三、pp.162-175

 十八世紀末から十九世紀へかけて、日本を訪れる黒船の數はしだいに頻繁となつたばかりでなく、一波また一波、あらたに寄せてくる波は、かへした波のそれよりもグンと大きくなつてゆく觀があつた。しかも鎖された國を脅やかすものは英、佛、露のみではなく、このときは既にアメリカの毛皮業船が、アラスカから澳門へむかつて、帆一枚で太平洋を渡りつつあつた。コロンブス發見以來の新興國民は、イギリスのクツクの探險報告でアラスカ沿岸のおびただしい獵虎の棲息と、それがロシヤ人にだけ獨占されてゐるのを知つて、命知らずのヤンキーたちは小帆船を驅つて殺到してゐた。當時アメリカ人は獵虎を狩るアラスカ土人に、鐵の頸輪一箇を毛皮三枚と交換して、毛皮一枚は澳門で七十五弗で取引されたと謂はれる。寛政四年(一七九二年)にエカテリイナ女皇の遣日使節蝦夷松前にやつてきた年には、日本の東岸とほく太平洋を横ぎつてゆくアメリカ帆船は二十五隻にのぼつたといふことだ。つまり鎖された國を脅やかすものは北と南だけではなくて、東にも出現しつつあつたわけで、さらにこの年前後からは、毛皮船ばかりでなく、大西洋岸にあつたアメリ捕鯨船が太平洋に河岸をかへた頃にあたる。世界最大の未開の海は豐富であつた。アメリカ人たちは抹香鯨を逐うて、南は赤道をこえて印度洋に入り、マダガスカルから紅海に達し、北はベーリング海峽をこえて、オホツクから沿海州一圓に至り、ハワイを通過する船はつひに鳥島をこえて、文政三年(一八二〇年)頃には、わが海岸に食糧薪水をもとめて、房總方面に上陸する捕鯨船が頻繁だつたと記録は書いてゐる。
 かういふ事態は、その二百年前に九州豐後水道にたまたま流れついたポルトガル船や、薩摩海岸に飄然上陸した一宣教師やが、切支丹や活字やをもたらしてきたやうな、ロマンチツクなものでないことがわかるが、さて當時の幕閣は、かうした海の四周のざわめきに對して、どんな理解と方針があつたであらう? 時の老中松平樂翁は、ロシヤの遣日使節ラクスマンに對して、「宣諭使」石川將監、村上大學の目付二人を送り、宣諭使は「異國人え被諭御國法書」を讀みあげて、「かねて通信なき國の船舶本邦に渡來せば、之を逮捕し或は撃攘する事我國法にして、若し漂民あらば、必ず長崎に護送すべし、國書をもたらすとも、受領する事能はず」と云つた。「エカテリイナ號」は根室灣に碇泊して「宣諭使」の來着を待つこと八ヶ*1月のうち、同船で送還されてきた漂民數多も、ロシヤ人乘組員も、また日本側警備員たちも、多數壞血病で死んだ。史家たちは當時の記録をつたへて、この時江戸評議の延引や、ラクスマンへ「長崎入港許可書」を與へたことやを基礎にして、松平越前は或は「松前の一港ぐらゐ開いてもよい」意志があつたのではないかとみる向もあるが、とにかく幕府の苦心は漸くこの頃にはじまつたのだらうか。
 ラクスマン歸國して十一年目「長崎へゆけば國書が受理される」といふ彼の誤解? をもとにして、第二囘遣日使節國務顧問兼侍從ニコライレザノフは、文化元年七月に長崎に到着した。「ナデジユダ」「ネワ」の二軍艦をもつて、國書を捧持しつつ、クロンシユタツト發航以來二年目である。そして漂民護送は容れられたが、やはり通商は拒絶、ロシヤ側の贈物も法規に基いて、全部長崎奉行からおくりかへされて、記録は「ラクスマンの「長崎へゆけば」は誤解であつたことが明瞭」になつただけであると云つてゐる。
 このときは江戸から目付遠山金四郎が下向してきて趣きをレザノフに傳へたが、日本側の意志は出島の和蘭商館長ヅーフの策謀によつて、より冷たく誇大してロシヤ側に傳へられる、つまり「和蘭の妨害」もあつて、このときのことを長崎人蜀山人太田直二郎は「瓊浦雜綴」に次のやうに書き誌した。「――ヲランダの甲比丹、此度魯西亞出帆の翌々日、ヲランダ通詞共を招き、ヲランダ人はヲランダ料理、日本人は日本料理にて大饗せしといふ。八ツ時まで物くひ、酒のみ、歌うたひ、裸になりて騷ぎしなり。是はロシヤ交易の御免なきを悦びて祝の心とぞみえたり――」。
 それに「長崎」は「松前」とはちがつてゐた。ここは日本の玄關の一つで文化の傳統があつた。蜀山人和蘭の妨害について誌したやうに、日本版畫の鼻祖司馬江漢も「春波樓筆記」のうちに誌した。「――魯西亞の使者を半年長崎に留めて上陸も許さず――魯西亞は北方の邊地不毛の土にして下國なりと雖も、大國にして屬國も亦多し、一概に夷狄の振舞非禮ならずや。レザノツトは彼の國の使者なり。――夫禮は人道教示の肇とす、之を譬へば、位官正しきに裸になりて立つが如し――」云々と。
