二、pp.63-76

 すこしばかり出來かかつてゐた本木昌造のイメーヂは、私の頭の中で無殘にくづれていつた。最初のうちは「遠西奇器述」の寫本など見る氣がしなかつた。私の頭の中には、白髮の總髮で、痩せた細おもての燃えるやうな理想と犧牲心とで肩をそびやかした昌造の横顏が、かなり濃く映つてゐたが、いまはぼやけて、至つて平凡な、少々手先が器用で、物ずきで、尻輕な、どつか田舍の藪醫者みたいになつてゐた。
 つまり、私の主人公はえらくなくなつてしまつたのである。大鳥が鉛をはじめて活字のボデイとして實用化したり、木村が電胎法で最初の活字字母を作つたとしても、それとは無關係に、嘉永の初期からこつこつと、二十餘年をつづけたといふ昌造の辛苦の事實を忘れたわけでもないが、彼の理想や觀念は著書にも見ることが出來ず、何かトピツク的なことがなければ工藝のことなど、それ自體としては小説にはとらへどこがない氣がするのであつた。
 私は主人公を見失つて、もう止めようかなど考へながら、漫然と洋學の傳統など調べては日を暮した。しかし、しばらく經つうちに、幕末の、殊に安政以來の洋學はその政治的事情から、ひどく實利的に赴かねばならぬといふことを知つた。天保十二年に渡邊崋山が自殺し、嘉永三年に高野長英が自刄してから以來といふもの、洋學者たちはただその實利性のみに頼つて生き得たといふ傾向は、昌造たちにも影響せずにはゐられまいと考へることが出來た。たとへば昌造の「新塾餘談」の序文にある――素より文字を以て論ずるものに非ず、見る人その鄙俚を笑ふこと勿れ――といふ文句も、そんな眼でみれば意味が無くはない。
 それに工藝とか科學とかいふものは、それ自體が、いはば理想の顯現ではなからうか。觀念の世界とはちがつて、ただ才能があるだけで、或は環境や條件のせゐで、ないしは功名心や利害關係だけでも、發明や發見や改良をするやうな偶然も、けつして尠くはないにちがひない。しかしそれでも根本を引き摺つてゐるものは、それぞれの差異はあれ、大きく云へば理想にちがひなからう。昌造の著書がみんな「雷除けの法」とか「流行眼を治す法」とかばかりであつたとしても(いや私は全部讀んだわけでないから斷定もできぬが)、それも彼の理想の一端ではなからうか。當時の世情からすれば、「石鹸を製する法」でも、「水の善惡を測る法」でも、新知識であつたし、彼の「緒言」にあるやうに讀者がもとめたものであらう。殊に近代活字創成のための二十年間の辛苦をひつぱつていつたものは、單なる功名心ではないにちがひない。
 私の頭の中では、以前とはだいぶちがつた形で、昌造のイメーヂが映りはじめてきた。私の主人公はえらくなくはないが、つまり偉人などといふものではなかつた。これといふ奇行も特徴もないが、器用で、熱心で、勉強家で、法螺もふかず、大それた慾望も持たず、ひたすら世のために、人のために役にたつことを理想としてはたらいた、眼のきれいな痩せた老人だつた。
 こんな老人にとつては、「活字の元祖」爭ひなど無用にちがひない。それを爭つてゐるのは他ならぬ私自身であつた。大鳥圭介が鉛を活字ボデイに實用化した功績も讃へようではないか、川本幸民が電胎法を祖述した功勞にも感謝しようではないか。木村嘉平が島津の殿樣に頼まれて、電胎法による活字字母を創つた辛苦も賞讃しようではないか。發明とか改良とかいふものが、すべてそんなものなのだ。天氣晴朗なる一日、何の誰がしが忽然と發見するやうな、そんなものではない。グウテンベルグの發明にも、その前後に澤山の犧牲的な研究者があつたればこそだ。本木はたまたまその最後の釦をおした代表者だつたのである。そんなつもりで私はこの老人の傳記を書けばよいのだ。私はひとりでに、をかしくなつてきた。私が元祖爭ひをして憂鬱になつたのは、じつは私が勝手に頭の中ででつちあげてゐた、似もつかぬ小説の主人公のせゐだつたのである。
