三、pp.27-39

 昭和十六年の夏になつて、ある日H君といふ若い人が訪ねてきた。會ふのは始めてだが、私がいつか書いた印刷文獻に關する隨筆が縁になつて、「本邦活版開拓者の苦心」といふ書物を送つてくれ、二三度文通したことがある。H君は關西の人だが、最近上京して下谷方面の印刷工場で植字工をしながら、「本木昌造傳」を小説風に書きたいために、文獻をさがしてゐるといふ人だつた。さつぱりした白麻の詰襟服を着て、この職業特有の猫背で、痩*1せて、淺ぐろい顏である。
「あなたも昌造傳を書くんですか?」
 せつかちと見えて、坐ると詰襟の釦をはづしながら、すぐ云つた。
「いやア、そんなわけでも。」
 私はわらひながら答へた。實際私にはまだかくべつな目的はなかつた。第一本木昌造について殆んど知らないのである。
「いえ、本木傳はみな似たり寄つたりで、詳しいものはないやうですよ。だからネ、ぼくはあの時代の他の文獻から、外廓的といふか、そんな風に探してるんですよ、え。」
 また詰襟の釦を弄くりながらH君はゴンチヤロフの「日本渡航記」とか「日本艦船史」とか「川路日記」とかをあげた。「日本渡航記」はロシヤ使節プーチヤチンの長崎來航で、いはゆる長崎談判、この文章のうちに通詞として「昌造」といふ名が二度出てくるとか、同じプーチヤチンの下田談判には昌造がもつと活躍してゐるから、日本側の立役者川路聖謨の日記をよめば、彼の事蹟が少しは出てくると思ふが、この文獻はまだ讀む機會を得ないとか、「日本艦船史」は元來製鐵造船の先覺でもあつた本木の時代を歴史的に知るに好都合とか、べつに本木傳を書く氣はなくても、H君の話は興味があつた。
「あなたは三谷幸吉といふ人を知つてゐますか?」
 自分の話に一區切つけてからH君が云つた。
「ああ、百科辭典の本木傳に引用されてる人ですネ。」
 私はそれだけしか知らなかつたので、さう答へた。するとH君はいくらか不滿げに「ええ」とうなづいて、また云つた。
「本木研究ではこの人が代表的ださうですよ、ぼくもつて[#「つて」に傍点]がなくて會つたことないんですがネ、そら、この本も實際の著者は三谷氏なんださうですよ。」
 H君が扇子でおさへたのは、私がいまH君に返さうと思つて、膝の上においてゐた「本邦活版開拓者の苦心」であつた。
「へエ、でも署名がちがふぢやないの?」
 四六判の小さい書物は津田といふ人の著書になつてゐる。
「さうですよ、津田といふ篤志な人で、いはばパトロンですね、文章を綴つた人も三谷氏ぢやない。三谷氏はこの中にある澤山の開拓者たちの遺蹟を足で探しあるいた人ださうですよ。」
「ホウ!」
 と、私は心から云つた。三谷つてどんな人か知らないが、この本を最初讀んだときから大變な仕事だナと感心してゐた。それには本木や本木の協力者平野富二の略傳もいれてあつたが、その他數十人の近代印刷術のために苦鬪した人人の事蹟が、長短いろいろではあるが調べられてあつた。加藤復重郎といふ日本最初の鉛版師、つまり紙型をとつて活字面を鉛の一枚板に再製する工程であるが、紙型は雁皮紙を數枚あはせれば凹凸が鮮明になることや、スペースと活字面の高低にボール紙を千切つて加減をとればいいといふことや、簡單のやうなことでも、それを發見するまでのさまざまの悲喜劇を織りこんだ苦心の徑路は、たとひ印刷業關係者でないものでも身うちの緊きしまる思ひがする。今日の活字の字形を書いた竹口芳五郎といふ人は、平野富二に見出されるまで、銀座街頭で名札を書いてゐたといふ話や、その他最初のルラーの研究者境賢治とか、今日の活字ケースを創つた山元利吉といふ人の苦心談といつたもの、複雜な近代日本の印刷術が完成するまでの、じつに澤山の有名無名の發明者、改良者の苦心が描かれてあつたが、私がこの書物の著者に感服してゐるのは、多くはもはや故人となつてゐる、それらの人々を探しあるいたこと、殊に發明者とか改良者とかいふ人が、多くは産を成したわけではないので、窮乏離散してしまつた遺族をたづねあるいて聽き取つたりする仕事も、並大抵ではなかつたらうといふことであつた。
「どうです、いちど三谷氏を訪ねてみようぢやありませんか。」
 H君は熱心であつた。
「住所はわかつてゐます。つて[#「つて」に傍点]はなくてもさきに手紙を出しとけば會つてくれるでせうから、二人で行つてみませんか。」
「いいね、行きませう。」
 私もよろこんで答へた。
 それから數日經つとH君から手紙がきた。それによると三谷氏は入院中で、何病氣だかわからぬが面會謝絶ゆゑ、いましばらく見合せようといふことだつた。いくらか失望したが、また數日經つと、こんどは速達が來た。三谷氏は胃癌の大手術で經過が惡いさうだ、待つてゐても望みないから、話は出來なくとも見舞だけでもゆかうぢやないか、といふことである。早速應諾の返辭をやると、折返して濟生會病院だから、明日午後一時省線澁谷驛のホームで逢はうと書いてきた。
