二、pp.211-223

 昌造の、最初の「流し込み活字」は「植字判一式」購入より三年後の嘉永四年に一應できた。そして、その「流し込み活字」の日本文字と、輸入の蘭活字とで「蘭話通辯」が印刷されたのだと謂はれてゐる。
「流し込み活字」の製法は、昌造の場合も、ヤンコ・コステルなり、グウテンベルグなりの「手鑄込み器」と同じ方式を逐つたものだと想像できる。つまり、最初ある金屬に凸型に彫刻して種字(パンチ、押字器などとも謂ふ)を作り、それを他の金屬に打ち込んで、凹型の字母を作り、その字母に鉛を流しこんで再び凸型の活字を得るといふやり方であるが、字劃が複雜だつたり、技術が貧困なために、種字を省略して、いきなり凹型の字母を彫刻して、流し込み活字を得ようとした形跡が見える。三谷氏の「詳傳」によれば、大體つぎのやうに説明してある。――二つに割れる抱き合せの鑄型で、中央に活字の大きさだけの穴があいてゐる。鑄型の底には横にねかした凹型、つまり雌型の字母があつて、柄杓で溶かした鉛をすくつて流し込み、冷却を待つて、抱き合せの鑄型を割つてとりだし、活字の底部を鉋で削つて、一定のたかさにそろへる――といふのである。これだけの操作は大してむづかしいことではないが、いつたい字母なるものはどんな金屬であつたらうか。專門家である三谷氏の説明も、このへんは明瞭でない。最初雌型の木活字を字母にしたといふやうに誌してあるけれど、黄楊でも櫻でも、鉛の高温には堪へられぬし、さきに木村嘉平について私らはその失敗を知つてゐるところだ。三谷氏は別の著書「本邦活版開拓者の苦心」のうちで、このとき昌造は水牛の角に彫刻したものを用ひたらうとも書いてゐるが、恐らくこれが眞實に近いであらう。今日帝室博物館に所藏される昌造作の字母は鋼鐵に彫刻したものであるが、それはこのときより數年後、安政年間の作である。長崎の諏訪神社に傳へられるところの「流し込み鑄型」も嘉永年間のものではないと、專門家たちには判斷されてゐて、いづれにしろ、昌造が嘉永年間に用ひた「流し込み活字」の字母のボデイが何であつたかは明らかでない。
 およそ人類科學發展の歴史は、金屬の發見と、その性能の理解にあつたと謂はれる。伊豆の代官江川太郎左衞門が韮山に反射爐をきづいて、攝氏千三百度以上の熱を要する鐵の熔解を試みたのが嘉永三年のことである。古來刀劒類の鐵は、鞴の力で鍛へられたけれど、まだ論理的には充分理解されてゐたわけでない。銅の「吹きわけ法」などもごく自然發生的であつたのだし、鉛活字に必要なアンチモンなども、まだ日本のどつかの山にかくれたままの時代であつた。つまり當時の状態では多くの金屬が未開にあつたし、加へてそれらの金屬は封建制度で流通も圓滑を缺く。昌造など蘭書の知識で若干の理解はあつても、手がとどかぬ憾みがあつたらうし、いま一つ加へて江戸の嘉平が白晝灯をともした室で、人目を忍んで研究せねばならなかつたやうな事情は、通詞の場合若干の役得はあつても、決してゆるがせだつたわけでもあるまい。
 とにかく、今日から想像すれば異常に困難な空氣のなかで、何程かの活字がつくられ、「蘭話通辯」の幾册かが印刷され、「蘭話通辯」は和蘭本國にもおくられ、數年後昌造は日本文字の種書を和蘭におくる動機ともなつたとは印刷歴史家の傳へるところであるが、ところで昌造が最初につくつた日本文字は何であつたらうか? 當時の活字は殘つてをらず、「蘭話通辯」もいまは見ることが出來ない。もちろん圖書館にもなく、長崎にすら現存しないといふ。したがつていま私がたよりにする唯一のものは、三谷氏が「詳傳」のうちで「蘭話通辯」の所在についてたしかめ得た、次のやうな、嘗てそれを見た人々の答へだけである。
 古賀十二郎氏
 ――「蘭話通辯」とは本木昌造が、和蘭から取寄せた活字を左の方にならべ、自分の造つた片假名文字を右に並べて、蘭語を譯したもので、紙は仙花を用ひ、表紙は黒い紙であつたか、布であつたかは判然と記憶にないが、兎に角黒い表紙で、百頁位な、美濃四ツ折の誠に杜撰な本である。
