世界文化連載分、一

 昭和十八年三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京發鹿兒島行の急行に乘つていた。伴れがあつて、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあつてこしかけているが、厚狹、小月あたりから、海岸線の防備をみせまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戰備で、すつかり形相のかわつた下關構内にはいつたころは、乘客たちも、洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえつた顏色になつている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和廿三年夏である。讀者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上卷を讀まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年からだから、まもなく一と昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとつては、十年という月日はちよつとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかつてきているが、それでも、鐵かぶとに卷ゲートルで、サイレンが鳴つても、空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつゞけていたころとくらべると、いまは現實の角度がずいぶん變つてきている。弱い歴史の書物など、この變化の關所で、どつかえふつとんだ。いまの私は半袖シヤツにサルマタで、机のまえにあぐらでいるけれど、上卷をよみかえしてみると、やはり天皇軍閥におされた、多くのひづみを見出さないわけにはゆかない。歴史の眞實をえがくということも、階級のある社會では、つねにはげしい抵抗をうける。變つたとはいえ、戰後三年經つて、ちがつた黒雲が益々大きくなつてきているし、新らしい抵抗を、最初の數行から感じずにいられぬが、果して、私の努力がどれくらい、歴史の眞實をえがき得るだろうか?。
「ほらほら、母ちやん、あのくろい箱、ひとりではしつてくるよ」
 海底トンネルを通過すると、同じ冬景色ながら、南の國らしい風物がめだつてくる。海邊一帶に擴大された無數の工場、ヨナのように、大小の煙突がふらせている煤煙の下でも、畑には青々とした野菜があつた。列車が通過する踏切などで、遮斷機にせかれた職工たちの群れや、バスの窓からはみだした女工員たちの、襟卷や衣服に黄や赤の原色好みな、九州らしい色どりがある。
「ねエ母ちやん、ほら、あの箱さ」
 戰死した弟に似て、大柄な甥は、ある大きな工場構内で、空中架線をつたわつて鑛材らしいものをはこんでいる黒い鐵箱の列をめつけだして、となりの母親をゆすぶつているが、後家になつてからめだつて痩せた弟嫁は、腰掛のひぢにからだをささえたまま、眼玉をうごかしただけである。
「あれはね、電氣でうごいているんだ。小さい電車だね」
 かわつて教えてやると、
「なアんだ。でも、運轉手がいないじやないか」
 まだねつしんに、おでこと鼻を、ひらべつたくなるほど、窓ガラスにおしつけている。これの父親はコレヒドール總攻撃の少しまえ、アボアボ川畔の戰鬪で戰死したが、二才のときに別れたので、父親というものを知らない。一週忌に當るので、遺骨の一部分を郷里の熊本にうづめるため、私もこの母子と途中下車するのだけれど、東京をでるときから、これだけは網棚にのせないで、からくさ模樣のふろしきにくるんで、甥が肩からはすにしよつていた。眼の下にせまるかと思うと急にうしろしざりする海ばた、だしぬけに耳をつんざくような鐵橋のひゞき、一瞬ごとにおどろいている七歳の横顏に、もう小さいながら歴史の凹みが出來ている。
