三、pp.223-235

「――異船々中の形勢、人氣の樣子、非常の態を備へ、應接の將官は勿論、一座居合せの異人共殺氣面に顯はれ、心中是非本願の趣意貫きたき心底と察したり。旁々浦賀の御武備も御手薄につき、彼の武威に壓せられて國書御受取あらば、御國辱とも相成るべく、依つてなるべく平穩の御取計あるより他なし――」。嘉永六年六月三日(西暦では一八五三年七月八日)、アメリカ軍艦四隻について浦賀奉行戸田伊豆守が、閣老阿部伊勢守へ報告した一節であるが、このへん繰り返し讀むと、當時幕閣の複雜な對外事情がわかるやうで、なかなか苦心の文章である。
 アメリカの蒸汽軍艦が、わが江戸灣に出現したのはこれが始めてではない。前に述べたやうに、アメリカのオリフアント會社仕立船「モリソン號」が、江戸や鹿兒島で砲撃を喰つて退出してから八年めの弘化二年に、ペルリと同じアメリカ東印度艦隊司令長官、海軍代將ビツドルが來航してゐる。そのときも同國海軍長官の命令に基く行動ではあつたが、ビツドルの任務は「日本に通商の意志ありや否や」を確かめるだけだつたから、幕府の拒絶にあふとおとなしく退去していつたのである。
 だから「嘉永の黒船」「ペルリの來航」といつて、歴史的に喧傳される所以といふものは、船の形でも、長崎を無視して江戸灣にはいつたといふことでもなくて、浦賀奉行の報告にいふ「殺氣面に顯はれ、心中是非本願の趣意貫きたき心底」といふ、アメリカの意圖内容にあつたわけである。それは禁制の江戸灣へのこのこやつてきて追ひもどされた六十噸のイギリス商船「ブラザース號」とも、通商嘆願にちかいロシヤのラクスマンやレザノフらの遣日使節ともちがひ、「パレムバン」の「開國勸告」ともちがふ。それこそ傳統も法規も無視したところの、武力による「通商要求」であつたわけである。
 まつたく祖國日本にとつて重大な危機であつた。このへんの詳細ないきさつは、既に專門家の澤山の書物があつて、殊に複雜な當時の國内事情などについては、私らの出る幕ではあるまい。間違ひのないところだけいふと、浦賀奉行の報告によつて、直ちに老中、三奉行、大小目付に至るまで召集されて、非常の會議が開かれたが、五日に至るも議決せず、將軍家慶は病あつく、閣老阿部も「憂悶措く能はず」、つひに書を水戸齊昭におくつて意見を叩き「限るに六日登營の刻を以てした」といふ。それが五日午後のことだから火急の程察しられよう。副將軍齊昭の強硬な對外態度はもちろん明らかなところであるが、七日夕刻には伊勢守が齊昭を駒込の邸に訪れてゐる。記録によると、このとき「齊昭も胸襟をひらいて所見を陳べ――かの軍艦四隻分捕等の如き――も、伊勢守の説明によつて、實行不可能な事を悟つたものの如くであつた」といふから、ざんねんながら、當時のわが海軍知識ないしは海邊武備の程も想像できるであらう。
 幕府はやむなく和平方針に決した。六月九日には、ペルリは彼の蒸汽軍艦から發射する禮砲におくられて、浦賀港に上陸した。そして四百名の武裝陸戰隊に護られながら、急設された應接所にはいつて、浦賀奉行戸田伊豆守と會見、大統領親翰を手交した。十日には、軍艦四隻が江戸灣内にすすんで觀音岬に達し、着彈距離を測るなどの威嚇をみせて、十二日に、やうやく日本から退帆した。
 もちろん大統領親翰及びペルリの「上奏文」といふのは、一は捕鯨船その他アメリカ漂民に對する日本の取扱方改善、二は通商で、來年再渡來するまでに返辭をしてくれといふことである。このとき戸田伊豆守がペルリに讀みきかせた幕府の諭書は内容が微妙であるばかりでなく、從來のそれに比べると至つて平假名の多いハイカラなものになつてゐる。「――此所は外國と應接の地にあらす、長崎におもむくへきのよし、いく度も諭すといへとも、使命を恥しめ、一分立かたき旨、存きり申立るのおもむき、使節に於ては、やむを得さることなれとも、我國法もまたやふりかたし、このたひは使節の苦勞を察し、まけて書翰を受とるといへとも、應接の地にあらされは、應答のことにおよはす、このおもむき會得いたし、使命を全くし、すみやかに歸帆あるへきなり」といふのであるが、前に述べたやうに異國船渡來の歴史にみて、とにかく長崎、松前以外で國書を受取つたことは確かに異例であるにちがひない。
