世界文化連載分、十二

 讀み書きのための漢字組織と、印刷工業として機械化するための漢字組織とは、おのずからちごう、と、私はいくどか、まえにのべた。それなら、ダイアの「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」は、まつたく、語學としての漢字とは、無關係につくられたものだろうか? もちろん、そうではなかつた。どだいからして、まつたく無關係でありうる筈のものでもなかつた。
 ダイアをはじめ、たくさんの新教宣教師たちが、學問としてこの漢字を習得しようとして、いかに苦心したかは、のちにみるところだけれど、ダイアが「——三千の文字の選集」をつくるまでには、彼らヨーロツパ人たちのうちに、それなりの傳統があるのであつた。たとえば、サミユエル・ダイアは、一九二八年にペナンへきた。そこで六ケ年、漢字を習得するかたわら、漢字活字をつくる苦心をつずけて、六年めの一八三三年十月には、前にあげたような、彼自身による、「流しこみ漢字活字」が、ある程度に達成した報告を發表した。そして、このころ、マラツカにあるロバート・モリソン經營の、英華學堂附ぞく印刷工場の監督となつた。英華學堂は、一八一八年、日本では文政二年にあたるとき、創立されたミツシヨン・スクールであつて、そこには「支那人の印刷工、活版工」がいて、アルハベツト活字のほかに、「活字用金屬の表面に、あらゆる文字を、個々別々に彫刻した」ところの「支那語の活字」を、すでにもつていた——ことは、前からみてきたところで、讀者にも明らかだと思う。
 それでは、前にみた“フオントのちごう彫刻漢字活字”は、ダイア活字以前に、どうしてつくられたろう? それはロバート・モリソンが、印度よりもさらに東のアジア大陸に、もつとも早くさきがけした新教宣教師が、「支那語の辭書」を刊行しようとしたからであつた。このモリソン博士つくる漢英辭典がどんなものだつたか、また完成したかどうか、私はほとんど知らないけれど「上海史話」の著者が、私の質問にこたえて、わざわざ上海からおくつてくれた手紙(これはのちに紹介する)によると、「——外人による、漢字の金屬活字の發明は、一八一五年、文化十二年、澳門の東印度會社事務所において、P.P. Thoms が、モリソンの辭書印刷のため、成しとげられました。この辭書第一卷は一八一七年、文政元年に出版。この種の金屬活字は、その後澳門、マラツカ、セラムポールの三ケ所で使用せられました——」ということである。この手紙の末文にいう「その後澳門、マラツカ、セラムポールの三ケ所で使用せられ」た活字、が、私の、本郷の大學圖書館で、いきなりぶつつかつた「漢字印刷」の文章にみた彫刻活字、支那叢報第一卷の解説文のそれと、符節合していることが、わかると思う。もつとも、私は未だに、この澳門の東印度會社事務所關係の、ピー・ピー・トムスなる人物を知ることが出來ないしトムスがどのようにして漢字の彫刻活字をつくつたか、も知らないけれど、少くとも、ダイアの活字より、さらに二十年ばかり早く、それが出來たことがわかる。そして長崎の「きりしたんばてれん」の、平假名の彫刻活字(これはまだ今日決定していない)をのぞけば、大鳥圭介の「築城典刑」の彫刻活字より半世紀もはやく、世界最初の、鉛漢字活字であつたということができる。
 考えてみれば、アルハベツト金屬活字の歴史では、彫刻のアルハベツト活字はつくらなかつたのに、漢字の金屬活字では、彼らも彫刻活字をつくつたのである。マルコ・ポーロ支那みやげにあつた漢字書物のヒントから、はじめてアルハベツトの木活字をつくりだしたアルハベツト人種たち。そして、手寫本の永い歴史から、アルハベツトの木活字をつくりはじめると、こんどはその歴史をほんのわずかしかもたないで、いきなりグーテンベルグたちの「流しこみ金屬活字」へいつたアルハベツト人たちが、漢字の世界へくると、短かい期間ながら、やつぱり彫刻の金屬活字をつくつている。
 漢字を克服しようとして、新教宣教師たちは、ほんとに手をやいた。支那叢報第五卷は、ロバート・モリソンが「アルハベツトによる支那語の音寫法」を、提唱したと紹介している。それはヘボン式ローマ字よりも、はるかに古いことになるが、つまり、廣東總督や省撫院あたりの、官邊用語を基本として、發音のままに、アルハベツトで音寫するというのであるが、その後につずく支那叢報をみても、實際に行はれなかつたようである。ローマ字とちごうことはもちろんで、何で、それが行われずして終つたかも、わからないけれど、漢字人種の私たちには想像できよう。それは片假名で、漢詩をつくるようなもので、同じ音でも、中味がちがい、原字の形と意味がわかつていなければ、音のもつ中味がわからない。それはアルハベツトと、成りたちがちがつている。
 このほか、同第五卷には、漢字への、アルハベツト人の見解が、いろいろでているが、そのうち「支那語新教授法の提唱」というのがあつて、彼らは、漢字は一つ一つが、アルハベツトの數文字に當る、つまり「合成文字」であるという見解から、これをばらばらにときほぐそうとした。たとえば「人」とか「水」とか「火」とか、「竹」とか「草」とかは、たとえば「人べん」にぞくする以下の諸文字の、「水」は「水へん」にぞくする以下の諸文字の、それであるように、これらはすべて「基礎單語」であるから、これを最初に習得すべきである、という議論であつた。したがつて、この「基礎單語(へん)や(かむり)を教えこんだら、つぎに、語の構成、ということを、しつかり教えこまなくてはいけない。たとえば「書」という文字は、聿(筆)と日からできているように、「箱」という字は、竹と木と目から成るものだというぐあいにである。そして「——若しかくの如き教授法がとられたとするならば、現在使用されている時間の半分はたすかるであろうし、兒童たちは、もつと幼くても學校にあがりうるに至るであろう——」とのべている。
 これは「アルハベツトによる音寫法」よりはるかにすすんでいる。同時に、この論者に至つて、漢字の本質である「形」をみとめてきていることもわかるであろう。そしてこういう議論が、彼らアルハベツト人の間にたたかわされたとき、まえにのべたような「ダイアの活字」に、(へん)だけの、または(かむり)だけのものが作られているという事實を、おもいあわせることができるだろう。彼らも、ついに「形」をみとめた。みとめたけれど、やはりアルハベツト流に「合成文字」に對して、文法をあてがおうとしたのだ。
 しかし、へんやかむりが「基礎單語」となりえないことは、アジア人の私たちが、よく知つているところである。(へん)や(かむり)は基礎たることが出來ても、(つくり)は不規則であつた。今日の簡略化された漢字辭典ででも、人べんだけで三百からあり、水へんだけでも四百からある。つまり漢字というのは、自然の形象が百萬あるならば、文字の數も百萬なければならぬ性質のものであつた。
 アルハベツト人たちが漢字をもてあましたのはいうまでもなかつた。しかし彼らは彼らのキリストへの信仰心からも、また文字と言葉を通ずることによつて、人種や國境をこえて、神の平和と、彼らの文明を世界にひろめることが出來るという新らしい自信からも、彼ら自身、まず漢字を習得し、文盲のアジア人にも習得させねばならなかつた。したがつて彼らの多くの人が、それについてこもごもに意見を發表したし、實踐もしたのであつた。支那叢報第八卷(一八三九—四〇年)の解説には「支那語學習法論」と題して、イラ・トラシーが書き、「支那語文法論」と題して、ダイアが書いている趣きも、かんたんに紹介してある。後者は西洋人が西洋人のために、支那語の文法的特質を理解せしめようとしたもので、前者はいかにして支那語を自分自身でも習得し、また文盲の支那人に教授すべきか、その經驗を説いたもので「——最初の半年を會話專門としかくして修得した會話の能力により、支那人の師について讀書を學ぶ」また布教の對象である文盲の支那人への「——讀書のテキストは四書五經等の漢籍もあげているが、多くは歐米人宣教師のあらわした漢文の布教書である」と謂う。第八卷めにあたる此年にはダイアの自作自著「福音總論」もでており、一八一八年以來、英華學堂の最初の鉛漢字活字(彫刻と推察される)による、幼稚ながら若干の漢文聖書が發行されていた筈で、二十餘年の間にはアルハベツト人種流に相當漢字を征服していたのにちがいなかつた。
 それは彼らにとつてたしかに困難なたたかいであつた。「——支那語の書物は數百の文字の形とその意味とを暗記してしまうまでは、これを解讀することが不可能である。」と、トラ・イラシー[#「トラ・イラシー」は底本のママ]は三六年の支那叢報で、卒直になげいている。漢書を解讀するには數百どころか數千の文字の暗記を必要とすることを私たちは知つているが、アルハベツト人種には數百でさえ驚くべきことであつた。しかし彼らの強味は一方で二十六文字によるべつな言葉の組みたて方を知つていることだつた。彼らは却々降伏しない。支那人梁亞發との協力によつて「鴉片速改文」の原稿を書いたこの宣教師は、その言葉につずけて書いている。「——支那人の兒童の教育が通例、彼らが七、八歳になるまで始めないのは、恐らくこれによるであろう」。
 そして「——幾千もの黒い符號の形を暗記するということは行動の變化と興味とをもとめている兒童の心を滿し得ない」と批判を述べ「——かかる訓練を受けた多數の青年の精神は必然的に、はなはだしく歪められ、その成長を抑制することになるのである。支那人の思想に變化のないこと、その結果としての發明、改善の缺除は、ヨーロツパ人が支那に來るや、直ちに彼らの注意をひくものであるが、少くともその一因はこゝに存するのである。」と主張したのだつた。
 以上は「支那語の改革に關する一考察」と題する第五卷からの拔き書であるが、主張の是非善惡はとにかく、これは彼ら當時のヨーロツパ人がもつ、漢字に對する不滿および主張を代表するものの一つであつた。また一方からいえば、彼らの漢字組織、印刷工業的には漢字機械化への根本方針でもあつたろう。したがつて、ダイアの活字は、こういう彼らの漢字論のうちに生れでたものであることはいうまでもない。ダイアの活字が、その後西洋人、東洋人相協力して、上海の美華書館の電胎活字へまでの發展は、後に述べるところであるが、歴史的に云つてダイアの漢字活字を今日の漢字活字の先祖とするときは、いわば一世紀後の今日の漢字ケースには、イラ・トラシーやダイアたちのこうした漢字論の一斑が、實現しているわけでもあつた。
 そして、それはたしかに「ある程度成功」した。讀者諸君が、いま私のこの本で見らるる程度に成功しているのである。この本は漢字の國、日本において、ごく普通の印刷手段であるけれど、この洗練された字形の活字は、電胎法による字母であり、自動鑄造機によつて、一分間約五十個の割合で製造された活字である。そして前に述べたように、これらの活字は漢字々引などと、ずいぶんちがつた漢字組織によるケースによつて採字され、植字されたものである。讀者諸君は自分の身邊に、新聞や雜誌をはじめ、各種の漢字印刷物をみるに事を缺かないであろう。
 しかし、讀者諸君が一歩印刷工場のなかへ足をいれてみるといい。諸君はたちまち私が「ある程度の成功」という意味を理解するだろう。工場の一方では輪轉機や自動式シリンダーロールが廻轉している。一方ではこれも自動式による紙型壓搾機がメーターの針をふるわせているかとおもえば、こちらでピヤノのようにきれいな自動鑄造機が數臺ならんで、時計の秒針よりも正確な音をたてている。また一方では、ときどきマグネツトの青い閃光が室じうを染めながら、寫眞版や銅版がつくられているし、階下の製肉室からは、自動式のインク攪拌機の遠雷のようなとどろきがつたわつてくるだろう。それらはすべて近代的に機械化されたシーンである。ところで一方、活字製版室をみてみたまえ。ここには機械のかわりに人間ばかりがいる。くらい、カビくさい室のなかからは、規律のない人聲だけがきこえている。ここでは他の室とちがつて風俗までがちがう。ぶさいくな木箱と原稿をにぎつている文撰工たちの多くは、まだ草履をつつかけ、裾のひらいた和服を作業衣にしてゐる。解版女工たちは手拭いで姉さんかぶりにし、植字工たちの多くは仕事臺の隅に灰吹をおいて煙管をくわえる。このはなはだしいシーンの相異は何を意味するか?!。
 もちろん、それは製版室をくらくしながら、壁のようにさえぎつている活字ケースである。何千年も眠りつずけるかのように、頑固につつたつている漢字ケースである。ダイア以來一世紀の間、青い眼の人間や、黒い眼の人間の努力によつて、改良に改良を加えたが、いまだ容易には機械にむかつて根城を明けわたさない、萬という異つた顏をもつ漢字の群である。アルハベツト活字のケースは、グウテンベルグ以來、テエブルの上に、あうむけにねてゐた。AからZまで、ボツクスの眼じるしさえあれば、植字工たちは一々活字の顏をながめる必要はなかつた。ヨーロツパでは、植字工のほかに文撰工というものは、昔から必要がなかつた。しかし漢字のケースは倒すことが出來ない。あうむけにすることが出來ない。活字製版室では、文撰工がもつとも多數を占めているが、若し文撰工が眼を痛くしながら、複雜な彼女らの顏を一つ一つみつめなかつたら「誤字」となつて忽ち復讐するだろう。彼女らはまだ今日も工場の天井につかえるほど、ひろい空間を占めながら、文撰工たちを見おろしているのである。
 つまり、讀者諸君が印刷工場でみることのできるこのはなはだしいシーンの相異は、漢字とアルハベツト文字がもつ性質のあらわれである。形の文字が機械化への行く手を頑固にさえぎつて、從業員たちの風俗までも、手工業的におしとどめている姿である。
 もちろん、人間は一歩々々、彼女らを攻めたてている。彼女の周圍は、いまや近代科學にとりまかれている。人間は搦め手からも攻めたてるし、たとえば寫眞製版術の進歩は、やがて彼女のシガめつつらを、そのままで虜にするか知れぬ。またたとえばここ十年來、日本製の自動鑄造機は優秀で、且つ多量に生産されるようになつたために、全日本の印刷工場で、彼女らの牙城はその半分が陷落しつつある。それは文撰工に「返版」がなくなつたからである。彼女らは文撰工はよつて[#「文撰工はよつて」は底本のまま]採字され、版となつて紙型にとられ、再び文撰工の手で一本ずつケースに「返版」され、また採字という順序でくりかえされていた。しかし自動鑄造機の發展は、紙型壓搾機の下からでてきたしゆんかん彼女らをいきなり溶鉛にしてしもう。一分間五十個の速度で、二度の勤めはしないところの、新らしい彼女らが出來、それがケースごと取換えられてしまう。つまり文撰工は採字だけすればよくなつたのである。
 しかし、これらの發展は漢字の本質的な變化だろうか? 漢字の主體的な發展であろうか? もちろんそうではない。將來も科學は搦め手から、もつと彼女を攻めたてるだろう。遠くない將來に、アジアの印刷工場では、いま少しはびつこ的でない印刷工場の風景が見出されると信じられてよいだろう。それでも漢字がもつ本質的な問題は、搦め手のかぎりでは解決されたわけではないのであつた。
 日本の近代活字は、アジアの近代活字である。そしてアジアの近代活字の歴史は、漢字とのたたかいであつた。そしてダイアをはじめ當時のヨーロツパ宣教師と、それに協力したアジア人、印度人や支那人や日本人たちの、漢字活字の創成は、その最初のたたかいであつたのである。


世界文化連載分、十一

 ヨーロツパの宣教師たちが、アジアへきて、東洋人の最も大多數がもちいている漢字を、まつたくちがつた角度からながめはじめた、その直接の原因は、彼らの傳統であるアルハベツト金屬活字の觀念からであつた。彼らの製法を、漢字の世界におしひろげんとする心からであつた。もちろん、それは彼らの新教徒流に信ずる基督の教えを、東半球にもあまねくひろめようとする、熱心な信仰心とむすびついたものである。