 戰爭中の列車は、一晝夜をこえる永旅でも、朝夕の空氣にけぢめがなかつた。くらい、口をふさがれたように物音のひくい夜の驛から、やがて汽車がうごきだすと、となり側の腰掛には、白い木箱を首からつるした新らしい顏が、もくねんと坐つていたりする。停車する驛々にも二人三人と、赤だすきをかけた應召者がいて、構内の柵の外では小旗をうちふる人の群もみえる。汽車の窓からみえぬように遮ぎられたトタン塀のすきまから熔鑛爐の炎がのぞいたり、炭塵と虹色の油でよごれた海岸ぞいを、フロートをつけた銀色の戰鬪機がなめるようにひくく飛んでいる。——勝つてくるゾと勇ましく——などと、夜のうち、母親のひざでよく眠つた七歳の男の子は、ガラスをたたきながら元氣にうたつているが、不思議と私は、この緊迫した空氣のうちで、“嘉平の活字”などさがしまわつている自分の氣持が、ちよつともちぐはぐでないのを感じている。「大東亞」などと、一方的な名前の戰爭のうちに織りこまれている何億かの人間の多くが、こんどの戰爭について、その外側からは何一つ語ることが出來ない。この戰爭がどんなわけのものであるか? 知つている人も、知らない人も、同樣におし流されている。夫や伜やをうしなつた多くの人々と一しよに、自分も肉親のものを失つた痛みをこらえて、おし流されている。何という無數の、ぼう大な歴史の凹みであるだろう。知られざる犧牲! 階級のある社會の歴史は、いつもこの凹みを凹みのままでのこしてきたけれど、若し歴史というものが、過去の實態をほりおこして、未來えつなぐ役目のものであるのなら、知られざる犧牲にこそ、聲をたてさせねばならぬだろう。
 私は懷ろに、歴史家でA・Mという人の紹介状をいれている。これで鹿兒島の集成館にある嘉平の遺品をみようというのであるが、さて私は上卷で、日本の近代活字の歴史と、その創造に功勞のあつた人々をさがしてきた。ことに「長崎の活字」でよばれ、「日本の活字」の始祖といわれる本木昌造を中心にして、「江戸の活字」でよばれ、日本で一ばん最初に、ガラハニ(フアラデー法則による電胎法)の鉛活字をつくつたといわれる、江戸神田の彫刻師木村嘉平にも、いくらかふれてきた。しかし歴史などいうものは、なかなか厄介で、貧乏な一小説かきの微力では、とても富豪や門閥の土藏などあけさせて、のぞきみることもできないし、發見されるものも順序が前後したりして、手をつかねたまま永い期間をみおくらねばならなかつたりする。つまり、これまで「嘉平の活字」について紹介しえたものは、嘉永の末頃、オランダ書物を復刻して、藩士一統にオランダ語をまなばせ、西洋科學の知識をかく得させたいという薩摩藩主島津齊彬が、アルハベツトの鉛活字をつくるよう嘉平に命じた。もちろん幕府をはばかるので祕密の依頼であるが、當代の名彫工といわれた、神田小柳町に住む三代目嘉平は、これを引受けた。島津の藩札などを彫刻したり印刷したりした因縁からでもあるが、彼は地下につくつた室で、晝もろうそくをともしながら、十年間もアルハベツトの金屬活字をつくることに苦心した。最初の數年は、鋼鐵のボデイに、アルハベツトの一文字づつを彫つて、パンチ(押字器)をつくり、それを銅のボデイにうちこんで、凹形のアルハベツト文字をつくり、これにとかした鉛をながしこんで、「流し込み活字」をつくるという方法をとつた。これはつまり、グーテンベルグ以來、西洋の活字製法であるが、この時期の要點は、鋼鐵のボデイの尖端にアルハベツトを彫り、銅にうちこんで、字母をつくろうとしたところにあつた。ところが、苦心のパンチが、銅にうちこむ際、しばしば折れ損じるために、實用としてなかなか成功しない。江川太郎左衞門が、ようやく反射ろを韮山にきづいて、鐵をとかす仕事をはじめていた頃だから、まだパンチの鋼鐵に問題があつたのだろう。そこで、あるとき江戸薩摩屋敷にオランダ人の理化學の講習會があるのに出席して「電胎法」を習得した。以後はパンチによる方法をやめ、アルハベツトからすすんで、漢字活字も創造したという、いくらか傳説的なものもとりいれた一條であつた。「嘉平の活字」の場合は、主として牛込の印刷史家K・H氏の所説と、東京印刷同業組合が發行した「印刷大觀」の所載記事にもとづいたものであるが、果して嘉平がガラハニ(電胎法)による字母および鉛活字をつくることができたか? 萬延ないし文久の時代に、そういう高度な西洋理化學の實際が、どんな經路で日本にはいつてきたか? という疑點をのこしたままであつた。
