初年えかけてである、ということだ。昌造の製作が、明治二年から四年えかけてであつたから、嘉平の活字は、アルハベツトの電胎活字では、六年ばかりをさきがけ、漢字の活字では、或は大して距りはなかつたかも知れないけれど、嘉平のそれは、まつたく一日本人が獨力でつくりあげたものである、という點に異色があつた。活字の形式、木版式の異風さと、活字だけが電胎式という近代さにかかわらず、印刷手段は、ばれん刷りという、プレスも何も、近代的な附屬品がまるでない、というところに、そしてここにこそ、歴史的因果の弱みがあつたのだけれど、逆にいえば、舶來ではなかつたという、證據があつた。
 私は讀者にうつたえたい。日本に電胎活字が誕生したということ、漢字の鉛活字はフアラデーの法則發見による、電胎字母の製法なしには、それが不可能だつた、ということをふくめて、それが、日本の文化にとつて、それが、文化の中樞神經であつたという點で、どんなに重大なことだつたか、ということである。のちにみるような、元治元年より三十餘年前、天保のはじめ頃、英米人によつて、パンチの粗末な漢字活字がつくられ、マライ半島から、東南アジアの海ぞいにのぼつてきて、上海から、長崎えと、明治二年に到着するまでの、困難な、遲々とした過程にみると、嘉平の電胎活字は、いきなり、山が火を噴き出したほどの出來事であつたのだ。
 つぎに五つめの問題は、嘉平は、その生涯で、どれくらいの活字をつくつただろうか、ということであるが、これは、あらまし見當がつく。アルハベツト活字は、本にはならなかつたが、少くとも數頁に足るものが、つくられ、漢字活字は、試刷としたものもないけれど、やはり數頁分がつくられた。嘉平は晩年、活字をつくることをやめて、再び木版彫刻の世界にもどつて、木版藝術の再興に努力しているが、それは庇護者島津藩の解體というような事もあるだろう。いづれにせよ、彼が活字をつくつたのは明治初年までであるが、神田小柳町以來、幾度か移轉をし、つくつた活字や、その他電氣分解用具なども四散している。たとえば、嘉平の末つ子である赤次郎が、明治四十年に、島津家え、遺作の一部をけん納するとき、心おぼえに記したという目録のその總體にくらべても、今日、嘉次氏の手許にあるのは、五分の一にも足りない。ついでに、赤次郎手記の、ノートの目録をしるしておくが、このうち「電氣版三個」とあるのも、今日はない。
 
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(一頁め、鉛筆文字)
鋼、A EOJCfiViaLcekG
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(註、これはパンチらしく、朱肉で捺してあり、印刷體、書體、大小混合)
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鉛製歐文十三 未製五個
和文鉛製七個
電氣版三個 既 蝋石十二個
[#図版(xxx_01.png)] 三個
鋼鐵種字未形七本 九本
字母 十個
銅製
 鑄造機ノ下部一個伊藤氏ヨリ受入事
 (二頁め毛筆文字)
蝋石約八百九十 貳百八十 貳百貳十 八百七拾二 三百拾七
三百
 貳千八百七十九個
 外二五個
八百九十 内 既成分三百〇三(まま)個
未製五個○(一字不明)
 石材 二十三個
二百八十 内既成分 三十二個
     石材 三個
五百十七 既成 三十三個
     石材 四十三個
三百   既製 七個
     石材 二個
植字機箱入 鉛製活字
百廿八 百六十七 高サ六分 幅二分五厘
内方二分ノ面積ノ活字、天地一分ナリ
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 以上、私にもわからぬところがあるが、後日のために紹介しておく。