 第一囘の黒船來航はほんの十日間ばかりであつたが、豫想されるペルリの再渡來をめぐつて、幕閣でも、議論はいろいろわかれた。水戸齊昭は阿部へむかつて、「千騎が一騎に相成共」夷狄打拂の大號令を天下に示せと云つた。海防係の筒井肥前守や川路左衞門尉は「凡そ外國と戰端を開く時は、短日月に終結を見る事能はざるを例とす。されば大小砲彈藥を要する事莫大――故に今急に大號令案を發布するは策を得たるものにあらず」と云ひ、「水戸老公の――趣意については――一同に於ても異存毫もなし、唯二百年以來の昇平、特に水戰とては經驗なきところ、今戰端を開くとも必勝の見込なし」と云つた。また江川太郎左衞門は「御備へ――如何にも御手薄ゆえ、俗に申すぶらかすと云ふ如く、五年も十年も願書を齋せるともなく、斷るともなくいたし、其中此方御手當此度こそ嚴重に致し、其上にて御斷りに相成可然」といふ「ぶらかし案」を發議した。その結果名宰相伊勢守は「和戰」といふ、和して戰ふといふ特別な號令を出した。
 これらは當時の幕閣事情について語る今日の歴史家のすべてが、骨子に用ひるほどの記録である。そしてこれだけの記録からでも、次のやうなことがわかる。第一にわが海の日本が蒸汽軍艦と砲身のながい大砲で脅やかされてゐること、第二に當時のわが日本はいかにも「御武備御手薄」であつたこと、第三に國威を第一に考へる點では齊昭も川路も江川も勿論一致してゐるが、方法の點ではちがひがあること、第四に川路、江川らは「ぶらかし」てゐる隙にペルリに對抗し得るだけの近代的武備を完了してしまはうといふこと等である。そこで今日の私らが考へることは、「ぶらかし」てゐるうちに、ごく短時日のうちに、ペルリを打ち破るほどの蒸汽軍艦や近代的な大砲やがすぐ出來ると、江川たちは考へてゐただらうか? また「ぶらかし」が五年も十年も出來ると考へてゐただらうか? それを明瞭に示した記録は今日のこつてゐないやうだ。
 水戸齊昭も「――ぶらかし候儀、しかと御見留有之、出來候儀に候はば其儀存意無之、異船來れば大騷ぎ致し、歸り候へば御備向忘れ候事無之候はば、ぶらかすも時にとりての御計策――無已候」と云つてゐるが、齊昭とても、「ぶらかし」に充分の信用をおいてはゐないのがわかる。つまりこれらの記録の背後には、「開國」して國威を伸張せんとする意見と、さうでない方法で國威を伸張せんとする意見の相違が微妙に潛んでゐる。これよりちやうど十年前、弘化元年に「パレムバン」が來航したとき、閣老水野越前守は「慶長、元和の規模に復り、進んで外に國威を張り、内に士氣を鼓舞せん」と主張して、つひに敗れたが、この開國的主張は、その後益々頻繁になる異國船の渡來、海外文明の伸展の模樣、一方國内では封建經濟その他の逼迫等で、幕閣内でもしだいに成長してゐたのかも知れぬ。これは外國人の記録だから信用できぬとしても、他山の石として參考にするならば、同じ嘉永六年の七月に長崎に來航したロシヤ遣日使節の祕書ゴンチヤロフは「日本渡航記」のうちにかう書いてゐる。
「――誰だつたか通詞のうちで、レザノフの來た時には、日本の閣老七八人のうちで、外國の交易に贊成したのはたつた二人にすぎなかつたが、今度はたつた二人が反對してゐるに過ぎない、と口を辷らしたものがあつた。――」
 レザノフが來航したとき幕閣に開國主張者があつたかどうか記録を知らないが、それは文化元年で五十年も以前のことである。或は水野越前に魁けする者があつたかも知れぬ。
