世界文化連載分、十四

 こころみに、私は東南部のアジア地圖をひろげてみる。上部北邊は支那を中心にすると、東は臺灣、琉球から、日本本島の一部がみえ、東支那海をへだてれば北支那、滿洲などがあるわけだ。西は佛領印度支那、シヤム、マライ半島、ビルマ、印度と、地つずきで、印度洋をこえれば、もはやアジアではなくなるが、同じ有色人種の棲むアフリカがある。下部南邊は、大スンダ列島のスマトラ、ジヤヴアの二大島から、小スンダ列島までつながり、もつと南へ下れば、濠洲があるが、こんどは、逆に北上すると、セレベス、ボルネオとなり、もつと北上して、フイリツピンにとどく。これら大陸、島々をめぐらす海は、もちろん、西は印度洋、中央は南支那海、東は太平洋である。
 私など、もともと地理とか歴史とかに疎い方ではあるけれど、こうやつて東南アジアの大陸、島々を眺めても、なんだか漠然としている。太平洋戰下には、これらの島々や大陸に、日本の人民の多くが、知らぬうちに、日本軍隊が上陸した。これらの島々、國々の住民とは、なんのうらみももたない、日本人民の私たちは、その夫の、伜の、兄弟の生命を氣ずこう一心ばかりで、これらの島々、國々の名前や風土をおぼえたが、その以前は、まるで空白である。空白でなければ、こんどは一足とびに、三百年も昔に溯のぼつてしもう。フイリツピンが、「ルソン」として知られていた當時、豐臣秀吉は、スペイン人の總督に、手紙一本で「日本に降伏しろ」と使をやつた話や、「きりしたんばてれん」の舊教徒たちが、ここを根城として、しつように日本へ潜入してきた話。「南蠻船」の本家であつた、ジヤヴアのバタビヤから、年々でてくる船は、積んでくる珍奇な品物と、その「甲比丹」のつれずれの見聞報告が、徳川期を通じて、日本がもつ、世界へののぞき穴であつたことなど。印度は「天竺」とよばれて、世界のはてであつたし、タイがシヤムというときはようやく山田長政をおもいだす。勇敢な角倉船や、住吉船やが航海した、安南の海邊も、佛領印度支那となつてからは、まるで感じがちがつてくる。幕末三回の日本使節たちが、これらの東南アジアの島々、大陸を素どおりして、アメリカや、ヨーロツパに行かねばならなかつたように、明治以後の私ら日本人は、ロンドンや、ニユーヨークや、パリや、ベルリンやを記憶しなければならなかつた。上海も、香港も、マニラも、シンガポールも、カルカツタも、記憶したが、それらは、むしろロンドンへの、ニユーヨークへの、パリへの入口としてであつた。アルハベツト的な上海や、香港や、マニラや、シンガポールや、カルカツタには、支那人や、フイリツピン人や、印度人の匂いはしなかつたからだ。
 私が、東南アジアの地圖をみて漠然とした感じ、というのは、そういう意味である。これらの大陸や島々をみていても、そこに住んでいる原住民たちの聲はきこえてこない。孔子の、ジンギス汗の、アクバル大帝の、クラシツクな聲のつぎには、もう、アルハベツトの聲がきこえてきて、原住民たちのつぶやきはかき消されてしもう。ぼう大な東南アジアの大陸、島々には、ぼう大な人間が棲んでいながら、しかも、アジア人である私たちは、彼らを呼ぶことが出來なかつたし、彼らもまた、呼び聲に應じて答えることができなかつた。そして、私ら自身も呼び聲がだせなかつた理由の一つは徳川鎖國であつたが、いま一つは、彼らが呼び聲に應じて聲をだせないのとだいぶん似かよつた理由、つまり、東南アジアを素通りしても、まずはヨーロツパや、アメリカの都會へ行かねばならなかつた事情であつたろう。
