四、pp.175-195

 砲數門を備へた露米會社軍艦「ユノ」「アウオス」の二隻は、同社勤務海軍大尉フオストフ、同少尉ダヴイドフに率ゐられて、わが北邊を再度にわたつて襲撃した。文化三年十月、樺太大泊に兵三十名をもつて上陸、松前運上屋を襲撃、日本人四名を捕虜とした。翌年五月は千島列島を南下、エトロフ島に上陸して松前會所を襲撃して日本人五名を捕へた。松前藩は南部、津輕兩藩兵二百數十をもつて急行應戰したが、兵器に時代の差があつて敗戰、松前藩吏戸田又太夫は責を負うて切腹したと記録は傳へてゐる。
 北邊の備へは愈々嚴でなければならなかつた。ところがフオストフ大尉に一片の命令を與へて雲がくれしたレザノフは、フオストフらが最初の遠征中、既にアラスカの寒地で死亡してゐた。しかもフオストフらはオホツク港に凱旋するや、本國の訓令に基かない行動をとつたものとして、オホツク長官の手で逮捕、投獄されてしまつたのであるが、かういふ機微な事情を、松前藩でも知るわけがなかつた。
 ガロウニン事件はかくして生れた。フオストフらが投獄された翌文化八年、海軍少佐ガロウニンは本國の訓令によつて、千島及び沿海州海岸の測量中、六月エトロフにつきて薪水補給をもとめたが、松前配下石坂武兵衞の誘導にかかつて、彼以下六名が捕へられてしまつた。松前に護送され、文化十年九月まで獄中にあり、今日傳る「日本幽囚記」は、このときのガロウニンの手記であつた。これを一方からいふと文字と言葉の不通が媒ちしたものでもあるが、この悲劇はガロウニンから幕府天文方馬場佐十郎、足立左内らを通じて、ロシヤ語が日本に傳へられる機縁となつたし、嘉永年間の渡來に先だつて、種痘法がはじめて日本人の知識となる機縁ともなつた。
 そしてガロウニンが釋放されるためには、つまりガロウニン少佐とフオストフ事件とは無關係だといふことを明らかにするためには、更にいま一つの「高田屋嘉兵衞事件」が生れなければならなかつた。文化九年八月、北方千島の航路を開拓しつつあつた嘉兵衞の觀世丸は、ガロウニンの同僚リコルヅ少佐の「デイヤナ號」に抑留されてカムチヤツカへ連行された。しかし嘉兵衞は歴史が傳へるやうに相手方の眞意を把握しうる程の人物だつたので、翌年四月まだ鎖された海氷を割りながら、新たにオホツク長官代理に任命され、ガロウニンとフオストフとは關係ないといふ釋明書を携へたリコルヅ少佐を伴つて、國後島へ歸還した。そこでオホツク長官代理は日本の要求に應じて、フオストフ事件の謝罪始末書を提出し、ガロウニン以下は釋放、レザノフ以來の紛擾が解決したわけである。
 嘉兵衞の努力は日露國交の危機を救ひ、あはせて日本人の面目を海外に顯揚したのであるが、レザノフは死んでもロシヤ側の日本の門戸をたたく熱意はかはらなかつた。リコルヅのオホツク長官代理を任命されたのは、ガロウニンの身柄を釋放するに必要でもあつたが、同時に「通商」と「國境協定」のための談判を開始する資格の必要からでもあつたといふ。リコルヅと松前奉行服部備後守との會見によつてロシヤ側の希望は江戸へ申送られ、囘答は翌文化十一年エトロフにおいてなすべきことが約された。幕閣の囘答は嘗て長崎においてレザノフに示されたと同樣であつたが、しかし翌年、日、露、蘭の三國語に認められた文書を松前藩高橋三平が携行、エトロフ、シヤナに赴くと、ロシヤの船は會見の場所に來なかつたのである。するとそれより四年後文政元年になつて同藩飯田五郎作なる者が、エトロフ海岸で偶然拾つた筐のなかにロシヤ官憲の文書がはいつてゐて、約定のとほり文化十一年同島北部に來着したけれど、日本の役人をみることが出來ないから、やむなくオホツクに歸航するといふ意味が認めてあつたといふ。
