三、pp.223-235

三「――異船々中の形勢、人氣の樣子、非常の態を備へ、應接の將官は勿論、一座居合せの異人共殺氣面に顯はれ、心中是非本願の趣意貫きたき心底と察したり。旁々浦賀の御武備も御手薄につき、彼の武威に壓せられて國書御受取あらば、御國辱とも相成るべく、依…

二、pp.211-223

二 昌造の、最初の「流し込み活字」は「植字判一式」購入より三年後の嘉永四年に一應できた。そして、その「流し込み活字」の日本文字と、輸入の蘭活字とで「蘭話通辯」が印刷されたのだと謂はれてゐる。 「流し込み活字」の製法は、昌造の場合も、ヤンコ・…

一、pp.198-211

一 さてこのやうに逼迫した對外空氣のうちにあつて、昌造が近代活字を創造した事蹟は、彼の二十五歳のときにはじまつた。幕府への開國勸告使節和蘭の軍艦「パレムバン」が追ひ返されてから五年めで、「長崎通詞本木昌造及び北村此助、品川藤兵衞、楢林定一郎…

四、pp.175-195

四 砲數門を備へた露米會社軍艦「ユノ」「アウオス」の二隻は、同社勤務海軍大尉フオストフ、同少尉ダヴイドフに率ゐられて、わが北邊を再度にわたつて襲撃した。文化三年十月、樺太大泊に兵三十名をもつて上陸、松前運上屋を襲撃、日本人四名を捕虜とした。…

三、pp.162-175

三 十八世紀末から十九世紀へかけて、日本を訪れる黒船の數はしだいに頻繁となつたばかりでなく、一波また一波、あらたに寄せてくる波は、かへした波のそれよりもグンと大きくなつてゆく觀があつた。しかも鎖された國を脅やかすものは英、佛、露のみではなく…

二、pp.148-162

二 嘉永六年(一八五二年)アメリカの黒船四隻が浦賀へきて、日本をおどろかしたと謂はれるが、そのおどろきの劃期的な意義は、おそらく黒船の形にあつたのではなからう。長崎港を無視して、禁制の江戸灣へ侵入してきたことと、不遜にも武力をもつて開國を迫…

一、pp.139-148

一 私はむかしの長崎繪圖を都合三枚みることができた。最初の一枚は帝國圖書館でみたもので、安永七年の作である。あとの二枚は友人Kの蒐集したもので、Kの鑑定によると、一枚は天保年間とおぼしきもの、いま一枚は慶應二年頃と判斷されるものである。 安…

三、pp.126-136

三 伯父昌左衞門の養子となつた幼名作之助は、のち元吉、昌造と改めたが、十一歳以後は通詞たるべく勉強したにちがひない。養父の手ほどきをうけ、通詞稽古所に通ひ、或は養父の手びきで、直接蘭館の外人たちからも學ぶところあつたであらう。そして、昌造の…

二、pp.109-126

二 本木の家は和蘭通詞のうちでも、名村、志筑、石橋、吉雄、楢林らと並んで舊家である。三谷氏つくる家系圖に據れば、その祖を明智光秀の孫、林又右衞門に發してゐると謂はれ、又右衞門より三代庄太夫のとき本木姓を名乘り、松浦侯に仕へ肥前の平戸に住した…

一、pp.95-109

一「――せめては板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に、其功を急ぎ候事、胸に火を煽るが如くにて御座候――」 「海國兵談」の著者林子平は、同書の印刷に當つて、東北の片隅から江戸の有志にむかつて、火急の檄を發してゐる。 「―…

三、pp.76-92

三 木村嘉平は、本木昌造より一年早く、文政六年の生れ、江戸神田小柳町に住んだ。代々彫刻師で、十八歳にして業を繼ぎ、特に筆意彫りをもつて謳はれてゐたといふ。宮内省にも出入し、當時諸大名の藩札の原版は多く嘉平の彫刀に成つたと謂はれる。 「印刷大…

二、pp.63-76

二 すこしばかり出來かかつてゐた本木昌造のイメーヂは、私の頭の中で無殘にくづれていつた。最初のうちは「遠西奇器述」の寫本など見る氣がしなかつた。私の頭の中には、白髮の總髮で、痩せた細おもての燃えるやうな理想と犧牲心とで肩をそびやかした昌造の…

一、pp.51-63

一 三谷幸吉氏が亡くなると、生前にあづかつた「本木昌造、平野富二詳傳」の再版原稿が、私にとつては遺言のやうな形になつた。つまり三谷氏の志を繼いで、私も近代日本印刷術の始祖ともいふべき人について、その功績を讃へるために何か書かねばならぬ。 私…

四、pp.39-48

四 三谷氏と私はしばらく顏を見合せてゐた。病人は細君に涙を拭いて貰ひながら、くるしい呼吸づかひだが、滿足氣であつた。 大震災當時のことだから二十年ちかくもならうか。共同印刷會社の第一製版工場で、私も三谷氏も同じ植字工だつたのである。その當座…

三、pp.27-39

三 昭和十六年の夏になつて、ある日H君といふ若い人が訪ねてきた。會ふのは始めてだが、私がいつか書いた印刷文獻に關する隨筆が縁になつて、「本邦活版開拓者の苦心」といふ書物を送つてくれ、二三度文通したことがある。H君は關西の人だが、最近上京して…

二、pp.14-27

二 私はときをり上野の帝國圖書館や、九段下の大橋圖書館に通つて、印刷に關する文獻を讀み漁つた。そして印刷に關する書物では、大橋圖書館にくらべると、やはり上野の圖書館の方がはるかに豐富であつた。 私はそこで「世界印刷年表」とか、「印刷局五十年…

一、pp.3-14

一 活字の發明について私が關心をもつやうになつたのはいつごろからであつたらう? 私は幼時から大人になるまで、永らく文撰工や植字工としてはたらいてゐた。それをやめて小説など書くやうになつても、やはり活字とは關係ある生活をしてゐるのであるが、活…