三、pp.76-92

 木村嘉平は、本木昌造より一年早く、文政六年の生れ、江戸神田小柳町に住んだ。代々彫刻師で、十八歳にして業を繼ぎ、特に筆意彫りをもつて謳はれてゐたといふ。宮内省にも出入し、當時諸大名の藩札の原版は多く嘉平の彫刀に成つたと謂はれる。
「印刷大觀」の「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」には次のやうに書いてある。「右活字は安政年間、薩摩守齊彬公樣より江戸神田小柳町において代々彫刻を業とせる木村嘉平に命じ、嘉永元年より元治元年に至つて完成せる遺品にして、その作品中には鋼鐵製の一端の面に文字大は四厘より一分五厘まで、數種類の深く凸形に彫刻せる數百の文字、數百の銅製凹字母、金屬製三個より成る鑄造機、各活字字形、數千の木製模型、彫刻用の鑛|鑿《のみ》及び電氣銅版に使用する鑛銅用の器具、蝋石面に彫刻せる和文數千の種字印刷機兼植字機、その他參考せる蘭書等、いづれも當時使用せるものにて今日尚保存するところなり」
 この文章は若干不親切で、繁多な器具遺品の模樣が、植字工であつた私にもちよつと理解しにくい。同文章はつづけていふ。「嘉平は二十五歳にして薩摩守樣の召すところとなり、當時齊彬公樣は歐文書類を版本としてあまねく御藩中に學ばしめんとの御尊慮によつてひそかに嘉平に御洩談あらせらる――」。
 島津齊彬がひそかに輸入した蘭書を藩士一統に讀ませて、夷狄の新知識をわがものとせんとした英斷はよくわかるが、飜譯のできる學者も澤山あつた當時に於て、蘭書をそのままの蘭文で、しかも歐文活字を創成させてまで刊行しようとした意圖は、どういふのであつたらうか? あはせて藩士の語學力を強化せんとしたのだらうか? それとも幕末當時の、蒸汽船を作るにも、大砲を作るにも、雄藩同志が鎬をけづる競爭のいきほひであつたから、祕密を守るために歐文としたのだらうか? しかし私は考へる。いやいやさうではあるまい。尠くともそれだけではあるまい。何よりも大きな理由は、歐文ならばアルハベツト二十六文字の字母創成で、萬事が足りるといふこと。島津齊彬も木村嘉平も、まづは捷徑を選んだのではなからうか?![#「?!」は縦中横]*1
「しかし當時歐品としいへばすべて幕府の禁止するところ――嘉平は自家の一部に密室をつくり晝夜燈火を具へて」とある。「櫻材をもつて模型をつくり數多の鑢《やすり》と鏨《たがね》をあつらへ、銅又は眞鍮を用ひて、長方形大小各種の種字を作りだし」云々。嘉平の寫眞は世につたはつてゐないらしいが、一代の名工が、十一年の年月、世を憚る密室のうちで、心血を濺いで稀代の活字字母をつくりださうと苦心するさまを想像すると、百年を距てて特に活字に縁のある私には眼頭の熱くなる思ひがある。「又別に銅にて作れる鋼鐵を用ひて三個の長方形なる金物を組み合せて、字母を嵌めこみたる穴に、圓形なる器にて鉛を注ぎこみ、穴を縱の上部より底通迄に鐫りぬきて、尚空氣穴をうがてる鑄造機を造りて云々」ちよつと素人には理解しにくいか知れぬが、これはつまり「手鑄込み器」の説明である。同じ嘉永の四年には、本木昌造も既にこれをつくり出してゐるが、長崎と江戸と距てては相知るところがなかつたであらう。そしてもつとはるかなる感慨は、これよりも十五六年以前、西洋暦にして千八百三十四年アメリカのデヴイツド・ブルースが、所謂「ブルース式カスチング」を發明して、世界の印刷術界に革新をもたらしてゐることである。私たちは幼時この※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉式の「ブルース式」によつて育つたが、いま嘉平や昌造の苦心を傳へ讀んで、「ブルース式」から「手鑄込み器」の歴史まで遡ることができるのだ。
 そして嘉平の困苦はまだつづく。十年めに一應出來あがつた活字製法は、木や銅に手で彫つた種字が、實用に堪へぬうちに破損してしまつた。「しかし以上の方法でも種字は破損しやすく、徒らに年月を費し、嘉平は齊彬公樣の御意に報い得なかつた。――偶々島津侯の邸内に月々理化學の講義があるのを聞知し――一日偶々同邸において和蘭人に出會し、電氣學の一部を研究することを得、是より蝋石面に種字を凸形に彫刻し、高度に溶解せる液體の中に浸漬し――」云々と。これは川本幸民の「遠西奇器述」で説くところの電胎法である。
