二、pp.109-126

 本木の家は和蘭通詞のうちでも、名村、志筑、石橋、吉雄、楢林らと並んで舊家である。三谷氏つくる家系圖に據れば、その祖を明智光秀の孫、林又右衞門に發してゐると謂はれ、又右衞門より三代庄太夫のとき本木姓を名乘り、松浦侯に仕へ肥前の平戸に住したとある。庄太夫より祐齋、つづいて同じ名の二代庄太夫がはじめて平戸より長崎に移住、通詞としての本木家元祖となつた。
 同家系圖では移住の年號が明らかでないが、洋學年表では「平戸人本木庄太夫――是年長崎に移住す、後寛文甲辰小通詞となり、又五年寛文戊申大通詞に陞る」とあつて、「是年」は萬治二年である。庄太夫は元祿十年七十歳で死んでゐるから、移住の年は三十六歳の壯年であつた。
 この時代の日本人はどういふ風にして外國語を習得したのだらうか? 仔細のことは私にわからぬが、前掲書には「庄太夫、本姓林氏、世々松浦侯に仕へ、少より和蘭館に出入して其言語に通ず」とある。つまり外國人に接してゐるうち、口うつしに發音だけをおぼえていつたのだらう。從つて長ずるには一種の記憶力といつた才能が必要なわけで、庄太夫は秀でた資質があつたらしい。ただここで腑に落ちぬ點は、和蘭商館が平戸から長崎出島に移轉したのは寛永十八年のことであつて、庄太夫移住の萬治二年を距つること十七年前だといふことである。だから「幼より和蘭館に出入し」といふのは、庄太夫十九歳以前のこととなる。同じ肥前であつても平戸と出島は、當時の交通からみてはよほどの距離であるし、移轉後の商館にちよいちよい出入は出來まいと思はれる。しかもまた庄太夫が通詞として召抱へられたのは寛文四年と、板澤武雄氏「蘭學の發達」にはみえてゐるから、移住後萬治二年から五年後に屬する。してみると庄太夫は、その管轄領主であつた松浦侯に仕へながら、長崎移住後も何らか和蘭商館に關係ある役柄でも勤めてゐたのだらうか?
 いづれにしろ蘭語について、たとひ口眞似だけの理解にしろ、才能をもつた人物は當時珍重されたのにちがひない。周知のごとく將軍家光は切支丹禁制の施政を強化するために、平戸にあつたポルトガル支那和蘭等の商館を、長崎港の沖合に島を築いて、そこへすべてを收容したが、一方、貿易事業は日を逐うて旺んになつていつたし、フオン・シーボルトの「日本交通貿易史」によると、「此時(一六七一年、寛文十一年)は、イムホツフ總督(東印度會社の支配權を握る蘭印總督のこと)が、日本における和蘭貿易の黄金時代と云ひたる頃なり」とあつて、日本の輸出高は和蘭のみで、年々四五十萬兩にのぼつたころである。しかも日本から積出されるものは最初に黄金、つぎは銀、つづいて銅といふぐあひで狡智なヨーロツパ商人どもに乘ぜられて、怖るべき勢で貴金屬を失ひつつあつたのだから、幼稚な幕府もおどろいて、それらの危險を防ぐ施策の一つとして、より澤山の和蘭通詞をもとめてゐたと考へられるし、幕府は松浦侯に命じて庄太夫を召抱へたのだと察せられる。
 庄太夫は、諱を榮久といひ、のち剃髮して良意といつた。四十一歳で小通詞となり、四十六歳で大通詞に陞つた。彼が六十八歳のとき、幕府は和蘭通詞に目付をおく制度を設けたが、庄太夫はえらばれて初代の通詞目付となつた。よほど人物だつたらしく、延寶四年に他の通詞名村、中島、楢林らと共に「阿蘭陀風説書」を和解して幕府に呈出したなどの記録もあり、醫事にも通ずるところがあつて「和蘭全躯内外分合圖」などの著書もあるから庄太夫蘭語も口眞似だけではなかつたとみることが出來る。その他和蘭甲比丹の「江戸參觀」に差添通詞として參觀すること九囘に及ぶといはれてゐる。この頃の「江戸參觀」(和蘭甲比丹の將軍拜謁)は毎年行はれたもので、後に見るごとくその行事はいろいろと時の政治や文化的動向にも觸れるところがあつたし、通詞としてもなかなかの大役だつたから、庄太夫といふ人は通詞としての技倆以外にも重くもちひられる人柄であつたのだらう。
