一、pp.263-281

 昭和十七年の夏の終り頃には、私は麻布二之橋のちかくにあるS子爵邸のS文庫に、書物をみせてもらふために通つてゐた。夕刻ちかくになると書物を棚にもどして、子爵邸前のだらだら坂をおりてくるが、どうかしたときは二之橋の欄干につかまつて溝《どぶ》ツ川のくろい水面をみつめながら、ボンヤリ考へこむことがあつた。
 自分は活字の歴史をさがしてゐるのに、何で「嘉永の黒船」や「安政の開港」などを追つかけまはしてゐるんだらう?
 一種の錯覺に似た、氣弱な不安が起るのであつた。たとへばS文庫のうすくらい片隅の机で、私は借りた書物のうちから、はじめは「昌造」の名ばかりさがしてゐる。幕府時代の公文書とおぼしきものから、年時や事件を繰りあはせてさがしてゆく。ちかごろでは「本木」とか「通詞」とか「活字板」とかいふやうな文字は、どんなに不用意に頁を繰つてゐても、むかふから私の眼のなかにとびこんでくるやうになつてゐたが、またそれと同時に、私の興味は活字などとは凡そ縁のないやうな、昌造とさへ直接には關係のない、いろんな他の文章にも魅かれていつて涯しがないやうであつた。
 私は日本の近代活字の誕生が知りたいのであつた。それで私はその代表的人物本木の生涯や仕事を知りたいのであつた。その昌造は通詞といふ職業で、「黒船」にも「開港」にも關係してゐた。從つて私はプーチヤチンもペルリも、水戸齊昭も川路左衞門尉も、その他いろんなものをおつかけてゆくのであるが、しかもその間を容易に斷ち切ることが出來ないでゐる。私は脱線してゐるのであらうか? 木に據つて魚をもとめてゐるのであらうか?
 私は三谷氏の「本木、平野詳傳」をはじめ三四の本木昌造傳をおもひうかべてみる。そこでもやはり「安政の開港」や「嘉永の黒船」が書いてあつたが、簡單にいへばそれらの事蹟も昌造の偉らさを讚へる證據としてだけ擧げられてあつた。そして日本の活字はその個人昌造の偉らさによつて偶然に産みだされたものとなつてゐる。だから昌造を日本活字の元祖とする場合は、「黒船」や「開港」の記録のうちにも、彼個人の偉らさを證據だてるやうな文章のみを發見すればよいのであつた。木村嘉平を元祖とする人々の場合は、嘉平の苦心談を探しだせばよいのであつた。
 しかし私の主人公は、じつは昌造や嘉平やといふ個人を超えて「活字」といふ一つの文明器具、一物質の誕生にあつた。これは昌造や嘉平の偉らさと決して無關係ではないが、はるかに限界を超えてゐた。たとへば嘉平の苦心談は、その註文主島津齊彬の意志がなくては生れないし、齊彬のさういふ前代未聞の註文は、當時の對内外關係をべつにしてはまつたく判斷出來ないであらう。だからいくら昌造の偉らさを讚へたところで、嘉平の苦心を探しあつめたところで、それだけでは日本の活字は完全に生きることが出來ないであらう。
「いや、いや」
 溝《どぶ》ツ川のくろい水面に、フツリフツリと浮いてでるメタン瓦斯の泡をみつめながら、私は思ひかへすのであつた。これは私の迷ひなんだ。よし私のやうな素人が、當時の複雜な對外事情に一年や二年首をつつこんだところで、その理解し得るところは高が知れてゐたにしても、やはり明治維新を産み出した當時の日本と日本人の力に全力をあげてすすまねば、日本の活字に血は通はぬのだと考へるのであつた。
