四、pp.235-246

 ペルリや、プーチヤチンの來航當時、昌造などが、どれほどの外國知識をもつてゐたかも明らかでない。通詞であつたから、出島の和蘭人を通じて、ごく大まかな海外ニユースなどは、傳へきいてゐただらうが、その和蘭船も年に一度しか入つて來ないのだからたかが知れてゐる。學問的な知識となれば、初代庄太夫以來、家藏の書物も多かつたらうから、當時の日本人としては、最もひらけた方であつたらうが、それも蘭書に限られてゐた。またその蘭書でさへ自由ではなかつたし、蘭語以外の書物は嚴禁されてゐた。呉秀三の「箕作阮甫」に據ると、このとき「長崎談判」の日露國境協定について、日本側全權川路左衞門尉のために大通詞森山榮之助が長崎奉行所に押收してある英書を飜讀して北邊事情を紹介したが、隨員の阮甫がそれを川路にひそかにきいて、是非その英書を讀みたいと所望すると、川路は榮之助が可哀さうだから止めよと答へたと書いてある。つまりそれが他に洩れれば、榮之助は禁を犯した者として處罰されねばならぬからであつた。
「印刷文明史」は、明治時代まで傳つた本木家藏本を掲げてゐるが、たとへば「海上砲術書」「和蘭地理圖譜」「萬國圖譜」「和蘭海鏡書」「和蘭本草和解」「軍艦圖解考例」「和佛蘭對譯々林」などがあつて、昌造はこれらの家藏本に學んだらしい。寫眞でみるとこれらの書物は、和蘭印刷文字のかたはらに筆で和解したのや、全然和解して日本風の書物につくられたのや、墨をもつて描いた圖解の書物がある。蘭學もシーボルトが最初に渡來したときの數年や、時代によつてはやや自由な期間もあるが、そのぶりかへしの方が概して永かつたから、通詞といふ役柄でのこることの出來たかういふ書物は、なかなか値打あるものだつたらう。
 昌造は幼時からそれらの家藏本に親しむことが出來た。明治四十五年、昌造贈位の御沙汰があつたとき、「印刷文明史」の著者は長崎に訪れて、まだ在世中の昌造の友人や門人などから知り得た昌造の青年時代をつぎのやうに書いてゐる。「――氏(昌造)は元服を加へたる時、家女と結婚し、間もなく家業の通詞職をも襲ぎしが、當時氏の眼中にはもはや渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた。この間氏は常に多くの諸書を渉獵して、專ら工藝百般の技術を研究し、殊に自己の修めた蘭學を通じて、泰西の文物を研究するに日も尚足らずといふ有樣であつた。――此頃に於ける我國の國情は鎖國の説專ら旺盛を極め、異船とさへみれば、無暗と砲撃を加へるといふ状態なりしが、昌造氏は毫も之に心を藉さず、――心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐた。
 この文章はどのへんまでが「印刷文明史」の著者の見解であり、どのへんまでが昌造の友人及び門人の懷舊談であるか、はつきりしない。しかし昌造が「心私かに」開國必至を信じて、備へるためには彼らの文明をわがものとしなければならぬと考へてゐたこと、專ら工藝技術に興味をもつてゐたことが強調されてゐる。この昌造の工藝的な特徴は、洋學年表も萬延元年の項に書いて「米魯初航以來、五ヶ*1國條約に至る其通辯の任に當りし者堀達之助、森山多吉郎、本木昌造也。堀は學力あり、蕃書調所教授、森山は才氣あり、外國通辯頭取、而して本木は巧智に富む、製鐵所取締、三人適所に伎倆を顯はせり」と云つてゐるが、とにかく以上でみたところ、昌造らの勉強にも拘らず、ペルリやプーチヤチン來航當時の外國知識といふものは、いろんな制約で、自から狹いものであつたらう。