 歴史はときに蒼茫としてみえる。時間と空間をこえて、あるときは近くなり、また遠くなる。ガロウニン事件、嘉兵衞事件が終つて、またプーチヤチン提督が四隻の軍艦を率ゐて長崎沖に出現するまで、約半世紀が經つ。しかも日露國境問題も未解決のままであり、ロシヤは北邊の門戸をひらくことが出來なかつたが、この因縁は絶えたわけでなく、半世紀後、本木昌造が「長崎談判」「下田談判」に通詞として活動する運命も、かうした因縁につながつてゐるわけであつた。
 北邊を襲つた波は、それで一旦かへしていつたが、波のあとに殘つたものに「ロシヤ語」があり「種痘法」があつた。ロシヤ語はこのとき以來幕府天文方において一つの座席をもつやうになつたし、「種痘法」は一部ではあつたが日本人の知識のうちに加へられた。馬場佐十郎がガロウニンから口授されたもので、嘉永二年の痘苗の渡來に先だつ四十年である。しかもこの種痘法は何故實施されず、正確には安政五年に「種痘館」が出來るまで半世紀を待たねばならなかつたであらうか。その事情はガロウニンが退去してから八年め、文政元年に江戸灣に突如あらはれた英國商船「ブラザース號」船長ゴルドンから、種痘具一式を贈られた馬場佐十郎の答にみることができる。彼の答を要約すると、「結構なる品、有難くは存ずるが、殘念ながら受領できない。それは國法の禁止するところであつて、種痘法は自分が嘗てロシヤ人ガロウニンより口授され、國内にも一應知られてゐるけれど、上役人の許可がないので未だにその效力を實驗することが出來ないでゐる状態だ」と述べてゐる。安政五年に種痘法が實施されたのは「西洋醫學所」の力のみではない。云ひ換へればここにも活字と同じ運命があつたのだ。
 さて北方に對する幕府の危惧が去らぬうち、南方では既に「フエートン號事件」が起つてゐた。文化五年でフオストフが北邊を襲撃した翌年である。「海賊」英國はこのとき既に印度洋及び南太平洋において王者の位置を築きつつあつた。一七六三年、わが明和年間にはフランスとの植民競爭にうちかつて印度を奪ひ、一八一一年、わが文化八年には和蘭艦隊を打倒して和蘭東印度會社の根據地ジヤワを陷しいれてゐた。一八一九年、わが文政二年には海峽植民地シンガポールが建設され、一八四三年、わが天保十三年には阿片戰爭を通じて香港島に砲臺が築かれた。「フエートン號事件」はつまり和蘭艦隊打倒後でジヤワ、バタビヤの和蘭政府の實權を掌握、すすんで出先日本長崎の同商館を占領しようとして長崎沖に出現したのである。もちろん目的は商館の占領よりも、日本との通商權利を頬被り的に引繼ぐことにあつて、十九歳の青年艦長ペリウをのせた武裝船が、何故僞りの和蘭國旗をかかげて入港してきたかも、自から明らかだらう。この事件におけるヅーフの策謀、奉行松平圖書をはじめ佐賀藩士數名の引責自害その他、昌造の祖父庄左衞門らの活動などは前に述べた。この事件は、北方のそれよりも影響するところが大きく、幕府は後事に備へるため庄左衞門らに英語の習得を命じたが、日本における英語の歴史はこのときから起原するといふ。
 しかも南からよせてくる波は、北のそれよりも急速ではげしかつた。當時の幕閣には薩摩、琉球より南の方についてどれほどの理解が養はれてゐただらうか。新井白石以來、海外の政策や文物に注意する傳統が失はれたとも思へないが、尠くとも表面は長崎奉行まかせであつて、また長崎奉行の目付ともいふべき代々の和蘭甲比丹から具申する海外ニユースをたよりにしてゐた程度であつたと思はれる。そのことはたとへば文化年度以來、ヨーロツパにおける國際關係が複雜になつて、和蘭船として同國國旗を掲げて入港してくる船々には、アメリカ船、デンマーク船、ロシヤ船、ブレーメン船等があつても、實際にこれを知つてゐたのは長崎通詞のみであつたといふことにもあらはれてゐる。