 それは、ヨーロツパ文明のアジア進出である。アジアじうで完全な獨立を保ち得たのはたゞ日本一つしかなかつたほどの、アルハベツト文明の東漸である。もちろん、ヨーロツパ人種のアジア進出は、バスコ・ダ・ガマが、アフリカ南端のケープタウンを廻つて、大西洋と印度洋をつなぐ航路を發見してこのかた、つまり、十五世紀後半からはじまつている。たとえば天正十年、一五八二年、九州の大名大友、大村、有馬の遣歐使節一行が、長崎を發してから、支那、安南、マライ、印度を經て、ポルトガルリスボンに着くまでその船の寄るところが、すべて、ポルトガルや、スペインの植民地だつたり居留地だつたりしたことや、日本の戰國時代、すでにフイリツピンの「ルソン」がスペインの治下にあつたことなど周知であるけれど、しかし、この時代の白人種のアジア進出、十六世紀から十八世紀へかけての植民地競爭は、まだどつか「腕ずく」とでもいうような素朴さがあつた。南支那澳門は、印度洋や太平洋を横ぎる船が出現して以來の、重要な港であつたが、ポルトガル人は、一五五〇年以來、この土地を占據していても、法文的ポルトガル領となつたのは、十九世紀の後半であつて、つまり、ポルトガル人は三百餘年間、彼等自身が、そこに居住することで、勢力をたもつていたように、軍事だけでなしに、彼等自身商賣もし勞働もし、人と人との力の差で、勢力を張つたのであつた。當時においても、西洋文明は、東洋のそれにくらべてすぐれたものがあつたとしても、東洋にとつて影響するところはまだ、「珍奇」な、域から、とおく出るものではなかつたのだし、たとえば、支那人支那人流儀で、彼らと競爭できたのであつた。角倉船や、住吉船も南支那海を乘り切つたのだし、安南、シヤム、ルソンの港々には、通じて十幾つも日本人町が出來ていたのだから、澳門が、ポルトガル人の勢力下にあつたとしても、まだ、そこでは支那人の匂いがし、アジア人の聲がきこえていたのだつた。ヨーロツパ人も、その一員にふくめて、アジア人は、アジア人同志の呼びかけで、あるていど、受けも答えもすることが出來たから、東南アジアの地圖をながめても、クラシツクながら、二、三百年前なら馴染みがあるというわけである。
 そしてこう考えてくると、アルハベツト民族のアジア進出といつても、その五世紀間に、おのずから段階があることがわかる。私は、私の東南アジア地圖の大陸や島々がいつ、彼等の屬領や植民地や租借地や、ないしは、その勢力範圍となつたかを、簡單ながら赤鉛筆で書き込んでみた。
インド
 一七六〇年、イギリスのロバート・クライヴ、フランスのド・ラリー伯と、植民地戰爭で勝つ。以後アクバル大帝以來のムガール帝國、しだいに崩壞。一七七三年にはカルカツタを首都として、ベンガル、バハル兩省を占有し、イギリス政府は、印度總督をおくことに決定した。一八五五年には、全印度をおさめて、一八五八年には、統治權を東印度會社から、イギリス皇帝にうつし、一九一一年、ジヨージ五世は、印度デリーで、戴冠式をあげた。
マライ半島
 ペナン島
 一七八六年、イギリス人ライト、ケダー州の土侯より買收した。
 シンガポール
 一八一九年、イギリス人スタンフオド・ラツフルズが、はじめて商館をきずき、一八二四年にはジヨホール王から、東印度會社に割讓せしめた。田中華一郎[#「田中華一郎」は底本のママ]著の「東邦近世史」下卷をよむと、このとき、ラツフルズは「吾人の目的は領地にあらず、貿易にあり、先づ通商咽喉の要區を扼するを得ば、吾人は臨機應變、以て我國威を政治的にも顯彰すべし」といつた。
マラツカ
 一七九五年、佛和戰爭に乘じて、イギリス海軍、オランダ海軍を攻め、これを占領した。
マライ半島
 一八七四年、ペラ國の紛議を仲裁し、以後イギリス人の理事官を、行政に參與せしむる權利を得、一八九五年には、全聯邦に及び「イギリス保護マライ聯邦」と命名するにようになつた。
ビルマ
 一八二四年、イギリスは、第一次ビルマ戰爭において、アツサム、アラカン、テナセリムの三州を割かせ、一八五二年、第二回ビルマ戰爭において、ラングンをはじめ南部ビルマを奪い、一八八五年、第三回ビルマ戰爭でビルマの殘部すべてを占有、ビルマ王族を印度に放逐した。
印度支那
