四、pp.39-48

 三谷氏と私はしばらく顏を見合せてゐた。病人は細君に涙を拭いて貰ひながら、くるしい呼吸づかひだが、滿足氣であつた。
 大震災當時のことだから二十年ちかくもならうか。共同印刷會社の第一製版工場で、私も三谷氏も同じ植字工だつたのである。その當座、私は自分の屬してゐたポイント科の工場がつぶれてしまつて、他の植字工と一緒に第一工場へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]されてきたので、三谷氏がその工場ではすでに古參だつたかどうかは知らない。それに三谷氏は一緒になると半年くらゐでやめて他の會社へいつたので、とくに親しかつたといふわけでもないが、仕事臺がちやうどむかひあひになつてゐた。普通だと雙方のケース架の背でさへぎられてしまふのだが、大男の三谷氏はケース架の上に首だけでてゐた。いつも私は「オイ」と誰かが自分をよぶので、何氣なくあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してゐると、とんでもない頭の上から彼のながい顏がのぞいてゐて、びつくりさせられたりしてゐたことを憶ひだす。
 三谷氏がその頃から本木昌造の事蹟について研究してゐたかどうかは知らなかつた。私たちより一時代先輩の職工だつたが、職人氣質なところはあまりなくて、いつも肩を聳やかしてゐるやうな、何事にも一異説をたてねばをさまらぬといつたやうな、いつこくなところがあつて、職長も彼にだけは「三谷さん」と稱んでゐたのをおぼえてゐる。
 しかし二十年ぶりの邂逅はあわただしいものであつた。細君はどうせ助からぬ病人だからといつても、私は手首の時計が氣にかかつてならなかつた。H君はそばで偶然な出來事にボンヤリしてるやうだつたが、三谷氏は「きみ」と至極晴やかにH君へ云つた。
「手紙ありがたう。ぼくもどうせ永くない命だから、生きてるうち、何でも質問したまへ。」
「は」とH君が固くなるのに、三谷氏はカラカラとわらひかける。
「遠慮要らんよ、歴史とか、研究とかいふもんはネ、すべてそんなもんさ、ああ、やつと探しあてたら相手は死にかかつてゐるなンて、ぼくもそんなことを何度も經驗したよ、こんどは俺の番といふわけだ、なアにたいしたこつちやないさ。」
 三谷氏は胸の上にかざしてゐる右掌の指をふだんに動かしてゐる。神經質になにか探してゐるやうな、その火箸のやうに長ツぽそい指の、殊にまむしの頭みたいに平べつたくなつてゐる人差指は、活字のケツを永年つついてきた植字工の指であつた。最初はさすがに遠慮してゐたH君も、却つて病人に促されてベツドのそばに椅子を寄せて、緊張しながら自分の質問を訊いてゐた。
「本木の入獄か? いろいろ説があるが、つまり洋書の購入にからんで、他人のために罪におちたといふのが、一ばん妥當だネ。」
「他人といふのは、品川梅次郎のことですか?」
「さうさう——だがね、入獄といつてももつと研究してみる必要があるよ、年代的に繰つても入獄の期間中、本木はいろんな仕事をしてゐることが、事蹟で明らかになつてゐる。それは、おれの本木傳を讀んでくれればわかる——」
 昂奮のせゐか三谷氏は元氣さうだつたが、だんだん呼吸ぎれがはげしくなつた。狹いベツドの衝立の間に棒立ちになりながら、私はそんな會話もよく耳にはいらなかつた。他に訪ねてくる人もないので邪魔はなかつたが、三十分くらゐのつもりが疾つくに過ぎたので、私はH君を促した。すると三谷氏はまだ殘り惜しげに、例のほそながい指を振つてみせるのだつた。
「ぢや、あしたまたきてくれたまへ、ネ、君たちにやりたいものがあるから、あしたとり寄せとくから——」