 ダイアの「活字製造に用うべき」「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」は、前にのべた「十四人の支那人著者の、十四册の著書」にもとずいて、えらびだしていつたような、そんな仕事の成果であるが、漢字書物にたいして、こういう見方というものは、アジアにあつては、かつてなかつたことである。それを一方からいうと、一つの文字が、それだけでは意味をもたない、音符でしかないアルハベツト民族だから、出來たのだともいえる。もつとも、支那でも辭典以外に、漢字組織の例はあるが、だいぶ角度がちがつていたり、當時の、必要とする機械化の度合がひくかつたりするため、結局は、漢字の宿命に、もろくもおしつぶされたような例はある。たとえば支那印刷中興の祖といわれている、清の康煕帝の時代に、支那人の漢字組織についての考え方が、「印刷文明史」第二卷に、つぎのようにでている。
 八四四—八四五頁に、二つのさし繪があつて、あごひげのながい官人たちが、一方では組版の枠をつくつており、一方では枠のなかに銅活字を二本の箸で植えこんでいる。場所は武英殿の一部で、そりのふかい瓦屋根の一端と、ひろい庭園などがみえている。武英殿というのは、銅活字の貯藏されている場所であり、つまり政府の印刷局であつた。「およそ大字の書は二板を排列し、小字の書は一板を排列するのが一日の工程」であつたそうだが、「活字を排列するに際し——書法異るもその實、同字なるときは、殊にその異同を審かにし、正俗の體を辨別することとし、偏傍に歸屬せずして、檢査に困難なる文字は、辭典中の補遺、檢字等の方法によりて檢出するものである」という、わかりにくい説明がある。つまり原稿の文字が、實は同一であつても、書き方がちがえば「正俗の體」を區別して、むしろ活字の方をそれにしたがわせる。「偏傍」へん[#「へん」に傍点]やつくり[#「つくり」に傍点]などに重きをおかず、「體」に重きをおく文撰法であつた、というほどの意味だろうか。
 アジアには、十六世紀を前後して、銅活字の時代があり、朝鮮でも、日本でも行われている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を發している、家康、家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし繪にみる康煕帝印刷局は、はるかに大規模で、組織的であることがわかる。しかし、日本でも「お湯殿日記」にみるような、最初の文撰工は「お公卿たち」であつたが、支那でも、あごひげのながい官人たちであつた。明治になつて、印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など、文字に馴染みのある階級だつたように、私の徒弟だつたころの、先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだつたことを思いだす。おそらく、平民で、義務教育六年制度をおえて、印刷工となつたプロレタリアは、私などの世代を最初とするのだろうと思うが、こんなことも階級分化とむすびついて、漢字がもたらす特徴の一つではないだろうか。餘談になつたけれど、この宿命は、劃時代的な康煕辭典がつくられた時代にあつても、やつぱり「偏傍に歸屬させなかつた」り、「正俗の體を辨別」したりして、漢字組織を「繪の世界」にとじこめながら、その發展を妨害していたことがわかろう。
 また、武英殿の銅活字時代より四世紀もまえ、支那印刷術の初期に當る、もつともさかんであつた元の成宗時代、一三一四年ごろに王禎という、えらい文撰工がいて、「作※[#「灰/皿」、第3水準1-88-74]安字印刷法」というのを發明した。「作」なんとかいうむずかしい名前は、私にもよくわからないが、いわば、今日の活字の製版法の最初みたいなものである。支那は印刷術では世界の元祖だから、木活字の起原も古い。二十世紀になつて、西藏の北方、敦煌の石室からでてきた漢字の護符は、隋の大桑三年、西暦で六〇七年の印刷物であつて、何本かの木活字をあはせてしばり、紙に捺したものだ、といわれているくらいだから、王禎の發明にも、ながい傳統があつたわけである。この發明を解説すると、あらまし二つにわかれる。最初の「作※[#「灰/皿」、第3水準1-88-74]安字」というのを、字引から推量してゆくと、今日の「組みゲラによる組み方」ということになるらしい。木製の盤に、右邊と上邊に、木活字の頭が少しでるほどのたかさの枠をつけ、上邊のすみから木活字をくみこみ、ないしはひろいこんでゆく。以來支那では、しだいにこれが改良發達させられてきたというのであるが、千三百年後の今日でも、日本の關西、九州あたりで使用されている「組みゲラ」は、この系統であることが明らかだ。今日のは、枠が左邊と下邊について、右から活字をひろいこむ方法になつて、盤も金屬であるけれど、その傳統は疑いようがない。一方で、西洋流儀のステツキ植字法が、明治末期ごろから風びしてきて、だいぶすたれたけれど、まだいろんな形でのこつている。
 そして、いま一つの「輪盤式文撰法」というのが、漢字組織の歴史にとつては重要であつた。これは、例の「作※[#「灰/皿」、第3水準1-88-74]」「組みゲラ」をまんなかにして、まるい二つの廻轉テエブルをおき、テエブルの一つが、二十四のボツクスに仕切られている。ボツクスを「板」とよび、一板から廿四板まである。テエブルは二つだから、都合四十八板になる勘定だが、このボツクスに、木活字が、それぞれに區別していれてある。植字工兼文撰工は、その廻轉テエブルをまわしながら、活字を拾うという方法であつて、そのボツクスにいれられた木活字は、文字の韻、音別にいれてあつたという。形象文字といわれる漢字を、形によらず、音によつて區別した。これは支那語だから、音別ができたようなものだが、やつぱり大きなむじゆんがある。たとえば音尾が“Ou”である文字、私は支那語を知らないから、かりに日本語でいうと、「刀」「冬」「投」「豆」「宕」「桐」「盜」などは、みな「トウ」であるから、同じボツクスにはいるわけだつた。支那語に「訓」というものがないから、一應それができる。ところが、日本の植字工や文撰工は、不足の活字を、補助工にもつてこさせるとき、今日もまだこうさけんでいる。それが「公」という字だつたら「キミ、コウ一本」——「本」という文字なら「モト、ホン一本」——。支那語のばあい、それがないけれど、それでも「豆」をひろうのに「盜」や「宕」や「冬」やのうちから、ひろい出さねばならぬのは、容易ではなかつたろう。まして、同じ「トウ」のなかには、めつたに使用しないため、ほこりをあびた「トウ」や反對に、使用度がはげしく、もう背がひくくなつてしまつている、「トウ」も、いろいろと雜居していただろう。
 しかし、「組みゲラ」(關西では組み盆ともよぶ)が、永い傳統になり得たにくらべて、輪盤式文撰法のボツクス式は、「活字ケース」の遠い祖先にはなりえても、「音別組織」は、そうなることができなかつた。つまり、形象文字という漢字の性質からは、背反していたからである。歴史的にみれば、王禎の漢字組織も破格なものであるけれど、それは後年の、ダイアのそれとはまるでちごう。ダイアは、アルハベツト人の考えから、形を認めて「符號」としようとした。王禎は、形の上では手に負えないので、最初からあきらめて「符牒」とした。
 武英殿の銅活字は康煕帝の孫、高宗の代になると、つぶされて銅貨となつた。日本でも家康時代の銅活字は、おなじ運命をたどつているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もつと大きな原因は、金屬活字にあつて、漢字組織が出來ないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの發達による木版の方が、容易であり便利であつた。ボデイが銅であれ、鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて、再び木版術が榮え、極彩色の藝術的な印刷物も出來るようになつた。康煕、乾隆の時代にみられるこの傾向は、十七世紀の終りから、十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術をうみだした日本と、時間的にも、ほぼ一致している——ということも、漢字がもつ共通の宿命がするわざであつたろう。
 だから、ダイアがつくつた「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」というものは、漢字の、くらい、永い歴史にあびせた新らしい光であつた。それは「康煕辭典」の創造にもおとらない世界史的意義をもつものであつた。“A Selection of three thousand Characters being the most lmportant in the Chinese Language”という、長たらしい名前の書物を、いま私はみるすべをもたない(たぶん現存しないと思われる)けれど、それはきつと、印刷における漢字組織の、最初の傳統をつくつたものとして、今日、アジアじうの、印刷工場にある漢字ケースのなかに生きているにちがいない。
 ダイアをはじめ、新教宣教師たちは、漢字の機械化、漢字の印刷術を發達させることに熱心であつた。さらに、その印刷術の發達による出版物、出版物による「輿論」のつくりだしに熱心であつた。彼らの機關紙は、支那で出版される木版や、木活字や、そぼくな石版などによるものにも、非常な關心をもつてとりあげている。
「——「院門報」は一片の小紙から成り、蝋版をもつて印刷されているから、きわめてよみずらい。これは省當局の認可なしに、毎日發行される。記事は、總督と撫院とが行つた訪問、および彼らがなした面會に關するものが主で、毎日の夕方、出版屋の番頭は、總督や巡撫の官署の門前で、その日の事件を通告され、門報は翌朝早く配布される。——」
 これは支那叢報第五卷(一八三六—三七年)のうちにある文章の一つだが、このほか同種のものが雜多にのせられている。日本では天保七年—八年にあたるこのとき、南支那の廣東では「新聞」が發行されていたのである。「出版屋の番頭」は、廣東總督や省巡撫の官邸門前をウロウロしながら、大官たちの出入動靜、政治的な決定や、人民への布令などを、拾いぎきしながら、そくざに文章をつずつて、蝋版で印刷した朝刊をつくつた。この「出版屋の番頭」は、今日の新聞記者の元祖であり、同時に經營から印刷工まで、兼ねているようなものだつたか知れない。一方からいうと、阿片戰爭以前に南方支那はそれほど發展していた。インドや澳門は古いけれど、ペナン、マラツカ、新嘉坡、廣東と、新らしく東漸してきたヨーロツパの力は、支那人社會に、新聞が必要なほど、南方を成長させつつあつたということになるが、それで「きわめてよみづらい」一と晩のうちにつくられる「蝋版」というのはどんなものか? これはかなり後まで、上海へんでも行われていた例があるので明らかであるが、木ないし金屬の盤面に、ある厚さに、蝋を平らに流しこんで、ナイフまたは鐵筆みたいなもので、凸型か凹版に彫刻するのである。多くは凹型で、つまり石刷りみたいな白ぬき文字であるが「院門報」も、そのたぐいであつたことは疑いがない。
 ヨーロツパ宣教師たちの機關紙は、こんな新聞や、定期刊行物について、綿密な關心をはらつている。第五卷のうちでも「院門報」のほか「京報」とか「大清※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳全書」とかをあげている。發行所や印刷方法は明らかでないが、「京報」はやはり「私立の出版屋」がやるもので、新聞であるが、「大清※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳全書」というのは、いわば官報であつた。年四回、一回に六册を發行する定期刊行物であり、軍人、官人の官等姓名、その年收入等をならべたり、農業状態や、穀庫の在高や出入、學校や教育などについて報道した。そのほか、不定期のリーフレツトなどにもふれて、——同樣の新聞で、もつと不完全なものがある。印刷人が、讀者の興味をそそると考えられるような、特別な事件がおこるたびに發行される新聞で、八百ないし一千が一ドルに換算されるところの一錢が、その値段である。これは“新聞紙”とよばれている。しかしこれはヨーロツパの新聞紙とは、甚だ異なるもので、その意味の新聞という名には値しない——」とあるが、これらも蝋版か、たかだか粗末な木版であつたろう。
 しかし、彼らは、これらの汚ない漢字出版物を重要視して、こういつている。「——定期刊行物は、現代文化の華である。諸種の意見、事件、發見等は、これらを通じて迅速に、地球の一端から他の一端に傳達される。今までは干戈によるよりほかに解決のしかたがなかつたかのような係爭が、現在では、印刷物をもつて容易に處理される——」と。ここに彼らの、言葉を通じて、文字を通じて、人種の差別や、民族慣習の異同や、經濟の特殊性も、こえてしまおうとする自信が、端的にあらわれているではないか。それはもちろん彼らのキリストへの信仰心によつて代表される。彼らが歴史上、あきらかな東洋への侵略者であることや、またつぎにみる「英華學堂の一八三四年度報告」(これは支那叢報第四卷にある)のなかでみる、あきらかな人種的優越感などをふくめても、これらをつらぬく感情は、たしかに新らしい世界のものだつた。
「——英華學堂は一八一八年ロバート・モリソン博士によつて、マラツカに創立された學校である。その目的とするところは、支那人を教育して、“異教徒ではあるが知的水準のたかい”ところの彼らの間に、基督教的および科學的知識を、普及せしむるにある。同校は開設以來、各方面より多大の援助支持をうけてきたが、一八三四年における總長モリソンの死去は、實にはかりがたき損失であつた。
 開校以來の卒業生は總計四十人である。彼らは、あるいは眞摯な基督教徒となつて、周圍の迷信的な支那人の教化に盡力しており、または商店の事務員となつて、その職務に精勵しているが、いずれにせよ有益なる社會的活動を行つていない者はなく、すこぶる滿足すべき状態である。
 現在は三十五人の生徒が在學している。上級生は毎日、華文英譯英文華譯を課せられ——下級生は二組あり、支那語、英語、算術などを學習する。——朝夕の禮拜には、教師、生徒、支那人印刷工、活字工などの全員が出席する。また華文聖書の講讀は、火曜日および金曜日の夕七時より八時まで、教師、上級生、印刷工、活字工等によつて行われる。英華學堂の目的は、前述せる如く、支那青年のキリスト教的訓育にあるが、これに限定されているのではない。」
 この最後にある「これに限定されているのではない」というところ、甚だ意味ふく雜であつて、たとえば前にみたような、高野長英や渡邊華山の「蠻社遭厄事件」の發端となつた、アメリカのオリフアント商會に仕たてられた、武裝しない黒船「モリソン號」の江戸灣訪問や、北海道室蘭に來航したイギリス艦隊の日本人通譯が、じつは太平洋に難破漂流した日本の漁夫たちで、かつてはこの英華學堂に養われていたこと。ペルリの浦賀來航その他に、幾人もでる、「通辯リキ」とか「通辯乙松」などという、日本側にものこつた記録の數々をおもいだせば、その一端がうかがえるようなものであるが、そればかりでなく、この報告は英華學堂というミツシヨン・スクールと、印刷工場との關係もあきらかにしているし、支那人生徒や支那人活版工らが、信仰という形をとつて、その世界的な新らしいものへの參加をも、語つている文章であつた。英華學堂は、ダイアの漢字活字が創造される以前、まへにみた「マラツカの活字」という彫刻の漢字鉛活字を、もつていたし、ここでいう「支那人印刷工、活版工」たちは、もちろんアルハベツト活字の印刷や文撰にも從事していたのである。そしてそんな地盤、そんな環境のうちにこそ、ダイア活字の花ひらく自然さがあつたのである。


世界文化連載分、十

 一八三三年十月ずけのダイアの報告文は、たしかに成功的であると、私は思う。解説文には逐次的な經過は示されてないし、英語の方はたやすくは讀めない私であるが、それでも、原書の方も第四卷、第五卷となると、ダイア活字についての記事は、少くなつていることがわかる。しかし、それなら、一八三三年十月の鋼鐵パンチ製造によつて、ダイアの漢字活字は、一擧に完成へむかつたのだろうか?
