世界文化連載分、二

 數日後の曉方、弟の遺族にわかれた私は、鹿兒島驛に着いた。まだ眠りからさめてないような驛前で、小さい喫茶店をめつけて、つめたいパンと、規格コーヒーというのをのんだり、便所わきの水道栓で顏を洗つたりしたが、それでもまだ七時である。
 紹介状の名宛は縣廳のTという人で、九時にならなければ役所は始まらない。私は時間をつぶすために、人氣の少ない大通りをあるいた。流石南の國だけあつて、霜ツ氣もなく、道路はほこりつぽい。辨當をかかえた、どつかの給仕らしいセーラー服の少女が二人、裸の足に下駄ばきで、竹のようにまつすぐに歩いてくるのがある。
 電車路をきれて、坂道をのぼつてゆくと、それが城山で、もう櫻が三分ほど咲いていた。西郷隆盛が自刄した場所といわれる小岩峠谷も、あんがい小さな谷の凹みであつたが、頂上の見はらし臺えでると、正面の海にうかんでいる櫻島とむかいあいになり、霧にかすんだ遠くは茫々としている。右手の丘陵の起伏も、左手の山々も、その突端は海に消えてしまい、足の下の斜面から、鹿兒島市の家々が、海にむかつて手をひろげながら駈けこんでいる姿勢であつた。
 霧は速くうごいていて、みるうちに海はひろくなつてゆく。地圖でみると、これが櫻島をまんなかに抱いた鹿兒島灣である。右手の丘陵は長崎鼻開聞岳のある灣入口の突端にとどき、左手の山々は、まだ霧のためによくみえないが、大きく櫻島のうしろを廻つて、左多岬に至る筈であつた。開國なしには、日本の活字は誕生しなかつたが、この鹿兒島灣は、日本開國史に縁がふかい。いまから約九十年前の文久三年には、「生麥事件」につづいて、イギリス艦隊がこの灣にはいつてきた。櫻島を包圍し、沖ノ島砲臺に砲彈をあびせ、足の下の鹿兒島市街のどれだけかが燒かれた。それよりさらに二十年前の天保末年には、西洋の科學者たちをのせたモリソン號が、江戸灣からおはれて、ここえきた。武裝してないアメリカ船は、兒ケ水村沖合で砲撃をくつて、追いかえされている。華山、長英などの「蠻社遭厄事」の發端をつくつた出來事であるが、さらにさらに二十年前、文政六年ごろにさかのぼると、イギリスの捕鯨船水夫たちが、灣入口にちかい寶島え上陸してきて、島津藩士に、その一名が銃殺されたことがあつたりする——。
 日本の南端、とおく東支那海へむかつて、蟹のはさみ足みたいにひらいたこの灣は、歴史にのこらぬものをふくめると、そんな事柄が無數にあるようであつた。江戸灣よりはもちろん古い。スラヴ民族や、ヨーロツパの帆前船が、太平洋を發見してからの繪鞆、いまの室蘭よりも古く、織豐時代に草分けした長崎灣よりも古かつた。いわゆる「きりしたんばてれん」が、はじめて日本の土地をふんだのもこの土地だし、鐵砲が渡來したのもこの土地だつた。この灣から出る船は、島づたいに琉球へ達し、臺灣へ達し、ルソン島へも達したのである。この灣の領主だつた島津は、藤原時代以來といわれて、隣國肥後との國境の九州山脈が鐵壁となつて、「二重鎖國」の傳統を保ちつづけていた。島津は、一度も天下に號令したことはなかつたが、また、一度も中央の將軍たちに、しりまではたかれたことはない。はるばる九州征伐の大軍をひきいてやつてきた秀吉でさえ、ようやく水軍の一部を、小内川の河口まで近づけただけで、山のむこうから軍をひきあげていつた。つまり、この南の端の國は、どの幕府時代にも、獨自なつらがまえで存續し、南へひらいたこの灣は、たぶんは記録にものこらぬ歴史のかずかずを、關東へんとはだいぶんちごう、濃藍色の海の底ふかく祕めているのだろう。
 しかし、今朝の鹿兒島灣は、まつたく知らん顏している。太陽がのぼるにつれ、霧がうすれてゆくにしたがつて、今日ただいまの顏をしている。右手の海面ぞいに、方形の飛行場がみえ、岸壁ちかくに二本煙突の、武裝した黒い汽船がうごかずにおり、シートのような灰色のおおいの間から、長い砲身が空をあういでいる。櫻島の上空あたりも晴れてきて、五つばかりの戰鬪機が、キラリ、キラリと銀色のつばさをひるがえしている……[#「……」は底本では「‥‥」]。