 福島惠次郎氏(長崎共益館書店主)
 ――「蘭話通辯」は四五年前、めづらしく二册手に入りましたが、何人かに賣りました。――本の形は黒表紙で、中身は英語の活字と日本の片假名活字とで印刷した百頁程のうすい、美濃四ツ折くらゐな本でした。
 小西清七郎氏(東京菊坂町書店主)
 ――「蘭話通辯」は二三年前に店にありましたが、今はありません。確かに二圓六十錢で賣つたと記憶してゐます。本の形は美濃四ツ折で、粗末な活字と片假名の混合した内容でした。
 早稻田米次郎氏(長崎古道具店主)
 ――「蘭話通辯」は黒い表紙で、今でいふ四六判ですな。中身は昔の帳面につかふ紙で、外國の字と日本のきたない片假名字で、粗末な本です。四五年前に一册誰かに賣りました。(――其他略)
 三谷氏のこの調査は昭和七年九月である。ちやうど十年前のことだから、三谷氏の文章を信ずる限り、以上の人々の多くが現存するだらう。そして更に以上の人々の言を信ずる限り、この日本で一ばん最初に「流し込み活字」でつくられた貴重な書物は、まだ日本のどこかに現存してゐるのであらう。「黒い表紙」の「美濃四ツ折」の、きたない本は、日本のどつかで蟲に喰はれつつ存在してゐるのだらう。
 そして以上の人々の言葉が一致するところにみれば、昌造が最初につくつた活字は「片假名」だといふことである。木村嘉平は島津齊彬の命によつて、最初に二十六の外國文字を作つた。昌造は自分の創意で五十音片假名を作つた。「蘭話通辯」の印刷が何によつたかは活字以上に明らかでないが、のち長崎奉行所が印刷所を設けたとき「プレスによる印刷法長崎に擴まる」とあるから、このとき二十八歳の青年昌造は輸入のアルハベツトに片假名の活字をならべて、ひとりでばれん[#「ばれん」に傍点]でこすつたのであらう。そしてひとりで紙を切つたり、製本したりして、ひそかに知己の人々に「黒い表紙」の本をくばつたのだらう。
「蘭話通辯」はやや傳説めいてさへゐる。彼の片假名活字は「きたない」ものだつた。しかし昌造だつて科學未發達のその時代に、日本活字を創造してゆくどんな手がかりがあつたらう? 歴史といふものに奇蹟はないといふ。グウテンベルグの場合、活字考案に指輪があつたやうに、印刷機の考案にはドイツ、ライン地方の葡萄酒釀造につかふ壓搾機がヒントとなつたもので、今日手引印刷機を「プレス」と稱ぶのも、そこに發してゐると謂はれる。萬をもつて數へる漢字の字母は、そして畫の複雜な漢字體は、「流し込み」技術の範圍では容易に克服し難かつたらう。嘗て「植字判一式」購入當時の同志、北村此助も、品川藤兵衞も、楢林定一郎も、いつかこの活字の歴史からは消えていつた。
 しかし「蘭話通辯」から三年めの安政二年になつて、昌造らの購入活字は、それ自身として一つの記録を編んだわけであつた。同年六月、長崎奉行荒尾岩見守は老中阿部伊勢守へ「阿蘭陀活字版蘭書摺立方建白書」といふものを提出した。「一、近年洋書の需要著しきも、供給不充分なる事。二、阿蘭陀通詞は別して家學に出精熱心に研究するも、遺憾ながら蘭書拂底のため修行十分に屆き兼ねる事。三、先年紅毛人の持來りし活字版を、先勤長崎奉行の許可を得て、蘭通詞共引受所持せるを、このたび會所銀をもつて買上げ、此節奉行所に於て摺立方試み、長崎會所に於て一般志願者へ賣渡せば世上便利なる事」等といふのが建白書の内容である。
「紅毛人持來りし活字版」云々は、昌造ら註文の活字版のことである。この文章でみれば、例の「植字判一式」は偶然渡來したものを昌造らが引受け買取つたごとくであるが、海外貿易は個人として許されなかつた當時の事情からしてこの文章のごとく理解するは誤りであらう。とにかく右のやうな長崎奉行の建白によつて阿部伊勢守は同年八月これを採用した。長崎奉行は昌造に活字版摺立係を任命して、海岸に面した西役所内に印刷工場を設けた。なほこのとき西役所内にあつて西洋の印刷技術を傳へ指導した人に、和蘭人インデルモウルがあつたと記録してある。