 第二卷の解説文には、ダイアという人物の經歴とあわせて、つぎのような事柄がのべてある。
「——サミユエル・ダイアは一八〇四年に、ロンドンのちかくにあるグリーンウイツチ王立病院の主事の子として生れた。最初はオツクスフオード大學で法律をおさめたが、一八二四年、つまり二十歳のとき、ロンドン・ミツシヨナリイ・ソサエテイの一員となつて、とおくアジアの布教師たらんことを志ざし、ゴスポート神學校に轉じた。そして一八二七年末に故郷をはなれ、翌二八年はじめ、はるばる、マレー半島の沿岸にある一小島ペナンに着いた。以來、一八三五年十月、マラツカに移住するまで、都合八年間、ペナンを布教の根據地として活動し、その間東洋語を習得・説教および學校經營に盡瘁した。
 漢字の金屬活字製作に意を用い、そのためモリソン[#「モリソン」は底本では「モリンソン」]の印刷所のあるマラツカを再度おとずれ、ついに一八三五年十月以後四ケ年間、マラツカに定住して、印刷所を管理しつつ、金屬活字の使用に苦心し、一八三八年ようやく、金屬活字「打ち拔き器」を考案した。一八三九年、妻の病氣のために皈國を餘儀なくされて、一八四二年再び來航、シンガポールにて、布教に從事したが、一八四三年、香港に開催された東洋布教師大會に出席の皈途、船中に病をえて、澳門に於て四十歳の生涯を終つた。
 彼には漢文の著作として「福音總論」(七葉・一八三九年)があり、また、彼が終生の事業とした漢字金屬活字製造にもちうべき三千字を收録した“A Selection of three thousand Characters being the most lmportant in the Chinese Language”(一八三八年シンガポール發行)を公けにしている——」
 この解説文は、おほざつぱで、やや警戒を要する。ダイアがペナン在住當時も、漢字活字をつくるために、すでに一八二八年來、マラツカにあつたモリソンの印刷所(英華學堂)へ、研究のためにいくどか訪れたということは、よくうなずけるが、「一八三八年ようやく金屬活字『打ち拔き器』を考案したというのは、解説者の、或は原文である支那叢報記者の、年代的誤りではなかろうか? 前にみたごとく、一八三三年十月ずけの報告文にはダイアの署名があるし、文の内容がまた具體的に、すでにパンチ二百本の作成を語つているからである。もつとも“Punch”というのを、このばあい、「打ち拔き器」と譯してあるから、何か別樣のものかとも考えてみたが、電胎法以前の活字製法としては、今日から想像もできぬような餘地はないようだし、やはり「打印器」とか「押字器」とか譯されるものと、同一であろうから、したがつて年代的誤りだろう、と判斷するのである。
 もつとも、この解説文に直接かかわつてではないが、こんなことは考えられる。三三年十月すでに二百本の鋼鐵パンチを製作中であつたことはたしかだが、それで終局的ではなかつたろうということである。二百本のパンチの最終はいつであつたか? 二百本以後はどんなふうに増加していつたか? またパンチによる銅字母はどれくらいの性能で、鉛活字を産みだしたろうか? それは明らかになつていない。ダイアは前記の報告文で、漢文字千二百種のパンチを第一目標にし、やむなくんば既成の二百本でも、と云つているが、一等多く使用される二百とか千二百とかは、漢文字中もつとも字かくが單純であることも明らかだし、したがつて、二百以後、千二百以後は、字形のふく雜化からも、パンチ彫刻が困難を加えてきたにちがいない。金屬についての化學が、日本の嘉平や昌造よりもたかい水準にあることや、アルハベツト金屬活字製法の傳統から、すぐれた「流し込み」技術をもつていたとしても、なおパンチによる字母では、その限界はおよそ想像できるというものだ。したがつて、一八三八年になつても、ダイアは工夫に工夫を加えねばならず、一八三三年當時の、華々しい見とおしと、同じ調子では進展しなかつたかも知れぬ、ということは考えられよう。
 これを證據的に、それらの活字で製作された印刷物、漢字書物によつて考えてみると、前記の解説文にある「福音總論」が七葉で、つまり十四頁である。現品をみるすべはないけれど、前にみた「遐邇貫珍」などは、今日の菊判、或はA5判にちかい大きさである。活字も昔のものは概して大きいから、三十字詰十行くらいとして約三百本で一頁とすると、計四千二百本くらいが、活字の總體となる。これは十四頁を一度に製版したばあいであるが、たぶんはそうではなく四頁か、八頁ずつくらいだつたろうと思われる。この頃ヨーロツパでは、ドイツ人ケーニツヒのシリンダー式印刷機が發明されて、ロンドンの印刷工業界に旋風をまきおこしていたのだけれど、まだアジアには、せいぜい鐵製ハンド印刷機以上のものはなかつた筈だから、大きくても八頁掛以上は考えにくい。さらにも一つ、四千二百本の總本數のうちには、同字がある。文章の性質にもよるけれど、普通には同字が三倍ないし四倍を占めるものだから、およそ二百種では無理だとしても、千二百種をこえることはなかつたであろう。
 さらに第二卷の解説文中には、ダイアの活字によるものと判斷される出版物が、二三ある。一八三五年、アメリカ人宣教師イラ・トラシーの著書「鴉片速改文」(六葉)があるし、一八三七年に、同じくイラ・トラシーの「新嘉坡栽種會[#「會」は底本のママ]告訴中國倣産之人」(六葉)がある。これら、ダイアの自著「福音總論」をあわせてみても、どれもが同じ程度の頁數、大きさだということがわかる。
 またさらに、ダイアが「終生の事業とした漢字金屬活字製造に用うべき三千の文字を收録した“A Selection of three thousand Characters being the most Important in the Chinese Language”」という書物にみても、少くとも彼の生涯でつくりえた漢字パンチの數が、三千以下であつたことも、おのずから明らかである。最初、英語のわからない私は、字引をひきひき、この長つたらしい本の名前をどうよむべきか、ひどく迷つた。一つは“three thousand Characters”というのを、「三千の彫刻したる文字」とよんで、この「彫刻したる文字」にひつかかつた。つまり既に作成されたパンチ、ないしはそれによつて作られた活字ではないかと思つた。書物として、その三千の漢字文字を印刷するにも、既にそれがなければ不都合だろうと考えたのだ。しかし、どうもそうではない。またそうでないことが、この著書の使命の性質を明らかにする。本文は英文で、收録すべき漢文字三千のうちには、既成の漢字活字によつて印刷されたのもあろうが、末だつくられてない文字は、木や金の彫刻や、または手寫によつたりして、作られたのだろう。それで私は、解説者も飜譯していない、この長つたらしい本の名前を、これだけ、三千の文字が、漢字の金屬活字による印刷ではまず作成される必要があると主張した意味、つまり「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」というのであろうと、解釋したのである。
 もし、三千の漢字パンチが成功していたとするなら、活字製造に用うべき「支那語のうち最も重要な三千の文字の選集」というテーマ自體が不要であろう。いわば、この長つたらしい名前の書物(或いは二册か三册の手寫本だつたか知れない)こそ、みじかいダイアの生涯ではなしきれなかつたことを、後世の人々へ依頼する遺言状とみるべきだろう。そして同時に、この書物こそ、漢字印刷の歴史にとつて重大な意味をもつものだと、私は思う。周知のように康煕辭典はこれより約百年前、一七一六年に出來ていた。しかし活字、印刷などからみる重要な文字というのはまたちごう。それはおのずからべつな組織、べつな體系が必要だろうことは、素人でも理解できるだろう。數萬種類の活字を、康煕辭典ふうには、機械化することが出來ない。今日の日本でみる漢字の活字ケースがどんなに複雜に組織化されているか、モノタイプ植字機の鍵盤にもられた千餘の文字がいかに撰擇を經たものであるか、讀者はそこらの小さい印刷工場ででも、たやすくみることができよう。日本文字の片假名、平假名などをのぞいても、大出張、小出張、ドロボー、オビ、外字とこれは文選工の俗稱だけど、ごく普通の印刷工場の活字ケースでも、これだけの組織はある。もちろん、それは永い歴史のうち、時々刻々の社會的變化、政治的文化的變化ともむすびついてきたのだけれど、その最初に、海のような數萬種の漢文字に、字引にみるとはべつな角度で、組織を與えようとしたのが、ダイアのこの書物だつたということである。
 木版や、彫刻の木活字などには、まだ組織は要らない。それはまだ繪の世界であつた。ダイアの鋼鐵パンチによる銅字母製法「流し込み活字」によつて、はじめて東洋の漢字が、まつたくちがつた角度からみつめられたのだ。
 そしてたしかなところ、ダイアは二百個以上三千個以内のパンチをつくつた。それによつて自分の「福音總論」や、イラ・トラシーの「鴉片速改文」や「新嘉坡栽種會社告訴中國倣産之人」などを印刷した。それは六葉ないし七葉のうすつぺらな本だ。おそらく、このうすつぺらな本でも、不足の部分は木や金の彫刻活字で間にあわせたほどのものであつたろう。しかしこれが漢字印刷物にみる、機械化された最初の本であつたのである。


世界文化連載分、九

「ペナンのサミユエル・ダイア氏は、マラツカに移つて、英華學堂に關係するという。ペナン滯在中、彼は金屬活字を造つていた。これは大變な、成功であるらしい。小文字は出來あがつて、大文字も、少くとも、一萬四千字から成るものが、用意されてある。ダイア師の金屬活字で印刷した、新約聖書があるが、支那人によつて作られた木版印刷の、最上等のものに比しても遜色はない。迅速にくめることが、この活字の特色である」
 と、第一卷の終り、一八三三年三月號の雜誌欄「マラツカ」の項に、また、でている。ダイアが、ペナンから、同じマライ半島のマラツカに移つた、消息もわかるが、英華學堂とは何であるか。第四卷の九八頁をみると、イギリス人ロバート・モリソン博士によつて、一八一八年に創立された、中國人に、基督教と、科學知識を普及する學校で、基督新教徒が、東洋で最初につくつた印刷工場が、附屬していたとあるから、ダイアの學堂入りには、彼の活字製作と、關係があるにちがいないが、一八三三年三月の、この記事は、もはやダイアの漢字活字が、完成したことを意味するか、どうか?(小文字は出來あがつて、大文字も、少くとも一萬四千字から成るものが用意)されているというけれど、一萬四千は、活字の本數なのか、それとも文字の種類をさすのかも、はつきりしない。第一に、ダイアはどういうふうに、それをつくつたか、わからない。
 私は、自分で原書がよめぬのが、くやしかつた。たとえば、第三卷(一八三四年五月から、三五年三月まで)の解説書には、(一、支那における歐人の印刷事業、四三——四四頁)(二、支那の印刷に用いられる木版、石版、活版の適正なる費用と、各々の得失、二四六——二五二頁)などと、みだしだけの飜譯をならべてあるところがあつた。私は指摘してある原書の頁をさがしだして、字引とてらしあわして、二三行ずつよんでみるが、さつぱりわからない。考えてみれば、本の解説者が、私と同じに、活字に興味をもつているとは思えなかつた。九卷め、十卷めとなつてくると、文化面はいちじるしく少くなり、解説書の方は、殆んど阿片戰爭に關するもので、うずめられてしまつている。解説文の調子も、第一卷、第二卷のころとちがつて、太平洋戰爭の進行と、しだいに、調子があつてきている。
 また、第二卷の解説文には「支那文字の金屬活字の作成」と題する文章が、原書一八三四年一月にあると、述べている。それは二頁ほどのものであるが、終りの方に Samuel.Dyer という署名がよめた。つまり、これは、支那叢報記者の記事ではなくて、ダイア自身の報告であることがわかる。私は、最初、これだけを寫眞にとろうかと考えたが、それも圖書館にはばかられる。それで、小いちんちかかつて、これを筆記したが、書體、印刷體とりまぜて、つずられる私の英語は、ほんとに不安で、骨が折れた。私は植字工だつたし、歐文植字も少しはやつたから、これを活字で文撰するのなら、その三分の一の時間も、かからなかつただろう。
 私は、そのこころもとない原文筆寫を、ドイツ語の教師である、友人のM氏のところえ持參した。M氏はその難解な、私のアルハベット文字を、赤鉛筆でなおしながら、ていねいに飜譯してくれるのだつたが、M氏にもときどきわからないような專門用語がでてくる。たとえば「メタル・タイプ」とか「フオント」とかいうたぐいで、それは字引をひいても、その意味はでてこない。しかし、幸いに私には「メタル」と「タイプ」という、意味が説明されれば、「ははあ、字母のことだな」と、察することが出來る、實際的な經驗があつた。そんな、つんぼとめくらの問答みたいな調子で、ようやく二頁の英語を、日本文にすることが出來たのであるが、冐頭に——支那の金屬活字——と題する全文は、つぎのようなものであつた。
「われわれは、支那語の金屬活字の製造に關する、短かい報告を、讀者諸君に紹介する事を、大いに喜びとするものである。ダイア氏の目的および、努力は、きわめて稱賛に値するものである」というサブタイトルが、支那叢報記者のもので、以下がダイア自身の報告である。——「これまでに、支那語の金屬活字が、不利益であるとか、支那において、普通印刷に用いられている木版印刷にくらべて、金屬活字がおとつているとかいうような議論が、多く提出されていた。しかしこうした議論は、完全に拒けられ、今では支那語の金屬活字が有用であり、しかもそれを美しくつくりうるということは、議論の余地がないと考えられる。——
 ——これまで、支那語の活字は、活字用金屬の表面に、あらゆる文字を個々別々に彫刻するという、不完全で、費用のかさむ、方法によつてのみ、製造されていた。支那語の活字を作る、主要困難は、これまで、次のような點にあつた。即ち、それら銅の母型が打彫される、美しくて安い、鋼鐵の刻印器を作ること、及び、活字鑄造ということである。——