 これらは和蘭傭船であつた。しかし傭船ではあつたが、これらの異國船はつねに和蘭國旗を放棄して、單獨の日本通商をしようといふ謀反心を抱いてゐたのである。殊に新興のアメリカ船にそれがつよくて、アメリカ船「エリザ號」などは二度めは和蘭國旗を掲げず入港しようとして追ひ返され、三度びそれを企てて三度び追放され、つひにフイリツピン沖合で難破、再び起てなかつたといふ。そしてこれは和蘭傭船ではないが、文政元年五月、異國船が突如江戸灣に出現して江戸の役人たちをおどろかせた。それはイギリス商船「ブラザース號」で、しかも六十五噸の小帆船であつた。恐らくお膝元江戸灣に乘りこんだ最初の船であらうが、まつたく「突拍子もない船」である。本國の政治的意圖ももたない私船で、長崎を無視してのこのこと江戸へやつてきたこの船は、日本の許可を得て貿易をしたいと臆面もなく申立てたところに、異國船渡來の歴史にみて劃時代的な意味をもつものと私は考へる。
 もちろん「ブラザース號」は追ひ返された。そしてこの六十五噸の小帆船の處置について老中をはじめとする役々の動きの記録が殘されたが、ゴルドン船長の方でもおどろいて早々に引揚げた。しかしこのとき浦賀に碇泊したわづか一晝夜のうちに「雜貨類の交易に熱心」な附近の百姓町人たちは「ブラザース號」の甲板に充滿し、船の周圍をとりまく者を加へれば二千を超えたと記録してある。
「突拍子もない船」はしだいにふえた。文政年間から天保年間へかけてアメリカ、イギリスの捕鯨船日本海岸に漂着するものだけでも「數知れず」であつた。前記したやうに文化の末から文政へかけては、アメリカ漁夫たちが大西洋から太平洋に河岸をかへた時期である。しかも未開の太平洋に鯨を逐うてくるものはアメリカ漁夫のみに限らない。弘化三年になると、フランス軍艦「クレオパトラ」が長崎港外に訪れて、日本への交誼をもとめてゐる申出のうちに、「フランス捕鯨船で漂着するものあらば穩便の處置をたのむ」といふ文句もみえるから、フランスの漁夫もあつたであらう。とにかく太平洋はまだ處女であつた。文政八年、幕府は「異國船掃攘令」を出してゐるが、直接にはこの「突拍子もない船」の來着に原因してゐるのは自然だし、よほど手を燒いたにちがひない。文政五年、つまり一八二二年、どんな順を經て日本から抗議されたのか知らないが、アメリカ政府は議會において、自國の捕鯨會社に對して警告を發する決議をしたほどであつた。
 殘念ながら私はアメリ捕鯨船漂着の記録をつぶさにしないから、イギリス捕鯨船だけに限ると、文政五年江戸灣に一隻、同六年に常陸國沖合に六、七隻、同七年同じく常陸國沖合に二隻、同年薩摩海岸に一隻、同八年南部藩沿岸に三隻、同九年上總國望陀沖に一隻、天保二年蝦夷繪鞆沖に一隻といつたぐあひである。これに立役者のアメリカ、それにフランスその他を加へたならば、日本海岸に漂着するもの毎年數件、數十件にものぼつたであらう。
 しかもこれらの船の性質上、南の長崎も北の松前も無視してゐる。長崎の目付役? 和蘭商館さへ事前に豫知できぬやうなやからである。彼らがどんな風にやつてきたか、たとへば文政六年及び七年に、常陸國沖合にあらはれた捕鯨船についてみると、六、七隻の異國船はまつたく食糧薪水に缺乏してゐて、手眞似をもつて意志を通じながら、附近の沖合にゐた水戸の漁夫たちと、ヨーロツパ雜貨と、米や煙草などと交換した。漁夫たちは親しく異國船に招待されて、珍奇な外國の風俗や品々におどろいたが、噂は忽ち漁村から町方までひろがつて、こんどは漁夫を通じて交易せんとする商人が續出した。水戸藩廳ではおどろいて商人、漁夫ら三百餘人を捕へたが、異國船はもはや食糧薪水を得たためか間もなく沖合から姿を消してしまつた。ところが翌年漂着した二隻の捕鯨船は、もはや日本の漁夫らと交易して薪水をうることが出來ないので、ボート四隻で大津濱に上陸、十六名は武裝してゐたが、水戸藩吏に捕へられた。のち取調によつて、食糧補給以外他意なきこと判明したので、釋放されたが、一時は沖合に待機してゐた本船から大砲をうちかけてくる騷ぎであつたといふ。同じ年薩摩領寶島でも、上陸してきたイギリス漁夫たちは、火酒やパン、貨幣などみせて、畑にゐる牛をもとめたが、拒絶されるとこんどはボート三隻に二十名が武裝上陸、本船から掩護砲撃下に畑の牛を掠奪せんとした。しかし薩藩吏の應戰によつて彼らは目的を達せず、一つの遺棄死體をのこして退散した。――