 しかし聖明を蔽ひ奉る幕閣の「鎖國的」戀着は、まだまだ強固なものがあつたので、「和蘭の妨害」などは大したものでなかつたらう。そして半年後に失望のうちに長崎を退帆したニコライ・レザノフは、幕閣も、蜀山人も、司馬江漢も、想像できぬやうな決心を抱いてゐたのである。彼は一旦ペトロポウロスクまで引揚げ、解散すると、使節から早變りして露米會社重役となつて、單身アラスカへ旅立つた。そこで露米會社の全能力を擧げて艦船の建造、兵員の訓練をはじめ、文化二年七月の日付で本國政府へ上奏文を奉り、「日本遠征」の計畫を明らかにしたといふ。まづ樺太島を襲つて日本人を追放し、蝦夷本島を破壞し、さらに日本本土の沿岸にも出動して、日本帆船を拿捕しようといふ計畫で、このことは既に長崎退帆の歸途、一行の海軍大佐フオン・クルーゼンステルンが、沿岸の要衝を密かに測量したりして、海岸防備の脆弱を探査したといふことであつた。そして若しロシヤ本國政府がレザノフの計畫に同意を與へて、順調に進んだとするならば、そしてまたレザノフやフオン・クルーゼンステルンが觀察したやうに、わが日本人が弱かつたならば、英國支那に對して阿片戰爭によつて香港を開放せしめたやうな事態が支那よりも一時代早く起つたか知れない。
 もちろんそれはレザノフの誤りであつた。日本と支那はちがふ。日本の國柄は支那とちがふし、後年シーボルトが觀察したやうに、人種血族的にも經濟的にもちがつてゐる。「――二百年の泰平庇蔭にて、日本國民の文明開化はその高潮に達して、今やわが歐羅巴を除きては、古世界中の最も進歩せるものとなれることは何人も爭ふやうなし」「英國が最近時支那につきて施爲したる處置は日本にては成すべからず、日支兩國の差別は、國民といひ、國家といひ、貿易的産物といひ、通商關係といひ、その差別は歐羅巴において考ふるよりも甚だ大なり」「されば日本には國債といふものなくして著大なる國寶と無限の國家的信用とあり。ある貴人は余に云へり。『――石を錢に鑄るべく、石は錢の價値あり』」と、かくて「日本の住民が混淆なくてある間、日本に於ける外國貿易は、歐洲人が移住し、其住民と交はりて新しき一國民となり、或はその住民を征服[#底本は「制服」]して風俗、習慣、生活必需品一切を強要して、母國たる歐洲との交易を須要とし、有利とするに至らしめたる歐洲外の國々の如くに、繁昌となることは決してあるべからず」(日本交通貿易史)と、この一外國人は結論した。
英國が最近時支那につきて施爲したる」とは、もちろん南京條約及び阿片戰爭の謂であり、「古世界中の云々」は、歐洲以外の基督教文化、若くは機械文明によつて近代化されてゐない國々を指してゐる。しかし私らはしばらく冷靜にして、この歐洲以外はすべて植民地視するところの一外國人の謂ふところをきいてみよう。シーボルトのこの觀察は、レザノフが長崎を去つて、ひたすら武力による日本遠征を企てた一八〇五―七年から三十餘年を距ててゐるが、そしていはば日本通商の特惠國オランダの出先役人であつたシーボルトの「將軍政治」への偏つた傾倒だつたにもしろ「古世界中」では最も發達したる國、無限の國家的信用をもつた國、石をもつて云々と比喩するごとき統一された國、「日本の住民が混淆なくてある間」は歐洲人も決してこれを征服することはできないといふ國。これらは「世界の旅人」フオン・シーボルトの十數年にわたる日本滯在のうちにつみあげられた觀察ではあるまいか。
 レザノフの觀察はそこまで至らなかつた。しかしレザノフはレザノフなりの見解をもつてゐたのである。平和な第二囘遣日使節としての彼の任務を妨害した大きな原因の一つが和蘭商館にあることを、蜀山人に俟つまでもなく承知してゐた。一説によると彼は長崎碇泊中、長崎通詞らをとほして得た知識によつて、佐幕派に對立する勤皇派に味方することで、日本通商の利を得んとしたものとも謂はれる。いかにも皮相な見解だつたとしても、家康の御朱印状以來特惠國として、事毎に「將軍政治」を謳歌するオランダに反感をもつ以上、或は自然な成行だともいへる。レザノフはひたすら戰艦を建造し兵員を募つた。そして若しかレザノフの計畫にロシヤ政府が全的承認を與へたならば、わが國内事情は一應措くとして、われら日本人は祖國を護るために相當の犧牲を拂はねばならなかつただらう。