 ——活字を作る費用に關して、多くの見積りが、英國における一刻印器あたりの最低價格に基き、各文字によつて要求される、各刻印器の、平均價格にしたがつて、作成された。このばあい、ちがつた三千字の活字を作るところの、つまり三千の刻印器の費用は、三萬ルピー(一ルピーは約六十五錢——一九四〇年當時)にのぼるが、インドでは、賃銀が安いから、その費用は、四千ルピーを、大してこえないであろう。このことは實際の經驗によつて、すでに十分證明されている事である。もつとも、器具および、機械の不足のために、多くの困難や遲延が生じ、また多くの讀書によつて、刻印器を彫る知識をえなければならない。そして實驗は、多くの誤びゆうをもたらした。しかし、これらの誤びゆうは、持久的努力によつて、完全に克服された。——
 ——次のような方法、すなわち、最近非常な正確さをもつて、作成された段階にしたがつて、支那語における主要な文字の、刻印器を、初めに彫り、より必要な文字から、段々と、より必要でない文字えとすすみ、まれに用いられる文字は、まだ鋼鐵に彫られぬうちは、錫その他の活字用金屬の表面に彫つて(つまり、彫刻活字をつくつて)供給するという方法——によれば、約千二百の刻印器が彫刻されれば、それだけの組をもつて、非常に有効であることが出來る。また、しだいに、刻印器製作が、増大してゆけば、臨時の彫刻文字、その他の方法で、供給する必要は少くなるだろう。——
 ——刻印器の制作の平均價格は、ペナンでは、六十八セント(一セントは約二錢——一九四〇年當時)以上ではなく、それに二セント半を増せば、それらの刻印器から、銅の母型の、打刻されたものが出來る。さらに、費用節約のために、ある種の文字は、文字の美しさを傷つけないで、分割が行われるばあいには、タテには二分の一、三分の一、および三分の二に分割し、ヨコには二分の一に、分割する。こうした方法によれば、刻印器の數が、大いに節約されるであろうし、また、ある文字の、母型を打刻するとき、刻印器が破損したばあい、すこし修繕をくわえれば、かく(劃)がすくない、似た文字の母型を、刻印するとき用いられるだろう。——
 ——現在、約四百ルピーが、予約されており、約二百の刻印器が、打刻されている。のこつた金額では、大して製作を進めるわけにゆかない。しかし、予約されている金額だけの仕事は、すすんでいる。必要な金高をもつてすれば、五人の勞働者をやとい、その人々が、各刻印器を完全につくり、もし不完全なときは、彫刻しなおすという約束のうえで、一日に、約四個の刻印器を、つくることができる。——
 ——とくに注目にあたいすることは、われわれが、すでに成しとげた仕事は、これ以上進めることができないとしても、(これだけで)非常に大きな目的を、果すことができたということである。なぜかというに、すでにつくられた二百の文字は、もつとも必要な文字であつて、それらは普通のやり方でつくられた、つまり、錫に彫つた活字と、いつしよに使用されうるからである。——
 ——しかし、六十八セントの據金は、その一つで、われわれの仕事を、一歩前進させるであろう。われわれ(D・V)は、しだいに前進して、數千の刻印器を、つくりたいと考えている。——
 ——われわれの仕事の、進行の速度は、われわれの友人諸君によつて、決定される。支那に關心をもつ人は、すべてこの事業を援助されんことを希望する。この事業は、非常に多くの人々の助力を要する、もつとも困難な仕事であるが、しかし、人類の三分の一の幸福にかかわる、もつとも、祝福された事業である。——
 と、むすんで——一八三三年十月三十一日、ペナンにて、サミユエル・ダイア——と署名があり、その末尾に、また支那叢報記者の附言がある。——なお、據金されようとする方々は、つぎの人々あてに、お送りください。(チヤイニーズ・レポジトリー、廣東)(英支カレツジ學長、マラツカ)(ダイア氏、ペナン)——。
 右のように、M氏の助力によつて、日本文にすることができた、この原稿紙六枚ばかりの文章は、私にとつて非常にありがたいものであつた。これはダイア自身の報告であるし、六年餘をついやして漢字活字をつくつた、具體的な過程が、ほぼわかるからである。前に引用した一八三三年三月の(小文字は出來上つて、大文字も少くとも一萬四千字から成るものが用意され)云々の、これより半年前の、第一卷の記事は、したがつて、むじゆんしてくるようだが、しばらくそのせんぎはおいて、ダイア自身の報告を、土臺にみてゆこう。しかも、この報告は漢字活字創作の、根本的なものを、ふくんでいるからである。
 第一に、ダイアは、アルハベツト活字製法の流儀にしたがつて、鋼鐵パンチをつくつた。凹型銅字母から、凸型活字の再生まで、嘉平や昌造と、同樣であるが、字劃のふく雜な漢字を、「流しこみ」による鑄造では、やさしくないということを、自覺していること。自覺していること自體が、アルハベツト活字製法の傳統で、それがすぐわかるほど、逆にいえば、自信がある。
 第二は、ダイアは、たとえば嘉平などにくらべると、のちにみるように、活字製法では「素人」である。嘉平も、昌造も、自分で、パンチを彫つたが、その、ダイアは「勞働者を使用し」た。この「勞働者」は、彫刻技術をもつた勞働者であるが、つまりは「勞働者」である。素人のダイアが、ヨーロツパ社會では、永い傳統の、印刷常識によつて、それらをリードし、くみたてていることである。
 第三に、ダイアの苦心は、活字つくりの實際にもあるが、もつと大きなことは、漢字の世界を、分せきし、システムをつくろうとしていることである。アルハベツト人のダイアは、漢字活字をつくるまえに、漢字を習得しなければならなかつた。第三卷、第五卷などにみる解説文のうちで、パンチを彫る「勞働者」たちは、漢字を知らない文盲が多く、「へん」や「つくり」を、反對にくつつけたりして、苦心の作品が、臺なしになる。それを一つ一つ教え、リードしなければならなかつた、ことなど、書かれているところがあるから、ダイア、六年の苦心という中味は、日本の昌造、嘉平とは、だいぶおもむきがちがつていることである。
 この報告文を、説明かたがた、要約すると、さしあたつて、四百ルピーの資金をもつて、二百のパンチが、完成しつつある。それは、第一卷一八三二年六月の報告にあるような、十四人の漢字書物から、えらびだした一ばん使用度のたかい、二百の文字である。千二百つくられれば、なお、よいが、やむなくんば、それだけでも、彫刻活字をまぜて、ある程度、印刷ができる。(タテには二分の一、三分の一、ヨコには二分の一に分割する)云々は、たとへば木へんの「松」とか「杉」とかは、三分の一の大きさの「木」のパンチが、共通できる。山へんの「峠」とか「峰」とかは、二分の一の山へんのパンチが、共通できるし、ヨコに二分の一というのは、たとえば心へんの「念」とか「思」とかは、二分の一の心へんのパンチが共通できるという意味で、それで、パンチの節約が、できようというのである。
 こういう、漢字えの考え方は、アルハベツト人の、ダイアには考えられても、漢字人の嘉平や、昌造には、考えられないことであつた。物の形である漢字が、木版印刷、數千年の歴史を、つくつたのだけれど、數十年[#「數十年」は底本のママ]の木版印刷の歴史が、また逆に、漢字のふくざつ化を、どれほどたすけただろう。「へん」だけの、刻印器をつくるという考え方は、異端であり、革命的であつた。印刷技術からいえば、實際的にみえて、あんがい、漢字そだちの印刷工である私たちなどにはこつけいに思えるけれど、そして、ダイアが「へん」だけのパンチをつくつたか、どうか、十卷までの、支那叢報にはみえないけれど、そんな歴史の名殘りか、どうか、明治末期ごろの、日本の活字には「へん」だけの字母や、活字が、存在していたのを、私はおぼえている。現在でも、地方の印刷工場にゆけば、文撰ケースの、各列に貼つてある帶文字の、「へん」から「へん」えのうつりめには、その最初に、「へん」だけの活字が、印刷してある。電胎法が發達した、今日では、漢字々引にも、ただそれだけの目的で、いろんな「へん」「かむり」だけの、字母をつくり、印刷してあるけれど、むかしは、もつと實用的な意味で、それが存在した。明治十年發行の、内閣印書局出版の、活字見本帳にも、「へん」ごとに、うすつぺたい二分の一、三分の一の、活字が印刷してある。明治末期ごろまでは、手廻しの、ブルース式カスチングが、唯一のもので、機械化が不充分だつたから、しばしば「割文字」というのをつくらねばならなかつた。たとえば「恃」というような「割文字」をつくるとき、「峙」と「情」の、二本をけづり、だきあわせるというたぐいである。もつとも、私の少年工だつたころでも、二分の一活字、三分の一活字というのを、實際に使用した記憶はなく、二本や三本の獨立活字を、ぎせいにすることくらいは、出來た時代だつたから、見本としてだけ、記憶しているものだけれど、こういう痕跡としてだけある傳統は、このダイア活字に、そのみなもとがあるのか、もつと後になつて、中國本土で、できたものが、ここで判斷はできぬけれど、すくなくとも、上海系統の、電胎活字が、長崎の昌造を通じて、傳來する、その以前から、あつたのだろうとは、想像できる。
 さて、ペナンで發生したダイア活字は、これからさき、どう發展し、成功していつたかは、のちにみるところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が、實際的に誕生したことは、明らかであつた。そして、嘉平や、昌造よりも、三十年早く。日本では昌造、嘉平の苦心にかかはらず、パンチでは成功しなかつた漢字活字が、ダイアによつては、成功したということ。それが、アルハベツト人におけるアルハベツト活字製法の、傳統と技術とが、成功させたものであるということも、明らかであつた。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、何で、世界で一ばんむずかしい漢字を、おぼえ、活字までつくろうとするのか? いつたい、サミユエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて、據金をつのり、世界三分の一の人類の、幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私は、それを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の、漢字鉛活字の、誕生した、その根據がわからぬ、と考えた。


世界文化連載分、八

 しかし、その偶然が見舞つてくれるまで、もちろん、私は「上海」に、ひつかかつていた。中牟田倉之助土産の「上海新報」を、どこで見ることが出來るだろう? 明治の功臣などいう、そんなところえ縁の遠い私は、知人から知人をもとめるうち、新聞研究家のO氏を、本郷に訪ねてゆく手がかりをめつけた。ある大學に、日本では、まだ珍らしい新聞學の講座をもつ、この學者は、新聞人出らしく、愛嬌のいい老人で、いろんなものをみせてくれた。講義のとき使うらしく、ガラス板を張つた、古風な小型の新聞や、手ずれて、裏打ちした雜誌の表紙やがある。「上海新報」もあつたが、もつとめずらしい「華字日報」「中外新報」「遐邇貫珍」などいうのがある。「中外新報」は、前卷でおなじみの、安政の開港以後、長崎大通詞英之助改め森山多吉郎などが、外國係飜譯方にはいつてから、日本語の木版印刷で、ときどき出版されたから、名前に記憶があるが、これらをみているうち、私は、もつとわからなくなつてしまつた。「華字日報」は光緒乙未、一八九五年、「上海新報」は同治壬申、一八七二年であつて、共に上海版、立派な明朝體の電胎活字である。一八七二年は明治五年で、電胎法が長崎に渡來した三年後だから、中牟田土産の「上海新報」とは、十年もおくれていて、これから得るところはないけれど、「中外新報」は咸豐戊午、一八五八年、つまり、安政五年のものである。中牟田土産の「上海新報」より、さらに四年前の新聞である。一八七二年の「上海新聞」とくらべると、活字も大きく、きれいでない。鉛活字だということはもちろん、電胎活字らしくみえるが、嘉平の活字より、もつと素朴で、結局私には判定できないが、さらにいま一つの「遐邇貫珍」となると、「中外新報」より、また五年さかのぼつて、一八五三年、嘉永六年の刊行であつた。これは普通の新聞型ではなくて、袋とぢにした白い表紙の中央に「遐邇貫珍」とあつて、下に「第三卷」右肩に、支那暦ではなく、西洋暦で一八五三年十月とある。裏表紙に「英華書院發行」とあつて、「毎號收回紙墨錢十五文」ともある。白文の中味をめくつてみても、よく讀めないが、これも鉛活字と判斷できる。木版でないことが明らかなのと、ところどころ木版字らしいのがめだつので、そうでないのが、金屬活字だ、と判斷できるのである。私は、中牟田土産、文久二年版の「上海新報」をもとめて、それよりももつと十年ばかり以前の、鉛の漢字活字にぶつつかつたのであるが、しかも、その刊行地が「中外新報」は、上海から南の「寧波」であり、「遐邇貫珍」となると、「寧波」から、さらに南えとんで「香港」となつている。
「英華書院というのは、どんな印刷工場でしようか?」
 私はO氏に訊いた。
「さあて、ぼくは、活字の方は、いつこうに氣をつけてないもんですからね」
 と、白髮の學者は、わらつて答えた。
「遐邇貫珍」というのは、遠ち近ちの珍らしいことを集めたもの、というほどの意味だろうか。そして新聞も、帳面型も、みんな西暦年號が大きくいれてあつて、英華書院という名前からして、バタくさいのであるが、しかも、どういうわけで、「上海新報」が上海で「中外新報」が「寧波」で、「遐邇貫珍」が「香港」であるだろうか? つまり、年代が四、五年ずつちがえば、何故、南え、南えと、とんでいるだろうか?