 洋學年表元祿十年の項によれば「十月和蘭通詞目付本木良意死す、子市郎助年僅に七歳」とあるが、三谷氏の家系圖では本木二世「武平次」とある。そして三世本木仁太夫が元祿四年生れで、このとき丁度七歳である。だから洋學年表でいふ「子市郎助」とはたぶん仁太夫のことで、「市郎助」は仁太夫の幼名と推測されるが、すると武平次なる人物は内縁の養子ででもあつたらうか? とにかく洋學年表にしろ、「蘭學の發達」にしろ、武平次なる人物はみえず、多くの傳記が庄太夫から二世は初代仁太夫となつてゐる。しかし三谷氏の家系圖でみれば、初代仁太夫、つまり「市郎助」が書いた庄太夫の墓の碑文に「元祿十年十月十九日本木武平次之を建つ」とあるのださうだから、血縁か否かは知らず、とにかく武平次なる人があつたにちがひない。通詞だつたか否かも私には知る術がなく、いまは洋學年表に從つて、庄太夫死後は十數年打ち絶えて、七歳の市郎助二十二歳ではじめて登場してくるのについてゆかう。
 本木二世初太夫(三谷氏では三世)は寛延二年五十六歳で死んだ。庄太夫と同じくのち剃髮して良固と稱したが、努力にも拘らず生涯稽古通詞から陞れなかつたが、その良固が蘭學者としては知られてゐるのが面白い。洋學年表享保元年の項に「下欄ハ學者ノ忌日ヲ記入スル處ナレドモ第一年ハ現存者ヲ列記ス如左」とあつて、西川如見六十九歳、新井白石六十歳、細井廣澤五十九歳、野呂元丈二十四歳などと、年齡順にきて、「長崎人本木仁太夫二十二歳」と書いてある。
 良固の生涯でもつとも特筆すべきことは、延享二年、通詞西善三郎、吉雄幸右衞門と共に、和蘭文書を讀んでもよろしいといふ特許を得たといふことであらう。衆説によれば當時洋書を讀むことは一般に禁ぜられてをり、この頃江戸で青木文藏(昆陽)等が運動して、吉宗將軍をして「洋書解禁」の令を出さしめたといふのが、杉田玄白らの「蘭學事始」に謂ふところと併せて有名な出來事となつてゐるが、これについて板澤武雄氏は「蘭學の發達」の中で次のやうに反駁してゐる。「――八代將軍吉宗の時に至り、通詞西善三郎、吉雄幸右衞門、本木仁太夫から右の有樣を申立て、横文字を習ひ、蘭書を讀むことの免許を幕府へ願ひ出で――許可せられたといふ。――右の説が長い間そのまま信ぜられてゐたが、延享二年といへば日蘭兩國人の接觸が始まつてから百四十餘年を經てゐる。この間――貿易の實務に當つてゐた通詞が、横文字一つ讀めないでその職責を果し得たであらうとは常識からしても考へ得られないことで、蘭學事始の所傳の信じ難いことは古賀十二郎氏も「長崎と海外文化」に於て夙く指摘せられてゐるのである」云々。
 素人の私にこの板澤説と洋學年表説のいづれと判斷する力はない。しかし一世庄太夫にして「和蘭全躯内外分合圖」(これは孫二代仁太夫によつて出版されたが)の著書があるのにみても私は板澤説に加擔したい。ましてや三谷氏の本木傳にみる、青木昆陽が長崎を訪れて良固らと洋書解禁のことを圖つた云々は、素人の私も信じないところである。しかしながら板澤氏自身も同書で認めてゐるやうに、當時の和蘭通詞らがいかに蘭文學に暗かつたか、例へば、切支丹本の密輸さへ書物を見ながら指摘し得なかつたと與げてゐるごとくであるし、「日本囘想録」による甲比丹ヅーフの通詞らの蘭語に對する所見もまた同樣である。
 つまり私の信じたいことはかうである。西、吉雄、本木の蘭書讀譯の免許云云は洋學年表説の如くではなかつたか知れぬ。しかし當時の通詞らの蘭文學への暗さは、後に見るやうに通詞制度が産んだ卑屈な一般的性格にも由來する向學心の乏しさにもあらうし、洋書禁制ではなかつたにしても、口辯の通譯を以て足れりとする、「鼻紙に片假名で發音を書きとつた」といふ式の通譯で足れりとしたもののうちには、單に通詞らの卑屈さのみでなく、それをよしとするところの幕府の方針といつたものがあつたのではなからうか? もちろんそれは通詞といふ職制度と一見矛盾する。しかし家光鎖國の方針と貿易とが矛盾するやうに、そこに確然たる禁制の掟はなかつたにしても、通詞らの反向學心と狎れあはしむるやうな何物かがあつたのではなからうか?