 斯くして、嘉平の活字字母は出來上つたのだといふ。そこで私は考へるのだが、島津ほどの大藩であつたから、或はオランダ人もその江戸邸に出入することも出來たか知れぬ。齊彬から二代か以前の島津重豪などは、新知識を學ぶために蘭人を厚遇したといふし、オランダのカピタン・ヅーフなどは江戸參府の歸途、島津江戸邸の門前を通過するときは駕を降りて、日本流に敬禮したと、彼自身の「日本囘想録」に見えてゐるくらゐだから、或は信用していいか知れぬ。しかしそれよりもつよく、當然私らの考へにはいつてくるものは、「島津侯に祿仕せしめられ」た川本幸民であり、幸民と嘉平とのつながりであらう。殊に「月々理化學の講義云々」を思へば、直接ではなかつたにしても、この學者と名工が科學の絆によつて、何らかの形でむすばれたらうと想像することは無理であらうか。
 ところで私は「嘉平の活字」の行衞を追つかけなくてはならない。手がかりは二つあつて、一つは前記の「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」中の末尾に見える、嘉平の活字がサツマ辭書の印刷に用ひられたといふのであり、いま一つはK・H氏が私に見せた大福帳型のオランダ單語篇と、同じくK・H氏が「八王子の活字」と稱ぶところの、やはり蘭書「濟生三方附醫戒」である。單語篇のイタリツク風の活字は既に見た。「濟生三方附醫戒」はK・H氏もまだ見てないらしいが、同氏が「八王子の活字」と名づけてゐるところの所以たる、ある文獻を貸してくれた。それは第千百五十號の中外醫事新報と、同第千二百八十六號別刷の薄つぺらな古雜誌である。そのどつちにも陸軍軍醫中將秋山練造といふ人が書いてゐるが、別刷の方には「安政五年父の飜刻せる蘭書「濟生三方附醫戒」について」と題してある。
 練造氏の文によれば秋山氏は代々八王子に住んで、「濟生三方附醫戒」を出版した先代方齋は「幼名佐藏と云ひ、祖父の死後家と名を襲ぎて、義方と稱し、醫にして士であつ」た。安政五年の出版で、蘭書フーフエランドの寫本を原稿として鉛活字で印刷したといふ意味が述べてあり、練造氏の幼時の記憶によれば「又活字も診察室の戸棚に澤山あつたものでした。それが皆我家全燒の時失はれて――活字の鑄型が二個殘つて記念となつてゐるのみです」。また別のところでは「印刷に用ひた活字は少くとも五種を見ることが出來る。即ち大文字大中二種と、同じ大文字ながら少しく右に傾むいたもの、並びに小文字及イタリア風小文字である」。
 寫眞でみる同書の製本は粗末で不細工ではあるが、ハイカラな英語のリイダアでもみるやうな洋裝であつた。鑄型が殘つてゐるといひ、「之を緒方博士所藏の蘭本原文と比するに文章は勿論同じだが、第一には、活字の大きさが違ふ爲各行が必ずしも同じでないのみならず、その他はくだ/\しい故ここには詳記しないが、五六廉位、植字の形式が違つてゐるのは不思議でない、況んや前記の如く寫本によつて植字したものと考へられるに於てをやである」といふ文によつても、或は輸入活字ではないかも知れぬ。しかし安政五年といへば「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」を信ずるかぎり、嘉平の活字は完成の緒についたくらゐの時であり、たとへば完成してゐたにしても島津の殿樣が他への流失を容易に許したらうか? 專門家でない私などの判斷はをこがましいが、若しそれがオランダ單語篇の活字とも相違するならば、そして輸入活字でないならば、嘉平の他にも活字を作つた人間がゐるといふことになる。
 私は何とか手づるを求めて秋山氏の「濟生三方」を見たくてならない。いまは疑問の儘に一應措くより外ないが「江戸の活字」が歐文から始まつたといふ事實は、永年の印刷工であつた私にもびつくりする發見であつた。
 ある日の午後、私は巣鴨の奧にI・K氏を訪ねた。二階の室に一時間ばかり待つうちに漸く主人は歸つてきたが、I・K氏は英語の教師でまだ若かつた。坊主ツくりの近眼で、私が自分の疑問について述べるうちも、伏めがちに一つところへ眼をおいてゐる。
「さア、活字のことはあまり氣をつけてゐないので……」
 口數すくなく階下へおりてゆくと、持重りのする古びた洋書を五六册かかへてきて、その一つを私の前において、簡單に云つた。
「これが、それですけれど――」
 實物があらうとは思ひがけなかつた。いま眼前にあるそれが洋學年表では片假名で書かれる有名な「サツマ辭書」ではないか! 私はいきなりその大きな書物を眞ン中からあけた。そして直覺的に「ちがふ!」と感じた。これは日本の印刷物ではない!