 とにかく「外へ進んで國威を張り」「海外の文明をわがものとせん」といふほどの、ごく廣い意味での「開國」意見は、幕閣のみならず當時の志ある人々の間にはひろがつてゐたやうである。「開國」といふ言葉も、當時の政治的場面でつかはれるときはなかなか面倒であつて、專門家でさへ容易には是非を論じがたいところだらうが、ごくひろい意味での「開國」ないし海外に對する關心は、相當つよかつたにちがひなく、それは前に述べたスパンベルグ以來百餘年に亙るかずかずの異國船渡來が與へた影響だけでも、相當つよいものとなつてゐたと思はれる。しかも「開國」の端緒が「黒船來航」といふ形ではじまつたことは、それ自體歴史的であるが、いづれにしろわが國にとつて一つの危機であり、複雜な波紋を與へる緊急重大事件であつた。
 このとき昌造はちやうど三十歳である。「蘭話通辯」を印刷した翌年、「活字版摺立係」を任命される二年前であつた。通詞といふ職掌からしても、「ペルリの來航」はかくべつのシヨツクを與へたにちがひないが、そのときの彼の感想なり、考へなりを判斷しうるやうな記録は、彼自身としては、何一つのこしてゐない。
「ペルリの來航」をべつにしていへば、三谷氏は、昌造を「開國論者」だと云つてゐる。「詳傳」のなかで「急激な、然も穩健な開國論者」だと書いてゐる。「本木昌造先生は、佐幕黨にはあらざるも、然し痛烈な開國論者であつたために、一時は鎖國論者の非常な的となられ、結局開國論者側からは――佐幕黨なりとの誤解を受け――當時長崎に本木昌造を刺さんと、それらの志士が頻りに出入して居たために、身の危險を慮り、京洛に上り、一時某公卿に身を寄せてゐられたこともある――。」この文章には長崎での云ひつたへをそのまま書いたやうなふしもあるが、「急激な、然も穩健な開國論者」といふのは面白い。昌造は尊皇、佐幕いづれの側からも誤解され、容れられなかつたらしい。これから彼の事蹟をみてゆくところだけれど、一と口にいへば、彼は「開國論をしない開國論者」であり、尊皇開國主義を一科學者としての半面だけで生きとほしたやうな人間だつたから、このときの感想も自から輪廓だけは想像できよう。
 通詞の階級としては、「小通詞過人」で、小通詞のうちで上席であつた。十五歳のとき稽古通詞となつて以來十五年、まづは順當の出世で、この頃までは養父昌左衞門が大通詞目付といふ、通詞のうちで最高の職にゐたから、殆んど世襲制の通詞として、彼の前途は約束されたものだつた。しかもこの年はじめて妻縫との間に長男小太郎が生れて父となつたばかり。縫は養父昌左衞門の實子で、このとき十五歳であるから、隨分わかいお母さんであるが、とにかく昌造はまさにはたらき盛りであつた。
 そして江戸灣からペルリが去つてわづか一ヶ*1月、ニユースのはやい長崎でも、まだペルリの噂で持ち切りだつたらうと思はれる七月の十六日に、ここにも「黒船」があらはれた。第三囘目の遣日使節プーチヤチンの率ゐる蒸汽軍艦「パルラダ號」以下三隻である。江戸とちがつてここは異國船渡來の本場ではあつたが、このときのロシヤ遣日使節の渡來は、ペルリの來航につぐさわぎであつたといはれる。はたらき盛りの通詞である昌造は、いまや活字ばかりヒネくつてゐるわけにゆかなくなつた。そしてこのときの長崎談判以來、「日露修好條約」の成立した翌々年安政二年春まで、彼は殆んど家庭を顧みる暇もなかつたのであるが、考へてみると、彼の「植字判一式」が、日本の印刷歴史に記録を編んだのは、黒船來航といふ政治情勢の直接影響であつて、またそのゆゑに彼は活字をしばらく措いて、黒船のあとを逐ひ、東に西に驅け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らねばならなかつたわけである。






*1:青空文庫入力ルールに従ひKATAKANA LETTER SMALL KEとするが、入力者にはKATAKANA LETTER KEに見える、青空注記に非ズ