一、pp.139-148

 私はむかしの長崎繪圖を都合三枚みることができた。最初の一枚は帝國圖書館でみたもので、安永七年の作である。あとの二枚は友人Kの蒐集したもので、Kの鑑定によると、一枚は天保年間とおぼしきもの、いま一枚は慶應二年頃と判斷されるものである。
 安永の墨一色の「長崎之圖」は、大畠文治右衞門といふ人の作で、可なり精細である。町の中央をやや左寄りに二股川が流れ、その上流は二つの支流にわかれてゐる。左の支流は、後年シーボルト長崎奉行の肝煎りで新知識普及の道場とした鳴瀧に源を發してをり、そのほとんど近くに昌造の生地新大工町がある。二股川はその下手で右からくる支流をあはせて、まつすぐに海へそそぐのであるが、河口の左側突端に「唐人屋舖」があり、河口の右手にもつと大きな扇型の島がある。これがいはゆる「出島」であり、「和蘭商館」のあるところである。この圖でみると、出島は帽子の玉飾りのやうで、帽子にあたるところ、つまり出島と橋一つでつないだ、やや圓型の突端に長崎奉行所がひかへ、その裾を八の字にひらいた長崎の町々の、港を中心に繁榮してゐるさまが描かれてある。海にむかつて、奉行所の右手海岸はとほく弧をゑがきながら肥後、筑前、佐賀、平戸、諫早、柳川などの各領主、當時日本の入口を護る年番諸侯の屋形所在地がつづいてゐる。
 私は興味をもつて港の沖合にかかる船々の繪をみた。大小さまざまの船がある。オランダ船、シヤム船、ナンキン船――。私は船について全く知識がないから判斷のしやうもないが、これらの外國船はいちやうに三本マスト、或は四本マストの、扇をひらいたやうな恰好で、ズングリと、胴のふかい、紅だか青だかで彩つた船である。マストのてつぺんに幾條もの旗じるしをなびかせて、マストは蜘蛛の巣のやうに綱梯子がかかつてゐる。もちろん、まだ帆の力一つで東支那海や印度洋の荒波をこえてくるのだらうが、十六艘の端舟に曳かれて港にはいつてきつつある「オランダ入船」も、まだ沖合にゐる「シヤムかかり船」も、みな帆をおろしてゐる。同じ帆船でも「かかり船」のすぐそばにみえる年番らしい肥後細川侯の九曜の紋のある一枚帆のそれが、風を孕んではしつてゐるのに比べれば、このへんで帆を張つては危險なほど巨きなものらしい。奉行所の傳馬型の「改め船」や「番船」やが、對岸の飽ノ浦から沖合の小島へかけて、一番、三番、五番などの石火矢臺(沖の水平線からあらはれてくる異國船の見張所であり、また護りの砲臺でもあつた)のへんまで點在してゐるさまが、鎖された海の日本の入口の、ある緊張したものものしさのうちにも、どつか堰きとめきれぬやうな生々としたものにあふれてみえる。
「長崎之圖」の奧附のそばに、當時の國内航路とでもいふべき海上里程が誌されてあつて、江戸へ四百七十里、京都へ二百四十八里、大阪へ二百三十五里、薩摩へ九十七里、對馬へ九十九里半などとなつてゐる。つまり南は薩摩、北は江戸へ及んでゐるが、江戸から北は誌されてない。歴史に從へば、江戸時代が蝦夷地の經營に直接身を入れだしたのは寛政以後、松平樂翁以來のことだといふから、この圖が出來たころまでは松前(函館)も繪鞆(室蘭)も、特別以外の航路としてはなかつたのであらうし、薩摩の更に南方琉球との航路も、直轄島津藩との間にのみあつたのであらう。
 天保年間とおぼしき長崎之圖は、安永のそれと比べて、ほとんど名所錦繪であつて、彩色はきれいだが、粗末である。町名もすくなく、海岸線も山々の所在もボヤけて、地理的な推測は不可能である。港にかかつてゐる船々の姿はわりかた綿密であるが、オランダ船とナンキン船の二種だけで、シヤム船も見えない。すべてが赤や青の彩色にかすんでしまつて淋しい。天保年間といへば終りにちかい同十三年には「異國船打拂改正令」が出てゐるが、まだ高橋作左衞門とシーボルトとの間に、かかる日本地圖海外持出し事件から數年しか距ててをらず、こんな名所圖繪にも影響するところあつたか知れない。