 つまり彼ら漂着船の目的は、自から單純であつた。彼らは、食糧薪水の補給さへすればよかつたし、それ以上にはせいぜい自國の雜貨を與へて、代りにめづらしい日本品を土産にでも出來ればよかつたのであらう。毛色眼色は異つても、言葉は通じなくても、政治的意圖をもたぬ人間同志はつねに親しみやすいものである。しかも記録にのこらない、北は蝦夷から南は琉球までの日本海岸で、そんな事柄は澤山あつたらうと想像することは困難でないから、この時代にこれらの船々が、鎖された國の人々に與へた影響は、けつして小さくなかつたにちがひない。
 そんな意味からもつづいて起つた天保八年(一八三七年)の「モリソン號事件」などは重要であつた。有名なこの事件はアメリカ、オリフアント會社重役チヤールズ・キングを主とし、日本語學者で宣教師ギユツラフ、博物學者ウエルズ・ウイリヤムズ、醫師で天文學者ピーター・パーカーらの一行であつた。「モリソン號」の眞の目的が何であつたか、直接には日本漂民で尾張の船乘岩吉、久吉、音吉、同じく肥後の庄藏、壽三郎ら數名を本國へ護送することで日本の歡心を得、間接には日本通商の下心を得んとするにあつたらうと史家たちは云つてゐる。單に漂民の護送ならば長崎で充分であるものを、避けて江戸灣にむかつたのも、和蘭商館の妨害を懸念したことが考へられるなど、理由の一つである。
 しかしいづれにしろこの船は特殊であつた。その平和的使命を明らかにするために、モリソン號の一切の武裝を解除して、パーカーは醫療器械各種、藥品等のほか天文に關する器械、圖解などを携行、ウイリヤムズはまた博物學方面の資料を準備したと謂はれる。つまりモリソン號はその頃漸く支那において基礎を強固にしてゐたオリフアント會社の通商的野心から準備されたものであつても表面は漂民の護送、同時にヨーロツパ學術の紹介と普及にあつたといふことができよう。ところでモリソン號のかうした内容については翌年になつて和蘭商館長より長崎奉行宛への報告がはいるまで幕閣は何ら知る處がなかつた。江戸灣へむかつたモリソン號は三浦郡白根沖合に差しかかるや小田原藩及び川越藩の砲火をあびて退去。再び薩摩國兒水村近くに投錨したが、ここでも砲火をあびて一發は命中、危險に瀕したので、つひに得るところなく澳門へ歸航したのである。ある史家はモリソン號が通商に野心なく、長崎港にはいつてきたならば問題はなかつた筈だと述べてゐる。勿論それにちがひはないが、禁制の江戸灣にはいつてきた迂濶さには、和蘭商館の妨害を忌避するばかりでなしに六十五噸のブラザース號がのこのこやつてきたのと同樣な、自己の文化に確信をもつところからくる迂濶さといつた空氣があつたのではないかと私は思ふ。十九世紀も半ばとなれば、ヨーロツパ文明も侵略と植民を足場にして印度、支那沿岸に及んだ時期であつた。船の仕立主が一會社であり、乘組員が學者及び技術者に限られてゐたことも特色があるし、表面的にもしろ、こんな目的をもつて西洋から訪れた船は前例のないことであつた。