 さて、プーチヤチンの黒船が長崎を退帆すると、わづか九日めには、ペルリの黒船がこんどは七隻で江戸灣に入つてきた。舞臺はたちまち長崎から江戸へと擴がつたのであるが、昌造にとつてこの「安政の開港」は、生涯の大事だつたと思はれる。わが日本にとつても開闢以來の大外交であつたが、昌造にとつても、まだ固い蕾が思ひきり雨をあびたやうなものである。長崎に住んで、外國人と接するなどめづらしくはないが、ヨーロツパを相手に國と國との折衝といふ大舞臺は、通詞職としても前代未聞のことであつた。
 これを年次的に述べると、ロシヤ使節一行の軍艦「パルラダ」以下三隻が、機微な交渉のうちに再渡を約して長崎港から退帆したのが安政元年の正月五日。アメリカの使節ペルリ一行が、江戸灣内に再渡來したのが同じ正月の十四日。そして強引に修好條約を締結して下田港を去つたのが同じ六月の二十八日。同じ九月の十八日にはまたロシヤ使節の船が大阪安治川尻にあらはれて、幕府の諭書によつて十月下田へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]航。以來翌年三月までかかつてペルリと同じ日露修好條約を締結して歸國。すると同じ安政二年の七月にはイギリス軍艦が長崎へ入港、當時はクリミヤ戰爭の最中で、歸國途次のロシヤ使節一行中の一部を拿捕、兵員百數十名を捕虜として積みこんだまま、おやつをもらひおくれた子供のやうに慌てて條約をせまり、それを得て同じ月に去つた。以來幕府としては既定の方針を佛蘭西、和蘭にも與へたが、それらの批准はもちろん數ヶ*1年を要した。しかし「安政の開港」といへば、幾多の歴史書が示すとほり、最も重要點を嘉永六年から安政二年の間におく。昌造が通詞としての活動はまさにこの期間を終始してゐて、年齡でいふと三十歳から三十二歳までである。
 ペルリ二度めの來航も、どんなに幕府をおどろかしたかは、澤山の書物にみえてゐて、詳述する必要はあるまい。前年七月浦賀にきて、アメリカ漂民の取扱及び日米國交と通商に關する大統領親翰をつきつけて退帆して以來、再渡は豫期されたが、あまりに早過ぎたのである。ペルリは、前年七月彼の艦隊が留守中に、ロシヤ使節が上海にきて、待ちかねて長崎へ行つたといふ情報を、根據地の上海へ戻つてから知り、ロシヤに先鞭をつけられるのを怖れ、豫定を早めて再渡來したのだといふやうな事情を、幕閣でも知るわけがなかつた。
 三隻の蒸汽軍艦と四隻の帆前軍艦とは、前年碇泊地の浦賀を通りぬけ、無數の警衞船の制止もきかず、横濱近くの小柴沖まで進入してきたのである。當時幕閣では「ぶらかし案」以來、まだ確乎たるものがなかつたし、「二月四日、兩度老中へ逢候處――伊賀守(松平)專ら和議を唱え候、林大學、井戸對馬にも逢候處、兩人共墨夷を畏るる事虎のごとく、奮發の樣子毫髮も無之、夜五ツ時まで營中に居候得共、廟議少しも振ひ不申、いたづらに切齒するのみ」と、水戸齊昭の手記にみえるが如き空氣であつた。伊賀守は三奉行の一人、林、井戸の兩者は既にペルリ應接係を任命されてゐる當時者である。三ヶ*2月前、ロシヤ使節に對して、筒井、川路の應接係を長崎に差遣するときも、硬派の中心齊昭の頑張りで「通商拒絶」を決意したが、そのときはまだ「以夷制夷論」などいふものがあつた。しかし三ヶ*3月後には「通商やむなし」といふ風にもはや正面を切つた論が強かつたやうである。「ぶらかし」とか「御武備御手薄之故」とか、他動的なものではあつたが、「通商やむなし論」は多數だつたらしい。アメリカ應接係の一人松平美作守などは、なかなかハイカラで、第一囘會見のときアメリカ海軍軍樂隊の奏する洋樂に、手足をジツとさせてゐることが出來なかつたと、ペルリの「日本遠征記」には記録してある。從つて、副將軍齊昭は多勢に無勢、老中筆頭伊勢守はいづれとも決しかねて終始沈默をまもるし、「齊昭手記」は「二月五日、昨日廟議之模樣少しも不振、去月下旬より昨日迄之模樣――只々和議を主とし――老中はじめ總がかりにて我等を説つけ、是非和議へ同心いたし候樣にとの事にて、不堪憤悶、此まま便々登城いたし候ては恐入候故、今日は風邪氣と申立、登城延引」と書いたほどであつた。