 やつと、腕時計が九時を指すのをまつて、縣廳にいつたが、名宛のT氏はまだ出勤していない。女の給仕に紹介状をあづけ、ひとりで磯屋敷にゆく旨をつげて、また驛前からバスに乘つた。背のたかい防波堤にそつて、九十九折のあぶないカーヴを、踏段まで乘客をはみださせながら、はしつてゆく。さつき山の上からみた鹿兒島灣を、左手の海岸にそうてはしつているのだつたが、バスのなかもだいぶ空いてきたころ、女車掌に注意されて、私はある松林の入口におろされた。
 山裾の斜面が、少しばかり平らになつているところで、松林のあいだの小徑を半丁ばかりあるくと、正面に古風な洋館がみえてきた。受付らしい小窓のむこうに、本を讀んでいる坊主頭がみえたので、私は來意を述べた。すると、胸をはだけた素袷に、股のひらいた縞袴、素足に竹の皮ぞうりをつつかけた、いわゆる「薩摩つぽ」らしい青年は、私の説明が終らぬうち、大きな聲で云つた。
「五錢——」
 入場劵の大きな木札を、ばたんと窓口につきだしてから、もう視線は本の方えもどしながら、いま一口だけつけくわえた。
「入口は、つきあたつて右——」
 數日がかりでやつてきたので、拍子ぬけであつたが、なるほど、ここは公衆のためにひらかれている陳列館であつた。しかし、それにしては何と森閑とした陳列館だらう。入口にちかい室には、おそろしく大ぶりな蒸汽動力機や、紡績機械の一部分や、大型な旋盤機やがならべてある。それぞれに附けてある立札の説明文で、簡單ながらそれが幕末ころ、イギリスから渡つてきたものだとわかる。齒車や補助動輪やの圖ぬけて大きい、間のぬけた感じも一世紀の時間を語つているが、さてかんじんの「嘉平の活字」はなかなかめつからない。
 第二室はもつとひろく、ガラスの陳列棚のうちには、いろんなものがならべてある。白鮫鞘に黄金目貫の、島津何々公の鎧どほしだとか、また何々公愛用の、黄金皮地の采配とかいつたものは、ありてい私に興味がないが、氣がついてみると、さつきから、このひろい陳列館にいるのは私一人だつた。ときどき、窓越しの樹間をとんでいる小鳥の影が、陳列棚のガラスにうつつたり、松林のむこうから、ふだんに波の音がきこえている。
 東京から三百餘里、日本の南端の、こんな場所にある陳列館で、參觀者が私一人であつたところで、不思議はないようなものの、この海ばたにこそ、日本で最初の近代文明の機械類が到來しているのであつた。紡績機械の運轉、鐵の製煉、そのほか硝子の製造も、洋式造船も、幕府にさきだつて行はれたし、「東京」にさきだつて、瓦斯燈もつけば、電話も試みられたのである。明治の維新というものが、島津などの勢力なしには考えにくいとするならば、幕府よりも先んじた、これら島津の近代科學は、それとどういう關係になるだろう? さらにまた、この陳列館そのものが表現している。「何々公の鎧どほし」とか、「何々公愛用の黄金の采配」といつたもののうちに、蒸汽動力機や旋盤機などの近代科學の粹がむすびつけられているようなイデオロギーは、日本の近代歴史とどんな關係があるのだろう?。
 などと、ぼんやり考えている私の眼のなかに、ふと、陳列棚のなかの、毛筆でかいた大きな洋文字が映つてきた。美濃判型の、もう黄ばんだ和紙に、四つのオランダ語が書いてある。春・夏・秋・冬と、これは小さい日本文字を四隅にかいて、春の上には“Lente”と、大きく書き、秋の上には“herfot”といつたぐあいに。またそのオランダ文字の横には、片假名で、たとえば“Lente”なら「レンテ」と、發音を書いてある。幼いけれど熱心な洋文字であるが、それとならんだ、いま一つの黄ばんだ和紙にも、ローマ字がていねいに書いてあつて、“Yo ro ko bi ki wa ma ri na shi”と讀むことが出來る。そばの説明文に(島津重豪公御筆、紅毛字五枚)とあるから、長崎のオランダ商館長ヅーフなどを可愛いがつた、齊彬の先々代重豪の手習草紙にちがいなかつた。