 ところがペルリやプーチヤチンの來航は、從來の通詞知識の限度を超える劃時代的なものだつた。ロシヤもアメリカも始めての渡來ではないが、こんどは軍事的にも文化的にもまるで趣きを異にしてゐた。田保橋潔氏の「幕末外國關係史」に據ると、たとへばペルリは浦賀沖に出現する以前、五月中旬に小笠原父島二見港にあがつて海軍基地を作り、浦賀を退出するや、七月には琉球那覇港に上陸して、ここでも海軍基地を作つてゐた。「――世界の形勢如何に推移するや全く無關心なる――日本國政府と交渉するに當り――若干の避泊港を日本沿岸に指定するが如き、最も機に應じたる手段といふべし。同國政府にして、若し日本本土の港灣開放を頑強に拒絶し、爲に流血の慘を見るの危險ある時は、別に日本の南部地方に於て、良港を有し、薪水補給に便なる島嶼に艦隊錨地を指定せんとす。是がため琉球諸島最も便なり」と、ペルリは東印度艦隊を率ゐてマデイラ諸島を出發するとき、海軍長官宛に上申書を書いて傲語したのである。「――海上に於ける合衆國の大競爭者たる英國の東洋に於ける領土は日に増大するを見るも、合衆國亦敏速なる手段を執るの必要あるは痛切に感ずる所なり。英國は既にシンガーポール、香港の支那海に於ける二大關門を手中に收め――支那貿易を獨占せんとす。幸ひにして日本諸島は未だ「併呑*2」政府の手を染むる所ならず、而して其若干は合衆國のために最も重要なる商業通路に當れるを以て、なるべく多數の港灣を獲得するの機を逸せざるやう、敏活の手段を執るの要あり、本職の有力なる艦隊を引率するも是その一理由たり。――」
「併呑*3」政府とは英國の渾名である。しかもペルリが浦賀沖に出現したころには、ロシヤの第三囘遣日使節が旗艦「パルラダ」以下三隻を率ゐて、支那香港に待機してゐたのである。プーチヤチン提督の方針は、ペルリほどには高壓的でないことが、今日のこつてゐる記録にみても明らかであるが、從來のロシヤ遣日使節とはずゐぶんちがつてゐる。つまりは彼も「通商嘆願」ではなくて「開國要求」であつた。
「日本渡航記」の一節は、當時プーチヤチン一行の氣持を代表して次のやうに云つてゐる。
「――八月九日、例の通り晴朗だが、惜しいかな暑すぎる氣候であつた。この日私達は「謎の國」を初めて見たのである。――今ぞ遂に十ヶ*4月に亙る航海、苦勞の目的を達するのだ。これぞ閉めたまま鍵を失くした玉手箱だ。これぞ金力と武力と奸策とをつかつて、これまで無駄骨折つて手なづけようと各國が覗つてきた國である。これぞ巧みに文明の差出口を避け、自己の知力と自己の法規によつて敢て生きんとしてきた人類の大集團である。外國人の友誼と宗教と通商とを頑強に排撃し、この國を教化せんとする我々の企圖を嘲笑し――てゐる國である。
 いつまでもさうして居られようか? と我々は六十斤砲を撫して云ふのであつた。日本人がせめて入國を許し天賦の富の調査を許してくれたらよいのだ。地球上で人間の棲息する各地方の地球や統計のうちで、殆んど唯一の空欄となつてゐるのは日本ばかりではないか。――」
「八月九日」は陰暦の七月十五日であるが、この文章は當時のヨーロツパ人の不遜な感情を語つてあますところがない。一はヨーロツパ文化の發展と確信である。一はヨーロツパ以外のすべてを植民地視するところの侵略的な無遠慮さである。それが渾然一體となつて、ゴンチヤロフほどの大作家も「六十斤砲」と結びつかねばならぬ歴史であつた。