 日本の近代活字の誕生にとつて、ガラハニが唯一の母であるわけは、上卷以來あきらかにしてきたところだ。字劃の多い漢字は、パンチ技術では至難のことである。しかもガラハニ、電胎法はフアラデーの電氣分解の法則發見なしには成立たないが、フアラデーの法則確立は一八三九年、文政十年で、嘉平のこれにさきだつ十年でしかない。西洋のアルハベツト活字さえ、ようやくパンチからガラハニ法にかわつたばかりの頃だから、まつたくおどろくべき成功といえるが、こんな化學的な力が、當時の日本にどれくらいあつたのだろう。齊彬にこわれて島津藩士となつた洋學者川本幸民は、嘉永年間に「遠西奇器述」のうちで「電氣模像機」というくだりをのべて、ガラハニ法を紹介しており、安政五年には洋學者杉田成卿が「活字の料劑」という短かい文章に、鉛活字のボデイの成分を紹介していたりしたことを、若干追究してきたが、要するにまだ、筆者である私自身、よく納得できるほどのものはなかつたのである。
 公爵島津家の史料編さん主任であるA・M氏を東京中野の家に訪ねたのは昭和十七年のくれだつた。四十過ぎの、背のたかい、書齋人によくあるはにかみ屋だ。こびんやおとがいの剃刀あとに白いもののめだつのも、根氣の要る仕事のせいだろうが、頬には少年時代のままの紅味をのこしているような人である。小さい庭に面した縁側で、丸い卓にむかいあつて腰かけながら、私は云つた。
「——三代目嘉平、つまり木村嘉平という彫刻師なんですが……[#「……」は底本では「‥‥」]」
 そんな風に話しだしながら、まづ私は私の主人公について説明せねばならぬ。これまでも一ダース以上の、いろんな方面の學者や專門家を訪ねたが、このへんの説明でいつも當惑を感ずるのである。
 一つは本木昌造や、木村嘉平がちよツとも有名でないからであつた。名前を云つただけでは、相手に「やぶから棒」の感じをあたえないかという氣おくれがある。さらに一つは、「木版」とか「銅版」とかいうものの歴史たんさくなら、史學者のうちにも一つの空氣がつくられているけれど、「鉛活字」などいうものは、どうも突飛な感じを與えるようであつた。たとえば日本で最初に出來た新聞や雜誌など蒐集して、その專門では權威である學者でも、それがどんな内容で、どんな人によつて編輯されたかなどは、言下に教えてもらえても、それがどんな活字で、どんな人々によつて印刷されたか、という段になると、「さあ、そいつは氣をつけてないのでわかりません」というような返辭をきくのがつねであつた。
 もつともそういう傾向について、私は私なりの判斷で、無理からぬことだとは思つている。日本の近代活字も、ある程度、汽車や汽船が、明治維新後のわづかな期間に、輸入品として西洋から流れこんできた事情と共通點をもつている。日本の印刷歴史は、日本の文字の特殊性から、何千年も、木版というひどく手わざのいる方法をつづけてきて、こんどはまた電胎式活字、輪轉機、オフセット印刷機などと、ちよツと説明されても理解できないような段階え、一ぺんに飛躍してしまつた。したがつて、たとえばアメリカのフランクリンが、自分の原稿を、自分で活字を拾い、自分で印刷したようなためしが、日本の學者には殆んどない。イタリヤのレオナルド・ダ・ヴインチが、印刷機をつくつたり、イギリスの數學者スタンホープが、世界最初の全鐵製印刷機を發明したりしたような機縁が、それ自體として乏しい。だから版木を生命にもかえがたいとした「海國兵談」の著者でさえ、版下職人甚兵衞をまつことなしには、どうすることも出來なかつた、というような事情が、誇張をくわえていえば、今日の學者をして、たとえ百卷の著書をあらわしても、活字や印刷に關するかぎりでの興味や關心は、出版屋のむこう側におかしめてしもうのだろう。
 そこで私は、自分の興味を説明することで相手の關心をよびおこさねばならぬのであるが、
「——要するに、嘉平の活字がどんなものであるか、見たいんです。また見るすべがないならば、それが電胎法によるものかどうかを證明できるような資料が欲しいんです」
 ようやくそのへんで、私は相手の顏をみることができた。すると、これもきうくつな姿勢でうつむいていたA・M氏は、椅子を離れて二階えいつたが、しばらく經つと、七八葉の原稿紙つづりと、一枚の寫眞をもつておりてきた。
「殘念ですが、いまのところ木村嘉平に關してはこれだけしかありません」
