二、pp.14-27

 私はときをり上野の帝國圖書館や、九段下の大橋圖書館に通つて、印刷に關する文獻を讀み漁つた。そして印刷に關する書物では、大橋圖書館にくらべると、やはり上野の圖書館の方がはるかに豐富であつた。
 私はそこで「世界印刷年表」とか、「印刷局五十年史」とか、「南蠻廣記」とか、「印刷文明史」とか、「世界印刷通史」とか、「現代印刷術」とか、「古活字版之研究」とかいつた書物を讀んだ。そのほか明治末期から大正へかけて、印刷文化の大衆化につれて印刷屋を開業しようとする人のための手引きといつた、ごく通俗な書物にもぶつかつたが、名前をおぼえてゐるやうな本はたいてい立派なものだつた。なかでも「古活字版之研究」や「印刷文明史」や「世界印刷通史」などは、量的に厖大なばかりでなく、世間からはあまり顧みられない特殊な研究の一テーマのために、自分の生涯を捧げつくしても尚足れりとしないやうなきびしさがあつて、私は壓倒される氣持がした。
 しかし私のやうな入口も出口もわからない初心者のつねで、それらの書物を忠實に讀んだわけでもコナしたわけでもない。その著者に對しては申譯ないやうな氣儘な讀み方もする。目次をひろげて面白さうなのを飛び讀みしたり、それかと思ふと熱心に書き拔きしたり。ある書物では、四千年前バビロニア國のバビロニア人が、粘土の上に文字を書いた。學校があつて、學校の門は粘土の山で出來てゐる、生徒たちは登校すると、てんでに門の粘土をくづしとり、一ン日書いたりくづしたりして、をはるとまたその粘土で、門の山を築いて歸つていつたといふ話を、著者の想像らしい※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28、16-8]畫と共に面白く記憶にのこした。また別の書物でバビロニアだかどこだかの女王が、自分の傳記みたいなものを粘土に書いて瓦に燒いたものが四千年後の今日發見されたといふ文章が、つまり私には「紙」以前に何に印刷されたかといふことで興味があつた。やはり西洋歴史の「貝殼追放」なども、貝殼に文字を書いた歴史であり、その後は牛や羊の皮に文字を書いて、一卷の書物は今日の呉服店のやうに大きな丸束にして書物の値段札がブラさげてあつたといふ。支那の畢昇が粘土で活字を作つたのは、グウテンベルグに先だつこと五百年だが、日本の陀羅尼經、天平八年法隆寺の印刷物はまたそれに先だつ二百八十年といつたやうなこと、その陀羅尼經の原版が木であつたか銅であつたかといふ詮議を、著者と共にボンヤリ※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28、17-5]畫を眺めてゐたりすると、なかなか印刷の歴史も茫洋としてゐて、いつになつたら日本の木版から活字にうつる過渡期の傳統が理解できるのかわからなかつた。
 もちろん獨逸人ヨハン・グウテンベルグの名は最初におぼえた。美しい※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28、17-8]畫があつて、グウテンベルグがその協力者二人と一緒に、彼の作つた活字の最初の校正刷りを眺めてゐる感激的な場面である。そばに所謂龜の子文字の三十二行バイブルの寫眞があり、西暦千四百四十七年とある。西洋印刷術はまづ獨逸に始まつて、フランスからイギリスへ、イギリスからアメリカへ、また一方ではオランダやイタリーやロシヤへ、十五世紀から十六世紀へかけて西半球を擴がつていつた徑路もおぼえた。そして同じ千六百年初頭、即ち天正、文祿、慶長の頃、ポルトガルの宣教師たちははるばる太平洋を越えて、肥前長崎に西洋印刷術を傳へてゐる。所謂切支丹版のことで、これは「南蠻廣記」も「印刷文明史」も「古活字版之研究」も、力をこめて書いてゐる。
 印刷機はもちろん西洋活字も「鑄造機」さへ渡來してゐると「南蠻廣記」は書いてゐる。「古活字版之研究」はたくさんの切支丹版を寫眞で紹介してゐる。殊にローマ字綴の「太平記」の印刷は、私のやうな經驗者からみてもおどろくほど立派であつた。しかし信長、秀吉、家康に至る日本の政治的事情は、西洋印刷術を島原半島加津佐から天草に逐ひ、天草から長崎に逐ひ、つひには長崎から國外に斥けて以後、徳川三百年間はその後を絶つた。「印刷文明史」の著者は言葉をはげまして次の如く書いてゐる。「若し日本において鎖國の令出でざりしならば、我國の洋式印刷術は豐臣氏の晩年より徳川氏の初期にかけて、既に隆盛をきはめしならん」