 一七八七年、安南王世祖阮軍に敗れて、宣教師ピニヨーを通じ、フランスに援助を求めたが、フランスは代償としてツーラヌ條約(安南ツーラヌ港及び崑崙島の割讓)を提供した。一八六二年、フランス海軍安南を攻めて、邊和、嘉定、定祥の三州を奪ひ、基督教の禁を解かせ、一八六七年には、平隆、昭徳、河僊の三州を占有。以後下交趾六州もフランス領となる。東京問題等を經て、一八八四年、首都東京に三色旗をひるがえし、清國南境の一帶を、フランス保護領として、李鴻章との間に條約をむすんだ。
スマトラ
 十七世紀はじめ、ポルトガル勢力を驅逐して、オランダこれに代る。十七世紀終り頃よりイギルス[#「イギルス」は底本のママ]も勢力を扶植したが、一八二四年、マラツカを正式にオランダより讓渡せしめる條件として、イギリスは手をひいた。以後、オランダは「三十年戰爭」を通じてスマトラ原住民最後の抗爭、アテエ族二十五萬を犧牲として、三百年來の支配をたもちつずけた。
ジヤヴア
 スマトラと同じく、十七世紀當初オランダ勢力となり、首都バタビヤは「オランダ船」の根據地として日本にも知られた。一八一〇年前後、イギリス海軍の占領するところとなり、のち、スマトラにみる同じ交換條件によつて、オランダに讓つた。
濠洲
 一七七〇年、イギリス海軍大佐ジエムズ・クツクが「發見」占有し、一七八七年以來本國から罪人を送つて、植民地とした。(クツク大佐の、當初の使命が、日本沿岸の探險にあつたこと、果し得ぬうちに、ハワイで死亡したことは「前卷」でのべた。)
ボルネオ
 一八三八年、第一次のビルマ戰役に從軍負傷した東印度會社員サア・ジエムズ・ブルツクが歸國後、二十の同志と、一隻のヨツトにのつて遠征、ボルネオの西岸サラワクに到着。たまたま原住民間の内爭にあい、ハツシム王を援けて、叛徒を平定した機會から、サラワク王となつた。一八八一年には北ボルネオ會社をおこし、一八八八年に、イギリス政府は、北ボルネオをもつて「保護國」と聲明した。
ハワイ
 一七七八年、イギリス海軍大佐クツクの「發見」。一七九五年、ハワイ島人カメハメハ一世統一して、一八四二年には米、英、佛等も、その獨立を承認したが、一八七五年、アメリカは互益條約を結んだ。一八九三年には、君主制を廢して共和制となり、星條旗をハワイ政廳にたて、一八九八年、ハワイ列島は、アメリカに合併された。
フイリツピン
 一八九八年、スペインと戰端をひらいたアメリカ海軍は、マニラを攻めてこれを保護した。さらにアメリカ陸軍二ケ師[#「二ケ師」は底本のママ]が上陸して、フイリツピンの勢力はスペインからアメリカにうつつた。
 以上は、百科辭典をひろげても、容易に知りうる程度のものである。もちろん大平洋戰爭以前までの歴史であるが、これだけをみても、東南アジア地圖の近世の性格は、そのあらましがうかがえるだろう。
 アルハベツト勢力東漸の、最初の根城は、印度であつた。印度で勝つ者は、東南アジアの王者であつた。佛、西、葡等をしりぞけたイギリスは、ラツフルズが予言したように、ペナン、マラツカ、シンガポール、香港、上海と東上して、支那大陸におよんだ。オランダは、たびたびイギリスにおびやかされたが、漸やくスマトラ、ジヤヴア其他をたもち、フランスも二世紀を費して、支那大陸の南邊を保護下においたが、ハワイからフイリツピンへと延びてきたアメリカは、また新らしい勢力であつたことがわかる。
 そしてもつと私らの注意をひく事實は、これらの新らしい勢力の變換が、あらまし十八世紀の後半から、十九世紀へかけて行われているということだ。たとえば、印度において十六世紀以來の植民地競爭は、葡、西、佛、和その他、十八世紀へかけての二百年間、その勢力の交代が、いとまなかつた。イギリスの東印度會社創立は、一六〇〇年で、以來百五十年間のうち、しばしば他の勢力におされて消長があつた。それが、十八世紀後半になつて、フランス植民地軍をおさえたころから、斷然と、他をしのいでしまつて、ジヨージ五世が、デリーで戴冠式をあげるまでの百年間の勝利のしぶりというものが、もはや、その以前の二世紀間にみる、交代する勝利者の、それとはまるでちがつたものになつている。フランスが、印度支那へ積極的に手をのばしはじめた「ツーラヌ條約」も、十八世紀の終りにちかいし、ジヤヴア、スマトラの再編成、オランダが、イギリスにおされた前後の出來事も十九世紀初頭であり、太平洋のむこう岸からのびてきた新勢力アメリカのそれも、またこれに前後した時期である。