 齊彬事蹟のうちの、五十音索引「キ」の記號の一部分であつた。明治四十年代に嘉平の遺族が、嘉平の遺作遺品を島津家へけん納したときの由緒書だということわり書がついているが、これは上卷で云つた「印刷大觀」所載記事と同樣のものであつた。或はこの由緒書が、何かのてづるで「印刷大觀」に轉載されたものかも知れない。電胎字母製法の敍述も、やはり「蝋石面ニ種字ヲ凸形ニ彫刻」し「微末ノ銅銀ノ混合物ヲ——刷キカケテ良導體タラシ」め、素燒の土壺や、亞鉛板や、銅線を用いて「電池電槽兼備ノ器ヲ作リ」、梅酢と銅屑を煮つめて復鹽銅液にしたりして、電解作用で、液中の銅粉を蝋石面の種字にメツキした。そしてある程度の厚みをもつたメツキ面を剥がして、それが凹形の、つまり銅字母を得たという過程である。また嘉平がいかにして電胎法をまなんだかというくだりは、やはり「一日薩摩家ニ仕向シ、偶々蘭人ノ出入スルニ會シ、理化學ノ講義ヲ聞知シ」「蘭人ニ就キテ電氣學ノ一部ヲ研究」したとあるだけであつた。電胎字母製法の叙述はわりかた詳細だし、素朴なだけに眞實性をもつけれど、明治四十年に書かれた由緒書であり、これだけでは滿足できないものが、やつぱり私の心にのこる。ことに「一日薩摩家ニ仕向シ」云々のくだりは重要だと思うが、かんたんに過ぎる。
「嘉平の子孫は現存していましようか?」
「さあ、そこまで私の方では調べていませんけれど」
 何しろ、明治四十年からしても半世紀を經過しているし、それに嘉平の遺作遺品はみな島津家へ納めたと由緒書はことわつているのだから、かりに遺族をさがしあてることができても、何かを得られるかどうか、それもわからぬ話である。
 しかし、寫眞の方は始めてみるものであつた。版にしたもので、まだ説明もつけてなかつたが、嘉平の遺作活字である。アルハベツトと漢字の活字が數十本、ねかしたりたてたり、ごつちやに寫してあるが、寫眞では、ボデイの金屬も判斷しようがなく、漢字の方は字劃が複雜で、彫刻ではないかと疑つてみても、そうではないという反證もあげにくい。
「町の寫眞屋にとらしたもんでして、私も印刷や活字のことは、門外漢だもんですから」
 A・M氏は氣の毒そうに云つた。
「實物大でしようか?」
「たぶん、そうだと思います」
 A・M氏も實物はみていないらしかつた。歐文の方は木綿針のように細長いのがあつて、今日の活字規格からは桁はづれで、見當もつかない。せつかくめづらしい「嘉平の活字」の寫眞を眼の前にしながら、私はいらだつばかりであつた。
「集成館というのは何處にあるんですか?」
 この活字の保存されてある場所をきいた。
「鹿兒島の磯屋敷にあります」
 磯屋敷とは、徳川末期に島津藩がした、いろんな科學工藝を實驗した場所で、私も名前だけは知つていた。
「ゆけば、みせてくれましようか」
「みせましよう。いまは縣の管轄になつていますが、紹介してあげてもいいです」
 鹿兒島といえば少し遠い氣がしたが、やはりいつてみねば埓あかぬことであつた。
「しかし、安政か萬延ごろに、オランダ人が薩摩屋敷で理化學の講義をしたというのは本當でしようか?」
「さあ」
 話が一般的史實となると、A・M氏も專門家らしい愼重さになつてくる。
安政ごろとすれば、あの騷ぎですからね。現在の歴史常識では信じ兼ねる譯ですが」
 成程、神奈川條約の成立前後から、伊井大老の獨斷調印、大疑獄のぼつ發、櫻田門の變やら生麥事件等々、安政末から文久えかけての出來事を考えただけでも、あの「幕末の志士」のたまり場所みたいだつた薩摩屋敷に、眼玉の青い西洋人が、のこのこと出入しうるような空氣があつたとは、考えにくいようである。
「川本幸民は、同じ島津のけらいだつたから、嘉平の活字と何か關係があるのではないかという説もあるんですが」
「その方が、まだ妥當性があるようですがね、しかし、それもこれという文獻は知りません」
 A・M氏は、はつきり云つて、こんどは庭の方をみながら、獨りごとのように云つた。
「そんなことも、大事ですね。史家の間では、その方面は至つて未開拓なんです」
「はあ、はあ」
 あいてが、次の言葉をさがすうち、私が云つてしまつた。
「齊彬が、アルハベツトの活字をつくらせて、藩士たちに外國語を習はせようという空氣もあつたわけですからね」