 老中筆頭水野越前守は翌年長崎奉行を通じて和蘭商館長からの報告によつてモリソン號の目的を知り、「將來同一理由を以て、外國船舶の江戸灣口に接近することあらば、其處置を如何にすべきや」と評定所へ諮問したといふ。漂民護送の船が訪れたことは、スパンベルグ以來、決してめづらしいことではないから、從つて水野の諮問には自から「江戸灣」とモリソン號の「平和的」な目的に對して心を痛めたのではなからうか? そして祕密に諮問されたこの事實が評定所内部から田原藩家老渡邊登へ洩れた。以下渡邊崋山は「愼機論」を書き高野長英は「夢物語」を著はし、ひいて蠻社遭厄事件となつたことは周知の通りである。つまりモリソン號事件への世評は意外の反響をよび、崋山が自殺した翌年「打拂改正令」は出されたが、それによつてもまだ幕閣の苦心は柔らげられなかつたのである。
 開國是か非か? イギリスを先頭とする諸國の勢力は東漸して支那大陸に及び、勢ひは明日にも日本海岸に及ばんとしてゐる。しかも自主的に開國するには國内準備が遲れてゐるし、殊に家光以來の鎖國傳統は、牢固たるものがあつた。そしてモリソン號を追ひ返してわづか六年、弘化元年六月には、和蘭の軍艦「パレムバン」が、日本ではじめてみる蒸汽軍艦が長崎にあらはれたのであつた。
「パレムバン」は、和蘭國王の「開國勸告」の書翰を捧持してゐた。和蘭が開國を勸告する眞意には、もはや彼のヨーロツパにおける國際的勢力が日本を一人己れの顧客として他の諸國と楯つくだけのものを失ひ、それよりは時運に基いて開國を勸め、さうした交誼によつて從來のやうに特惠國ではないまでも、有利の位置を占めようといふ意志もふくまれてゐただらう。しかし蒸汽軍艦「パレムバン」は長崎碇泊五ヶ*1月の後、何ら得るところなく退散しなければならなかつた。江戸から到着した「諭書」はつまり、「開國勸告など無用にねがひたい。從來どほり通商は貴國以外とはしない方針であつて、また貴國との通商も通商ではあつても國交ではない點、誤解なきやうねがひたい」といふのであつた。
 それはまことに取りつく島もないものであつた。「パレムバン」はやむなく國王よりの贈物を長崎出島に遺留して退去したが、當時の幕閣がこの囘答をするまでの成行は、それ自身そんなに簡單ではなかつたやうである。徳富蘇峰氏は「吉田松陰」のうちで、このときの事情を次のやうに述べてゐる。「――むしろ他より逼られて開國するよりも、我より進んで慶長、元和の規模に復り、内は既に潰敗したる士氣を鼓舞し、外は進取の長計を取らん」と水野閣老は欲した。それで水野は將軍家慶の御前において閣議をひらき、その説を主張したが、つひに家慶の容れるところとならず、水野は激して「――既に斯く鎖國と決する上は、和の一字は、永劫未來御用部屋に封禁して、再び口外する勿れ、滿座の方々も果して其の覺悟ある乎」と絶叫したので、次席閣老で、家慶將軍の最も信頼厚かつた阿部伊勢守も、雙眼に涙をうかべ、兩掌を膝に支へながら、「委細承知仕りぬ」とこたへたといふ。――
 それはまことに意味ふかい劇的一場面である。天保から安政へかけて江戸末期を代表する二名宰相、水野越前と阿部伊勢のこの言葉尠い問答のうちに、複雜多難な時代の辛苦が象徴されてゐるやうだ。「パレムバン」の來航は、いはばスパンベルグの來航以來、異國船渡來史第一期の大詰であると私は思ふ。しかも第二期はすぐはじまつて、よせてくる波は益々大きく激しくなつてきたが、このとき、弘化元年十月蒸汽軍艦渡來のとき、既にわが昌造は二十一歳で「小通詞見習」であつた。その職掌柄と、幼少から家藏の蘭書とで鍛へられ「少年時、既に世界的活眼」をひらいてゐたといふところの青年昌造は、どんな考へを抱いてゐたであらう?![#「?!」は縦中横]*2










*1:青空文庫入力ルールに従ひKATAKANA LETTER SMALL KEとするが、入力者にはKATAKANA LETTER KEに見える、青空注記に非ズ

*2:この箇所は、?と!の2字が縦中横で組まれてゐると見るべきか「疑問符感嘆符」(第三水準1-8-77)が1字縦に組まれてゐると見るべきか判断できないが、ここでは2字が縦中横だと青空注記しておく、以上青空注記に非ズ]