一、pp.198-211

 さてこのやうに逼迫した對外空氣のうちにあつて、昌造が近代活字を創造した事蹟は、彼の二十五歳のときにはじまつた。幕府への開國勸告使節和蘭の軍艦「パレムバン」が追ひ返されてから五年めで、「長崎通詞本木昌造及び北村此助、品川藤兵衞、楢林定一郎四人相議し、鉛製活字版を和蘭より購入」と、洋學年表に誌されてゐる。「――楢林家記に、銀六貫四百目、蘭書植字判一式、右四人名前にて借請――嘉永元申十二月廿九日御用方へ相納る」といふ附記もある。
 銀六貫四百目はわかつても、活字の數量など不明だから、舶來活字の當時の値段はわかりやうがない。活字の種類は現在殘つてゐる「和蘭文典セインタキシス」などからみて大小二種、字形はイタリツクにパイカの二種だつたらうくらゐのことがわかるが、「植字判一式」といふのも内容が明らかでない。今日の言葉でいへば「植字判一式」といふからには印刷機及び印刷機附屬品をふくまずに、つまり活字製版器具だけの意味であるが、この事蹟を「印刷文明史」に據つてみると曖昧である。明記はないが、このとき昌造ら購入の「植字判一式」だけで、それより七年後、幕府の命で長崎奉行所が印刷所を設置したごとくであるからである。
 しかし「植字判一式」なるもののうちに印刷機もふくまつてゐたかどうかの詮議は、さほど重要ではない。七年のうちには、幕府は年々はいつてくる和蘭船へ印刷機だけ追加註文も出來たらうし、出島商館には印刷機一臺くらゐは存在したか知れぬから、借入することも出來る。とにかく一日本人の創意によつて近代鉛活字を購入したことと、幕府が印刷所をつくる三四年前に、その購入活字をヒントにして日本文字の「流し込み活字」をつくつたこと、その日本文字の活字によつて「蘭話通辯」一册が印刷されたといふことである。
 大和法隆寺の陀羅尼經以來、木版、銅版(陀羅尼經原版は銅版とも謂はれてゐるが)、銅や木の彫刻活字といふ日本の歴史で、嘉永四年の「流し込み鉛活字」はまつたく紀元を劃するほどの魁けであつた。このとき、四人のうち、誰が買入主唱者であつたかも明らかでないが、大槻如電は、「昌造――蘭書を讀み、其の文字の鮮明にして印書術の巧妙なるに感服し、活版印刷の業を起さんとし、同志を募り、公然たる手續を以て蘭字活版を購ひ入れしなり」と書いてゐる。そして購入以來、數年を費して、「流し込み活字」をつくり、「蘭話通辯」を印刷したのは四人でなく、一人昌造だけであつたことも、もちろん疑ふ餘地がない。
 また三谷幸吉氏は「本木、平野詳傳」のうちに、昌造が蘭字活字買入の動機を誌して、彼はあるとき和蘭人から和蘭の活字發明者フラウレンス・ヤンコ・コステルの傳記をもらつて讀んだ事實があると誌してゐる。この三谷氏の説がホンの云ひ傳へであるか、確實な資料にもとづいたものであるか、私はそれを判斷する力を持たない。しかしそれがほんの長崎での傳説であつたとしても、甚だ信じ得る事柄ではある。和蘭人フラウレンス・ヤンコ・コステルは、ドイツのグウテンベルグに先だつ約十五年、西暦一四四〇年頃に、鉛活字を創造した世界最初の人だと、和蘭人が海外に誇る人であつたから、當時の日本がヨーロツパぢゆうで唯一の通商國とした和蘭から、通詞といふ職で生來科學に興味をもつ昌造のやうな人間に、コステルの名が傳へられたことは至つて自然であらう。
 しかも次のやうな、コステルと昌造の各々がもつ二つの※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話は、以上の關係を明らかにするやうで面白い。あるとき、コステルは庭先に落ちてゐる木片をひろつて、手すさびに自分の頭字を浮彫りにしたが、捨ててしまふのも惜しくて、紙にくるんで室の隅に抛つておいた。それからずつとのち、何氣なく手にふれたその紙包をひろげてみたら、木片の文字がハツキリと紙に印刷されてゐるので、非常にびつくりしたといふ話。――