 ところが讀者の私には、切支丹版について三書三著者がそれほど力説してもまだつよくは感じないのであつた。肥前加津佐に渡來した印刷術が滅亡してから後、三百年の間、「蘭學事始」をめぐる人々や、その他澤山の日本の學者たちが、一方の欄はアルハベツトの活字印刷で、一方の欄は毛筆の墨書きでオランダの辭書を作つたやうな苦心を知らないし、林子平が「海國兵談」の版木を生命より大事に抱へ歩いた必然さを聯關して考へることが出來なかつた。大鳥圭介が鉛の鐵砲玉に文字を彫刻したとか、わけても本木昌造が、刀の目釘の象嵌に鉛を流しこんで、今日の活字字母の啓示を得たといふやうな、封建三百年の跛行的な日本文化の運命を、それこそ自分の背中にのせてウンシヨ、ウンシヨと搬んだやうな、じつに數多くのすぐれた人々の苦心が、文明開化の明治時代に生れあはせた私には、身に沁みてはわからぬからであつたらう。
 帝國圖書館の特別閲覽室は、夏はまだよかつたが、冬はスチームがとほらぬので寒かつた。圖書館にゆくときはなるべく早く家を出て、閲覽室の陽當りのよい窓ぎはに椅子をとらうと心掛けても、いつも常連に先を越されてしまふ。却つて陽ざしが辷つてしまつた正午頃になつておちついてくるが、そんなときふツと眼をあげて窓外をみると妙な氣分になることがある。風に搖いでゐる裸樹の梢を越えて、鈍い灰色の雲の中から飛行機の爆音が間斷なく降つてゐた。讀んでゐる書物の時代や空氣から一種の錯覺をおこして、いま自分たちが支那事變や世界大戰の裡にあることを忘れてゐることがある。そして室の中に眼を戻すと、机の上に背中をまるくした人々が咳一つしないで、昨日も今日も同じ後ろ姿をみせてゐるのが、何か不審に思へるやうなことがあつた。
 またこの圖書館の食堂は、私の知るかぎり東京の圖書館食堂で一等貧弱だと思へた。貧弱はかまはぬが、場末の安食堂のやうな亂暴さに加へて、をかしな官僚ぶりをもつてゐた。時節*1柄コーヒーもうどんもなかつたり、あるときはお菜だけあつて飯がなかつたりするのは仕方ないことであるが、
「お菜だけですよ、いいですかア。」
 カウンターにゐる女給は拳の腹で出納器の釦を叩きながら怒つた聲でいふのであつた。しかし私の關心はそれよりも食堂に入つてくる人々の容子が、町の食堂なぞでみるそれとずゐぶん異つてゐることである。學生だらうと紳士だらうとに拘らず、カウンターの突慳貪な聲にも、まるで叱*2られてゐるみたいに靜かにしてゐることだつた。
 あるとき割箸の屑で燃してゐるストーヴの傍で、私たちは三十分すると出來るといふ飯を待つてゐたが、三十分經つても却々飯は出來ない。私はしだいに苛々してきたが、やがて佛頂面してゐるのは自分一人だと氣がついてきた。汚れたテーブルの前に坐つてゐる學生も、さむいたたき[#「たたき」に傍点]の隅で凍える靴の爪先をコツコツやつてゐる紳士も、みんな默念としてゐる。同じテーブルに坐つてゐる二重※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しを着た男は特別室の顏馴染だつたが、醤油のこぼれたテーブルを鼻紙で拭いて、うすい和綴の本を擴げてゐた。白髮の雜つた口髭も頭髮もだいぶのびてゐる。時折眼をあげて、女給たちの喋くつてゐる料理場の窓の方を見るが、またゆつくりとその蟲の喰つた木版本の上へ戻つてくる。氣がつくとその男がストーヴの方へ持ちあげてゐる竹の皮草履をはいた足のズボンには穴があき、足袋は手製らしく不恰好に白絲で縫つてあつた。
 私は少し恥かしく思つた。讀書人も十分に戰爭の中にゐるのだつた。彼等は爆彈が頭上におちてきても、自若として自分の研究を遂行するために、書物から眼を離さぬだけの覺悟はもつてゐると思はれた。