 八月の中旬でひどく暑い日だつた。私たちは澁谷で一緒になつて、五反田驛で降り、それから市電で赤羽橋まで行つた。停留場の近所で、見舞のしるしを買はうと思つて花屋へ入つたとき、私とH君は顏を見合せるのだつた。
「いくつくらゐの人だらう?」
「さア、いづれ年輩でせうネ。」
 まつしろな、山百合よりも清楚な感じで、もつと匂ひの淡い花を五六輪買つた。花屋の内儀さんに訊くと、これがさんざし[#「さんざし」に傍点]といふのだつた。
「質問さしてもらへるやうだと有難いがなア、しかし惡いかしら?」
 みちみちH君は手帖をめくつてみせながらそんなことをいふ。手帖には以前から準備してゐたものらしく「昌造入獄の眞の原因は何なりや」などといつたことが二三、箇條書になつてゐる。私にも返辭はできなかつた。
 受附で訊くと病室はすぐわかつた。待合室の廣間をぬけると最初の廊下を左に折れた。窓はみんな開放しになつてゐて、ベツドが目白押しにならんだ廣い病室から患者たちの苦しい呼吸づかひが聞える。風がない日で、廊下には附添の婆さんなぞの、アツパツパの裾を太股までたくしあげた、けだるい風體でしやがんでゐるのや、バケツをさげて立話してゐるステテコのズボンから毛脛をむきだしたおやぢさんやら、そんな附添人たちの庶民的風體からしてもこの病院の性質がわかる。「三谷幸吉」といふ名札は、廊下の一番はしの入口に他の名札とならんでゐたが、先に立つてゐるH君がどちらのベツドだかわからず入りそびれてゐると、廊下にしやがんでゐた内儀さん風の四十あまりの人が、襷をはづしながら近寄つてきた。
「どちらさんでせうか?」
 小柄で、看護やつれをした顏に、洋服を着た人間なぞの訪問に馴れない人のオドオドした表情がある。H君が名刺を出して、前に手紙をあげた者だといふと、「はあ、はあ」と恐縮したやうに、
「三谷の家内でございます。」
 とお辭儀した。
 私もお辭儀して名刺を出すと、内儀さん風の人は、それをもつて内部へはいつていつたが、ツイ鼻さきの衝立のきはのベツドにあふのいてゐる、もうだいぶ地が透けてみえる白髮の雜つた頭が、當の三谷氏だ、とこちらでも見當がついた。
「こちらへお入んなさいと云へ。」
 あふのいたまま二枚の名刺を支へてゐる痩せた手首はふるへてゐるのに、案外大きな聲であつた。
「大丈夫なんですか?」
 廊下へ出てきた細君にH君がたづねてゐる。
「ええ、けふはどうしたんですかネ、とても元氣ですの。」
 襷を弄くりながら、
「それにもう、どつちにしたつて同じだつて、お醫者さんも――」
 と話しかけてゐるのに、ベツドからはかんしやう[#「かんしやう」に傍点]な大聲がつつぬけてくる。
「何をグヅグヅしとる、早く、はいんなさいと云はんか。」
 ハイハイ、と細君はそつちへ答へておきながらも、見ず知らずの人間にも頼るやうなオロオロした聲の調子であつた。
「だからもう勝手にさしとくんですよ。ええ、あれで本人だつて、あきらめてはゐるやうですけれど――」
 ベツドの傍へ近づくと臭氣が鼻を衝くやうだつた。ひろげた腹部はガーゼで蔽つてあつて、便はみんなその切開口から出るのださうである。三谷氏は痩せて萎びきつてゐるが、大男でベツドから兩足がハミでるくらゐ。さつきから名刺をもつたままの手をふるはせながら、首をこつちへ捻ぢむけて、顏だけでも起さうとする容子だつた。
「バカヤロ、枕をとるんだ。」
 口ぎたなく罵りつける言葉まで激しい。そして泳ぐやうに手をふりながら、眼をH君の肩ごしに私の顏へまつすぐにそそいで、
「よくきてくれたなア。」
 と云つた。吐き出すやうに言葉の尻はかすれながら、皺んだ眼尻にポタポタと涙がつたはつてゐる。
「ほんとによくきてくれた。」
 さつきからの泳ぐやうな手ぶりは握手を求めてゐるのだと氣がついたので、慌てて私は應じたものの、すこしびつくりしてゐた。重態の病人だからはじめての人間にもこんなに昂奮するのかと思つたのである。
 しかし三谷氏は握つた手をなかなかはなさないで、しげしげと私の顏を見入るのである。三谷氏はふとい鼻柱と、くせのある幅廣な唇許をもつてゐて、神經質でいつこく[#「いつこく」に傍点]な風貌があつた。
「しばらくだつたなア。」
 呼吸をつぎつぎなつかしさうに云ふ。
「君も、年をとつたぢやないか、だいぶ白髮がある――」
 ボンヤリな私も不審になつてきたが、この三谷氏と、どこで逢つたことがあるだらう? 困つてそれをたださうとすると、とたんに相手は手を離してしまつた。
「なんだ、君ア知らずにきたのか。」
 まだ涙のつたはつてゐる顏に、無遠慮に不機嫌な表情がうかんだ。
「ホら、あそこで、共同印刷で――」
 私は思はず「ああ」と聲をあげた。これはまた何といふことだ。私は本木研究家としての三谷氏だけを考へてゐたのだ。私はも一度聲をあげた。
「ああ、三谷君でしたか――」






*1:※表外漢字UCS互換(第三水準1-94-93)、一括変換注意、青空注記に非ズ