 しかしレザノフの計畫は、後にみるやうにエカテリイナ女皇についで即位したアレクサンドル一世が承認を與へなかつたために龍頭蛇尾に終つたが、レザノフ一個は簡單に計畫を放棄することが出來ないで、文化四年(一八〇七年)のフオストフ事件となり、日露國交史上最大の暗い頁となつた。フオストフ事件はついでガロウニン事件を産みガロウニン事件はまた高田屋嘉兵衞事件を産んだのである。
 史家たちは今日も、ロシヤ政府がレザノフの計畫に承認を與へなかつた事情、また不承認を知りながら計畫をすすめ、しかも遠征出發の直前になつて、雲がくれして行衞不明となつたレザノフの曖昧な行動について、決定的な判斷を與へることが出來ないでゐる。そこで私は私なりに考へるのだが、尠くともこのレザノフの曖昧な行動に、ロシヤ政府と露米會社の關係が物語られてゐる氣がするのだ。つまり英、蘭等よりも遲れて資本主義化しつつあつたロシヤ政府の出店、露米會社の性格があるのではないか。ピヨトル大帝以來の對日方針はまだ生きてゐて、イギリス政府とイギリス東印度會社の關係のやうにはてきぱきとゆかぬのではないか。しかもレザノフとしてみれば、十九世紀初頭以來露米會社獨占の北氷洋毛皮業は、向ふみずなヤンキーたちによつて急速に侵蝕されつつあつたし、千島列島を南下する植民政策も、却つて人口稠密な日本側からの移住者によつて壓倒されてゐた。しかし彼は、露米會社二代目支配者として、ヨーロツパにある株主のためにも局面を打開しなければならなかつたのである。オホツクから澳門への最短航路を拓くこと、「鎖されたる國」の扉をむりにでもこじ開けねばならなかつたのである。
 露米會社は一七八三年、レザノフの舅シエリコフによつて創立されたが、オホツクからカムチヤツカ、ベーリング海峽をこえてアラスカ北端に至る、つまり北極圈にちかい陸地では人類生存以來の出來事だと謂はれる。土人たちは武力によつて征服され、毛皮税を課されたが、一方からいふとはじめて文字を學び、近代武器や文明品を知り、一と口にいへばヨーロツパの基督教文化に浴したわけであつた。露米會社は初期においては隆盛をきはめ、一七九八年、寛政九年、北邊事情が子平、平助らによつて漸く日本人の間に注意を惹きつつあつた當時、露米會社の株券はヨーロツパにおいて三十五割方騰貴してゐたといふ。レザノフは露米會社支配人であると同時に、エカテリイナ女皇の侍從であり、露米會社は沿海州からアラスカに至る毛皮業はもちろん、植民、開拓の權限を持ち、必要な軍事施設、軍艦の建造、兵員の養成、士官の任免等、殆んど一個の政府にちかい權能を持つてゐた。
 考へてみると、わが江戸時代、南から北から、鎖國の夢をゆすぶり脅やかしたものは、いくつかの會社であつた。殊にオランダ東印度會社、イギリス東印度會社及び露米會社の三つであつた。オランダ東印度會社はジヤワ、バタビヤに根據をおいた。イギリス東印度會社は印度とシンガポールに根據をおいた。露米會社はオホツクに根據をおいた。前二者は十七世紀初頭、秀吉時代に既に東漸しはじめてゐたのである。そしてどの會社もその本國政府に許されて、貿易、植民、産業開發、軍事に及ぶ同じやうな權能をもつて、互ひに相爭ひあつてゐた。葡の、西の、佛のそれらを考へると、それは間斷ない侵略と戰爭の連續であることを歴史は教へてゐる。
 しかしまたそれは同時に近代文化・ヨーロツパ文明の放散でもあつた。ジヨホール王から掠めとつてシンガポールを建設したラツフルズはイギリス第一の東洋通であり學者であつた。オランダ國旗を唯一つ日本長崎で護り通し祖國の歴史を辱しめなかつた甲比丹ヅーフは、日本へ對するヨーロツパの理解を深めた第一の人であり、同じく日蘭貿易關係を改善して東洋におけるオランダの位置を強化したシーボルトはまた日本にとつて近代醫學の光を與へた人であり、ロシヤの版圖を北極圈まで伸張したシエリコフは、學校を建て文字と算術を教へ近代政治を與へて、カムチヤツカやアラスカ土人に不朽の光を與へた人であつた。私はこの歴史の大きな矛盾を簡單に説明する言葉を知らないのである。






*1:青空文庫入力ルールに従ひKATAKANA LETTER SMALL KEとするが、入力者にはKATAKANA LETTER KEに見える、青空注記に非ズ