 つまり、東南アジアへの、アルハベツト民族の進出は、アフリカ南端のケープタウン發見以來ではあるけれど、私が、東南アジアの地圖をみて感じる「漠然」としたものは、じつはこの一世紀間ばかりのうちに出來たことがらにうらずけられているということがわかつた。またアルハベツト民族の進出といつてもその中心はイギリスであるということもわかつた。
 そしてここで、誰しもがおのずと思ひあたるのは、同じ時期におこつた産業革命であろう。周知のようにヨーロツパの産業革命は、一七七〇年ころから一八五〇年ころまでに、完成されたと謂われている。しかも、それはイギリスを母胎としてはじまつた。一七六四年、ブラツクバーンの機屋ジエームズを嚆矢とする紡績機械の發明、同年、ワツトの蒸氣機關の發明などを先頭にして、以後の、一世紀餘は、地球をふきまくる機械産業誕生の嵐であつた。イギリスの一七七〇年を起點とすると、フランス、アメリカは五十年ずつを、ドイツは八十年を、日本は百年餘をおくれてこれにつずいた勘定になるのであるが、この産業の機械化、動力機關の發明こそ、インドにおいて、一六〇〇年來のイギリス東印度會社が、十八世紀の後半になつて、斷然植民地競爭にうちかち、東南アジア進出の先鋒となつた背景だということも、理解できよう。「海賊」とよばれたイギリス艦隊は、火力ではしる鐵張りの軍艦に乘つていた。同時に、彼らがアジア人たちにもたらす品物は「珍奇」であるばかりではなくて、もはや、豐富であり低廉であつた。火力ではしる軍艦にまもられた彼等の商船が、滿載した品物は、もはやアジアの王侯貴族への「土産物」くらいであることは出來なくて、アジアの民衆すべてを、顧客としなければならぬほどに膨脹していた。日本にはじめてきた蒸氣軍艦は、弘化元年、一八四四年の、オランダの開國勸告使節の艦隊であつたが、イギリスの軍艦は、もつと早くから、印度洋や南支那海をはしり廻つていたし、嘉永六年、一八五三年に、日本へ來航したアメリカのペルリの艦隊も、ロシヤのプーチヤチンの艦隊も、みな蒸氣軍艦であつた。
 日本海軍を建設した一人曾我祐準は慶應二年、一八六六年海軍術習得のために、イギリス商船に乘りくんで、上海、香港、シンガポール、ペナン、カルカツタなどを航海したが、當時の日記にこう書いてゐる。——
 十日(慶應二年十一月、一八六六年)
 香港に在り。氣候暖和、我が三月の如し。香港の地形の優勝なる、兵備の整々たる、英國が權力を東西に振ふ、實に此の根據あるを以てなり。感慨轉た禁ずる能はず。
 また
 二十日(同)新嘉坡に着。——馬車に乘り市街を見る。土民の野蠻なる風俗、倭小[#「倭小」は底本のママ]なる家屋、清國流民の夥多なる(約二萬人と云ふ)珍禽奇草の穰々たる、而して英人占領設備の至れる等、是皆吾人をして驚駭、羨嘆せしむる所なり。
 また、
 二十五日(同)ベンガル海を航す、此の日初めて測量を習ふ。余未だ測量器を有せざるを以て船長測量器壹個を貸し、且つ教示す。
 二十六日(同)初めて正確に經緯度を實測し得たり。喜び云ふべからず。(曾我祐準自叙傳一三三頁——一三五頁)
 筑後柳河藩の青年、曾我祐準もまた、東南アジアの海を乘り廻つてみて、注意を奪われざるを得なかつたものは、ヨーロツパ人とヨーロツパ文化であつた。「野蠻なる土民」も「夥多なる清國流民」も、その聲の下になつていたのであり、その聲を、自分の聲とするためには、日本の資本社會の「つくりて」たちは、まずは東南アジアを素通りしても、ヨーロツパ文化を獲得しなければならなかつたのであつて、つまることろ、東南アジアの地圖をみて、「漠然」としている私たちの感情というものは、その「つくられた人々」のもつものであるのだろう。