 重豪のころには、カピタンも江戸えゆくと、薩摩侯の門前だけは駕籠をおりて歩いたと、何かの本でみたけれど、この“ヨ・ロ・コ・ビ・キ・ワ・マ・リ・ナ・シ”と、一字づつあけたローマ字は、ほんとに重豪の心がおどつているようであつた。そして、洋文字は重豪ばかりでなくて、こんどは齊彬の洋文字日記がならんでいる。和綴ぢの部厚い帳面に、しんかき風のこまかい毛筆で、なかなか達者な、ローマ字文章がつづつてあつて、かたわらのながたらしい説明文には「公、夙ニローマ字ヲ習得シ、祕密ノ文ニハ之ヲ使用セラレタリ、本書ハ嘉永初年頃ノ御日記ナリ」というところがある。陳列棚にひろげられた部分のローマ字は、ある日重臣たちが登城してきて、會議をひらいた模樣をのべたものだが、文字が小さくて、くわしくは讀めないけれど、もう重豪の“Lente”などとは趣きがちがつて、充分に實用化された筆づかいであつた。齊彬がどれくらいオランダ語を讀む力をもつていたのか知らないけれど、嘉平の電胎活字に影響を與えたろうといわれる川本幸民を、他の大名からもらいうけたのも齊彬だつたし、幕府の眼をぬすんで、和製のオランダ書物を作ろうとくわだてたのも齊彬だつたのだ。オランダ書物を日本語にほんやくしないで、和製洋書をつくろうとしたのが、封建大名的な祕密主義によるものか。それとも日本文字の鉛活字の製作が、アルハベツトよりもむづかしいので、そうしたのか。あるいはもつと遠大な、ローマ字やアルハベツト文字の普及という意味から、そうしたのか。そのへんの判斷は重大で、史家にのこされた今後の、大きな課題の一つにちがいない。いわゆる「蘭癖(らんぺき)大名」という言葉があつて、重豪、齊彬、などその代表的な人物として、幕末當時はもちろん、昭和の今日の史家のあいだにも、それでとおつているけれど、明治の維新と、島津がしたいろんな科學事業と、この文事的な仕事とが、無關係でなかつたとするならば、それはあまりにうかつなような、そしてうかつ以上な、歴史的ニユアンスがただよつているではないか。
 みわたしたところ、數ある陳列棚で、刀劍武具類が、一ばん多い。一とめぐりして、また「ローマ字日記」のあるガラスのまえにきて、足をとめたが、この上は、さつきの青年にでも、嘉平活字の所在をきいてみるよりないとおもつて、そこを動きかけたとき、一ばん下の隅に「紅毛字五枚」のかげになつているところえ、六七寸ばかりの木枠にはいつている、えたいの知れぬものをめつけた。ほこりをあびた、小さい金屬らしいものの群がならんでいて、そばの小さい木札に「安政年間、齊彬公ノ命ニ依リ、木村嘉平ノ製作セル鉛活字」という文字を、よむことができたのである。
 しやがんで、顏をおしつけてみると、それらの小さい塊りは、みんな、くろくて鈍い感じの、鉛のようにみえた。一ばん多いのは、舊號活字の二號くらいの漢字で、一樣に楷書體であるが、それも私などが印刷工時代に、かつてみたことのない、獨特の楷書體であつた。そのほかにはA・M氏のところで寫眞でみた、木綿針のように細ながいのがめだつて多く、尖がつた方の表面は、どうやらアルハベツト文字が刻んであるらしい。しばらくガラスに鼻ばしらをすりつけていたが、ガラスはもちろん、鍵がかかつていてあかない。