 上海、上海とばかり思いこんでいた私は、大げさにいうと途方にくれた。私はO氏の「日本新聞史」を讀んでみた。石井研堂氏の「明治事物起原」なども、あさつてみた。しかし、上海から寧波や香港にうつる機縁はめつからなかつた。いろいろ考えてみれば、そんな手がかりをつける、學問的方法を、私が知らない、ということもあつた。じつをいえば、これまでの私は、先人のつみあげた仕事の峯々を、とびあるき、そこから必要なものだけを、借りてくるやり方であつた。まれには、峯から峯えうつるとき、落ち穗を拾うようなこともあつたけれど、おおかたは、先輩の教えや、圖書館のカードからひきだすことが出來た。しかし、ここえきて、その先人の峯が、いわばなくなつたのである。私にわかつていることは、さがしあるいているのが活字だということ、その活字は、漢字の鉛活字で、年代では、一八七〇年以前で、それから半世紀ばかり、さかのぼらねばならぬということ、それだけが、明瞭である。しかし、中國の近世印刷歴史というものは、ないのである。たとえば、日本でも、ヨーロッパでも、アメリカでも、活字の歴史、印刷の歴史は、完全に近代化された廿世紀の初頭まで、獨立した歴史の本がある。專門の史家がいて、著書があつて、圖書館のカードをめくれば、いつでもひきだせる。ところが、中國では、明朝までははつきりしているが、清朝以後は、ぼやけてきて、しまいは消えてなくなつている。中國は、世界で、一ばんに印刷術を發明した國であるから、世界各國の印刷歴史は、どれでも、一應はそれにふれている。しかし、たとえば「世界印刷通史」でも、綜合的な點では、日本で最も權威あるものとされている「印刷文明史」でも、支那の印刷術では、宋、元、明の時代に主力がそそがれて、つまり、木版、木活字、銅活字印刷か、たかだか、蝋石版印刷へんで、終つてしもう。つまり、近代印刷術の世界では、ヨーロツパと、アメリカと、日本だけがわかつていて、中國だけがわからない。しかも、その日本も、じつは、胴と尻があつて頭がないのである。前卷から述べたように、活字というものは、汽車や自動車とちがつて、ロンドン製や、ニユーヨーク製を、いきなり東京丸ノ内で、はしらせるという具合にゆかないのである。明治の日本人は、蒸汽船やテレガラフ(電話)と一しよに、これも「舶來品だ」とのみこんだつもりでいるけれど、アルハベットと、漢字のちがいは、フアラデーの法則が、完成されたばかりでも、解決のつかない問題がある、ということは、前に述べたとおりだけれど、すると、それは長崎えくるまで、どこで解決されたろうか? 漢字の祖國、中國で、それがあつたのだろう、と思うけれど、その中國には、清朝以後は革命期にはいつて、獨立した。近代印刷術の歴史書がないのである。少くとも、私のさがし得る範圍では、めつからぬのである。
 私は、それをどう探せばよいのだろう。はじめから活字は活字だけでは、存在しない。政治の本だろうか、經濟の本だろうか、それとも地理交通だろうか、軍事だろうか、宗教だろうか? いづれ中國の歴史本をみな讀めば、何か手がかりはあるだろうけれど、それは海のようなものであつて、「上海」「寧波」「香港」という地名だけが、謎のように、私の頭に明めつするだけであつた。
「何を、探してるんですか?」
 ある日、本郷の大學圖書館の、カードテヱブルのところで、ぼんやりしていると、司書をしている知人のS氏に、うしろから肩をたたかれた。
「………」
 私は、返辭にこまつた。私自身、何をさがせばいいのか、わからないのである。
「つまり、支那の活字のことですがね」
 司書室えよばれて、私は、そこで、ざつと成行を話した。
「活字でなくてもいいんです。その時代の、香港や、寧波とかのことを書いた本でもいいんです」
 S氏は、給仕に、圖書目録をかかえてこさせて、ながいことめくつていたが、あまり漠然としていて、これも途方にくれていた。
「私と一緒にきてごらんなさい。すこしぶらついてみましよう」
 私は、はじめて圖書館の、書庫というものをみた。この大學圖書館は、關東大震災ののち、ロックフエラー財團の寄附で、出來たものだそうで、まだ新らしくて、りつぱだつた。どれくらい地下えはいつているのか、エレベーターを出ると、短かい鐵梯子があつて、ガラスと鐵網でつくられた、あかるい床にたつことが出來る。鐵製の書架が、むかいあいにならんで、無數の横丁が、碁盤の目のように、正確にはしつている。ボタンをおすと、ボックスの一つずつが明るくなり、にぎやかに書物の背中が、姿をあらわすが、またくらくなつて、おそろしいような靜寂にもどつてしもう。また、鐵の梯子があつて、ガラスの床にたつと、幾十もの横丁があかるくなり、書物の背中が、はてしなくあらわれ、やがて私たちのうしろで、くらくなる。S氏のうしろについて、いくつかの鐵梯子を、上下しているうち、私はいまどのへんにいるのか、わからなくなつていた。
「さあてね」
 さきにたつて、書物の背中を、こつこつたたいて歩きながら、S氏はときどきふりかえつて、私を見る。私もたたかれた書物の背中を、機械的にのぞきこむが、S氏が歩きだせば、私も歩きだす。歴史、地理、經濟、政治、宗教。あらゆるそんな書物が、中國と中國の活字に、關係があると思えばあるようなものの、ないと思えば、どれもない。
「こんなのも、ありますがね」
 ある横丁にはいつたとき、書架の一ばん上にある書物の一群をみあげて、こつこつたたきながら、S氏はだいぶくたびれた聲で云つた。古びた黄つぽい皮表紙の洋書が、四五册ならんで、それととなりあつて、これはまだ新らしい海老茶色の布表紙が六七册ならんでいる。海老茶色の方は、皮表紙の洋書よりうすつぺらで、日本文字で「支那叢報解説」と讀めるが、洋書の背中の文字は、私に讀めない。“Chinese, Repositoryn[♯底本のママ]というのが、「レポジツトリイ」という方は、S氏に教へてもらつて、わかつた。つまり、この古びた洋書が原書で、海老茶色は、その抄譯本だということが、理解できた。私はその古風な洋書を、印刷工の感覺から、めずらしいと思つて、その一册を、漫然とめくつていたが、解説書の方の一册を、パラパラやつていたS氏が、そのとき、フツと、私の方に、それをつきだしてみせた。
 そこのところは、ほんの半頁ばかりの文章で、小みだしに「漢字印刷」とあるのが、眼についた。——ペナンの、サミュヱル・ダイア師が、六年間の漢字の活字印刷を研究して、いずれは完成するものと思われるが、これが適當の價格で、手に入るとなると、東洋における文化宗教の傳播に、非常に有用のものとなろう——という、サブタイトルみたいな文句が、その横にならんでいる。
 私は、ガラス床の上にしやがんでしまつた。本文も、要點だけの意譯らしくて、個條書風に、數行がならんでいるに過ぎない。
[♯ここから一字下げ]
「一、支那金屬活字の本質は、英語の合成活字にも比すべきものである。というのは、支那語では一字が一つの完全な言葉なつていて[♯「言葉なつていて」は底本のママ]、それが英語風の一字とか一音節をなすものではないからである。
二、支那金屬活字の試みの不利益な點は、フオント(同じ活字の型、大きさ)が、マカオ・マラツカ・セラムボールの三ケ所しかなく、しかも何れも不完全なものであつて、固い金屬に印字するのが、困難なためかどうか、その字體が頗る不出來で、風變りであつた。その上、木版印刷の技術を凌駕しえなかつたからである。
三、金屬活字のフオントの改良に對する示唆としては、押字器による方法は、漢字の數が多數であるために費用もかさむから、鉛版風の金屬板を用いて、これを各字毎に切り離す方法が考えられる。しかし普通に用いられる漢字にも多少があるので、ダイア氏は、十四名の支那人の著書をえらんで、その内に用いられる漢字の種類を調べたが、僅かに三二四〇で、内數百字は、ごく稀にしか用いられてない。結局、入用と思われる活字は、全部で、一萬二千から三千で、二百枚の金屬板を、數回鑄造して、入用の率に應じて活字をつくつたらよいと思われる。しかし、これもいろいろ障害を伴うので、押字器で活字を打ち出す以外に、今さし當りこれ以上という方法はないことになる。
四、押字器をつくる職人がほしい。というのは、東印度諸島も非常な勢いでひらけてゆくし、カムボヂヤでも、ラオスでも、その他の地でも、活字を欲しているからである。かかる職人を得て、何處ででも押字器がつくられれば、何處の活字もつくり出すことが出來るようになる。——」
[♯ここで字下げ終わり]
 私はびつくりした。これは印刷文化、ないしは技術の上で、非常にたかい段階にある人間の記述だということがわかる。大いそぎで、この文章が何者によつて、いつごろ、記述されたかを、しらべてみた。不意うちなので、何者の記述かはめつけだせないが、それが、支那叢報第一卷で、一八三二年五月から、一八三三年四月までの間に、記述されたものだということがわかつた。天保三年から四年である。香港版の「遐邇貫珍」からは二十一年前、中牟田倉之助土産の「上海新報」からは、ちようど三十年前にあたつている。
「この書物は、いつたい、何者ですか?」
 私は、支那叢報などいう本について、まるきり知らなかつた。
「むかし、ヨーロツパの宣教師たちが、印度だか、支那だかで出版した、英語雜誌の合本だというんですね。この原書は、その一部分で、二十卷つずきですよ」
 S氏は、私のかかえている皮表紙の本を、指でおさえながら、そう云つた。
「いま、丸善で、これをこれを[♯「これをこれを」は底本のママ]複刻しているんです。原書二十卷、解説書二十卷、ここえは五卷まで納入になつていますが、つまり何でしよう。大東亞戰爭の今日、この書物が有用だというわけで、その筋の命令で、複刻ということにきまつたんでしよう。」
「でも、この原書は、古ぼけていますね」
「ああ、それはちがいます。丸善版の新らしい洋書の方は、貸し出しになつてるようです。その古いやつは、どうしてそれだけあるのか、僕もよく知らないんだが、たぶん、大震災のとき、それだけたすかつたんでしようかね」
 つまり皮表紙の洋書は、原書の原書で、海老茶色の解説書だけが、丸善版というわけであつた。黄つぽい皮表紙の第一卷は、雜誌十二册分で、一册分が三十葉から四十葉くらい。奧附もなく、背羊皮の、昔風のリーダー型、用紙は仙花紙に似て、黄つぽいが、もちろん洋紙である。ヒキのもろそうな、昭和十八年の日本では見當らない紙であつたが、私は、S氏の力をかりて、表紙の下部にある“Second, Edition, Canton. For. The Proprietors”などいう小さいアルハベツトから、それが廣東で印刷された第二版であるということを、理解することが出來た。つまり、この燒けのこりの黄つぽい洋書こそ、百年前、東洋で、外國人宣教師たちによつて印刷されたアルハベツト書物の片割れなのであつた。
 とにかく、この短文の發見は、私にとつて一大事であつた。「上海」と「香港」にばかり、氣をとられていた私の頭に、こんどは、もつともつと南方の、「廣東」とか、「ペナン」とかが出現したのである。私はS氏にたのんで、五册の古びた洋書と、五册の新しい丸善版の解説書とを借り出して、大いそぎで、閲覽室え行つた。