 良固は口辯が不得手であつた。ために生涯稽古通詞からのぼれなかつたが、「蘭書讀譯免許云々」のとき、西は三十、吉雄は二十二で、ひとり仁太夫のみ五十一であつた。「されば、學問に心深かりしより半白の身を以て少壯者と其志を同じくせしぞめでたき。余の祖父玄澤は長崎に遊學し本木、吉雄の兩家に益を請れ、本木も蘭學創業の一人と傳へ」云々と、玄澤の孫の大槻如電は誌してゐる。
 玄澤は良固の孫庄左衞門とは友人であり、「益を請れ」たのは良固の子二代仁太夫と思はれるから、「免許云々」も、その子なり孫なりの云ひ傳へであらう。しかしいづれにしろ、年代的にみて通詞らの中から學者や技術者が多く出たのは良固以後であるから、この三人の擧は何らか通詞らに向學の刺戟を與へた性質のものと私は信じたい。そして「良固稽古通詞たること二十年、小通詞にも至らず――一女僅かに十二歳西氏の子を嗣となし、諭して曰く、汝其身を愼み世職を完うせよ」と遺言して亡くなつた。
 二代仁太夫、本木三世は西家から入つて榮之進といひ、良永といつた。享保二十年生れ寛政六年六十で死んだ。速水敬二氏の「哲學年表」にも同年科學者の欄に「本木良永六〇」で歿すとある。良永は先代の遺言をついで、安永六年小通詞となり、のち進んで大通詞となつた。洋學年表では「――本木氏の中興にして、オランダの天學此人に因て起る」とある。
 良永はよき通詞でもあつたが、秀れた學者でもあつた。澤山の著譯書があつて、主なるものを「哲學年表」から拾つてみると、安永三年「平天儀用法」「天地二球使用法」天明元年「阿蘭陀海鏡書」天明八年「阿蘭陀永續暦」寛政四年「太陽窮理了解」等があつて、とりわけ最後の「太陽窮理了解」説は、はじめて地動説を日本に紹介したものとして知られてゐるし、その後に來る天文學の道を拓いたものであらう。日本に始めて太陽暦が採用されるについて大きな挺子となつた「暦象新書」の魁をなすものであり、「暦象新書」の著者で有名な、通詞出身の、のちに柳圃と號し中野姓を名乘つた志筑忠雄は、良永の弟子であるのにみても理解できよう。
 良永は義父良固に肖て、むしろ勤直な學者肌だつたらしい。彼が幕府に「太陽窮理了解」説の譯述を命ぜられた(これは安永三年に「天地二球使用法」を譯述して呈出したのに基いてゐるといふ)のは五十八歳のときであつた。全篇七卷三百二十五章、外に附録一卷といふのだから、よほどの大仕事である。寛政三年十一月に始めて同五年九月に終つてゐるが、この譯著が成ると數ヶ*1月で死んでゐるから、恐らく命とりの仕事だつたと考へられる。四世庄左衞門の碑文に「奉命譯書、時維嚴冬、自灌冷水、裸體素跣、詣于諏訪神社、祷卒其業、人或諫曰、子既老矣、何自苦之劇、曰自先世、以譯司、食公祿、以斯致死、即吾分而已」と誌してゐるさうだが、恐らく良永の面目を傳へたものであらう。
 四世庄左衞門は良永の嫡男で、正榮と諱した。三谷氏家系圖では安永七年生れ、文化十年三十六歳で死んでゐるが、洋學年表では文政五年物故蘭學者の欄に庄左衞門の名が出てをり(長崎大光寺、享年五十六)とある。これでみれば死歿の年に相違があるばかりでなく、生年も安永七年でなく明和五年となつてくる。從つて三谷説によると、良永歿年に庄左衞門は十七歳であるが、後者では二十七歳となるし、しかも後者はその説を裏書するやうに、寛政六年の項に「大通詞本木仁太夫死し子元吉嗣ぐ、小通詞なり、庄左衞門と改め正榮と名乘る」とあるから、小通詞とすればよもや十七歳ではないだらう。前記したやうに新撰洋學年表の著者如電の祖父玄澤は、書中にもみえるやうに庄左衞門の友人だし、私は後者を信じたい。それに證據の一つとしてヅーフの「日本囘想録」には一八一七年、文化十年まで庄左衞門健在の事實が記録されてゐるからだ。一八一七年は甲比丹ヅーフが日本滯留十九年で、バタビヤへ引きあげた年である。しかもこの記録たるや、後にみるやうに庄左衞門の存在は、和蘭商館長ヅーフにとつては忘れがたい敵役であるし、彼が※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々の思ひで日本を退散しなければならぬ動因ともなつてゐるからである。