 私はさつきの青年のところへ行つて、戸をあけてみせてもらえまいか、とたのんだ。青年は、私を別室にいる館の主事らしい老人のところへつれて行つた。私は名刺をだして、東京からやつてきた目的をのべ、同じことをくりかえした。くろい事務服を羽織つて、眼鏡をひたいにのせている痩せた老人は、名刺をひねくりながら、いつこくらしく默つていたが、くりかえすうちに、だんだん信用してきたらしく、テーブルの抽出から、大きな鍵束をとりだすと、じぶんでさきにたつて、陳列棚のまえにきてくれた。
 硝子戸があいた。老人と青年が、監視のために、私の左右にたつている。私は嘉平の活字を一つ一つ、窓ぎわのあかるいところえならべてみたが、活字に類したものは、都合四種ある。一つは前記の漢字活字。二つは木綿針のように細ながいもの。三つはごく小さいくさび型の金屬。四つはこれもごく小さい、舊號活字でいうなら七號ほどの、ノンブル用の洋數字活字である。
 私は私だけの知識で、まづ木綿針[#「木綿針」は底本では「木棉針」]のようなものから鑑定しはじめたが、これは長さ(カネ尺)一寸九分五厘で、尻にあたる表面はタテ一分五厘、ヨコ一分強。頭にあたる表面はとがつていて、大きさが一本毎にちごう。つまり、表面に彫つてある文字のちがいによつてちがつている。たとえば“o”は、“t”よりはまるくて大きい、といつたぐあいである。私はそのボデイをこすつてみたが、だんだんに白く光つてきて、それがやすりのあともあざやかな、鋼鐵だということがわかつたが、これは疑ひもなくパンチ(押字器)であつた。
 そしてそれがパンチだとわかれば、つぎの小さいくさび型の金屬片も、すぐ理解できた。これもこすつてゆくうち銅であることがわかり、長さが五分、尻の表面がタテに一分二厘弱、ヨコに一分強で、頭の表面がタテに一分五厘、ヨコに一分強。つまり、頭の方で扇子のようにひらいていて、表面に“t”というアルハベツトが、凹型にきざまれてある。パンチ(押字器)の方の頭は、文字の種類によつて大きさがちごうが、この方は、みな同じ寸法のタテとヨコとをもつていて、一定の大きさの部分にはめこまれ、ながしこまれた溶鉛に、こんどは逆の、凸形の文字面をきざむわけであろう。いうまでもなく、このくさび型の銅ボデイが字母であつて、木綿針のような“t”なり、“o”なりの鋼鐵の凸文字を、うちこんだのだ。
 パンチの數は、みんなで二十三本あり、なかには同一文字が三本もあつたりするから、アルハベツト二十六には不足であるけれど、それはきつと一世紀ちかいうち、紛失したり破損したりしたので、嘉平は幾通りもこさえたのだろうと想像できるが、これらは前にみてきたように、嘉平活字の初期にぞくするものだとわかつた。白く光る鋼鐵面にきざまれたイタリツク風のアルハベツト文字の、手わざの巧みさと丹念さ! すべて機械化された時代に育つた印刷工の私には、おどろくだけであるが、このとき、パンチによる銅字母製法は、グーテンベルグ以來、西洋では五世紀の歴史をもつていて、パンチの彫刻も機械によつていたのだが、嘉平はそれを手わざで彫つたのであつた。
 ところで、不可解なのは、漢字活字であつた。この獨特な楷書體の活字は、もちろん鉛のボデイで、すでに製品であつた。長さが五分。頭の、つまり文字面を中心にしていえば、上下が二分で、左右が二分五厘。ひらべつたい活字であるが、これはどうみても彫刻活字ではない。たとえば「人」とか「之」とかいう文字は、同文字がいくつかあるが、くらべてみると、同一字母によつてつくられたと判斷するよりないし、また「鶴」とか「矣」とかいう、字劃の複雜な活字をみても、パンチの字母では、これほど精妙に出來る筈がない。私の鑑定では、これはまぎれもなくガラハニ、電胎法による活字であつた。