 菊判より大きく四六倍判より小さいが、左にならんでゐる歐文はパイカで、例の「單語篇」のイタリツクとちがひ、假に嘉平もパイカを作つたにしても字形が洗練されすぎてゐる。むしろ疑問は右にならんでゐる和文の活字、漢字よりも特に小さくしてある片假名にあつた。その並び方も日本で作られた蘭和辭書などと同じで、一方が鉛活字の歐文に、その脇ツ腹へ頭をおつつけて縱書に、つまりねた形の、それと同じ式である。
「或は上海の美華書院か知れませんね、ヘボンの辭書はたしかさうだといひますね。」
 I・K氏は、さう云つておいて、私が返辭せぬうちに、また自分で疑問をだした。
「しかし片假名は、假に字母があつたとしても、支那人の職工にくめますか?」
 私は「くめる」と答へた。植字工は特別な感覺をもつてゐて、たとへば日本の歐文植字工でも英語やドイツ語が讀める者は殆んどないが、それでも十分やつてのける。私の不審は片假名活字にあるのだが、木村の活字が上海まで搬ばれたか、ないしは誰かが片假名の種字をむかふで書いたか、である。
 奧附もないが、丸がかりの洋裝で、がつしりした革表紙の背には箔捺しで「英和對譯辭林」とある。用紙がラフに似た洋紙であることからも、當時の日本印刷術からみて和製と疑ふすべはない。
「ああ、いいものがあります。」
 また階下へおりていつたI・K氏は、薄い古雜誌を持つてきた。「新舊時代」といふので明治文化研究會が發行した昭和二年二月號である。めくられたところに「明治初期に出版した英和辭書類、石井研堂」とあり、その一項目が、「サツマ辭書」に關するものであつた。「薩藩洋學の教師高橋新吉、長崎にあり。洋行して宇内の新知識を究めんと欲すること多年。――偶々長崎人蔡愼吾と交情あり、一日愼吾勸めて曰くに、開成所の「英和對譯袖珍辭書」を増訂して洋行の資を得たらば如何」と。つまりこれが「サツマ辭書」刊行の動機であつて、當時開成所版の辭書(大福帳型)は十二三兩の値段だつたから、多量に増訂したら利益もあらうといふ譯である。以下意味だけ述べると、「本邦に活版印刷の業未だ起らず」愼吾の紹介で長崎の宣教師フエルベツキに逢ひ、フエルベツキまた上海の傳道印刷會社ガンブル商會を紹介して、出來拂ひの契約で印刷することとなつた。「サツマ辭書」はつまり開成所版の改訂版であるが、高橋がどれ程の造詣をこの辭書に傾けてゐるかは、私に判斷できない。とにかく高橋が上海に渡つたのは慶應三年で、間もなく大政奉還の御一新に遭ふや、一旦歸國したが、再び上海に渡り、明治三年の一月三百部が完成したといふ。
 そして研堂氏の文は「あるとき前田正名翁筆者に語りて曰く」とつづいてゐる。前田献吉、正名の兩人もこの辭書計畫の關係者で二人共に上海へ渡つた。「活版所は上海の某寺院であつて、支那人を使役してゐた。」文中印刷そのものに觸れたのはここだけであつて、片假名の種字がどうしてあつたか、嘉平の活字と由緒があるかどうかもさつぱりわからないが、讀んでゐるうち、私は思はず聲をたてた。
「おお正名兄弟! 貴方、前田正名を知つてるでせう、ほら、外國渡航を企てて兄弟ともふん縛られた人ですよ。」