 もちろん、家慶將軍歿後は、水戸家は幕閣中の最高決定者であるし、「登城延引」の強硬態度は伊勢守をも動かしたであらうし、通信通商の儀は一切拒絶と漸く決まつた。「二月六日、今日五ツ半刻、供揃にて太公登城――通信通商之儀は決して御許容無之と、閣老決議之段申上、林、井戸へも其旨達しに相成候由、太公御快然可知」と齊昭の家來藤田は「東湖日記」に書いた。當時の江戸警備の物々しかつたことも周知のとほり。正月以來各藩は夫々に出兵して、福井は品川御殿山を、鳥取藩は横濱本牧を、桑名藩は深川洲崎を、姫路藩は鐵砲洲から佃島を、加賀藩は芝口を――といつたぐあひに萬一に備へた。幕閣では異變の際は江戸市民へ早盤木をもつて知らせるなど布令を出して、齊昭より「――墨夷及狼籍候迚も、何も御府内町人等へ爲知候には及不申、武家さへ心得候へばよろしき儀――その外は却て火元盜賊の用心、やはり其宅々を守り候方可然――」と叱られた程である。
 しかし二月七日に浦賀奉行組頭黒川嘉兵衞は、アメリカ軍艦に參謀アーダムスを訪れて、應接所を横濱に設けたからと申入れた際、「承知仕候――乍序御談話に及候、此節相願候一件御承引不被下候はば、不得止直に戰爭を可致用意に候、若し戰爭に相成候得ば、近海に軍艦五十隻は留め有之、尚又カリホルニヤにも五十隻用意致し置候間、早速申し遣し候得ば、廿日の程には百隻の大艦相集り候云々」とおどかされたのであつた。まつたく不埓至極であるが、このおどかしは黒川嘉兵衞がたとひ勇武の人間ではあつても、まつたくヨーロツパ文明にくらいとすれば、何程にかは利きめあることだつたらう。
「――夷情察し難く、日夜苦心仕候事に御座候――阿蘭陀人、魯西亞人抔之樣に氣永には無之、至つて短氣強暴之性質故、義理を以て説破候ても、元より仁義忠孝之倫理は心得不申候――」と、アメリカ應接係たちも老中宛の書翰に書いた。やつと長崎を退帆させたばかりのロシヤへの振合も考へねばならず、「夷情察し難」いものだつたから、苦心も並々ではない。それで「――當今の場に至りては亞墨利加人へ通商之試御許容、其後魯西亞人其外英吉利、佛蘭察等共同樣之御答に無之ては、迚も談判は相整申間敷、何共殘念至極に奉存候得共、御武備御整無之上は恐れながら――」とも、この人々は書いたのである。それは正月二十七日付であつて出先から送つたものだが、前記のやうに二月四、五、六日の評議で、「通信通商を許さず」と決定。主席林大學頭をはじめ應接係たちは、己れの意見を撤囘し決心のほぞをきめたのであらう。しかし「夷情の察し難」さはかはりなく、「短氣強暴」で「仁義忠孝之倫理」をわきまへない「墨夷」どもは「廿日の程には百隻の大艦」を江戸灣におしならべるかも知れなかつた。林は井戸對馬守と連名で、二月十日の初會見の前夜、九日付の江戸奉行宛の書翰にその苦衷を愬へた。「――魯西亞人――再渡之節は應接致し方餘程六ヶ*4敷可相成と、榮之助抔も殊之外心配罷在候。月末迄には筒井肥前守、川路左衞門尉も歸都可被致候間――引續き兩人にて取扱候樣宜敷被仰渡候樣、前以御申上置可被下候、拙者共――明日は初面會之儀、扨々心配而已に御座候、此節之胸中は都下にて何程深く御推察被下候とも、其上幾層倍に可有之哉と奉存候――」