 いま一つの※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話は、昌造の事蹟のうち今日も有名な語りぐさであるが、あるとき昌造は、購入した蘭活字の少しばかりを鍋で溶かすと、腰の刀をはづして目貫の象嵌にそれを流し込んでみた。やがて鉛が冷却するのを待つて、裏がへしてみると、目貫の象嵌は凹型になつてハツキリと鉛に轉刻されてゐるので、昌造は大聲を發して家人をよんだといふ話――である。
 この二つの※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話は、東西を距ててどつかに共通するものがあるばかりでなく、後者は前者にくらべて、もつと意識的であることがわかる。コステルの場合は、偶然な木活字への端緒であるが、昌造の場合は、流し込み活字への豫期がある。しかも後者の※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話は、前者の※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話に影響されてゐるやうなふしが感じられる。
 しかしこの種の※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話といふものは、科學精神のある純粹さが、生活と凝結しあつて、偶然な事柄を形づくつたとき、一つの藝術的な普遍さと値打をもつて傳説となるものであるが、それが必ずしもコステルなり昌造なりの、發明の實際を説明してゐるわけではあるまい。和蘭にも、コステル以前に木活字はあつた。しかも、コステルがつくつたといふ確かな鉛活字は、今日一本も殘つてゐない。印刷した書物にもコステルのそれと判斷すべきものがないので、世界の印刷歴史家たちの間では、やはりグウテンベルグに、その榮冠を授けてゐるのだと謂はれるが、しかし十五世紀の始めに出來た和蘭の古書に活字印刷の部分があるといふ事實や、コステルの工場から活字を盜んで逃げた職工が、グウテンベルグの生地ドイツ、マインツに住んだといふ傳説や、グウテンベルグの發明後、近代印刷術が全歐洲を席捲していつた徑路のうちでも、和蘭が別系統であるなどの事實があつて、ヤンコ・コステルは、或は架空の人物かも知れないのに、五世紀後の今日もまだ殺すことの出來ない人物である。今日の印刷歴史家たちは、ヤンコ・コステルといふ人物が和蘭人の創作にちがひないと承知してゐる。しかも和蘭印刷界にのこる幾つかの事實、記録にものこらないあれやこれやが、それをささへて生かしてゐるのであらう。しかもそのコステル傳記が、これは「創作」でない昌造に影響を與へたばかりでなく、東洋日本の一角に近代活字が渡來する始めであつた。
 私たちはそれが嘉永の元年で、西暦の一八四八年だといふことを記憶しておかう。そしてこの記憶を前提として、西洋印刷の歴史をさかのぼる四世紀、グウテンベルグの發明が一四五五年で、その以前の西洋の木活字時代といふものが、わづか二三十年しかないといふことを知るだらう。その木活字の創造者はイタリーのカスタルヂーであつた。カスタルヂーは土耳古のある政府につかへて、書寫官であつたが、あるときマルコ・ポーロ支那土産のうちから東洋の木版書物をめつけて、それをヒントに木活字を發明したのだといふ。それが一四二六年だ。つまりグウテンベルグの一四五五年までに二十九年しかない。
 これは非常におどろくべきことである。日本では陀羅尼經以來、木版ないし銅版の歴史は千餘年、木活字の歴史は徳川期以來二百餘年、昌造時代ももちろんさうであつた。支那や朝鮮となると木版歴史などもつと古い。それが西洋では木活字時代が二十九年でしかなかつた。そしてマルコ・ポーロ支那土産が木版であることを知つておどろいたカスタルヂーは、木版はつくらずにいきなり木活字をつくつた。これも非常におどろくべきことではないか。ヨーロツパの活字は二十六であつた。木版にするより木活字にした方がはるかに便利だつたのだ。
