一、pp.3-14


 
 活字の發明について私が關心をもつやうになつたのはいつごろからであつたらう? 私は幼時から大人になるまで、永らく文撰工や植字工としてはたらいてゐた。それをやめて小説など書くやうになつても、やはり活字とは關係ある生活をしてゐるのであるが、活字といふものが誰によつて發明されたのか、朝晩に活字のケツをつついてゐたときでさへ、殆んど考へたことがなかつた。しひていふならばこれもすこし縁のとほい「舶來品」くらゐに思つてゐた。ずツと海のむかふから、鐵砲や、蒸汽機關や、電氣や、自動車と一緒に、潮のごとく流れこんできたもので、えらいことにはちがひないが、何となく借物のやうな氣がしてゐた。それにもつと惡いことは、空氣の偉大な效用は知つてゐてもかくべつ有難いとも思はぬやうな、恩澤に馴れたものの漠然とした無關心さで過してゐたのである。
 したがつてドイツ人グウテンベルグや日本人本木昌造の名をおぼえたのは、ツイここ數年來のことである。それもどういふ動機でグウテンベルグや昌造に關心をもちはじめたか、自分でもハツキリわからない。多少こぢつけを加へて云ふならば、著述をするやうになつてからは、人間の世界に言葉が出來、言葉を表現する文字が出來、その文字を何らかに記録して、多數の他人と意志を疏通したり、後世にまで己れの意見をつたへたりするやうになつたことが、どんなに大したことであるかといふことを、いくらかでも身に沁みるやうになつたせゐかと思はれる。
 あるとき、私は上野の美術館に「日本文化史展」を觀に行つた。昭和十五年五月であるが、朝日新聞社の主催であつた。全國から國寶級の美術品があつめられてゐるといふこともまたとない機會であつたし、それに新聞の宣傳によると、幕府時代にオランダからある大名に贈られたダルマ型の印刷機が陳列されてあるといふことも興味があつたのである。ところが會場へ行つてみると、貧血症の私はたちまちに疲れてしまつた。混雜もしてゐたが、出品があまりに厖大で、まるで豫備知識のない人間にはめまぐるしくて、つまり何を見たんだかサツパリわからない。
 教師に引率された中學生や女學生、地方から上京してきた團體なども澤山あつて、とても一つの陳列品のまへに足をとめるなどできない。幾つかの室を押しこくられ押しこくられ、やつと階下へおりて特別室との間にある休憩場までたどりついたときは、もうボーツとなつてゐた。しかしあとになつてそのとき殘つた印象を纒めてみると、伴大納言繪詞とか、鳥羽僧正の繪とか、狩野派の繪とか、いろんな有名な日本繪のある室を過ぎて幾室めかに陳列されてあつた淺井忠の「收穫」とか、高橋由一といふ人の「鮭」などいふ繪のまへにたつたときの何かしらホーツとなつた氣持と、いま一つは瀧澤馬琴の「八犬傳稿本」を觀たときのある感動であつた。もちろん私に「收穫」や「鮭」の繪畫としての佳さ加減を他と比較したりする力はないのだから、ホーツとさせたもののうちには、繪畫自體のうちに何かテクニツク以外のものがあるのであらうか? 「八犬傳稿本」は二頁見開きになつて、刷り上りの同頁とならべて、脊のひくい硝子箱のなかに披《ひろ》げてあつた。私はガンバツて背後からおしてくる人波を脊中でささへたつもりだが、あれでも正味は一二分くらゐだつたらう。稿本は頁のまはりに朱色の子持枠がひいてあり、一方の頁の下部には小姓風の若侍が、一方の頁の上部にはながい袂で顏をかくした、頭をかんざしでいつぱいに飾つてゐる姫樣の繪があつて、一つの情景が釣合よく描かれてゐる。文字はその繪と繪の間をうづめてゐるが、つまり馬琴は文章と繪を一緒に描いたばかりでなく、同時に製版の指定もやつてゐる。出來上つた本と見比べても殆んどちがつてゐない。昔の小説家は自分で繪を描き、文章をつづり、子持枠までつけて、己れのイメーヂをこんな具體的な形で、たのしく描いたのであらう。