 文中の「榮之助」は大通詞森山榮之助で、彼は「長崎談判」が終るや、長崎から江戸まで早駕籠をもつて參着、二月一日付で神奈川へ差遣されたのであるが、この林、井戸の書翰にみても、ロシヤとの振合で「榮之助抔も殊之外心配」したといふからには、齊昭の「通信通商を許さず」の方針は決定しても、やはり大勢はある程度の讓歩を事前に覺悟してゐたものだらうか。
 二月十日は周知のごとく歴史的な日米會見日である。この日第一の議題はアメリ捕鯨船その他漂民の取扱の緩和方であつて、雙方「人命を重んずる」建前に異議はなかつた。「通商」の申出には「如何にも交易之儀は有無を通し候事故、國益にも可相成候得共、元來日本國は自國之産物にて自ら足り候て、外國之品物無之候共、少しも事缺候儀は無之候――」と拒絶したが、漂民の取扱を改善し、缺乏品を定められた港で賣り與へるといふことを正式に約定すること自體が、新らしい大事實であつた。從來も長崎港では漂民、漂船に缺乏品を與へたことは澤山例があるけれど、それは天保十三年の「異國船打拂改正令」にもいふごとく「御憐愍」であつたし、一方的のものだつたからである。ペルリは最後に「米清修好條約文」を參考のためにと手交して「――今出す所の案書を熟覽あらば、再三に詞盡すにも及ばず、今兩國にて交り會し、互に心中を相知り、和親之條約せん。もし此度請ひ望む所を許容なからんには、某決して國に歸らず、江戸への貢獻物もいかに取はからふべき方なければ、何時迄も此海上に滯留して左右を待つべし」と結んで會見は終つた。
 二月十三日には書面を以て「――我國命之趣は廣大之意に有之、就ては貴國政府時勢を辨へ、私志願之通、治穩和親之談判を遂げ、兩國人民滿足之取極相立候儀、猶豫無之樣――」と強調して長崎港以外に、箱館琉球にも港を開けと主張し、二月二十五日の會見では下田及び箱館開港の豫約が出來、三月三日の會見によつて、遂に「神奈川條約」が成立した。「日本と合衆國とは、其人民永世不朽の和親を取結び、場所人柄の差別無之事」にはじまつて、下田は條約批准後即時にも開港し、箱館は翌年三月から開港「亞米利加船薪水食糧石炭缺乏の品を、日本にて調候丈は給候爲め、渡來之儀差免し候云々」の文句は周知のごとくである。これはまさしく破天荒のことであつて、たとへば第五條のうちにいふ「――長崎に於て、唐和蘭人同樣、閉籠め、窮屈の取扱無之、下田港内の小島周り凡そ七里の内は、勝手に徘徊いたし――」などは、つい數ヶ*5月前ロシヤ使節の軍艦が半年餘を長崎沖に碇泊しても、和蘭使節の軍艦「パレムバン」が五ヶ*6月を海上に滯泊しても、奉行所における會見以外、一歩も上陸を許さなかつた過去にみて、おどろくべきことだつた。福地源一郎が、「幕府衰亡論」のうちで、このときを指して「開國の根本決す」と云つたのも當然であらう。つまり、「通信通商を許さ」なくても、「渡來之儀差免し」て、「日本にて調候丈は給候」とあれば、もはやそれだけで、「通商」にちかいものだつたからである。
