一、pp.51-63

 三谷幸吉氏が亡くなると、生前にあづかつた「本木昌造、平野富二詳傳」の再版原稿が、私にとつては遺言のやうな形になつた。つまり三谷氏の志を繼いで、私も近代日本印刷術の始祖ともいふべき人について、その功績を讃へるために何か書かねばならぬ。
 私は繰り返しその書物を讀んだ。主文は福地源一郎が書いたもので、明治二十四年發行の「印刷雜誌」に掲載されたものである。源一郎は櫻痴と號し、天保十二年長崎の生れ、やはり和蘭通詞の出身で、昌造とは十七年の後輩であるが、安政五年には十八歳で軍艦頭取矢田堀景藏について咸臨丸に乘り組んだことがあり、萬延元年二十歳では竹内下野守に隨つて歐洲へ使したこともある。非常に若くから活動したので、昌造とはいはば同時代的な期間もあつたに違ひなく、また同じ長崎通詞のうちでも航海や造船術の先覺でもあつた昌造に對しては私淑するところあつたかに思はれる。今日印刷歴史書やその他で本木について書かれる傳記的文章は、主としてこれから出てゐると謂はれるが、それは五百字詰の用紙にすると二十枚足らずであらうか。
 三谷氏がこの書物に「詳傳」とつけたのは、その福地の主文に「補遺」とか「註」とかの形でほぼ同じながさの、自身で行脚、探索した事蹟や聽き書きを附加へたことに因るのであらう。たしか私の讀んだ範圍では、昌造についてこれより詳細なものを他に知らないが、また一方からいふと、本木についてはまだこの程度しか書かれたものがないといふことにもなる。
 私は友人知人の助をかりて、洋學の傳統とか、幕末の事情と長崎通詞の關係などを知らうと努めた。また江戸末期の印刷についてくはしく知らうと努力したが、どちらを向いても初心の私には茫洋としてゐて、昌造のイメーヂはさつぱりうかんでこぬうちに、昭和十六年は過ぎ去り、十七年も春になつてしまつたのである。
 ある日、私は日本橋のSビルの一室にある「印刷雜誌」社を訪ねた。そこには三谷氏の生前からの希望で、氏が昌造について蒐集したものが、「印刷博物館」に納めるために引きとられてあつた。私はその蒐集品のうち、昌造の著書「新塾餘談」の第三篇を見たかつたからである。「詳傳」によれば、昌造には「蘭話通辯」のほか「海軍蒸氣機關學稿本」「デースクルフ・デル・ユトームシケーベン抄譯稿本」「英和對譯商用便覽」「物理學」「祕事新書」「保建大記」「數學品題」「新塾餘談」「西洋古史略」等の著譯書があるが、それらは今日散逸してゐて、所在の知れたものでも何某所藏となつてをり、何某の所番地もわからない。わづかに三谷氏蒐集の分だけが私には可能な手がかりであるが、せめて著書の一端からでも昌造の意見なり考へ方なりを窺はうと思つたからであつた。
 印刷雜誌のM・T氏は、私の持參した三谷未亡人の紹介状をみて、快く承諾し、給仕に命じて、室の隅から大きな柳行李を持ちださしてくれた。三谷氏の蒐集品は、まだ印刷博物館が出來あがつてをらず、保管してくれる篤志な有力者への引渡しも濟んでゐないので、自由にみる譯にはゆかなかつた。
「新塾餘談」第三篇は、上下二册になつてゐて、樺色表紙の薄い和綴の本である。明治四年の發行で、四號くらゐの鉛活字で印刷されてあつたが、披げてゆくうち私は失望してしまつた。ある航海日誌であつて、昌造の著書でないことは昌造自身の序文で明らかにしてある。推測するところ萬延元年アメリカへ日本使節として行つた木村攝津守、勝麟太郎一行のうちの誰かの日誌らしいが、途中マニラに寄港したことや、大統領に歡待されることなどが出てくる。殊に港々で水何千ガロンを買入れるとか、風速とか、温度とかが最も熱心に書き入れてあつた。昌造の序文も至極かんたんで、自製するところの鉛活字によつて出版するが、これは友人茗邨君が送つてくれた航海日誌である。夷狄の風物も面白く、航海の實際も讀者を裨益するところ尠くないと思ふから一讀を乞ふといふ程のことである。