 じつさい、私は日本の活字の歴史をさがしはじめてから、こういう史實の存在におどろいているのだつた。たとえば幕末期の二十年ちかい歴史は、今日まつたく明らかにされてるようだつた。國内事情はある角度と傾向をたもつて、爪をたてる餘地さえないように明白にされてるが、しかし、たとえば安政二年から文久年間まで、日本で最初の洋式印刷工場が、長崎につくられていたような事實は、私ははじめて知つた。陸軍奉行としての大鳥圭介は有名であるが、彫刻ながら最初の鉛活字をつくつた洋學者の圭介は、あまり知られてない。江川太郎左衞門が反射ろをつくつて大砲を鑄造したという話は有名であるが、福澤諭吉が、安政二年ごろ、大阪で「フアラデーの法則」を實驗したなどいう話も、殆んど知られてない。さかのぼつて緒方洪庵や、川本幸民や、平賀源内や、その他澤山の洋學者たちがした電氣や、醫術や、採鑛や、つまり文化的な、科學的な仕事が、たとえば「生麥事件」ほどにも知られてない。第一そういう科學や文化的な出來事というものが、幕末の政治、明治の維新と、どうつながりをもつのかが、明らかにされてない氣がするのである。
「ぼくには、こんな不滿があるんです」
 素人の氣安さで、私は率直に云つた。
「たとえば日本の活字の歴史にしても、今日この由緒書による嘉平の活字と、本木昌造が上海からきたアメリカ人ガンブルに教はつて、電胎活字を工業化したことと、この二つが一ばん大きな鍵になつています。しかし嘉平の活字も、この記録のとおりオランダ人からの傳習によるか、或は幸民とか幕末洋學者たちの研究、實驗とかの傳統なしには生れることが出來ない。昌造のばあいも、天から降つたように、上海からガンブルが來た、ということで説明されてしもうんですが、それならその頃の長崎と上海との交通、上海の印刷文化の状態はどうだつたか、という風には、なかなか發展してゆかない。つまり國内だけに因縁をさがしまわつている傾きがあると思う。極端にいうなら日本の印刷歴史なども、長崎からむこうは足どめをくつてるみたいな氣がするんですが」
 すると、急にA・M氏の顏がこちらえもどつてきた。
「そうですよ、そうですよ。そ、それは活字のことだけじやありません。何ですか、歴史の鎖國状態とでも云いますか」
 どもりながら、A・M氏は頬を紅くしている。その昂奮は私の發言に應じたもののようであつたが、どつか氣にかかつた。しかし、あいての昂奮の根底のみきわめもつかぬままに、また私が云つた。
「ぼくは上海が知りたいんです」
 上海は、私にとつて故人三谷幸吉の「本木平野詳傳」を讀んで以來、氣がかりになつている地名であつた。ガンブルが來たのも上海から。上卷ですこしみたように、岸田吟香ヘボン博士とともに「ヘボン辭書」を印刷したのも上海で、前田正名たちが「サツマ辭書」を印刷したのも上海だつた。ちよつとさかのぼると、ペルリの黒船が浦賀えきたときも、上海が根據地だつたし、プーチヤチンの蒸汽軍艦が長崎えきたときも、上海が根據地だつた。その上海と、上海のむこうに何かがある。明治生れの私たちには、ペルリの黒船にのつて、すぐアメリカやヨーロッパえいつてしもうけれど、そして支那大陸清朝くらいまでで、そこを素通りしてしもうけれど、上海からむこう、廣東や、澳門や、シンガポールや、マニラや、ジヤワや、カルカッタや、あのへんの空白に何かありそうな氣がする。
「ええ、上海はくせ者ですよ」
 とA・M氏が云つた。赤ん坊をおぶつているが、育ちのよさそうな可愛いい奧さんが、紅茶をもつてくると、無器用にうけとつてこぼしたりしながら、昂奮から、よけい書生つぽらしく振舞うようにみえた。
「ぼ、ぼくの專門は江戸中期ですが、もつと、諸外國との關聯のうちに、みなおさなければならん、と思つているんです。つまり、アジアの日本、世界の日本としなければならん、と思うんです」
 剃刀あとの青い、この篤學な史家の横顏は無邪氣であつた。煙草できいろく染まつた中指や、節太な掌をおののかせながら——でないと、いま進行している戰爭の大目的や、將來アジアの日本としての説明が不自由になつてくる——というのであつた。私は氣がかりだつたあいての昂奮の根底がわかつた氣がした。
「日本の史家も、東洋から、西洋えせめてゆかねばなりません…[#「…」は底本では「‥」]」
 いい骨格の、世間ずれしてないこの書齋人は、きつと薩摩の藩士だつたのだろうと思つた。日本の華族や富豪は、たいてい自分の歴史をつくるために學者をかかえている。紋章入りの彼らの歴史の本は、日本の歴史の本のなかにぼう大な場所をとつて君臨しているが、それはいま、この戰爭をもつて現實にも擴がりつつあるのだつた——。