 安政三年六月には和蘭文法書「セインタキシス」五百二十八部が印刷發行されて、一部は幕府天文方に納本され、他は一部につき金二歩にて長崎會所より一般に賣り出された。翌四年には「英文典初歩」が印刷發行、文久元年には印刷工場を出島の商館内に移し、シーボルト著の「Open Brieven uit Japan」、翌二年にはポンペ・フアン・メルデルフオールト著の「gencesmiddelleer」などが出版された。これらの書物は寫眞でみても全然日本活字のはいつてゐない洋書である。つまり日本でつくられた外國書物である。シーボルトのいはゆる「出島版」も、ポンペの醫學書も當時としてはなかなか立派な印刷であるが、さてこれらの日本製洋書に日本の活字が一本もはいつてゐないといふことは、昌造の「流し込み活字」が未だ非常に粗末であつて「プレス印刷」に堪へないか、本格的な文法書には使用し得ない程僅少であるからであつたらう。
 インデルモウルなる人物が專門の活版技師であるかどうか私は知ることが出來ない。しかしこの活版技師は電胎法による活字鑄造はまつたく行はなかつたやうである。それはこの長崎奉行所の印刷工場が活字の凡てを和蘭から補給せねばならぬため採算上廢絶するに至つたといふ事情でも明らかであるが、活版技師ともあらうものが比較的容易な洋活字の再鑄をも行はなかつたといふことはをかしい。たぶん若干の知識經驗があるといふ程度ではなかつたらうか? したがつて摺立係として密接な關係を持つた筈の昌造も、この和蘭人から學ぶところは大したものではなかつたらうと想像される。この長崎奉行所印刷工場が日本の印刷術に與へた功績の若干は、主としてその「プレス式印刷」の實際であつたらう。「印刷文明史」が傳へるところでは、「民間にありても漸く洋式活版術が行はるることとなり、洋字、漢字、假名の混淆した書册が刊行さるることとなつた。安政六年鹽田幸八の發行したる「最新日英通俗成語集」や、萬延元年増永文治發行の「蕃語小引」等は民間活字版の系統に屬する」ものださうであるが、これらの書物の漢字、假名が、木活字ないし木版であつたことは云ふまでもない。つまり從來の「ばれん[#「ばれん」に傍点]」刷りを「プレス」刷りにしただけであつて、そのプレス式印刷も長崎の小範圍から遠くは出なかつたやうである。
 しかしそれにしても私らは二百數十年前、この同じ長崎の地から追放された西洋印刷術を思ひ出すとき感慨新たなるものがあるだらう。「きりしたん」と共にそれを逐つた同じ幕府が、今やふたたび迎入れねばならなかつた。「日本製洋書」は「需要著しきも供給不充分」として再製されねばならなかつた。シーボルトの「出島版」は長崎を訪れる志ある日本青年のみならず、江戸の學生たちにも珍重され、ポンペの醫術書は、長崎市大徳寺内につくられた幕府公認の學校「精得館」の生徒たちのために教科書とならねばならなかつた。
 日本製の洋書。アルハベツトにはじまつた「江戸の活字」。當時の學生が大福帳型の教科書の洋活字の一方に筆で和解して日本文字を書きこんでいつた事實をおもふとき、それが傳説めくほど微少ではあつても、昌造の日本文字片假名の「流し込み活字」の重要さと歴史性がわかるやうである。
 長崎奉行所の印刷所は日本の近代印刷術の歴史に魁けたもので、「プレス印刷」はこのときからわづかながら傳統をつくつたのであるが、何故幕府は「日本製洋書」をつくつてでも、一刻も早くヨーロツパ文明をわがものとし、文武いづれの面にも備へなければならなかつたらうか。それは云ふまでもなく「嘉永の黒船」から「安政の開港」へとつづく、まことに急迫した時の政治事情がそれであつた。