 私はおどろいた。そしてこまつた。この漢字が電胎活字だとすると、いまのパンチによる銅字母との段階から、あまりに跳躍しすぎている。つまり、パンチ技術から、電胎技術えのうつりゆきをする過程が、ぽつかりあいている。私は數すくない嘉平遺品を、いくどもならべかえてみたが、その中間がわからない。「昔時本邦鉛活字創製略傳」にみる、蝋石に凸型の文字を彫り、銅銀分を刷きかけて良導體とし、電解作用で鍍銅して、ある厚みをもつた銅の、逆の凹型面をはがして、字母を得た、という記録の、蝋石凸型種字も、はがされた電胎字母も、ここにはまるで無いのである。漢字活字に關するかぎり、かりにパンチとすれば、そのパンチも、パンチ字母も無いのである。
 いま一つ、こまるのは「昔時本邦鉛活字創製略傳」は、齊彬の命で、最初にアルハベツト活字をつくりはじめた年代は明らかにしているが、漢字はいつごろ作りはじめたのか、それを明らかにしていないことであつた。嘉平は明治十九年、六十四才で死んだ人であつて、のちにみるように、その晩年は、再び木彫界にもどつて、江戸期木版藝術の掉尾をかざつた人であるから、活字をつくる仕事は、たぶん幕末期うちか、明治もごく初年のあいだにかぎられている筈であつた。この漢字活字が私の判斷のごとく、電胎活字にちがいないのなら、「昔時本邦——」がいう、電胎法を習得した元治元年以後だくらいはわかるけれど、そのとき最初につくつたのが、アルハベツトだつたのか、漢字だつたのか?。アルハベツト活字では、のちに發見されたように、その印刷物があるけれど、漢字の方は、そんな手がかりもないのである。
 しかし、いづれにもしろ、この漢字の群が、電胎活字であるという私の確信は私を昂奮させるのである。これこそ、日本近代活字の誕生であり、そのヘソの緒である。私はそれをかぞえて二百九十七本あることを知つた。それは獨特な楷書體である。ボデイのたかさも獨特で、今日のそれからみれば桁はづれに低く、こんなひらべつたい文字はかつてみたことがない。日本でもつとも古い鉛の活字は、大鳥圭介がつくつたもので、上卷でみたように「築城典刑」に使用しているが、彫刻の、四角い文字であつた。本木昌造は明治二年から四年へかけて、電胎活字をつくつているが、彼の「秘事新書」にみるように、四角い、上海系統の、明朝體にちかい文字であつた。
「嘉平の遺作というのはこれだけでしようか?」
 すると、だんだんに好奇心をもちはじめたらしい、老人の主事は、微笑しながら首をふつてみせた。
「何か、記録といつたようなものも、ありませんか?」
「ない」
 これ以上、とりつく島もなかつた。いつまでも、老人と青年を、たちんぼさせておくわけにもゆかなかつたので、私は禮をのべて、嘉平遺作を、もとの場所にもどしてもらつたが、再び、鍵のかかつた陳列棚によつかかつて、考えた。私は、何よりもまづ、これが電胎活字であるという確信を裏づけるような、その道ゆきを明らかにすることが必要だ。つぎには、いつつくられたか? という判定、その二點であるが、前篇以來みてきたように、「江戸の活字」は、「長崎の活字」にくらべて、國内的な特徴がある。地下室で、ろうそくの灯をたよりに、秘密のうちに誕生したような、探偵小説めいた匂いがする。
 二百九十七本の、日本文字をながめているうち、これはたぶん、まだ印刷物をつくつたことがない活字である、という判斷が、私の頭にうかんできた。これには假名文字が一本もないが、漢字だけの書物を印刷するにしても、バライテイがなさすぎる。漢字の種類がかたよつていて、短かいものにしろ、一編の記述を表現するには、その骨格がない。それから、いま一つ、特徴的なことは、方七寸ばかりの木枠にならべられた活字のぐあいに、一見して木版流義のあることだつた。活字の文字面の配列には、何の文意もでていないけれど、嘉平は、何かの書物をみて、その文字順につくつたような形跡があり、木枠のたかさ、活字の桁はづれの低さにみられるように、これを木版流義に、ないしは木活字版流義に、ばれんででも、こするつもりだつたらしくみえる。
 嘉平は、いつたい、どんなシステムで漢字活字をつくつたろうか?
