一、pp.95-109

「――せめては板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に、其功を急ぎ候事、胸に火を煽るが如くにて御座候――」
「海國兵談」の著者林子平は、同書の印刷に當つて、東北の片隅から江戸の有志にむかつて、火急の檄を發してゐる。
「――小子は遠鄙に在之候を板刻の諸用を調度仕候故、直に諸君に奉謁し奉告事不能候、因て東都の心友手塚市郎左衞門、柿沼寛二郎、森島二郎、工藤平助、藤田祐甫の五人に托し候て右御入銀の取次を相願候事に御座候、御入銀の御方方右五人の内催寄の者候はば即ち板刻の處に相屆申候――」
 これは今日でいふ「豫約出版」の勸誘状であるが、江戸中期以降、海邊漸く多事ならんとするとき、「海國兵談」の著述をもつて命にもかへがたいとした林子平が、當時の印刷術の迂遠さと、その高價さとを嘆く、身を灼く思ひがその全文にあらはれてゐる。私は文明の今日、印刷業にたづさはつた人間の一人として、次に見る「海國兵談」印刷費用の内譯を、ふかい感動をもつてここに掲げよう。
 
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
一つ、右海國兵談者初卷の水戰の卷より末卷の略書に至つて總て十六卷、紙數三百五十枚也、是を八册に造
一つ、右海國兵談千部を仕立候て世に施し度事小子終身の大願にて御座候事
一つ、右の如く千部を仕立候事其れ不少候、因て書肆を招て千部を仕立候、値の大略を計畫せしめ候、其大數左の如し
一つ、紙一枚の彫賃四匁五分也
 三百五十枚の彫賃一貫五百匁也、金にして二十六兩一分也
一つ、全部八册にて紙八帖づつ用ゆ、千部にて八千帖也、一帖の値八分五厘宛、八千帖にて六貫八百目也、金にして百十三兩一分と銀五匁也
一つ、表紙八千枚、一部八册千部八千册、一枚の値二分五厘づつ、八千枚にて二貫目なり、金にして十兩二分と銀五匁也
一つ、縫糸一部に二丈を用ゆ、千部にて二千丈也、一部の縫糸代六分五厘づつ、千部にて六百五十目也、金にして十兩三分と銀五匁也
一つ、摺賃一部に付四分宛、千分にて四百匁也、金にして六兩二分と銀十匁也
一つ、仕立賃一部に付一分宛、千部にて一貫匁也、金にして十六兩二分と銀十匁也
一つ、外題料全部八册に一分づつ、千部にて百目也、金にして一兩二分と銀十匁也
 〆、銀にして十二貫五百二十匁也
   金にして二百八兩三分也
右者海國兵談を千部仕立候値の大略の積方也、然るに小子元より無息にして且清貧なる者に御座候得ば、中々自力而已に難叶存奉候、因て今度板刻の證に今日迄に彫終り候水戰五卷數册を仕立て候て、諸君の賢覽に奉入此末造功の費を御助被下候――」
[#ここで字下げ終わり]
云々とある。
 口上のうち摺賃とは印刷費であり、仕立賃とは製本費のことである。摺賃千分[#「分」に傍点]は千部[#「部」に傍点]と思ふが、仕立賃より廉い。江戸中期には木版印刷が發達してゐるが、千部の摺賃銀四百匁とすると、當時のばれん刷りもよほどスピードがあつたにちがひない。又外題料といふのは表紙貼込の書名印刷及び紙代のことだらうか?
 しかし何と高價であつたらう。「海國兵談」全八册三百五十枚は、今日の九ポイント活字にすれば四六判で三百頁足らずと思はれる。しかも林子平を苦しめたのは、高價といふだけではなかつた。その何倍もの「せめても板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に云々」といふ苦痛は、歸するところ木版彫刻、今日でいへば植字製版にあつたのだ。
「――一人にて彫る所紙一枚に大概一日半掛り也、海國兵談總紙數三百五十枚にて御座候得ば、一人にて是を彫候得ば元日より大晦日まで休みなしに彫候て九百日掛り申候、二人にて彫り候得ば四百五十日、四人にて彫候得ば二百二十五日掛り、八人にて彫候得ば一百十三日に彫終り申候――然るに小子無息清貧にて御座候得ば、工人を多く用ひる事不能候――」
 そして林子平はつひに彫師一人しか用ひることが出來なかつたし、「海國兵談」の板刻は一千六十日を費したのである。
 私は思ふ。これは近代活字發生前の貴重な文獻である。そしてこれはひとしく當時の學者たちの苦衷であつたらうし、子平の場合、この克明な口上書の裏には、印刷術の迂遠さに對する不滿が明らかに流れてゐる氣がする。
 周知のやうに「海國兵談」の出版は寛政三年だ。日本で始めて本木昌造が外國から鉛活字を購入して近代活字の研究にかかつたのが嘉永元年で、川本幸民が活字字母製法の「電胎法」を講述實驗したのは嘉永五年(同二年とも謂ふ)の事だから、その間五十餘年を距ててゐる。當時の學者たちが印刷術の迂遠さに對する漠然たる不滿はあつても、意識したものにならなかつたのは當然だらう。しかし林子平が、海國兵談豫約出版の檄文に、克明な印刷費内譯を書いた氣持には、もつと何かがある氣がする。たとへば周知のやうに彼はしばしば長崎を訪れてゐる。出島の蘭館にも出入して彼自身の筆になる、彼が蘭館甲比丹たちから饗應を受けた繪があるくらゐだ。彼はそこで種々の洋書を見、當時既に蘭人にとつては日常的であつた鉛活字や印刷機も見聞したにちがひないだらうからである。これは私の不當な飛躍だらうか?