 十八世紀の中期以後、英國を先頭とする産業革命は、いまや一世紀を經て、全歐洲が完了に近づきつつあつた。紡績機械の發明と、火力による動力機の發見は、汽車や汽船はもちろんのこと、いろんな生産品を地球の西方から溢れださせて、それらは地球の東方に、その隅々に至るまで市場を、捌け口をつくらねばならない。各國の艦隊はその觸角となつて、紅海、印度洋、北から南に至る全太平洋、南洋諸島から支那大陸、はては極東「謎の國」「鍵を失くした玉手箱」の國に至る海とを縱横に驅けめぐらねばならなかつた。ペルリのいふ「大競爭」である。ロシヤも遲ればせながらフランスと共にヨーロツパ産業文明の一員であつた。第二囘の遣日使節レザノフのやうに、アラスカやカムチヤツカの沿岸で捕へた獵虎の皮を剥いで、日本をそのお客さんにしようとした「露米會社」時代とはわけがちがふのである。十八世紀の終りには英國よりも早く北支那の一角に市場を獲得してゐたロシヤである。「飛び石」の一つは既に出來てゐた。ペルリと同じく「併呑*5」政府が手を染めぬうちに、たとひ「六十斤砲」をぶつ放してでも「處女日本」を手にいれねばならなかつたであらう。
 プーチヤチン一行が香港を出發したのは嘉永六年の六月一日、颱風の中を一路東支那海を東上して小笠原島二見港についたのが同じ六月二十八日、長崎沖にあらはれたのが七月十五日である。從來のロシヤ遣日使節はクロンシユタツトを出てから太平洋を北上し、アラスカからオホツクへ到着し、そこから千島を南下してくる例だつたが、プーチヤチンがはじめて、印度洋から東支那海を通つてきたわけで、日本とロシヤ間の航路が三分の一もちぢめられてゐることも、當時の日本にとつては注意すべきことであつたらう。
 しかし歴史もなかなか忙しい。プーチヤチンは、米露雙方政府の諒解に基いて、ペルリの香港歸着を待つて對日共同歩調をとる筈であつたが、そのとき彼等遣日使節が「十ヶ*6月」の航海中に、本國ではロシヤ對英、佛、土間のクリミヤ戰爭が勃發してゐた。しかも支那海一帶は英佛艦隊の勢力範圍である。香港でそのニユースを知つたプーチヤチンはペルリの歸來を待たずに、長崎へむかつたわけであつた。
「――長崎灣の入口の目標になつてゐる野母崎が見えだした。皆は甲板に集つて、鮮かな日光をあびた緑の海岸に見とれてゐた。――艦の横の水面を流れてゆく、あの五色の風車を飾りたてた玩具の舟は何だらう?
「あれは――宗教上の儀式だよ」と誰かが云つた。
「いや」と一人が横槍を入れた「これは單なる迷信上の習慣さ」
「占ひだよ」――
「いや失禮だが、ケムペルの本には……」と誰やら議論をはじめた。――
 こんな風にしてロシヤの黒船は、七月の十六日、ちやうど盂蘭盆の精靈舟がただよつてゐる長崎港に入つてきたのであるが、ここにいふケムペルとは、ドイツ人エンゲベルト・ケムペルのことで、元祿二年から四年まで出島の商館長だつた人物、歐洲では日本研究家として知られてゐるが、彼らは「謎の國」についていろいろと豫備知識を養つてゐたことがわかる。それにくらべて昌造らの位置は洋書さへ嚴禁であつた。しかも歴史のめぐりあはせは面白い。昌造と「オブロモフ」の著者ゴンチヤロフとは親しく顏を合せたのである。
「――元日の晩、艦ではもう皆が眠つてしまつてから、全權の(日本の)使として二人の役人と二人の二流通譯、昌造と龍太をつれてやつて來て、二つの質問に對する囘答をもつて來た。ポシエツト君は寢てゐた。私は甲板を歩いてゐて、彼らと接見した――」






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