 洋書をひろげてみたところで、もちろん私に讀めはしなかつた。しかし、これこそ百十一年前の、南支那で出來た、最高の印刷技術を示すものである。アルハベツトの形で、東洋え進出してきた、近代印刷物であると思うと、ながめているだけで、ある種の感慨がわいてくる。そして、前記の短かい「漢字印刷」の解説文を、ノートしてゆくうちに、この部分は、一八三二年六月號の「支那叢報」の「學藝欄」に載せられたもので、サミユエル・ダイアなる宣教師の報告にもとずいて、「支那叢報」の記者が、紹介的、敷衍的につずつたものだということがわかつた。そこで、この解説文章のうちにでてくる、專門的と思はるる用語などを、讀者のために説明しておくが、(一)のところで、(支那の金屬活字の本質は、英語の合成文學[♯「文學」は底本のママ]に比すべきもの)というのは、西洋活字には“the”とか“if”とか“It”とか、一とつずりの文字、きまつた、使用量の多い文字を、一本の活字にしたものが、とくに、まだ、自動式鑄造機などが、發明されない以前には、多かつた。それを合成活字というのであるが、ちようど、漢字の「彼」とか、「此」とか、「大」とかいう文字は、それ自體が、一本で、アルハベツトの合成文字に、相當するという意味である。(二)こゝのところにでてくる(フオント)というのは、活字の大小規格、および字形が一定している「揃い」のことをいうので、そうでないと、機械的な製版ができない。たとえば、今日の日本の活字は、ポイント制活字にしろ、舊號式活字にしろ、全國共通しているが、明治の初期から、大正期まで、高低や、型やが一致していなかつた。ことに明治期には、昌造系の「築地型」、佐久間貞一系の「秀英舍型」や、その他、内閣印刷局系のものや、大阪系のもの、いろいろとちがつて不便であつた。それが、もつと素朴な當時、たぶん彫刻と思われる金屬活字が、南支の澳門と、マライ半島のマラツカと、同じくセラムポーにあるけれど、不揃いで、洋式印刷にはたえられない、というのである。(三)にでてくる(鉛版風の金屬板を用いて、之を各字毎に切り離す方法)というのは、彫刻板なり、彫刻活字なりを、一定面積にあつめて、これを紙型にたたいて、凹型にし、これに鉛を流しこんで、凸型の鉛版をとる。それから一字ずつ切り離し、くりかえせば、澤山の活字が作れる——という意味だが、(しかし、これもいろいろと困難が伴うので)と、云つているように、實際としてむずかしい。一枚の鉛板としてなら、印刷にたえられるが、ごく小部分に切り離すときは、缺けやすい。うまく切り離せても、これのボデイは、何者にどうしてはめるか。木では乾濕にくるいやすく、小文字は釘でもとめられない。金屬ボデイでは、はめにくく、手間がかかる。字母とか、押字器なら、手間かけてもよいが、消耗[#「消耗」は底本では「消粍」]のつよい活字では、やりきれぬというわけである。(四)にある(押字器)とは、パンチのことで、刻印器とも、打印器とも譯されている。つまり、嘉平がつくつた、鋼鐵の尖端に、彫つて、字母にする銅え、うちこむものだが、西洋では、アルハベツトの單純さに幸いされて、グーテンベルグ以來、四世紀という傳統があり、パンチを彫る機械さえ、この時代には出來ていた。
 この「支那叢報」が印刷された廣東の印刷所では、どういう風に活字をつくつていたか、記されてないけれど、アルハベツトのパンチだけは、彫刻機械でつくられたものが、ロンドンから送られていたことが、他のところにみえている。フアラデーの電氣分解の法則完成が、一八三三年から三九年、ブルース式カスチングの發明が一八三八年であつてみれば、一八三二年の、この立派な「支那叢報」のアルハベツト活字も、まだ、極度に發達した手わざの「流しこみ活字」であつたことは、疑いがない。したがつて、ここにでてくるサミユエル・ダイアなる人物の、漢字活字創造の、困難な條件は、一八五〇年、嘉永年間以後の、嘉平や昌造のばあいと、大したちがいはないのである。
(押字器をつくる職人が欲しい)と、ダイアは、報告している。鋼鐵に漢字を彫る技術者であるが、これも「嘉平の活字」の章で、みたように、木彫とは別箇な、技術や知識が必要であつた。天正年間、切支丹宣教師の一行が、日本長崎え、印刷機をもつて渡來したとき、日本文字の活字をつくるために、支那澳門にたちよつて、彫刻職人をさがしたという記録がある。ついでにのべると、長崎版、かなもじ切支丹本は、印刷ずらでみるところ、鉛活字らしい。判定は、私に出來ぬが、彫刻ではなくて、流しこみ活字らしく思える。前卷でみたように、これは、傳統をのこさぬまでに、家光以後の鎖國方針で、日本から追放されてしまつたけれど、とにかく、印度から東漸しつつあつた、産業革命以前からの、ヨーロツパ文化は、中國文化とまじりあつて、マライ半島から、南支えかけて、その中心があつたのであろう。「押字器をつくる職人」が、インドネシヤや、混血支那人が、嘉平のそれに劣るものだつたことは、あとで述べるところでもわかるが、しかし、嘉平と同じ方法ではあつても、宣教師サミユエル・ダイアには、グーテンベルグ以來の傳統があるし、文中にみるように、すでに、鉛版技術もかくとくされていた。ことに、十四人の、支那著作家の、書物をあつめて、使用されている漢字の、種類の統計や、共通性の多い文字を調査したなどということは、活字印刷に、多年の經驗をもつものの、考え方であつた。嘉平が、電胎活字を獨自に創造したほどの、才能と努力を示していながら、活字をつくるシステムでは、原稿のままの文字の順をおうて、それをつくり、木版式に「ばれん」で、こすろうとしたのに、くらべるとき、その値打ちのたかさが、わかるであろう。つまり「繪の世界」から脱しきれないでいる、東洋人にはくわだてがたいものをもつている。
 さて、私の頭は、いろいろに亂れる。いま六年の苦心を經過して、ようやく漢字活字を完成せんとしつつある、サミユエル・ダイアとは、そもそも何者であるか? また何故、彼ら宣教師たちは、困難をおかして、今日からみても、相當な印刷物であるこんな雜誌を、廣東あたりで、二十年も出版しつずけたのだろうか? マラツカとか、カムボヂヤとか、ラオスとか、アジアの島々、國々の名を、まるで掌のうちをよむように、ならべたてる、彼らの交通範圍は、いつたい、いかなる勢力に根ざすのか? これはまさしく、鉛活字東漸と、きつてもきれぬ何かにちがいない。
 しかし、さしあたつて必要なことは、この二十卷の洋書と、同數の解説書を、手にいれることである。私は、この圖書館から外部え借りだす資格がなかつた。私はS氏に、禮をのべて、それらの書物を返納すると、その足で、駿河臺下の、丸善支店えいつた。
「こちらで、支那叢報が、豫約頒布されているそうですが、會費はいくらでしようか?」
 すると、書架のかげにいた女店員が、ほうずきをくわえている顏を、そつぽにしたままで云うのだつた。
「六百九拾七圓でございます」
 私は、しばらく呼吸をのんでいた。米が一升四十錢であつた。これは全額會費前拂いなのだろう。それでも、いまは、たとえ一萬圓といわれても、かじりつくだけは、かじりつかなければならない。
「申込用紙をくれませんか」
「二階の受付えいつて下さい」
 二階へゆくと、男の店員は、申込用紙はくれずに、
「もう〆切ました」
 と、ぶあいそに云つた。それでも、まだ私がつつたつているので、つけ加えた。
「第一回と、第二回を募集したんですが、もう〆切ました」
「あと、もうないんですか」
「第三回の予定は、ございません、へい」
 世の中は、ひろいもんだ、と私は考えた。六百九拾七圓を、とにかく、一度に前拂いしてしもう連中とは、どんな人間なのだろう。しかも、こういう特種な本が、百年ぶりに、日本で複刻されるわけ、洋書の分だけでも二十卷では一萬頁をこえるものが、刊行されるわけ、それが、一方的に「大東亞」と名ずけられる戰爭と、むすびついている、というわけ。ぼんやり、それを考えていると、六百九拾七圓を、たちまち前拂いしてしもう、連中の顏が、みえる氣がしてくる。——
 しかし、いずれにしろ、私は、この大きないとずるから、手をはなしてはならないのである。私は一方で、一日おきくらいに、本郷の圖書館えかよいながら、一方では、友人、知人のあいだに、支那叢報を予約した人はないか、とさがしまわつた。貧乏な人が多い、私の友人、知人にそんな人はなかつたが、さいわいと、支那叢報の複刻に關係のあるという、解説の監修者、岩井大慧氏に、紹介してもろうことができた。私は、六百九拾七圓を工面しなくとも、岩井氏の、小石川の東洋文庫にかようことで、つずきの六卷から、十卷までを、みることが出來た。——したがつて、以下は、大學圖書館の五卷と、東洋文庫の五卷とで、得たところの、「ダイア活字」えの、私の知識なのである。



世界文化連載分、七

 「江戸の活字」は、以上のごとくであつた。日本最初の電胎活字が、ほとんど陽のめを見なかつた事實と、見ることが出來なかつた理由とを、みたつもりである。尤も、まだ現在の私に明らかに出來ないもので、前卷でみた「八王子の活字」がある。故陸軍中將秋山錬造氏の語る、アルハベツトの活字は、嘉平の活字、「江戸の活字」と、關係があるのか、それとも、齊彬と嘉平のような、ひそかにアルハベツト活字をつくつて、「和製洋書」をつくろうとする、べつな勢力とくわだてが、あつたのか、そのへんもわからない。しかし、これも記録の示すとおり、アルハベツト活字にかぎられていて、嘉平の漢字以上にも、日本近代活字の傳統と、なることが出來なかつただろうことは、明らかである。したがつて、「江戸の活字」が、そうだとすれば、私は、いまは唯一の、日本鉛活字の正統と考えられる「長崎の活字」え、もどつてゆかねばならぬのであるが、そして、前卷の終りにつづけて、萬延、文久以後の、「昌造の活字」をおつかけてゆかねばならぬのであるが、それ以前に、私は、長崎のむこう、上海を、知る必要があつた。つまり、とんできたボール、アメリカ人ガンブルという男と、それをキヤツチした昌造という男は、わかつているが、そのボールは、いつたい誰がなげたか? それが、日本の印刷歴史では、明らかになつていないのである。
 昭和十七年のくれから、十八年の夏えかけて、私は、「上海」をさがして、東京の街をあるきまわつた。上野の圖書館では、中牟田倉之助稿「上海行日記」中村孝也著「中牟田倉之助傳」高杉晋作著「游清五録」「曾我祐準翁自傳」などを讀んだ。これらは、上海については斷片的であつたが、幕末の日本に對して、上海のあり方を示すものの、一つだと私は考えた。これらの文章は、今日、私らが教えられている幕末歴史からは、すこしはみだしたものがある。なるほど、土佐の高杉や、薩摩の五代友厚は、船や武器を買いに行つた。しかも、それは國内的な必要だけではなかつたようだ。たとえば、五代は上海にむこう船中で、高杉や、中牟田に云う。「君命を體して軍艦、運送船を買入るるために、遣中に在るなり。語つて曰く、他日歸國の後、蒸汽船を修復すと稱して、上海邊にて貿易を開始せんと欲す。上海貿易先ず開かれなば、歐羅斯(オロス)、英吉利、亞米利加への渡船も、自ら開けむと。」そこで高杉が、「——私かに張膽明目して思へらく、薩藩の計畫此の如く進み、佐賀も亦之に雁行せんとするからには、好し乃公聊か所見ありと。」(中牟田倉之助傳二〇頁)、そして高杉が歸國すると、數ケ月して、長州藩和蘭汽船を買つたのは、周知の通りであるが、五代に限らず、大藩の武士たちが、上海をとおして、海のむこうに向わんとする氣持が、かかづらうところなく表現されている。そしてこれが文久二年、坂下門の變があり、生麥事件があり、「朝議攘夷に決し」た年のことである。
 彼らの乘つた船は、千歳丸で、徳川鎖國以來、幕府がはじめて海外にやる貿易船であつた。つまり、安政開港以後、七年めの、歴史的な幕府行事であるが、貿易事情にうとくて、石炭、人蔘、煎海鼠、昆布、塗物などを積んだこの船は、そつくりそのまま持つて歸らねばならぬほど、失敗したけれど、歴史的には、各雄藩の武士たちが、はじめて上海の文物に接したという點で、ふかい意味をもつていた。このとき、高杉はピストルなどを買つたが、中牟田の土産物の目録は、またハイカラであつた。上海製の、江戸灣や、函館などの日本地圖や、「數學啓蒙」「代數學」「航海書」「重學淺説」などの、ヨーロツパ科學書から、三百年間ご法度の切支丹である「新約聖書」や「日英對譯書」などまで、買つてきているが、そのうちに「上海新報」(第二號より第五十八號まで)というのがある。しかも、「上海新報」はもちろん、「代數學」「重學淺説」「數學啓蒙」などは、漢字版らしい。たとえば「航海書」などには(英語)と、説明を加えてあるからであるが、そうすると「日英對譯書」などには、漢字のほかに、假名も、用いてあるか知れぬ。その漢字活字は、いつたい何だろう? ガンブルが長崎えきた明治二年にさきだつこと七年のこのとき、もはや、鉛の、電胎活字だつたかも知れぬゾ、と考えた。私は、それをみたいのであるが、日本海軍の創設者だとか、明治維新の元勳とかいう、この人々の遺族の存在は、私にとつては、外國人よりも、もつと遠方にある氣がするのだが、さて、どう近づけばいいのだろうか?