 私は版木をさがしてみたが見當らなかつた。稿本が出來ると、版下屋が版下を描き、版木屋が版木を彫り、やがて雙紙などでみる、袂を手拭で結へた丁髷親爺の「すりて」が、一枚づつ丹念に「ばれん[#「ばれん」に傍点] 」でこすつたのであらう。私は姫樣と若侍の繪の配置が、今日の凸版や寫眞網版でする配置の趣向と同じであるのにおどろいてゐた。そして咄嗟の感じではあるが「伴大納言繪詞」などをロマンのはじまりとすると「八犬傳稿本」でも、まだ繪と文は確然と分離してゐないと思つた。文字は獨立してをらず、版木に彫られるときは繪も同じであつたらう。「伴大納言繪詞」と「八犬傳稿本」と、千年の歳月を距てて、形からみた日本ロマンの傳統といふものを考へることは、印刷工であつた私には興味があつた。それに「大納言」をはじめ第一室にあつた幾つかの繪詞類は、一枚の紙がすべてである。著者であり、印刷者であり、出版者であつた。「八犬傳」ではそれに版木が一枚加はつたことで、もはやロマンの性格からしてちがつてきてゐるやうであつたが、しかしさらにそれを今日の複雜な印刷術の發展にまでおよぼしてみると、じつにはるかな、はるかな氣がするのである。それは「八犬傳」と「大納言」を距ててゐる千年の歳月よりももつととほい氣がした。何よりも今日では、文字は繪を離れて獨立してゐるといふことだつた。
 特別室の入口には「印刷文化の歴史」と書いた紙が貼つてあつて、室のテーマを示してあつた。最初の方は朝日新聞が創刊當時使用したといふ由緒書のある、古風な美濃判型ハンドプレスとか、半紙型ハンドフートなどの實物が陳列してあつて、次には寫眞で菊八頁の足踏式ロールとか、動力式四六全判のロールなどが年代順に示してある。それからは一擧にマリノン式輪轉機とか、高速度朝日式輪轉機とか、めくらむばかりの急速な印刷機の成長が觀衆をおどろかせてゐた。殊に實驗中の寫眞電送機のまはりはいつぱいの人だかりで、室ぢゆうの人氣をさらつてゐた。
 しかし「印刷文化の歴史」とは云つても、この室はつまり明治以降の印刷術であつた。室のうちをボンヤリ見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、私の頭では「八犬傳稿本」のばれん[#「ばれん」に傍点]刷り印刷術からここに至る、その中間がどつかで途切れてゐる。ハンドプレスや足踏ロールに電動機が加はつたことも、たしかに一つの革命的發展であるが、しかしばれん[#「ばれん」に傍点]刷りからハンドプレスに、即ち機械力に變つたといふことは、もつと、もつと大變なことに違ひないが、その道行きが私には解せないのであつた。
 そのうち私は、フト足もとに思ひもかけずなつかしいものをめつけてびつくりした。そこは人氣の乏しい室の片隅で、古風な、それは朝日新聞が創刊當時使用したといふのよりもつと古風なハンドプレスが、誰一人觀てくれるものもなく、ころがされてあつた。不恰好に大きく彎曲した二本の支柱も、ハンドの「握り」も、支へのついた一本のレールも、みんな赤く錆びついてゐる。私はわれ知らずそばへ寄つていつて、彎曲した支柱にさはりながら「おお、お前はまたどうしてこんなところにゐたのか」と、心のうちで呟いたほどである。