 或は牽強附會とされるか知れない。しかし私の僅かな知識でも、近代活字に關心をもつたのは、主として洋學者たちだつたといふことが出來る。前記の川本幸民が然り。「活字の料劑」を書いた杉田成卿が然り。彫刻ながら鉛ボデイの活字を開成所版に用ひて印刷術の歴史に劃期的影響を與へた大鳥圭介もまたさうである。さらに島津齊彬の命をうけて木村嘉平が作つた活字の最初のが歐文であつたと謂はれ、その他私には作者未詳の「八王子の活字」や、江戸で作られた「オランダ單語篇」がまたさうだつたといふことなど、考へあはせると、洋學と近代活字とは切つても切れぬ關係があらう。
 本木昌造和蘭通詞で、また洋學者だつた。彼が活字なり印刷術なりに關心をもちはじめたのは、前記洋學者たちのそれと軌を一にするものだらう。そこでまた私の考へは飛躍するのであるが、では長崎よりも江戸においてはより澤山の活字の研究者があり、學者があつたのに、何故それが江戸でなくて、長崎でより早く完成しただらうか? 歴史に從へば、活字はつひに長崎に誕生して大阪から江戸へと東漸していつてゐるのである。
 その理由を簡單にいへば、二つあると思ふ。その一つは當時の長崎は、唯一の海外文化の入口であつたこと。從つて明治二年米人技師ガンブルが上海から歸國の途次、長崎に寄港したとき、偶々電胎法による活字字母の製法を、本木昌造に傳受するチヤンスがあつたといふこと。つまり「地の利」といふのが、その一つである。
 その二は、昌造が活字製法に二十年來苦心をつづけてゐた人間だつたこと。ガンブル寄港以前にも幾度か門人をつかはして、上海の傳道印刷會社からその製法を學びとらうと企てては失敗してゐた人間だつたこと。つまり昌造のやうな、江戸の洋學者たちと同じく、近代活字の製法にふかい關心を持つた人間がゐたといふことであるが、さらにも一つ、昌造の場合、通詞といふ職掌柄、外國の文明品を輸入して研究するには、同じ洋學をやる人間のうちでも、比較的好都合だつたといふ條件である。
 つまり昌造は、當時のわが日本において近代活字を造りだすのに、誰よりも適當な位置にゐたといふことになる。もちろん和蘭通詞も幕末の長崎では百人を超えたと謂はれるから百人のうち偶々それが本木であつたといふことは、昌造の人間としての特殊面であるだらう。だが私は、人間昌造を含めて、日本の近代活字創成の歴史を知るには、一つは、「地の利」といふもの、當時の長崎がもつた國内と國外關係を究めること。いま一つは、洋學の傳統といつたもの、及び通詞と通詞昌造の生涯といつたものから、まづ知るべきだと考へた。
 それで私はまづ後者から始めよう。

 昌造は文政七年、長崎の新大工町に生れた。父は町の乙名(區長)北島三彌太氏、母は本木繁氏。その四男であつて、幼名を作之助といつたと謂ふ。天保五年、十一歳のとき本木昌左衞門の養子となつたが、昌左衞門は母繁の兄であり、伯父である。
 私は昌造の幼時について傳へた文獻を知らない。多くの昌造傳は「幼より學を好む」とか、「幼より俊敏にして工才に長けたり」とあるくらゐだが、これは恐らく傳記者が附加した文章だらう。私もそれを嘘だなぞとは思はないが。
 彼の生れた文政七年は西暦にすると一八二四年で、當時の長崎を歴史的に想像してみると、その前年文政六年には、彼の新大工町とはつい眼と鼻のちかくにある出島の蘭館に、館附醫員として血氣二十六歳のフオン・シーボルトが來朝してゐた。そして昌造の生れた年には、弱冠二十一歳の高野長英が遙々東北の水澤から笈を負うて長崎に來、シーボルトに弟子入りしてゐるが、翌文政八年には、長崎の郊外鳴瀧に校舍が建てられ、このドイツ生れの新知識をたづねて、醫術に志す者、自然科學や語學に志す者、當時のすぐれた青年たちが、日本ぢゆうのあちこちから集つてきてゐたのである。洋學年表文政八年の項に、「長崎の東郊鳴瀧の地に校舍を建てシーボルト講學の場とす」とあり「醫學、博物學を講説す」とあつて、當時の模樣を日高凉臺が手紙で傳へた文に「此節は西醫も珍敷者到來にて、町ぢゆう施療彼是にて、四方の英哲許多相集、未曾有之盛事と申に御座候、當時阿州美馬順三、江戸湊長安遠州戸塚靜海、阿波高良齋、其他研介○○などいづれも相應に出來候者にて愉快無限に相覺申候」云々といふくだりもあつて、昌造が物心つくころには、長崎ぢゆう好學の氣分が溢れてゐたのだから、よほどのボンクラでない限り、何らかの影響をうけずにはゐられなかつたらう。