 秀吉の「朝鮮征伐」のときの「分捕品」と、家康新鑄の銅活字(いづれも彫刻)によつて、古文孝經が出版されたとき以來、まだ日本の漢字活字の配列にシステムはなかつた。それは西洞院その他の公卿たちが、「お湯殿日記」でみる、銅活字の文撰をしたときの、容子でも判斷できるし、上卷で見てきたように、支那印刷術の歴史からも、判斷できる。以後の、日本の木活字版時代にも、原稿の文字や經驗によるよせあつめや、恐らく漢字々引にたよるほどにも、發達した形跡はみられない。日本の木活字が、銅活字以後の、わづかの時代だけ發達をみて、出版物がさかんになつた江戸中期以後は、再び木版が盛んになつたという事情は、木活字が凸凹になつたりいびつになつて、使用しにくいというほかに、システムがなかつた、ということも原因しているのかも知れなかつた。
 印刷術の歴史にあつて、活字の文字の配列に順序が形成されたということは、まことに重大なことであつた。もちろん、それは西洋においてでなく、東洋においてであつた。漢字を中心とするアジアでは、木版が、數千年の歴史をもつていた。そして、木版に漢字のシステムは不要であつた。木版の世界は、まだ「繪の世界」から遠くない。つまり、「伴大納言繪詞」から、足を洗つたものでなくて、文字は獨立していなかつた。もちろん、讀むこと、書くことの世界では、康煕辭典以來、それが出來たけれど、印刷術における漢字のシステムは、おのづから別な道行をもつている。漢字の故郷、支那にあつての木活字や銅活字が、このシステムをつくりださうとして、どう惱んだか? また、マライ半島のペナンで、はじめて漢字の鉛活字が誕生して以來、このシステムをつくりだそうとして、イギリスやアメリカの新教宣教師たちが、どう苦心したか? それは、このあとでみてゆくところだけれど、漢字の活字にあつて、システムの形成は、大變なことであつた。そして、漢字という文字がもつ運命は、數千年という木版印刷の歴史をつくつたのだけれど、フアラデーの法則完成によつて、漢字活字が解放されるとき、木から金屬え、飛躍するとき、それは當然、おこるべき問題だつたのだ。
 嘉平は、この問題に、どれくらいぶつつかつているだろう? 二百九十七本の活字の群は、木版流義であつた。一世紀ちかい歳月のうちにみだれてしまつているけれど、この二百九十七本は、各々ところをうれば、これだけで、一つの文章を成したものらしくみえてくる。一つの原稿、一つの書物の、文章の順によつたらしくみえてくる。一つの字母から、一本つくつて、字母をたんびにとりかえながら、文章づらを、おつていつたらしくみえる。そして、ある頁の、何分の一かを、鑄造し、配列したままで、未完成におわつたものらしく、判斷された。つまり、まだ、ガラハニ活字が、木版システムにおさえられている——のだが、それは無理のないことと思えた。漢字の世界は、海のようにひろい。コロンブスも、最初から航海圖をもつて、アメリカ大陸を發見したのではなかつた。航海圖は、誰かが最初の航海をした經驗で、できるのだが、世界無比の木版藝術をうみだした、日本印刷術の歴史の重みは、したがつて、冒險的な航海を、たやすくは許さなかつただろう。