 本木四世庄左衞門は、のち大通詞に進み文政二年には名村八右衞門と共に、「總通詞教授」を命ぜられてゐる。何の教授であるか誌されてゐないが、庄左衞門は蘭語の他に佛蘭西語を習得してをり、殊に英語において先達であるから、たぶんそれらの教授と思はれる。庄左衞門の著書のうちでも記憶さるべきものは、文化八年二月の「諳厄利亞興學小筌」(英語小辭典のこと)及び同年九月、楢林、吉雄と共につくつた「英吉利言語集成」等であつて、恐らく日本における英語の歴史上特筆されるものと思ふ。「英吉利言語集成」の序文を庄左衞門が誌して曰く「諳厄利亞國は往昔其職責を禁ぜられ其言詞を知る者あらず、文化己巳來航和蘭人ヤンコツクブロムホフ其國語に通ずるに因て我譯家肇て彼言詞習得するを得たり辛未の春諳厄利亞興學小筌を譯述し我黨小子に援け外警に備ふ幸に九月言語集成譯編の命あり於斯彼言詞を纂集し旁和蘭陀佛蘭西の語に參考飜譯して遂に皇國の俗言に歸會して是に配するに漢字を以てす」云々。
 私はこの短い序文のうちに、日本に英語が入つてきた徑路とか、その社會的事情とかがわかる氣がする。「我黨小子を援け外警に備ふ」云々は、つまり庄左衞門を中心に、有志の通詞たちがひそかに他日にそなへて、英語を習得してゐたことをいふのだらう。文化己巳は六年で、先だつこと二年であるが、さらにその前年、文化五年の「英船事件」を思ひ起すとき、私らは庄左衞門の意圖が、よりはつきりわかるではないか。「英船事件」とは有名な、和蘭の國旗を掲げて長崎港に不法侵入してきた英國軍艦「フエートン號」のことである。「フエートン號」の眞意が、和蘭本國を降伏せしめた新興英國として、その出先の和蘭商館を占領するにあつたとしても、同商館は半ばわが庇護下にあつたため、出來事は錯雜して、時の長崎奉行松平圖書をはじめ佐賀藩の重役五名が責をひいて切腹したといふ事實である。當時庄左衞門は公用を以て江戸に在つたが、「英船事件」發生に遭ふや滯留を命ぜられ、英文の通譯に當つたといふから、ブロムホフに就學する以前にも若干は獨習してゐたかと思はれる。
 いづれにしろ本木一家の系圖にみても、庄左衞門の時代となれば、海邊は急激に多事であつた。從つて彼の譯書にも「海岸砲術備用」とか「海程測驗器集説」等があつて、外交海防に盡すところ多かつたし、のちに父良永と共に正五位を贈られてゐる。
 庄左衞門歿後、洋學年表では嘉永元年の項に「昌造名永久――庄左衞門の孫なり」といきなり出てきて、昌造の養父昌左衞門はまるで缺落してしまふ。しかし昌左衞門が庄左衞門の實子であり本木家五世であることは、三谷氏の家系圖のごとく私は信じたい。若し庄左衞門に男子がなかつたならば、昌造の母繁を北島に嫁がせることをせず、養子を娶せたであらうからである。昌左衞門が何故年表にあらはれぬか、見るべき事蹟がなかつたからかどうか、私にわからぬが、「昌造――庄左衞門の孫なり」といふからには、如電も昌左衞門の存在を否定してゐるわけではない。
 そこで漸く、私の主人公、本木六世、三谷氏系圖では第七世、昌造が登場してきたのであるが、かくもくどくどと本木家系圖を述べたてていつた理由を、讀者よ、諒解して欲しい。カメノコタハシや魔法コンロの發明とちがつて、文明史のうへに足跡をのこすやうな、何か根本的な發明なり改良なりには、相應のたかい精神が必ず裏づけられてゐるものと私は信ずる。つまり、近代日本の文化の礎石の一つとなつた活字の創造、或は移植をした昌造の精神に、かうした數百年にわたる家系が、何らか影響するところなかつたらうかを、私はみたかつたのだ。









*1:青空文庫入力ルールに従ひKATAKANA LETTER SMALL KEとするが、入力者にはKATAKANA LETTER KEに見える、青空注記に非ズ