長崎と通詞

三、pp.126-136

三 伯父昌左衞門の養子となつた幼名作之助は、のち元吉、昌造と改めたが、十一歳以後は通詞たるべく勉強したにちがひない。養父の手ほどきをうけ、通詞稽古所に通ひ、或は養父の手びきで、直接蘭館の外人たちからも學ぶところあつたであらう。そして、昌造の…

二、pp.109-126

二 本木の家は和蘭通詞のうちでも、名村、志筑、石橋、吉雄、楢林らと並んで舊家である。三谷氏つくる家系圖に據れば、その祖を明智光秀の孫、林又右衞門に發してゐると謂はれ、又右衞門より三代庄太夫のとき本木姓を名乘り、松浦侯に仕へ肥前の平戸に住した…

一、pp.95-109

一「――せめては板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に、其功を急ぎ候事、胸に火を煽るが如くにて御座候――」 「海國兵談」の著者林子平は、同書の印刷に當つて、東北の片隅から江戸の有志にむかつて、火急の檄を發してゐる。 「―…