 私はI・K氏が知つてゐようとゐまいと、じつは偶然に正名が「サツマ辭書」の計畫者であつた發見の感激を語りたいのだ。私は以前に正名の傳記を讀んだことがあるが、このことは書いてなかつた。正名は明治初期にフランスへ留學し、普佛戰爭へも義勇兵として參加し、歸朝するや官吏となつて縣知事、農林次官など勤めた人であるが、最も大きな功勞は日本農業を近代化したことにあると謂はれてゐる。薩摩藩士前田善安の四男に生れ、九歳にして洋書を讀んだ秀才であり、十四歳のときその兄と共に外國渡航を企てて露見し、幕吏に捕縛され、兄は切腹したが、正名は若年の故と、兄の命乞があつて死を減ぜられたといふのである。察するに「サツマ辭書」計畫以前のことと思はれ、その兄といふ人は、献吉より上か下かわからぬが「宇内の新知識を究め」たい志は、猶やむことなくして、その頃の長崎にうろついてをり、とほく太平洋を睨んでゐたのであらう。
 私は再び古びた「サツマ辭書」をめくつて、序文を見た。木活字風の字形で「皇國ニ英學ノ行ハルルハ他ニ非ラス所謂彼ノ長ヲ取リ我ノ短ヲ補ハンカ爲ナリ其ノ長ヲ取リ短ヲ補フハ 皇化ヲ萬國ニ輝カサン爲ナリ」とはじまつてゐて「明治二歳己巳正月、日本薩摩學生」と結んである。裏は英文の序文で、終りは同じく(1869, student of satuma)とあつた。ああ何といふ豁達なひびきであらう。スチユデント・オブ・サツマ!
 個人名もいれず・サツマ學生とだけ名乘る人々の胸を反らした面影が泛んでくるやうであつた。上海にあつて御一新のことに遭ひ、藩士として一應の始末に歸國しても、すぐまた海外へ渡つたこの人々の心には既に藩などはなくて、あるものは皇國、世界における日本であつたのだらう。
 私はすこし昂奮しながらI・K氏の家を出た。既に日暮れで癌研究所前から大塚驛の方へ歩きながら、嘉平の活字の行衞は益々紛亂してわからぬままに、少しも失望してはゐなかつた。このうへは手蔓をもとめて島津公の集成館へゆき、その遺品活字に見參することが、殘された唯一の手がかりであらう。
 しかしそれはさうとしておいて、私は考へねばならぬのだ。「江戸の活字」も木村嘉平だけではなかつたか知れない。電胎法による字母も完成されたのだ。しかも、しかも何故に活字は江戸に生れず、長崎に生れたのだらうか?![#「?!」は縦中横]*2
 嘉平が元祖か、昌造が元祖か、そんなことは大きな問題ではない。江戸で生れず長崎で生れねばならなかつたその社會的事情、ああその事情、それこそ「本木昌造傳」に是非書かれねばならぬ要素の一つだと、私はいつか大塚驛前を通りすぎ、白木屋の前に出てしまつてから氣がついて引返しながら、さう考へてゐたのであつた。








*1:この箇所は、?と!の2字が縦中横で組まれてゐると見るべきか「疑問符感嘆符」(第三水準1-8-77)が1字縦に組まれてゐると見るべきか判断できないが、ここでは2字が縦中横だと青空注記しておく、以上青空注記に非ズ]

*2:この箇所は、?と!の2字が縦中横で組まれてゐると見るべきか「疑問符感嘆符」(第三水準1-8-77)が1字縦に組まれてゐると見るべきか判断できないが、ここでは2字が縦中横だと青空注記しておく、以上青空注記に非ズ]