「茗邨君といふのは誰でせう?」
 M・T氏に訊いてみた。木村、勝の一行は時の海軍練習生が大部分であらうと思はれるが、昌造の友人とすれば或は長崎通詞で隨行した人かも知れない。M・T氏も小首を傾げて「さあ」と云つた。
「K・H氏に訊いたらわかるか知れませんネ。」
 私はK・H氏を知らなかつた。
「紹介してもいいですよ、ほかの著書も蒐めてゐるか知れない。三谷氏が亡くなつたから本木研究ではこの人が一ばんでせう。」
 M・T氏は卓の上に名刺をおいて、紹介を書き始めたが、ふと顏をあげると笑つて云つた。
「尤もK・H氏は三谷氏とは論敵ですがネ、つまり三谷氏は本木説、K・H氏は大鳥説と云つたぐあひですな。」
 どちらに加擔するでもない風に、M・T氏は笑ひ聲をあげたが、そんなに前提するところをみれば、私を三谷派とみたらしい。
 しかし私は専門家同志の論爭に對して、かかづらふ程の知識も資格もないので、M・T氏から紹介名刺をもらつて、そこを出たが、心ではこの「活字の元祖爭ひ」はあまりに明らかであると思つてゐた。大鳥圭介が幕府開成所版に錺屋につくらせた鉛活字を用ひたことは、印刷史上特筆すべき功勞にちがひないが、私も某所でみた大鳥の「斯氏築城典刑」の實物は、字形が夫々異つてゐて彫刻に違ひないと思はれた。近代活字の重要さは、電胎法による字母が完成したことにあるので、本木だけがそれをやつたのだと思つてゐた。それに今一つは、ある書物で「大鳥圭介傳」の孫引から讀んだ字句が私には氣にくはなかつたのである。「――蘭書に基き、その鑄造法を種々研究して、遂に兩書の出版に手製の活字を使用したことがあつた。我邦における活字の開祖としいへば、世人長崎の平野富治を推すも、此は西洋の機械を初めて輸入して製作したるものにして、予が在來の錺屋に命じて鐵砲玉を作るが如くにして作りたるとは、その難易同日の論にあらず、而して予の製作は平野に先つこと數年なれば、日本に於ける活字の元祖は斯く申す大鳥ならんと云ひしことありとぞ――」
 平野は本木の門下であり協力者であつて、彼が昌造の活字を船につんで東京へ賣捌きに出たのは明治四年の夏のことであるから、大鳥の言を傳記筆者の儘に信ずるとすると、この言葉も明治四年以後であることは明らかで、嘉永元年以後二十餘年に亙る本木の失敗苦心とその存在を知らなかつた譯である。當時の交通事情と多忙だつた大鳥の生涯からして仕方ないとしても、この磊落な政治家らしい口吻のかげには、どつか學者として或は發明家として眞摯なものが足りない氣がするのだつた。
 數日後、私は牛込にK・H氏を訪ねた。K・H氏は×××印刷會社の重役で、もう殆んど白髮の脊のたかい人だつたが、めづらしい印刷文獻をたくさん蒐めてゐて、親切に奧の室から一束づつ抱へてきては見せてくれた。なかには村垣淡路守(?)一行が歐洲行をしたとき、オランダから贈られた疊半分もあるやうな「鳥類圖譜」の大きい革表紙石版刷りの本があつたりした。初版「本草綱目圖譜」の見事な木版印刷に見惚れたりして、殆んど一日を過してしまつたが、K・H氏は昌造の「新塾餘談」第一篇上下、及び「祕事新書」一卷をも蒐めてゐた。主人に失禮ではあつたが、私は一ととほり讀ませてもらつた。そしてここでも私は失望してしまつたのである。