 しかし、と、私はまた考えるのである。嘉平は、心中、どんな形でか、この問題にぶつかり、惱んだにちがいない。何故なら、彼は最初にアルハベツト活字をつくつたではないか。それは日本の假名よりも、かんたんに組織されている。蘭書の一頁もみれば、廿六の文字のうち、どれが一ばん多く使用され、どれが一ばん少く使用されるか、二つ以上を組みあわせた、東洋文字には例のない合成文字のゆえんや、つまり、じつさいの讀みや書きに對應している、廿六文字の配列のシステムが、おのづからうかんでくる筈であつた。金屬の活字は、木版の文字のように、原稿の文字によつて、終局の運命を支配することがなかつた。獨立し、生命をもつ、金屬活字は、彼の居場所をもつていなければならなかつた。すばやく出ていつて、幾册もの書物を克服し、すばやく戻つてきられる、もつとも適當な居場所が與えられなくてはならない。嘉平の活字は、最も近代的な、ガラハニ活字ではないか。——
 私は主事の老人たちに禮をのべてから、松林をぬけ、バスのかよう海つぷちえ、もどつてきた。岩石をきりひらいたせまい道路は、波のしぶきにぬれるほど、斷崖のうえにあつた。私は、バスを待つ間、岩角につかまりながら、ぼんやり海をながめていた。つい、聲がとどくばかりのむこうを、さつき、城山の上からみた黒塗りの武裝汽船が、後甲板に、三十度くらいの角度で、二つの砲門を空えむけたまま、はしつている。何の訓練なのか、雲のきれめをぬいながら、戰鬪機が四つ五つ。かわるがわる、マストすれずれに急降下してくると、こんどは、つばさをひるがえして、武裝船とともに、あわだつ浪がしらのむこうに、みえなくなつたりする。
 私は興奮していた。はるばる南の端えきて、“嘉平の活字”は、さらに大きな課題をおしつけた。忽然としてあらわれた電胎活字!その中間の過程を語る彼の遺品は、いま日本のどこにひそんでいるのだろう? 私はそれを探さねばならない。風はあるが晴れている海は、正午ちかい太陽をはねかえしながら、眼を痛くするけれど、私に不滿はなかつた。
 一度、防波提の曲折の、遠くの突端に、青バスの背がみえたが、また山かげにかくれて、こんどはなかなか姿をみせない。いま出てきた松林をふりかえつて、潮風にうそぶく松の枝鳴りを聽いているうち、ふつと、私の眼のまえに、あるシーンがあらわれた。松林も、陳列館も、忽然と消えて、右手の、樹木におおわれた山の崖は、いま切りさかれたばかりの赤肌をみせている。地ならしされたひろい山裾の、その中央に、赤れんがとガラス窓のめだつ、工場風の新らしい建物があつて、それを背景に、山高帽をかぶつた、頬ひげのながいヨーロツパ人が三人、その左右や、うしろに、背割羽織を刀の尻ではねた、陣笠かぶりの武士が六七人、それぞれ、大げさなポーズでたつている。防波提などはない、いま私がたつているへんの、岩石の多い波打ちぎわには、すねを出して、わらぢをはいた澤山の人夫が、何かをかついで、工場風の建物の方へ、せつせとはこんでいる。——そうだ、このエキゾチツクな、めづらしいシーンは「日本封建社會の崩壞過程」という書物の、扉にある寫眞であつた。安政年間に、島津が、紡績機械を買入れて、いまは松林になつた、この海つぷちで、工場をはじめたときの、日本ではもつとも古い寫眞の一つであつた。
 百年前のシーンは、たちまち消えうせたが、不思議な氣はしなかつた。一世紀。それは昨日のような氣がする。海の方から、戰鬪機の急上昇する爆音がひびき、武裝した船は、波のあいだにマストだけみせている。今日、ただいまのこのシーンと、錯覺めいた百年前のシーンとの間には、森としてしづまりかえるような、はげしい歴史の血が、大きな弧をえがいて、つながつている氣がするのであつた。
[#ここから1字下げ]作者ことわりがき——篇中、ごく一部分、科學雜誌に拔すい發表したことがあるが、こんどすべて書き改めた。[#ここで字下げ終わり]