 文久ごろの、一八六〇年代の上海は、すでに「中國の上海」ではなかつたことを、「游清五録」も「上海行日記」も、物語つていた。中牟田や、高杉や、五代やが、上海で觸れたものは、西洋文化であつた。そして、中牟田たちの關心も、支那支那人でなくて、西洋人であり、西洋文書であつた。すると、その西洋文化はいつごろ、そうしてどういう風に、上海に入つてきたか? いかにして「中國の上海」に「西洋の上海」が出來あがつたのか? そのへんに中牟田のハイカラな土産物、名前こそ、中國風だが、中味はヨーロツパの科學が、東洋の文字によつて表現される、機縁があるにちがいない。そして、そのへんに、東洋の漢字が、木から金へ化ける、西洋の化學とのむすびつきが、つまり、日本の昌造が、アメリカ人ガンブルに、活字の作り方を傳授されるような、そんな遠い原因が、あるにちがいないと考えた。
 私は、ある日、新刊廣告で「上海史話」というのをめつけて買つた。著者は米澤秀夫という人である。目次は「上海開港前史」「上海邦人發展史」「幕末の上海渡航者」などとわかれている。いわば、上海に關する歴史雜話であつて、主に、幕末當時の、日本人と上海の※[#「插」の真ん中の棒が下へ突き抜けた字、第4水準2-13-28]話に、作者の眼がおかれてあるが、考證の豐かさばかりでなく、珍奇にとらわれず、主觀的におしつけようとするところもなく、信用出來る本であつた。「上海邦人發展史」のうちには、ヘボン博士と共に「和英詞林集成」印刷のために、上海えきていた岸田吟香の動靜について、記録があり、私は、吟香についても、新しい知識を加えたが、それは、後で紹介するとして、この書物で、「上海」について得たところの知識は、あらまし次のようなことであつた。
 ——上海は、日本本土から支那大陸えの最短距離にあつて、長崎から西南にむかい、海上約七百粁である。揚子江とその支流黄浦江が合して、海にそそぐ三角地點をいう。別名を「滬」といい「滬涜」ともいう。支那第一の大河揚子江の門戸を占めるこの三角洲は、もちろん有史以前から形成されている。支那歴史四千年、古い上海は、中國人にとつても傳説のうちにある。ようやく海港として、歴史にあきらかにされたのは、宋代の咸淳三年、西暦の一二六七年に、市舶司がおかれたころにはじまる。日本暦にすれば一九二七年の鎌倉時代で、文永十一年の「蒙古來」にさきだつこと、わづか七年でしかない。宋から元、元から明となつた嘉靖三十二年、西暦一五五三年ころの上海は、中國からいえば「倭寇」、日本からいえば「八幡船」の襲來が、しようけつをきわめて、ようやく周圍九里にわたる城をきづいて、これを拒いだというが、上海が、日本長崎とは、もつとも近い距離にありながら、ほかの中國の貿易港、たとえば南よりの寧波や、泉州や、福州にくらべて、縁故がうすかつたようにみえる。その原因は、中國自體の經濟的事情や、倭寇問題や、また十五世紀ごろからは、スペイン、ポルトガル、オランダなどの、ヨーロツパ船が、東洋え進出してきて、中國南邊と、日本長崎の間を、リードした事情などにもよるのだろうが、もつと大きな事情は、中國自身、澳門や、廣東や、南邊の港は、ヨーロツパ勢力に與えても、軍事的不安から、北邊までは、うかがわせまいとして、これを封鎖したということにあるだろう。
 明から清となつた十七世紀後半には、「倭寇」や、明の遺臣國姓爺以來の「海寇」やも、跡を絶つて、上海は、國内的に、やや繁盛におもむいた。なかには、封鎖をやぶつた中國船が、安南、シヤムあたりに出貿易をしたばかりか、そのいくらかは「南京船」として、長崎えもきたという。しかもヨーロツパ船は入港できなかつたが、舊教の宣教師たちは、單獨に潜入してくるのであつた。彼らは、朝廷や、貴族たちに、異國の珍奇な土産物、當時のヨーロツパ文明器具を贈ることで、一身の安全を得、布教活動をし、上海にも、その一端をうえつけた。
 しかし、以上のことは、上海にとつて、すべて古典にぞくする。年代にすればわずかだけれど、西暦一七〇〇年、新教國イギリスが、マラツカに東印度會社を創立して、ポルトガル勢力を打倒して、アジアの海上に覇權を確立した歴史こそが、處女上海の花ひらく運命であつた。東印度會社は、廣東一港に滿足しなかつた。一七〇〇年、上海にちかい舟山島の定海に、トラムポール號を侵入させて以來というもの、一世紀半にわたる、おどろくべき忍耐ぶかさをもつて、上海をうかがつている。一七五五年には、東印度會社員アレン・フリトンが、舟山島からでて、北支の天津まで潜航して捕えられ、澳門の監獄に、三年入つた。一七八七年と一八一六年には、英本國から、再度の使節が、はるばる派遣されてきた。一八三二年には、宣教師ギユツツラフを道案内として、東印度會社員リンゼイが、現地官憲との直接談判を目的として、はじめて上海にヨーロツパ船を乘入れた。呉淞砲臺からの射撃をあびながら、黄浦江をさかのぼつて、強引に中國官憲と面會したが、これも失敗に終つたような、こまかにみてゆけば、その他數えきれぬ出來事がある。これももちろん、前卷でみてきたように、日本の周邊におしよせてきた波の性質と同樣のものだが、かりに織豐時代から徳川家光までを第一期、弘化元年の開國勸告使節オランダ蒸汽船の來航までを第二期とすれば、ここでは日本より二三十年も早く、第三期の波がおしよせていたといえるだろう。
 そして遂に、一八四二年には、阿片密輸問題を機會として、呉淞沖の英支海戰となり、上海城占領となり、南京條約となつた。上海は、いわゆる「阿片戰爭」によつて、イギリスのためにヴヱールを脱がねばならなかつた。一八四六年にはアメリカが、一八四八年にはフランスが、イギリスにつづいて、上海にその足場をきずいたのである。これを日本が、アメリカを筆頭に、ヨーロツパ諸國え、江戸灣その他を開港した、下田條約成立の、安政二年にくらべると、十餘年さきだつている。前卷でみたように、ペルリのアメリカ東印度艦隊も、或いはプーチヤチンのロシヤ使節艦隊も、みんな上海を足場として、江戸灣え、長崎えと、來航したのだということを、思いだすであろう。上海の開港! それは中國だけの問題ではなかつた。日本の問題であり、東洋の問題であつた。一方からいえば、ヨーロツパ文明が、東洋の最初の、そして最後の關門をおし破つたのである。
 一八四五年には四十四隻、一八四八年には百三十三隻の洋式帆船や、蒸汽船が、上海の港に入つてきたと記録してある。そのうちの七割がイギリス船、二割がアメリカ船で、それらの船の多くが、印度産の阿片を積んでいたという有名な事實は、東洋の門戸をおしやぶつたヨーロツパの力の性格の一面と、おしやぶられなければならなかつた中國の性格の一面を、もの語つているようなものだ。しかし、ヨーロツパ文明が、中國に與えたものは、けつして阿片のみではなかつたということである。「阿片戰爭」を「竹の大砲」でたたかわねばならなかつた中國は「鋼鐵の大砲」や、軍艦をあやつることをおぼえ、汽車や、電燈やも知つたし、アルハベツトや、新教キリストをも知つたのである。
 上海城占領の直後、英國全權代表は、直接中國民衆にむかつて、次のような布告をしたといわれる。——
「普天の下、卒土の濱、國のさまざまなる、その數を知らず。されど、その一として、至高の天父の支配を受けざるはなく、ことごとくこれ一家の同胞なり。然らば、相和して、兄弟のごとく好みを通じ、互に他に對して上位を誇ることあるべからず。(以下略)」
 この文章は、甚だイデオロギツシユである。阿片と大砲を懷中にいれている自由主義は、キリストの名において、自信にみちみちている。しかも、阿片と大砲を懷中にいれたかぎりでは、その新教的「平等」主義が、當時の中國民族にとつて、なおかつ革命的であつたにちがいない。
 上海は、いまや東洋第一の文化の中心地となつた。揚子江をさかのぼれば、四百餘州と、四億の人間がいた。極東の國、全島黄金をもつて成るという、傳説の國日本は、海上七百粁の最短距離に位する。十九世紀後半は、ヨーロツパ各國が、數世紀にわたつてしのぎをけずつた植民地獲得競爭の、大詰期にあたる。「海賊」とよばれたイギリス人を筆頭に、ナポレオンのフランス人も、ビスマークのドイツ人も、新興アメリカも、その他オランダ人、ロシヤ人、スペイン人、ポルトガル人、イタリヤ人など、軍人、商人、宣教師、學者、技術家それぞれに、みんな上海えあつまつてきた。
 知らぬは、徳川鎖國の日本ばかりであつたわけであるが、上海開港の一八四五年は、弘化二年であり、開國勸告使節のオランダ軍艦が、長崎から追いかえされた翌年であつて、長崎見習通詞であつた昌造は廿二歳である。オランダ軍艦にかぎらず、ことに安政開港前後からは、イギリス船、アメリカ船、ロシヤ船などが、みな一度は上海え立寄つて、長崎え來たのだから、上海の文物、とりわけ、彼が執着している印刷術、鉛活字についても、何かと風のたよりに聞き知るところがあつたろう、と推察するのは不自然だろうか。
 ところで、米澤氏の「上海開港前史」は、阿片戰爭、南京條約で終つている。これのテーマとしては當然であるけれど、私の目的は、いよいよそれからである。イギリスの船、アメリカの船は、阿片のほかに、何を積んできたか。つまり、中牟田が土産にした「上海新報」や、その他の漢字活字や、昌造に電胎法を教えたガンブルの、アメリカ傳道印刷會社の、印刷工場などは、いつごろ出來たか——それを知らねばならない。
 私は「上海史話」の著者が、どこに住んでいるか、本の發行所である、九段下のU書房え訊きに行つた。するとU書房の主人が、親切に教えてくれるには、米澤秀夫という人は、上海に住んでいて、その勤務先の會社の支社が、東京の大阪ビルにあるから、そこの飛行便をたのんだがよかろう、ということだつた。私は家えもどつて、早速に長い手紙を書いたが、しかし考えてみると、かりに「上海史話」の著者が、見ず知らずの一讀者の質問に答えてくれるとしても、さて、この切迫してきた戰時下に、空にもしろ、海にもしろ、無事に、先方えとどくだろうか?
 歴史をしらべるなどということは、本人の意圖と、努力のいかんにかかわらず、偶然や必然の條件がともなつて、特別な「時間」というものがあるのだつた。不馴れな私は、苛らだちながら、手もちぶさたな日を過ごさねばならなかつたが、すると、また、こんどは思いがけない幸運が、私に舞いこんできた。私の知つたこの事實は、日本人島谷政一の「印刷文明史」にも、アメリカ人ジヨン・クライド・オスワルドの「西洋印刷文化史」にも、故人三谷の「本木平野詳傳」にも、その他、私の讀んだ印刷歴史書の、どれにもないものであつた。この事實の存在の發見は、日本の活字の由來のみならず、西洋の鉛活字が、東洋の鉛活字に轉身していつた、その「つぎめ」がはつきりわかるほど、私にとつて重大なものであつた。


世界文化連載分、五

 「嘉平の活字」は、「昌造の活字」とくらべると、こんなに性質も色合もちがつていた。そしてこんな性質と色合のちがいのうちに、日本木版印刷史の終末があり、嘉平の生涯は、一方で、その挽歌をうたつたのだけれど、また一方では、解體せざるをえない「江戸期の印刷工場」のむじゆんの卵を、自分で産み落したのでもあつた。「自らこのんで、木版界を脱落しようとしたからでは」なかつたにしても、彼の電胎活字は「江戸期の印刷工場」にとつてはまさに鬼ツ子であつた。そして、この鬼ツ子は、充分に陽のめをみられなかつたけれど、鬼ツ子は、さらに彼の門人、徒弟のうちから、鬼ツ子を産んだし、彼の子供のうちからさえ、叛逆者が、あらわれてきたのであつた。
 その一は、弟子梅村翠山であり、その二は弟子打田霞山であり、その三は、嘉平の末ツ兒、赤次郎である。梅村翠山は、幕末から明治初期えかけて、銅版畫家として知られた人であるが、一方では、日本最初の銅石版印刷會社をおこして、近代精密印刷術の端緒を拓らいた人である。翠山が嘉平の弟子となつた年月は、明瞭でないけれど、西村貞氏の「日本銅版畫志」によると、「上總國武射郡南蓮沼の産」で、「天保十年十一月一日の出生」であり、「江戸神田の小柳町に住する、木版彫刻師木村嘉平の門を叩き、木版彫刻の技を修め」「時に翠山二十歳あまりの青年であつた」というのだから、およそ安政から萬延までの間だろう。木村嘉次氏の「剞※[「(厂+(逆−しんにょう))+りっとう」]木村嘉平とその門下」では、「名を亥之吉といひ」「父親ともども江戸へのぼつて、嘉平の門に入つた。ここで父親は、其の帳付をし、自らは木版彫刻に從つた」とある。嘉平は三十六七歳の壯年期で、このころはパンチによる活字にあいそをつかし、電胎法習得にうつりかけた時期にあたつている。「當時、嘉平の活字製造の事が始まつていたので、翠山はこれに助工として携はり、旁々、其の仕事場の一隅で、銅版腐蝕の方法を研究し」て、「明治四年、嘉平の家を去つて、神田福田町に獨立開業」することになつた。だから、翠山は二十歳ごろから、三十いくつまで、十餘年を嘉平に師事し、嘉平の電胎活字製造を、手つどうかたわら、化學的操作も、何かと學んだということになる。
 もつとも、翠山が、嘉平から學んだという中味は、今日、まだこれ以上明らかになつていない。また、何故、翠山が木版をやらないで、銅版をやつたか、その動機もわかつていない。さらに翠山の、銅版藝術家としての獨立が、直接に、嘉平の電胎活字との、因果關係を語つたものも、私は知らない。「日本銅版畫志」によると、文久三年に、既に翠山の銅版作品は發表されているし、明治四年までのうちに、幾つかの作品が、發表されている。つまり、嘉平に弟子入りして、五六年めから、獨立開業するまで、弟子のままで、師匠の木版とはちがつた、銅版作品をつくつていたわけだから、銅版をもつて、獨立開業したとしてもそのときをもつて、急に師家に反逆したというわけでないし、人間的にもそういう筋合ではなかつただろう。むしろ、このとき獨立開業の機縁は、翠山が、その年には「官版普佛戰爭誌略」の口繪を銅彫し、翌明治五年には「輿地航海圖」を銅彫し、翌々六年には「官札」を銅彫した、というような事情が、主あで[#「あで」は底本のママ]つたろう。文久以來の、名所圖繪みたいな作品とはちがつた作を、明治政府の命令でしなければならなかつたような事情である。嘉平は、まだ木版で、加賀や薩摩の「藩札」を彫つていたときに、翠山は、「藩札」よりは、もつとひろい範圍の、數が多いために、それでなければ堪えられない銅版の、新政府の「官札」を彫るようになつた事情なのである。
 もちろん、これは結果的なものだ。嘉平の電胎活字製造を、手つだいながら、銅版官札のうつりゆきがわかつていたわけでも、なんでもなく、翠山には、藝術家として、銅版彫刻えの執心があつた、だけかも知れない。私は翠山について、くわしく知らぬけれど、このへんの事情について記録されたものもないようだけれど、しかし、嘉平の、ほかの弟子のうちからさえ、翠山のあとをおうてゆく人間がでてくるときは、おのづ、師嘉平、弟子翠山の兩人がもつ、主觀的なものとはべつな、客觀的なものが生れてくるのは、やむを得ぬだろう。