 ましてや彼は通詞を職とする家柄に人となつたのだから、その影響度合もはげしかつたにちがひない。おまけに長崎は幕府直轄の地であるし、通詞は長崎奉行支配下にあつたから、政治的影響も色々と身にしみながら成長したと思はれる。殆んど江戸末期の政治的合言葉となつた「攘夷」と「開國」は、海外文物の入口であつた長崎では、日本ぢゆうのどの土地よりも直接ひびいたらうし、通詞といふ職業柄、長崎ぢゆうの誰よりも現實的に影響したにちがひない。
 昌造二歳の文政八年には幕府は「異國船打拂令」を出してをり、昌造十九歳の天保十三年には「異國船打拂令改正」が出てゐる。文政八年のそれは周知のやうに「異國船渡來之節無二念打拂可申」といふ頑固なものであるが、天保十三年の改正令では「其事情不相分に、一圖に打拂候而は、萬國に被對候御所置とも不被思召候」また「異國船と見受候はば、得と樣子相糺し、食糧薪水等乏しく、歸國難成趣候はば、望之品相應に與へ」云々となつてゐて、この改正令も外國人の上陸は許さなかつたが、よほど緩和されたものとなつてゐる。文政八年の令は將軍家齊であるが、改正令は家齊退職の直後であつて、その間幕閣にもいろいろと機微な動きがあつたであらう。文化文政の頃からは英船、魯船の來航が漸く頻繁となつてゐるし、少年昌造には、政治の機微な動きについて察知することは出來なかつたとしても、たとへば次のやうな出來事は影響あつたのではなからうか?
 つまり「蠻社遭厄事件」で、天保十年に高野長英、渡邊崋山が捕へられたとき、昌造は十五歳であつた筈である。長英の「夢物語」、崋山の「愼機論」を幕府が忌むところとなつて崋山は天保十二年、昌造十七歳のとき自殺し、長英は昌造が二十七歳、嘉永三年に自刄するまでは破獄したまま行衞不明だつた。シーボルトの弟子であつた長英、また「夢物語」や「愼機論」やを、昌造など直接讀む機會をもつたか否かはわからぬにしても、幕府の「打拂令」について洋學者たちがはじめて觸れた政治的見解であつたから、贊不贊は問はず、同じ洋學をやる昌造には、ニユースの早い長崎で、何かと感ずるところがあつたと思はれるし、天保十三年の「改正令」が出たときは、職業柄昌造たちには現實的にひびくところがあつた筈である。
 私は昌造の幼少時について傳へる文獻を知らないから、こんな世上一般の動きを考へて、その一面を推し測つてみるのだが、長崎といふ地にあつて、通詞を職とする家にあれば、その影響するところも、單に國内的なものばかりではなかつただらう。年々歳々、これだけは家康の渡海免許の御朱印状を持つてゐて、貿易のために渡來する和蘭船のほかに、當時のさだめとして、日本の土地のどこに漂着しても、必ず一度は長崎におくられてきた、毛色眼色のちがつた異國人たちに接してゐれば、あれこれと海外の珍らしい出來事も聞きかじつたと察することが出來る。
 そして昌造が五歳の年、一八二八年にはアメリカ大陸にはじめて汽車がはしつたのであるし、昌造十一歳の一八三四年にはヤコビの電機モーターが發明されてゐる。翌十二歳の一八三五年にはモールスの電信機が完成してをり、同じ年にコルト式拳銃が發明されてゐる。さらに昌造十五歳の一八三八年、日本で長英、崋山が捕へられた年には、はじめて大西洋に黒煙をなびかせながら蒸汽船が、つまりこれより十五年後の嘉永六年、日本をおどろかした黒船が波を蹴立ててはしつたのである。