 しかし私の興味は三枚の長崎繪圖をとほして、沖合にかかつてゐる外國船の形の變遷にあつた。友人Kが慶應三年頃だと判斷する最後の一枚は、沖合の外國船の形がまるで變つてゐる。ナンキン船などどつかへすつこんでしまひ、二百餘年間長崎港の花形であつたオランダ船でさへ、隅の方にちひさくなつてゐる。ヱゲレス船、アメリカ船、オロシヤ船などが、それこそ港を壓してうかんでゐる。それに、これらの新來の船は圖體が巨きいばかりでなく、安永のそれに比べると怖ろしく長い。おまけに船の胴なかに巨大な車をつけてゐる。つまりこれらは蒸汽船である。まだ帆の力をまつたく無視してはゐないが、この奇怪な水車が、印度洋や太平洋の荒波をかきわけてきたのである。
 安永のそれから天保のそれまで約六十年、天保のそれから慶應のそれまで約三十年、通じて約一世紀の、長崎港の沖合にかかる外國渡來の船の姿のうつりかはりは、誰にしろ海の日本の歴史を知りたい慾望をおこさせられるだらう。
 日本の活字は昌造らによつて移植され、あるひは創造されたのであるが、一方からいふと、活字は船に乘つてきたものであつた。ドイツ人グウテンベルグが活字を發明したのは、西暦でいふと千四百四十五年で、昌造らがこれを移植したのは同じく千八百七十年であつて、四百餘年が距てられてゐる。その間、皇紀二千二百年頃、元龜、天正のじぶんにグウテンベルグ發明後百五十年ぐらゐ經つて、近代活字が全歐洲にゆき渡つて間もないときに、切支丹宗教と一緒に渡來したのであるが、家光將軍の鎖國方針によつて、切支丹と共に放逐されてこのかた、三百年そのあとを絶つたことは前に述べた。しかしあのとき活字や手鑄込式の活字鑄造機やが放逐されなかつたらば、日本の近代文化はどんなだつたらうと空想することは、面白いは面白いが、馬鹿げてゐよう。考へてみると、一つの文明品もそれ自體獨立に誕生するものでも成長するものでもないことは、三百年後それが再び渡來するまでの、寄せてはかへし、かへしては寄せくる波のやうな船々の渡來が、どんな複雜な事情と結びついてゐたかを考へれば、おのづから納得できることだからである。
 日本の近代活字は開國と結びついてゐる。若し明治の維新がなく、開國のことがなかつたらば、わが近代活字の運命もおのづから明らかであつた。したがつて昌造、嘉平、幸民、富二らの日本活字創成の苦心も、開國の雪崩をうつやうな過渡的な容貌をおびてゐるのも自然であらう。ドイツ・マインツの貴族であつたグウテンベルグは、宗教上の意見から平民たちと衝突して、ストラスブルグに亡命した。そしてこの鼻つぱしのつよいドイツ貴族は亡命十一年間、獨佛國境の古都にあつて、心しづかに活字創造に沒頭したし、以後の半生ももつぱらそれに終始することができた。ところが「日本のグウテンベルグ」は、その生涯のほとんどを政治的動亂のうちにおかねばならなかつた。彼は活字のほかに造船もやらねばならなかつたし、自から船長もやらねばならなかつた。製鐵事業もやれば教育もやつた。そして「はやり眼の治し方」や「石鹸のつくり方」や「ローソクと石油の灯はどちらが強いか」などに至るまで、大童になつて宣傳しなければならなかつたのである。
 そしてこの相違こそ、開國の事情を知ることなしには日本の活字が説明できない所以であらう。私は先輩友人に教へられて、江戸時代の海外關係史のそれこれを讀んだ。そして私らの遠い祖先と、當時の海の日本の、自分らの位置を知る氣がした。蝦夷地のむかふ、エトロフや、アラスカや、カムチヤツカの、氷に鎖された地圖の涯にも、おどろくべき歴史があつた。私の頭では蒸汽船以前にはまるで空白のやうであつた太平洋にも、アラスカから支那澳門まで、直線に乘つきつてゆく帆かけ船の歴史があつた。日本海のむかふ、海と陸との區別だけしかハツキリしてゐないやうな沿海州から、シベリヤの茫漠とした地圖のうちには、ジンギスカンの後裔モンゴリヤ人と慓悍無比なロシヤコサツクとの、まるでお伽噺にきくやうな永い歴史をかけたたたかひがあつた。そして鐵砲といふ新武器をもつてジンギスカンの後裔たちを征服したスラヴ族は、地球の北端まで東漸し、やがて千島列島に沿うて南下しつつあつたのである。また南方薩摩、琉球のむかふには、ジヤワ、スマトラに根城をおくオランダ艦隊と、印度、マライに足場をもつイギリス艦隊とが、南太平洋や東支那海で覇をあらそひながら、東上しつつ、オランダ艦隊が臺灣を掠めとれば、イギリス艦隊は琉球に上陸した――。
 江戸時代が三百年の鎖國にゐるうち、海の日本の四周は、刻々にヒタしてくる「戰爭」と「文化」の波であつた。そして活字は昌造らがそれを拾ひあげるまで、四世紀にわたつて長崎の海邊に漂つてゐたわけである。