 何十年になるだらう? 私はこの機械と共にはたらいてゐたのである。その頃十二歳だつたから、もう三十年を超える。私はハンドの「握り」に手をかけてから「手を觸れるべからず」といふ「札」に氣がついてひつこめた。ハンドの根元、すなはち壓搾盤をおしさげる胴の形も今樣の蛇腹のギヤではなくて、太鼓型の、水車風に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉がすすむにつれて釘で止める式のものだつた。この一本レールに足をふんがけて、ハンドへ雙手をかけて、踏んぞり踏んぞり、一日に何百囘何千囘をくりかへしたことだらう。この赤錆びたハンドめは、私の幼い掌を豆だらけにし、いつも御機嫌のわるい壓搾盤めは、どんなに工夫しても右肩だけを強くおとす癖をもつてゐて、刷り物をムラにしては、兄弟子たちに幾度インクベラを叩きつけられたか知らない。もちろん御機嫌のいいときもあつたわけで、いそがしい年末の徹夜業のときなぞは、私はなかば眠りこけて、このハンドにブラさがつてゐたやうなものだ。
 それは昔の幼な友達であつた。しかしまるい支柱を撫でながらフトむかふの壁の貼紙を讀んだとき、またびつくりした。貼紙によれば、これが宣傳にあつた、幕府時代にオランダからある大名に獻上されたダルマ型ハンドプレスといふことだつた。私は指を折つて數へてみた。十二歳は明治四十三年である。すこし年代が距りすぎてゐる氣がするが、もちろんこのオランダ渡りのハンドプレスそのものが、三十年前九州の片田舍で私の使ってゐた機械ではあるまい。しかし電動機が九州一圓にも普及したのは、もう大正になつてからだから、このオランダ渡りはその見本となつて、日本でも製作され、同じ型のものが九州の片田舍では何十年も使用されてゐたのであらうか。
 私は偶然ながら昔の友達に逢へた喜びのほかに、印刷機械の歴史を四五十年遡ることが出來たのを覺えながら、その古風なダルマ型プレスのそばに、しばらくはたつてゐた。そして頭の中では、一方では「伴大納言繪詞」から「八犬傳稿本」までまつすぐにきて、また片方では高速度輪轉機や動力式ロールやダルマ型プレスといふ順に、明治のむかふまで遡ることが出來ながら、たちまちにしてオランダといふとんでもないところへ逸れていつてしまふのだつた。
 眼をうつすと、片方の壁には、等身大の文撰工たちが、てんでに文撰箱や原稿を握つて、活字ケースにむかひあひながら作業してゐる、製版工場の大きな寫眞が貼つてあつた。寫眞の中の文撰工たちは霜降り小倉の制服を着て、靴を穿いて、朝日のマークのはいつた作業帽をかぶつてゐる。私たちが唐棧の素袷に平ぐけの帶をしめて、豆しぼりの手拭など頸にまいて作業してゐたのに比べると、ずゐぶんちがふ。しかしケースの配置も、作業順序も、つまり中身は昔のままだつた。しひていふならば、活字のポイント制がもつと嚴密になり、紙型を澤山とるやうになつたために、地金の硬度が強化されてゐるくらゐのことであらう。
 そしてここでも、木版と鉛活字との間の距りがつよくでてくるのだつた。それにダルマ型ハンドプレスがオランダから渡つてきたといふのはそのままのみこめるが「活字も外國からきたのだらう」では濟まないものがあるやうに思へた。たとへば電車も自動車も蒸汽船も外國から來た。それは舶來のままで、日本の道路を走り、日本の海を走つたが、しかし活字はさういふわけにゆかぬ。字體もちがふ。文字の數もちがふ。外國の書物と日本の書物を比べても、製版の形式もちがふのがわかる。つまり電車は外國で作つたものでも、日本のレールを走ることが出來るが、活字はすこしちがふのだ。
 誰が、日本の活字を創つたらう? どういふ風にして創つたのだらう? 私は會場を出て寛永寺の坂を廣小路の方へくだりながら、そんなことを考へた。プレスやロールはオランダからでも眞ツすぐにこられる。しかし活字は、外國からきたにしても、きつと日本的な道行があるにちがひない。誰が日本の活字を、どういふ風にして創つたか? それがわかれば「伴大納言繪詞」から「八犬傳稿本」から近代小説まで、つまり日本印刷術の傳統が眞ツすぐにつながらうといふものだ。