 ペルリの蒸汽軍艦は四月十八日に江戸灣小柴沖から下田へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]航、下檢分旁々二十五日を碇泊。五月十三日にこれも下檢分のため箱館へ行つた。その間雙方の贈物も取り交されて、このときアメリカが贈つたものに小型の蒸汽機關車、ホヰツツル式大砲等があつたことは有名である。しかしこのアメリカ應接のことが、最初の危機を孕んだ險しい雲行にも似ず、案外無事に終つたことは何に原因してゐるだらうか? 多くの歴史書が傳へるやうに、當時幕府の「御武備御手薄之故」彼の砲身の長い大砲と、煙を吐いてはしる黒船に、ある程度は氣壓されたと殘念ながら認めねばなるまい。たとひ水戸齊昭でなくとも、當の林大學でさへ「殘念至極に候得共」であつて、幕府自體尠くとも進んでやる氣はなかつたのである。云ひ換へればペルリの成功、共和黨時代に遣日使節兼東印度艦隊司令長官に任命されたペルリが、民主黨が代つて共和黨時代の對日方針を訂正しても、飽迄共和黨時代の方針で押し切つた成功であらう。
 しかしまた當時の日本の政治家たちが、單にペルリの恫喝に屈したとのみ考へることは出來ない氣がする。幕閣の多くが武備手薄を楯にとつて「通商やむなし」といつた意見の表現の仕方にも、いろいろの角度があつたのではないか? 弘化元年和蘭の「パレムバン」が來たときに、幕府は手きびしく追ひ返したが、そのとき水野越前は將軍の御前會議で「――慶長、元和の規模に復り、内は士氣を鼓舞し、外は進んでこれを取らん」と叫んだやうに、それから九年後の嘉永六年には、ゴンチヤロフの「日本渡航記」にもみるやうに「あのときは幕府の老中で贊成するものが二人だけだつたが、いまは反對するものが二人だけになつた」といふのにみても、表だつた記録にはみえなくても、鎖國に對する反對空氣は、甚だ複雜微妙ながら、相當つよく生れてゐたか知れぬと察せられる。
 その開國進取にもいろいろあつたらう。當時の困憊した經濟事情からただ利をもとめるやうなものもあつたらうし、齊昭が慨いたやうに士氣墮弱から安きにつく輩もあつたか知れぬ。それと同時に、深夜アメリカ軍艦を訪れ、祕密渡航を企て、捕はれた吉田寅次郎らの如き、尠くとも「進取」があつたのである。國法を犯しても宇内の知識をきはめ、もつて皇國の安泰をはからんとするやうな「開國進取」である。「開國」の文字も、安政末期以後の十餘年間は、複雜多岐な政治性を帶びてきて一概に云ひ難いが、この頃まではまだまだ素朴で、皇國の安泰と、武器のみに限らず文明をきはめて我物とする意慾とが、なだらかに流れてゐたと思はるる。ロシヤ使節の蒸汽軍艦に招待された日本人たちが、いかに知識慾に燃え、進取性に富んでゐるかについて、ゴンチヤロフは驚異をもつてそれを書いたが、ペルリの「日本遠征記」もそれを書いた。「――下田でも箱館でも印刷所を見なかつたが、書物は店頭で見受けられた。――人民が一般に讀み方を教へられてゐて、書物を得ることに熱心だからである。アメリカ人に接觸した日本の上流階級は、自國のことをよく知つてゐるばかりでなく、すこしは他の國々の地理、物質的進歩及び當代の歴史についても知つてゐた。――彼等の孤立した位置を考慮にいれると、その質問はまつたく注目すべき知識を有することを明らかにした。――鐵道や電信、銀版寫眞、ペークザン式大砲、汽船についても心得顏に語ることが出來たのである」
 これは主として蘭書仕込みの、「蘭學事始」以來百餘年に亙る澤山の學者の辛苦が育んだものであらう。そして鎖國のうちにあつても、進取の氣象を失はず、宇内の知識をきはめて日本の安泰を護らんとする氣象こそが、一面「神奈川條約」を自主的に成功せしめたのであつて、決してペルリの武威に屈したとのみは考へられない理由の一つである。









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