 細君も廊下まで出てきて、病人と同じやうに、あしたきてくれと繰り返すのであつた。襷を弄くりながらオドオドした調子で、もう見込みのない夫のために、最後の願ひがたとひどんなことであつても、無條件に尊重したい細君のひたすらな氣持があらはれてゐた。そしてしまひの方は涙でかすれる聲で云ふのだつた。
「ちかごろ、うちがあんなに喜んだ顏をみるのは始めてでございます。——あたしにはよくわかりませんけれど、うちは若い頃からもう本木先生の研究ばかりだつたので、よつぽどうれしかつたんでございませう——」
 もちろんH君も私もまた明日訪ねる約束をして病院を出たが、再び澁谷驛でわかれるまでH君はあまり口をきかなかつた。三谷氏への想像があまりにちがつてゐたこともあるが、研究家などといふものの生涯が、どんなに華々しくはないものか、眼の邊りに見たからで、私も同じ氣持であつた。
 しかしその翌日、同じ時刻に病院へ二人でゆくと、三谷氏の容態は昨日とまるでちがつてゐた。ベツドの上にかがまつてゐる醫師や看護婦のただならぬ後ろ姿が見え、細君も幾度か二人の姿を眼にいれながら、よくは視覺にうつらぬといつた風の容子であつた。
 しばらく廊下にたちつくしてゐる間にも、看護婦などの出入りがあわただしい。二人でけふは歸つた方がいいかも知れぬなどと話しあつたが、そのうち細君の顏がフイに入口からのぞいて手招きするのだつた。それはすこし怒つたやうな顏色で、私がそばへ寄ると、手に持つてゐる新聞包みをおしつけてから、短い聲で、
「ちよツと顏をみせてやつてください、ちよツと——」
 と、叫ぶやうに云つて、くるツとむかふむきになつて、袂で顏をかくしてしまつた。
 醫者はまだそこにゐた。衝立のそばまでゆくと、肉親の人らしい女の背中が少しどいて、そこから白いガーゼで胸から蔽つた三谷氏が見え、顏だけがあふのきにこつちを迎へてゐた。一と晩のうちにすつかり形相が變つてゐたが、くせのある唇許には、わりあひ元氣な微笑がただよつてゐる。
「や、ありがたう——」
 例の右掌がガーゼの間からうごいた。まだ唇がうごいてゐるが、よくききとれない。私がわからぬままにうなづいてみせると、ニツコリして、さも疲れたといふ風にむかふむきになつてしまつた。——
 夕方になつて私達は、新聞包みを抱へて病院を出たが、五反田驛まできてもすぐには電車に乘れない氣がして、驛前の喫茶店に入ると、その新聞包みをあけてみた。みんな粗末な裝幀で、一册は「本木昌造、平野富二詳傳」他の二册は「活字高低の研究」「植字能率増進法」であつたが、「本木昌造、平野富二詳傳」の方は、表紙に「再版原稿」と墨書してあつて、いろんな書込みや、貼込みがしてある。三谷氏は初版後さらに研究をかさねて、訂正増補版を出す心算であつたらう。
「偶然だナ、まるで遺言をききに行つたやうなもんだ。」
 若いH君はしきりと昂奮して、コーヒーに口もつけず繰り返してゐた。私はめくりながら序文など讀んでゐたが、本木傳は福地源一郎の原文を主にして、その傍に「編者曰く」とか「補」とか「註」とかいふ形で三谷氏の文章がならんでゐる。福地の原文は私が他の著書で讀んだ本木傳と大同小異であつて、その「編者曰く」や「補」や「註」が新らしいものだつた。それは氏が長崎や福岡へんまで行脚して、本木の遺族や平野の未亡人などから聽き得たこと、或は寺社や舊幕時代から、土地に殘つてゐる文章などから探しだした貴重なものだつた。
「偶然だナ、まつたく偶然だ。」
 H君はまだ云つてゐた。なるほど私と三谷氏との邂逅も偶然だつたが、本木傳に關心をもつて寄り集つたのが、三人とも印刷工だつたといふことも偶然だつた。
「あんたも本木昌造について何か書きなさいよ、ぼくも書く、宣傳するだけでも何かのためになる。」
「さうだネ。」
 私もボンヤリと天井をみあげながらこたへた。本木昌造を書くことは日本の印刷術を、日本の活字を書くことだ。そしていま死の迫つてゐる三谷氏のことを思ひ合せると、それを書く自分らの仕事が、次第に偶然ではない氣がしてくるのであつた。