 ある日、私はくつろいだ氣分で「遠西奇器述」の寫本を讀んだ。これは幸民が口述したものを、門生田中綱紀と三岡博厚とが筆記したものである。門生田中は凡例の一に、「此篇ハ朝夕講習ノ餘話ヲ集録ス故ニ往々錯雜ヲ免レズ其説多クハ一千八百五十二年我嘉永五年撰スル所ノ和蘭人フアン・デン・ベルグ氏ノ「理學原始」ヨリ出ヅ直寫影鏡ハ數年前吾師既ニコレヲ實驗シ蒸汽船ハ本藩已ニコレヲ模製ス他ノ諸器ハ未歴驗セズト雖其理亦疑フベキコトナシ」と書いてゐる。田中は何藩か私にわからぬ。この寫本に年代も記されてないが、新撰洋學年表によると嘉永元年の項に「川本幸民始て寫眞鏡用法を唱へ出し又燐寸の功用を説く」とあり、嘉永四年の項に幸民の著述例のうち『「西洋奇器述」等の著あり』とあるから、この凡例の「嘉永五年云々」は少し怪しく、も少し以前だつたかと思はれる。とにかく寫眞や蒸汽船やを説いてゐるうちの一つに「電氣模像機」といふ題で口述してゐるのがそれであらう。
「此術ハ一金ヲ他金上ニ沈着セシムル者ニシテ金銀銅鐵石木ヲ撰バズ新古ニ拘ラズ其上ニ彫刻スル所ノ者ニ銅ヲ着カシメコレヲ剥ギテ其形ヲ取リ以テ其數ヲ増ス次圖ハ其製式ナリ」とあつて、以下は幾つも圖解して綿密に説いてある。今日からみればごく初等な電氣分解の原理であつた。一つの容器に稀硫酸と他に目的とする銅粉をいれた液體の中に、二つの金屬板をたてて極板とし、これに電氣の兩極をつなぐ。すると一方の極から一方の極へ電氣が流れてゆく作用で、分解した銅粉は一方の極板に附着する。電胎法と稱ばれる今日の活字字母の製法は、これを二度繰り返すことで母型をつくるので、例へば最初の種子《たね》、「大」なら「大」といふ字を彫刻した凸版(雄型)に一度この法を用ひて雌型(凹字)の「大」をとり、いま一度繰り返して、こんどは雌型「大」から雄型「大」をとるのである。
「木版ハ數々刷摩スレバ尖鋭ナル處自滅シ終ニ用フベカラザルニ至ルコレヲ再鏤スルノ勞ヲ省クニ亦コレヲ用フベシ」と説いてゐるが、これで讀むと幸民は鉛のボデイをふくめた鑄造活字のことまでは思ひ及んでゐないと思はれるが、「其欲スル所ニ從テ其數ヲ増スヲ得其版圖ノ鋭利ナル全ク原版ト異ナラズ」と述べてゐるあたりは、或は實驗くらゐやつたか知れず、電氣分子による分解作用のいかに零細微妙であるかに感動してゐるさまが眼に見えるやうである。
 川本幸民は醫者であつた。呉秀三の「箕作阮甫」に據ると、「幸民は裕軒と號し攝州三田の人。幼い時藩の造士館に學び、二十歳江戸に出て足立長雋の門に入り、後坪井信道に就いて蘭醫學を受け、緒方洪庵、青木周弼と名を齊くした。天保三年其藩の侍醫に擧げられ、安政三年四月蕃書調所の教授手傳出役となり、四年十二月教授職並に進み、六年七月遂に教授職となる。文久二年徴出されて幕士になる。「氣海觀瀾廣義」「遠西奇器述」「螺旋汽機説」「暴風説」等の著述があり、親ら藥を製し又玻※[#「王+黎」、第3水準1-88-35]版寫眞を作り、又阮甫と前後して薩摩の邸に出入して、島津齊彬侯の爲に理化學上の事などを飜譯又は親試したこと尠くなかつた」とある。また洋學年表安政元年の項によれば「島津齊彬曾て川本幸民の記述「遠西奇器述」を讀み西洋造船法を知りたれば其主九鬼侯に請ひ祿仕せしめたり」とあるし、勝海舟手記による安政二年頃の江戸在住蘭學者たち、杉田成卿、箕作阮甫、杉田玄端、宇田川興齋、木村軍太郎、大鳥圭介、松本弘庵など俊秀のなかでも、幸民は特に理化學に擢んでてゐたといふ。しかも、この頃の學者たちは、西洋の本を飜譯するといふだけではなかつたのだ。たとへば嘉永の始めごろ幸民がある男に燐寸の話をしたところ、相手は實際そんなことが出來るなら百兩やらうと云つた、すると幸民は直ちにその男の眼前で燐寸を發火させてみせたので、相手はいまさら言を左右にしたが、嚴重にせまつて百兩をとりあげたといふ※[#「挿」の異体字、第4水準2-13-28]話があるのにみても、當時の學者たちは今日と比べてもつと實踐的だつたにちがひない。
 私は蟲の喰つた寫本の肩をいからせた墨書き文字をながめながら、百年前の鬱勃とした知識慾といふか、進歩慾といふか、そんなものを、身體いつぱいに感じながら、當時の世界を想像してゐるうちに、K・H氏にきいた木村嘉平のことがつよく泛んできた。島津の殿樣に頼まれて、蘭語の活字を作るために十一年を辛苦した人、幕府の眼を怖れて晝間も手燭をともした、くらい一室で、こつこつと鑿《のみ》と鏨《たがね》で木や金を彫つたといふ人……。