 私達はこの事實を、日本の太閤秀吉の朝鮮土産の銅活字にヒントを得ておこつた木活字が間もなくおとろへて、再び木版にかはつた歴史と思ひあはせてみよう。日本では、徳川も中期になると、出版物は旺んになり、部數も増大したが、さうなると木活字よりも木版の方が却って便利であつた。第一には木版だと再版が出來る。紙型《ステロ》術のなかつた當時では、木活字は再版のたびに新組みしなくてはならぬ。松平樂翁が「海國兵談」の版木を押收したのは、この事情を物語つてゐるではないか。第二に木版の方がはるかに容易に、しかも美しく印刷できる。ばれん[#「ばれん」に傍点]でこする印刷術は、木活字の部分的な凹凸には不向きである。第三に字劃の複雜な日本文字は磨滅しやすく、しかも萬をはるかに超える文字の種類は、新組のたびに木版を彫るとあまり變らぬほど、澤山新調しなければならなかつたし、新古の木活字は高低がくるひやすかつたにちがひない。つまり、複雜な日本の文字は、逆に木版の世界へ引戻したが、しかし支那の木版書物を見たイタリー人は、いきなり木活字をつくつてしまつた。そしてカスタルヂーが木活字をつくつたやうに、それより二十九年後のドイツ人は、いきなり鉛ボデイの「流し込み活字」をつくつてしまつた。彼等のアルハベツトは二十六である。
 ヨーロツパの印刷文明は、支那文明の影響であつた。紙の作り方もヨーロツパに攻めこんだ元の兵隊が傳授したものだ。從つてヨーロツパの古い書物はみな支那式だといふ。私はまだ見たことはないけれど、片面印刷も袋とぢといふ製本もインクが墨汁であることも、みんなその證據だと謂はれる。その支那文化の種子を蒔いたのがポーロであることは周知である。この大旅行家が歸國後※[#濁点付き片仮名ヱ、第3水準1-7-84]ニスの艦隊に加はつてゼノアと戰ひ、捕虜となつて獄中で「東方見聞録」を書かされたことも有名な話である。「印刷文明史」は當時を書いて「伊太利は一時ポーロの書物をもつて埋めらるるが如き流行」と形容してゐるが、十三世紀末の當時は寫本だからたかが知れてゐる。「東方見聞録」がヨーロツパぢゆうを席捲して「日本は大洋の東方にある島國にして――黄金は無盡藏なり」といふポーロの法螺が西半球の人間たちを昂奮せしめたのは、それより一世紀半ものち、カスタルヂーの木活字、コステルやグウテンベルグの鉛の活字が出來、「東方見聞録」が活版書物になつて以後、一四七、八〇年頃からのことである。
 考へてみれば、東洋の木版は西洋にいつて金になり、五世紀めに日本へもどつてきたわけであつた。そして木から金になつた理由の第一は、ヨーロツパの文字が簡單だからにちがひない。グウテンベルグマインツの貴族で、指輪をあつかひ鏡を磨く商人だつた。指輪の彫刻や鑄型による流しこみは、この時代既に發達してゐたのだから、彼のヒントはそこにあるだらうと、今日の印刷歴史家たちは判斷してゐる。
 西洋でも、電胎法による近代活字の字母製造は十九世紀にはいつてからだ。電氣分解法、いはゆる「フアラデーの法則」が確立されなければ出來ない藝當である。したがつてグウテンベルグ以來四世紀、「流し込み法」による活字製法は、つまりアルハベツトが二十六だといふこと、漢字のやうに字畫が複雜でないことが原因の第一だといふことになる。したがつて、たとへば慶長年間に、「きりしたん活字」がそのまま長崎にとどまつたとしても、どれくらゐ發達しただらう?
 私は思ふのだが、同じ和蘭からレムブラントなどの銅版術が、司馬江漢を通じて渡來したのは天明三年だつた。一七八三年で、昌造の「植字判一式」購入に先だつ六十年餘である。そして日本の銅版術は江漢以來、亞歐堂田善などがでて、すくすくと成長したが、昌造らの「流し込み活字」は、彼の苦心にもかかはらず、なほ二十年餘を經なければならなかつた。思へば、西洋印刷術の渡來は、遲過ぎるやうな、また早過ぎるやうなものであつた。