「新塾餘談」第一篇二册には、たとへば「燈火の強弱を試みる法」と題して、「この法は例へば石炭油の火光は蝋燭幾本の火光に等しきやを知らむためなり」といつた風に説いてある。その他「醤油を精製する法」「雷除けの法」「亞鉛を鍍金する法」「假漆油を製する法」「ガルフアニ鍍金の法」といふやうなことばかりで、他には何もなかつた。「上」の方には「緒言」と題して、「予嚮に祕事新書と題する一小册を著はす、專ら居家日用の事に關し、頗る兒戲に似たりと雖も又聊か益なしとすべからず、猶次篇を乞はるること切なり、されば事の多きを以て默止せしを、ちかごろ予が製する所の活字稍その功なるを以て、このたび倉卒筆を採り編を繼ぎ、更に新塾餘談と題し、毎月一二度活字を以て摺り、塾生の閑散に備ふ、これその餘談と題する所以なり、素より文字を以て論ずるものに非ず、見る人その鄙俚を笑ふこと勿れ」と述べ、彼の別號で――笑三識――とあつた。
「祕事新書」は文久二年の著述であるが、これの内容も「透寫紙の製法」とか「硝子《ビイドロ》鏡の製法」とか「水の善惡を測る法」とか「石鹸の製法」「流行眼を治する法」とかいふ類のものばかりで、私がさがしてゐる彼の風貌がうかがへるやうな、意見や主張を書いたものではさらになかつた。
「昌造の意見を述べたやうな著書はないでせうかネ。」
 私はK・H氏に訊いた。本木の著書は多い方ではない。しかも私の見た五册をのぞけば他は題をみてもわかるやうに、數學とか物理とか、英語や蘭語の辭典みたいなものが殆んどである。
「さア、たぶんないか知れませんよ。」
 K・H氏も首を傾げながら云つた。私はすこし途方にくれた氣持になつた。あんないろんな仕事をした人物が、何の意見も理想も持たなかつたのだらうか? 私はいつか病院で三谷氏が云つた言葉を思ひだしてゐた。「本木は、つまり工藝家だネ、器用で、熱心で……」。そのとき私は不滿だつたが、やはりただの器用な工藝家なんだらうか?
「それから何ですネ、電胎法による活字字母の製作は、昌造以前にもあるんですよ。」
 ぼんやりしてゐる私の耳許で、K・H氏が云つた。
「江戸神田の木村嘉平といふ人が安政年間に島津齊彬に頼まれてそれをやつてゐる。また電胎法のことは嘉永年間に川本幸民が講述してゐるし、たぶん實驗ぐらゐはやつたでせうな。」
 これが證據だといふ風に、K・H氏は數册の書物を私の手に持たせた。一つは黒茶表紙の古びた寫本で「遠西奇器述」といふのであり、木村嘉平のことを書いたのは、片手で持ちきれない大きな本で「印刷大觀」といふのであつた。
 私は私の主人公がだんだん箔が落ちてゆくやうな氣がしてゐた。主人のてまへ蟲の喰つた寫本を一枚づつめくつてゐるものの、少しも文字づらは眼に映つてはこなかつた。「ま、本木昌造の功績といへば、近代活字を工業化したといふ點にあるんでせう。」
 私は心のどつかでしきりと抗はうとするものを感じながら、K・H氏のゆつくりと結論する言葉を聽いてゐたが、K・H氏の川本幸民や、木村嘉平についての説明を聽けば聽くほど、私の抗はうとする氣持は、よけい窮地に追ひこまれていつた。
「要るんだつたらお持ちなさい、ええ、ぼくはいま使つてゐませんから。」
 私は「遠西奇器述」の寫本と、他二三の書物を借りて風呂敷につつんだが、それはたぶんに負惜みみたいな氣持であつた。私は親切なK・H氏に見送られて玄關を出たが、すつかり悄氣てしまつてゐた。