 私は夕方だといふ時間さへ忘れてゐた。近所の公衆電話にいつて×××印刷會社へかけると、K・H氏は疾つくに退けたあとだつた。自宅へかけるとK・H氏は快く應じてくれた。その日は朝のうち空襲警報が鳴つて、午後からは雨だつた。警戒警報はまだ解除になつてをらず、町もくらく、電車の中もくらかつた。
 私はみちみち一つの發明や改良について、どれだけ澤山の人が苦勞を重ねるものかなど考へてゐた。殊に言語をあらはす活字については多くの知識人がそれぞれに關心を持つたであらうと考へた。たとへば杉田成卿は「萬寶玉手箱」のなかで、「西洋活字の料劑」といふのを書いてゐる。「萬寶玉手箱」は安政五年の刊行となつてゐるが、「活字は大小に隨つて鑄料に差別あり。その小字料は安質蒙(アンチモン)二十五分、鉛七十五分。大字料は――」といつたぐあひである。また年代はずツと遡るし土地も異るが、レオナルド・ダ・ヴインチも活版術の成功に骨折つたらしく、ハンドプレスに似た印刷機の構案を圖にしたのが、ある雜誌に載つてゐたのを思ひだしたりした。市電角筈の停留場までくると、くらいガード下で、私は誰かの背中にぶつつかつた。うごけないままにたつてゐると、すぐ背後も人でいつぱいになつた。ここで折返しになる「萬世橋行」が、遮蔽した鈍い灯をかかげてビツコをひくやうに搖れながら入つてくると、こんどはシヤベルでつつかけるふうに、踏段やボートにつかまつた人間を搖りこぼしながら出ていつたが、黒い人垣は氾濫する一方で、傘をひろげると誰かが邪慳につきのけた。灯はどこにも見えず、空はひくかつた。何か壓迫されるやうな空氣がみんなを押しだまらせてゐる。身動きするたびに邪慳にこづきかへす肘があつて、私のあご[#「あご」に傍点]の下には背のちひさい婆さんの髷あたまがつつかへてゐた。すると少しうしろの方で、しやがれたのぶとい聲がきこえた。「はるさめぢや、ぬれてゆかう――」やくしやの聲色である。すると誰かがクスツとわらつた。私もわらつた。つづいてあつちこつちで、おしかぶさる空氣をハネとばすやうに、笑ひが傳染していつた。――
 私は闇をつらぬくあたたかいものを身内に感じてゐた。牛込北町の通りも眞つくらであつた。見おぼえの新潮社の建物が仄じろく浮いてゐたので、やうやくK・H氏の邸が見當ついたくらゐだつた。
「濡れたでせう、よく出てきましたネ。」
 K・H氏は親切に應接間を明るくして待つてゐてくれた。そして例の「印刷大觀」を出してくれながら云つた。
「私もまだサツマ辭書の初版といふのは見てゐないので、斷定は出來ませんがネ。」
 私はそれを讀みながら、K・H氏は木村嘉平のつくつた活字でサツマ辭書が印刷されたのだといふ、その文章のうちのある事實のことを云つてゐるのだと理解した。
「しかし、この本の活字はたしかにそれだと、私は思つてゐるんだが――」
 また奧の室から一册の本を抱へてきて、私の膝にのせながら、K・H氏は云つた。
「オランダ文法の單語篇ですがネ、江戸で印刷されたものだといふことは明らかのやうですよ。」
 古びた青表紙の大福帳のやうな本である。分厚く細ながく、袋綴の和紙に、こまかいイタリツク風の歐文活字で印刷してあつたが、一見鉛活字だといふことは明らかだ。
「ネ、この字づらの不揃ひな點など、輸入活字とちがふと思ひませんか。」
 私も同感であつた。K・H氏の説明によると、この「和蘭文法書」は、當時の江戸書生の間にひろく讀まれたものださうで、これより少しさき、安政三年から四年へかけて、長崎奉行所でも和蘭文法書の「成句篇」「單語篇」が刊行されたが、それは輸入活字であつて、字形がちがふといふのであつた。
 私はもすこし木村の活字の行衞を知らうと思つた。K・H氏は私の考へに贊成してくれて、二三の參考書を貸してくれながら、
「I・K氏を知つてますか?」
 と訊いた。私は少しまへに長崎通詞のことで、友人の紹介で一度I・K氏を訪ねたことがあつた。江戸期における洋學傳統の研究家で、特に英語の歴史については權威ある人だと謂はれてゐた。
「さうだ、I・K氏に教へてもらつたら、サツマ辭書の活字がわかりますネ。」
 私は答へながら勇みたつてゐた。