 翠山も、しよせんは藝術家であつた。昌造の後繼者平野富二のように、技術家ではあつても、科學者でも、實業家でもなかつた。そういう人柄でないことは、「日本銅版畫志」でも、またその子嘉次氏が語つてくれる、五代赤次郎からの、傳え話の談片でも、理解できる。しかし、嘉平の電胎活字製造と、その助手の翠山の銅版腐しよく法とに、機縁があるならば、歴史は、翠山にのりうつるのだ。銅版彫刻は、司馬江漢以來の傳統があるけれど、腐しよくの化學的操作は、依然として祕密であり、門外不出であつて、「日本銅版畫志」は、安田雷州以來、江戸にあつて、この技をついだ人は、高野長英門人本木道平をのぞけば、翠山一人だ、と云つている。そして嘉平も銅版師ではなかつたのだから、翠山の銅版腐しよく法は、たぶん苦心研究の自得ではないか、と謂われているとき、嘉平の活字手つだいの化學的操作が、おのづから意味をおびてくる。もちろん、電氣分解の原理によるそれと、銅版腐しよくのそれとは、また別箇であるけれど、まえに「本邦昔時鉛活字創製略傳」にみるような、梅酢と銅屑を煮つめて、復鹽銅液をつくつたりするような、素朴だけれど獨自な嘉平の化學的能力、また、薩摩屋敷をとおして、嘉平の周圍にあつめられる科學の力が、何かと役だつたろうと、考えることは出來る。そして翠山の銅版技術が、江漢時代と同一であつたとしても、彼自身、しよせんは藝術家であつたとしても、新政府の「官札」や「切手」や「土地證劵」やを、銅彫し、印刷しなければならなくなつたとき、翠山の技術は、新らしい意味をもつてくる。それは銅版彫刻藝術の、近代印刷術えの、つなぎめであり、翠山藝術の、新しい任務えの展開である。
 嘉平の弟子のうちから、翠山のあとを逐うたのが、幾人だつたかわからぬが、その一人は打田霞山である。通稱新太郎、江戸本郷の生れで、少年時から嘉平の弟子となつて、木版彫刻を習つたが、明治元年頃から、翠山に銅彫をまなんだ、と「剞※[「(厂+(逆−しんにょう))+りっとう」]木村嘉平とその門下」は、書いている。「大久保利通像」のほか、すぐれた作品もたくさんのこしたが、明治四年には、翠山と同じく、海軍水路局に出仕して、「輿地航海圖」などを彫つた。「主として海圖の作製に勵精」するため、「腕車を驅つて」往復したというのであるが、霞山は安政元年の生れだから、このとき、まだ十八歳でしかない。「海軍水路局」での、彼の役等がどんなものだつたか、翠山とくらべて、そのとき、どれほどの技術だつたのか、わからぬながら、一方では、「十八の小僧職人」までかりたてても航海圖の作製をいそぐ、明治新政府の空氣があつて、一方では、嘉平の弟子であり、嘉平の娘しげを、妻としたほどの人間的つながりながら、明治元年頃、といえばまだ十四五の少年で、木版を、銅版にのりかえてゆくような、翠山よりもつと新しい型の、人間ができたわけである。
 明治七年、梅村翠山は、銅版技術改良の志をたてて、自分の門人からえらんで、研究生をアメリカにやる計畫をたてた。研究生は同年三月、海を渡つたが、そのとき、海軍水路局出仕をなげうつて、すすんで研究生となつたのが、霞山であり、いま一人の、中川耕山であつた。しかし、アメリカえ着いた二人は、途方にくれてしまつた。海のむこうの國では、江漢以來の銅版印刷など、とつくになくなつていた。アメリカでは、もつとすすんで、銅彫印刷より、はるかに精密な、石版印刷の時代であつた。耕山は、翠山にこの事情を報告するため、霞山ひとりをのこして、日本え戻つてゆくと、路用もつきてしまつた霞山は、道路掃除人夫になり、コツクの手傳人になつたりしなければならなかつた。そして、ようやく、耕山の復命によつて翠山は、翠山の生涯をきめる「彫刻會社創立」を決心し、二萬圓の金策となつて、霞山は、當時、世界的な名工と謂われた彫刻師、オーストリヤ人、オツトマン・スモリツクと、一流の印刷工、アメリカ人、シ・ゼー・ポーラードの二人をともなつて、歸國することとなつた。つまり、銅版藝術家梅村翠山と、その門下によつてくわだてられた、銅彫印刷の改良は、おもいがけない、石版印刷となつて、出現したのであつた。
「印紙類 手形類
 地圖類 畫像類
 西洋錦繪類
 其他圖畫類各種
 右石版ニテ大小精粗共、御求ニ應ジ、廉價ニ印刷仕候
  東京・銀座四丁目一番地
   彫刻會社」
 尾張町のまんなかにできた、この會社が、こんな「引札」をくばつたのは、明治七年の秋だつたが、「右石版ニテ大小精粗共——印刷仕候」というビラの文句は、一大名一貴族えの挨拶ではなくて、ハイカラであり、大衆的なもので、翠山およびその門下たちの心意氣は、江戸期の銅版藝術家とは、ちがつたものがある。石版術の、日本での傳統は、伊豆下田の下岡蓮丈など、ごくわづかの人が試作した程度だつたから、ヨーロツパぢうで、指折りというスモリツクと、一流の印刷工ポーラードとが、當時の日本に與えた影響の大きさは、いうまでもない。「かかる名工らの下に、多數の青年が養成されて、金子政次郎・多湖實敏・稻垣太郎・小柴英のごとき人が、輩出し」(日本銅版畫志)て、近代日本精密印刷術の土臺の、もつとも大きな一つが、ひらかれた。
 しかし、翠山を社長とし、霞山と耕山を、傳習生として、出發した「彫刻會社」は、その存續した六年間の、あらゆる時期が、「苦心さん膽」の連續であつた。それは「長崎の活字」が、明治四年に、はるばる上京してこのかた、困難しん苦のつかみかさねであつたのと、よく似ている。「彫刻會社」は「毎月の損失數千圓にのぼり」「翠山の刻苦經營にいたつては、到底筆舌の盡すところではなかつた」と、「日本銅版畫志」はいつている。明治十二年に、彫刻會社を、國文社にあけわたしてから、晩年の翠山には、銅版畫の作も少くひたすら、俳句と宗教のうちに、慰安を見出して、「末路また蕭條たるうちに、明治三十九年六十八歳をもつて、東京で死んだ、というのであるから、いわば、翠山の精魂は、彫刻會社とともに燃えつきた、かにさえみえる。
 考えてみると、銅版藝術もまた、木版藝術の木版印刷との關係と、同じであつた。法隆寺の陀羅尼經以來、銅版による護符、繪圖などの印刷は、藝術である以上に、手工業的な印刷工業であつた。凹版の銅版畫は、司馬江漢以來、銅版腐しよくという化學的操作法の、渡來の結果であつて、陀羅尼經以來の、凸版の、それとは格別の因縁をもつけれど、あらましは、通じて、少數藝術家の意慾をみたすだけのものではなかつた。たとえば「日本銅版畫志」の口繪に例をとつても、亞歐堂田善の「今戸瓦燒圖」、司馬江漢の「天球圖」、同「皮工圖」、安田雷州の「甲斐かじか澤富士川渡しの圖」、牧墨遷の「西醫外科施行圖」、同「蕃船圖」、同「紀年圖」、申亥の「銅鐫袖珍經卷三部經典」、松本安居の「海船圖」、梅川夏北の「大日本國掌賢全圖」等々。その他の、名所圖繪をふくめても、一般繪畫の、花鳥風月とはちがつている。これは産業の、暦術の、醫術の、造船の、軍事の、地理の、紹介であり、普及であつた。しかも、それが藝術的であつたことは、この印刷法の實用的要求と、何の衝突をするものでもなかつたし、まだなかば以上、江戸期の銅版作家であつた翠山が、己れの藝術を橋渡しとして、近代日本の、精密印刷術の端緒をひらいたことは、「江戸期の印刷工場主」であつた嘉平が近代活字をつくつたと同樣、おのづからな機縁が、あつたわけであるが、しかも、翠山の銅版は、海外に志をひろげ、ハイカラなビラをくばるまでに、よく江戸期の銅版畫家から、そこを踏み切り得たろうか? 人間的なことを別にしていえば、一つの原因は、次のことにあつただろう。木版技術にくらべると、銅版技術は、より近代的であつた。活字印刷に比べれば、條件も小さかつたが、しかし、何よりも、「明治の新政府」という性格であつた。アメリカの獨立憲法を草案したフランクリンの仕事は、自分で、活字をひろい、印刷した新聞の、輿論の結果であつたような、革命の性質にくらべるとき、明治の革命が、活字よりも銅版を、より早く必要としたような事情、である。明治七年に、「長崎の活字」を賣つて歩いた平野富二が、埼玉縣令を訪ねて、木版よりもすぐれた鉛活字の効能を、といてすすめたとき、舊知の縁故で、買つてくれたは買つてくれたけれど、そのまま幾年も、縣廳の物置に、ほこりをかぶせたままであつた。そして、縣行政のための印刷にも、やはり、木版で、事が足りていたような事情。そのくせ、「紙幣」や、「土地證劵」や、「切手」や、航海地圖や、軍事地圖などは、まつさきに必要としたような、新政府の性格である。
 さて、嘉平の晩年は、木版印刷の孤壘をまもつて、たたかつた。「維新の大業も成り——ここに木版彫刻師たちを脅かしだしたのは、泰西印刷術である。民間においては平野富二が、活版印刷機械の製造を開始し、七年には梅村翠山、小室誠一等が、銀座四丁目に彫刻會社を創立——之等が嘉平を始め——心を休めぬものがあつたが——嘉平はむしろ此際木版界に多少清新の風を吹き入れ」(「木村嘉平とその門下」)、「挽回せん」とはかつて、明治十年の第一回勸業博覽會に、都下の木版彫刻師九十餘人をあつめて、「烈祖成績」二十卷七一二丁を出品したりした。このぼう大な木版本は「最も精巧な、美麗な本」として賞牌をうけ、後世にのこる佳作となつたけれど、もちろん、これで「泰西印刷術」の脅威から、脱出することは出來なかつた。
 嘉平の長男庄太郎は、四代を襲名して、春海と號したが、嘉平晩年の志を、もつともよくついだ人であつた。父に劣らぬ木彫の名手といわれ、「專ら鳴鶴、春洞、一六、雪柯、枕山等の書、詩文等を彫刻」し、當時清國の公使館員であつた楊守敬の依頼で「古逸叢書」の複刻をし、宮内省藏版の「孝經」も複刻したりして、二十九年の短命だつたが、多くの仕事をのこした。ことに「孝經」刻版のときは、前後四年かかつている。「明治十二年から宮内省の梅の御茶屋に通勤」「大抵午前八時に出仕、先づ彫刀を研ぎはじめる。所が往々三時間餘におよんでも快適の切れ味が出ないことがある。すると、默つて道具をおさめて、(今日はどうも氣分が勝れず、刀もよく研げませんから、これでお暇を頂きます)といつて、歸つてしまつた」ような人柄であつた。嘉次氏宅の床間には、この四代嘉平の古びた畫像が、かけてあるが、五世田芳柳の描寫で、楊守敬の讃がある。おもだちは、三代に似ているところもあるが、もつと、おもながな、きやしやで、神經質で、羽織、袴も、やわらかに身についている。もう「江戸期の印刷工場の親方」ではなくて、近代的な木彫藝術家であつた。
 「木村嘉平者日本梓人第一——一藝之精通幽入神將以忠信僅見斯人曇花一現百卉失珍簡册不絶徽聲不泯」というのが、楊守敬の讃の一節である。死んだのは明治十七年、「孝經」複刻完成から一週間しか經つていなかつた。つもる疲勞に、くわえて、四年縷刻の苦心にもかかわらず、刻者名の※[#「插」の真ん中の棒が下へ突き抜けた字、第4水準2-13-28]入も許されなかつたという、その落膽が、死を早めたのだと、その甥にあたる嘉次氏は、私に語つた。そして、庄太郎の死は、また嘉平の死を早めたのでもあつた。末ツ子の赤次郎は、まだこのとき十五才の少年で、その翌々年、「生活はまつたく落莫」のうちに死んでいる。
 ところが、五代嘉平の赤次郎はすこしちがつていた。幼少から木彫のわざは、父や兄について學んだけれど、「首を振る張子の虎だ」とののしつて、いちはやく木版印刷に叛いたのである。宗家をつぐ者として、義兄打田霞山や、木彫界からよう立されて、五代の披露はしたけれど、その子嘉次氏が「活溌々地、その父の質實に對して浮華の嫌いがあり、放膽にふるまつて顧みる」ところがなかつたという赤次郎は、アメリカの印刷工ポーラードについて、近代印刷術をまなび、寫眞術を、當時工部大學にきていたバルトン教授に、まなんだりしている。幼時から、理化學にかくべつの興味と才能をもつていた人で、嘉次氏がみせてくれた赤次郎遺物のうちの、粗末なノートには、こんなことがいつぱい書いてある。「新ワニス」として「石油ニ膠ヲ混ジ・沸湯(まま)スルトキハ褐色膜ヲ生ズベシ、此處ニ於テ通例ノボイル油ニ由テ製シタルワニスヨリ一層乾燥性ニ富ムワニスヲ得ラルベシ、斯クシテ得タルモノニ樹脂ヲ混合スルトキハ「ペンキ」トナシ得ベシ」といつたたぐいであるが、あるところは鉛筆、あるところは墨汁インキのペン文字で、明治二十年前後と思はれる、少青年時代の、赤次郎の熱意が、こめられている。
 赤次郎の才能を愛する後援者は、少くなかつた。田中光顯、杉孫七郎・郷純造・宮島大八などがあつて、「その前途は甚だ多幸なるものがあつたが、彼の變通の才が之を妨げ」五代嘉平の由緒も、「木版など、張子の虎だ」とののしつて、自らなげうつた。そして、赤次郎の、最後にとりかかつた仕事が、翠山や霞山の石版印刷よりも、さらに高度な、寫眞製版であつた。
 寫眞術應用による製版印刷が、近代精密印刷術の、最高であることはいうまでもない。明治中期の日本で、寫眞版術を開拓した田中亥太郎や、小川一眞等の製版所に入つて、その實際を、援けたのが、五代嘉平の赤次郎であつたといわれている。木版彫刻時代に、寫眞乾板製造を企てて、田中光顯などの後援をえたが、濕度の誤算から、失敗したりしている。しかし後援者から見離されるような失敗は、よく酒をのんで「放達に振舞う」性格の方にあつた。赤次郎は、嘉平五十の子で、宮島大八の「詠皈舍閑話」でも書いてるように、「弟嘉平も名人で、とても天才で、版木など刻つてはをれないといつて、原色寫眞を、日本で一番にやつた。」のであるけれど、「皆、人に先んじ、世に率ち、その數四は世に弘く行はれたとはいへ、一事を刻苦大成しなかつた憾がある」と、その子嘉次氏がいうところの、赤次郎であつた。
 寫眞製版に到達する前後のものが、天然色寫眞、不變色寫眞、乾板などで、その後が色鉛筆・繪具・顏料・不燃セルロイド、セロフアン、陽畫感光紙などがあり、卷煙草機械などもあつた。繪具は、今日の「三星えのぐ」の先祖となり、卷煙草機械は、岩谷天狗に讓渡されたものだと、嘉次氏はいう。赤次郎の、寫眞をみると、これはまた三代とも四代とも、まるでちがつている。三十いくつの年頃のものだが、チヨツキとズボンだけの、洋服姿で、椅子によつたかつこうは、いかにも忙がしげである。どつかいま、海のむこうから船で戻つてきたばかりといつたふうの、嘉平に似て、すこしつまつた顏だちだけれど、鋭どい眼光に、覇氣あふれてみえる。「全く起伏つねなく一生を送り」五十九才で、「千住の茅屋において、腦溢血で世を去つ」たのであるが、嘉次氏の話では、そのころは、貧窮のうちに、永らく病んでいたそうで、たおれた瞬間も、最後の仕事であつた陽畫感光紙を一方に、いま一方には、コイルをつかんだままであつた。
 長男庄太郎と、末ツ子赤次郎とは、いわば嘉平の身うちにひそんだ、歴史的なむじゆんの、表現であつた。ことに赤次郎の悲劇的生涯は初代以來の木版嘉平えの反動でさえあつた。木版印刷が「江戸期の印刷工場」として保たれたのは、三代嘉平までであり、四代嘉平は、すでに木版藝術家でしかなく、五代に至つては、そのどつちでもなかつた。
 「嘉平の活字」は、まさに鬼ツ子であつた。矛盾の卵であつた。それは日本近代印刷術にとつて、充分には傳統となることができなかつたけれど、それが、やはり、翠山や、霜山[#「霜山」は底本のママ]や、赤次郎を産んだということが出來る。三代嘉平は、その稀代の才能によつて、木彫藝術を護らねばならなかつたけれど、その傳統の重さ、顧客の力の大きさによつて、己れが産んだ卵を、充分肥だたせることは出來なかつたけれど、しかも、日本最初の電胎活字の創始者たる榮冠は、彼の頭上にささげらるべきであろう。私も「安政年間に於ける鉛活字創始者、木版彫刻師木村嘉平」の筆者とともに、ためらうところなく云う。「——嘉平は確かに、夜明け前に眼を覺して、晝の仕事の土臺をきづいておいた一人であります。——」