 ときたまの圖書館通ひであつたが、いつかその空氣に馴染んでゆくうち、おぼろげながら日本印刷術の輪廓がわかつてきた。ロンドンの大英博物館に世界最古の印刷物として保管されてゐるといふ陀羅尼經以來、日本の印刷原版は木ないし銅の一枚板であつた。もちろん唐や天竺の坊さんと一緒にきた印刷術であつて、量的にもいかにわづかであつたかは「古活字版之研究」にある附圖、室町末期の日本全土における印刷物の分布圖をみても明らかだ。何々の國何々郡何々寺所藏何々經何部といつたぐあひである。日本印刷術中興の祖は、秀吉の朝鮮征伐、銅活字の土産物に始まつてゐて、切支丹を長崎から逐つた同じ家康が、その活字を模倣してほぼ同數の銅活字を鑄造彫刻してゐる。それによる最初の開版は「古文孝經」と謂はれるが、そのくだりは私にとつて特に興味があつた。
 勅命によつて六條有廣、西洞院時慶の兩公卿は三ヶ*3月に亙り、毎日禁裡の御湯殿近くの板の間で、活字を拾ひ、ばれん[#「ばれん」に傍点]で印刷する仕事を奉仕したことが、西洞院の日記にある。寫眞でみると、その活字ケースは今日のそれとまるで異ひ、字畫の似たやうなものを寄せ集めたに過ぎぬのだから、長い袂を背中にくくしあげた二人の公卿さまが、どんなに苦心して一本づつ探し拾つたか目にみえるやうで、それが日本文撰工の元祖であると思ひ、なつかしく尊い氣がするのであつた。
 世に謂ふ「一字板」の言葉のいはれもこの活字から始まつたことを會得した。銅活字はやがて木活字になり、日本の印刷術はしだいに大衆化したが、徳川の中期に近づくと、こんどは木活字が再び木版の再興に壓されてきた、と同書の著者は書いてゐる。詳しい原因は私に納得できぬが、幼少からの經驗からいつても、木活字は材が黄楊《つげ》にしろ櫻にしろ、屈りやすく高低が狂ひやすい。印刷機がプレスでなくばれん[#「ばれん」に傍点]であれば尚さら汚かつたにちがひない。而も再び木版に代られて、室町以前とは比較にならぬ印刷文化の隆盛をみたのは、印刷技術の進歩といふよりはむしろ當時の社會的事情にあつたのだらうか。
 私の目的はしだいに近づいてゐた。徳川末期になつて海外との折衝が頻繁になり、醫術にしろ鐡砲にしろ電氣にしろ、それらが武士や町人の間に研究され實踐されるに從つて、木版や木活字は何とか改良されねばならなかつたにちがひない。三百年前肥前長崎から逐はれた「活字鑄造機」のことを思ひだすよすがもなかつた人々は、たとひ蘭書によつてその片貌は察し得ても、グウテンベルグと同じやうな最初からの辛苦をかさねたことであらう。やがて大鳥圭介による鉛の彫刻活字が工夫され、「斯氏築城典刑」など、いはゆる幕府の「開成所版」なるものが出來た。寫眞で見ても、從來の木活版に比べると同日の比ではない。
 しかし私のやうな印刷工から考へると、近代活字の重要性は彫刻しないことにある。字母によつて同一のものが無際限に生産されることにある。そして本木昌造はそれを作つた。全然の發明とは云へないまでも、日本流に完成したのである。凡ゆる日本印刷術の歴史家たちもひとしくそれを認めてゐる。彼等は本木を近代印刷術の「鼻祖」といひ「始祖」と書いてゐる。
 私は本木の寫眞を飽かず眺めた。五つ紋の羽織を着た、白髮の總髮で、鼻のたかい眼のきれいな、痩せた男である。刀をさしてゐるかどうか上半身だけだからわからぬが、どの著書でも同一の寫眞であつた。それに私のやや不滿なのは、この近代活版術の始祖、日本のグウテンベルグとも謂はるべき人についての記述は、どの著書でも二三頁であつて、どの文章でも出典が同じらしく、幾册讀んでも新らしいものを加へることが出來ないことだつた。
 本木昌造についてもつと知りたかつた。西郷隆盛吉田松陰について知れるがごとく知りたい。私は肝腎のところへいつて物足りない氣がした。勿論研究などといふもので、新事實を一つ加へるなどどんなに大事業であるかは察することが出來る。しかし多くの著者は本木の活字完成を印刷歴史の一齣としてゐる傾向があつた。或は初心者の獨斷か知れぬが、本木の完成あつてこそ、日本の過去の印刷術を語ることが出來る、といつた程の大きな峯ではないかと、ひとりで不滿に思ふのだつた。






*1:※人名許容・康煕別掲字(第三水準1-89-68)ではなく、cid13879、一括変換注意、青空注記に非ズ

*2:※表外漢字UCS互換(第三水準1-47-52)ではなく、1面28区24点、一括変換するわけないけど注意、青空注記に非ズ

*3:青空文庫入力ルールに従ひKATAKANA LETTER SMALL KEとするが、入力者にはKATAKANA LETTER KEに見える、青空注記に非ズ